2 / 8
2
しおりを挟む
シャオティエンがアルスーンの屋敷に迎えられて一月と少しが経った。相変わらず伴侶らしい関係を築けないまま今日も夜を迎える。
「シャオティエン殿下、そろそろ休みましょうか」
もはや恒例となりつつある言葉をかけ就寝を促した。いつもなら返事も頷くこともなく左端に横になるところが、シャオティエンはベッドに腰掛けたままだ。
「殿下?」
もう一度声をかける。すると、黒髪をさらりと揺らしながら小振りな頭がゆっくりと上を向いた。
アルスーンは初めて間近でシャオティエンの顔を見た。黒い前髪は眉を少し隠すくらいに切り揃えられ、両側の髪の一部は顎を隠す長さに整えられている。彼の国に住んでいたという侍女をそばに置いたから、彼女が彼の国の髪型に整えているのだろう。着ている夜着もこの国では珍しい前部分を重ね合わせるようなものだ。
「なぜ、わたしに触れないのですか?」
シャオティエンがそう口にした。決して大きくないが涼やかでよく通る声だ。
「殿下は望んでおられないでしょう」
「Ωの感情など、αにとっては詮無きこと」
アルスーンはなるほどと思った。王はシャオティエンの気持ちなどお構いなしに手折ったのだろう。王族として生まれ高貴なるΩとして育ったシャオティエンにとっては屈辱だったに違いない。
「俺は一介の将軍でしかありません。殿下が望まれぬことをするつもりはありません」
生真面目に答える様子に黒眼がわずかに細くなる。
「一介の将軍などと謙遜を。この国では王よりも人心を集めていると聞いています」
「さて、いずれの噂でしょうか」
「我が国でも、この国に連れて来られてからも耳にしました。賞賛する声は王へのものをも上回るとか」
アルスーンはわずかに警戒心を抱いた。たしかに軍人たちや民たちの間で慕われている自覚はある。下級貴族からの立身出世は民からすれば夢のような物語で、軍人たちにとっても希望に見えるからだろう。
しかし、滅んだ国の王子がそのことを口にする理由はない。「おまえもαなら抱きたいのではないか」と言えば済む話だ。本当に行為を望んでいるなら挑発なり媚びるなりすればいいだけで、触れたら触れたで「おまえもどうせ王と同じだろう」と侮蔑することもできる。
(それなのに、なぜ人心などと口にする)
囚われの亡国王子が気にすることではない。帰る国があるなら反乱を画策する一端とも考えられるが、すでに祖国は滅んでいる。アルスーンは玉座から遠い下級貴族出身の一将軍というだけで、誑かしたところで意味はない。
(憎いこの国をどうにかしたいのであれば、王を誑かせばよかったはず)
しかし王はシャオティエンを手放した。しかもアルスーンを嘲笑うための道具とし、大勢の前で子を孕むことができないΩだと蔑んだ。この一年で二人の間に深い溝ができた証明でもある。
「あなたはわたしの運命です。あの日そう感じ、この一月で確信しました」
「運命……?」
シャオティエンの言葉に内心首を傾げた。おそらくαやΩの関係性のことだろうが、そういった言葉は耳にしたことがない。アルスーンはシャオティエンが何を言いたいのかわからず、美しい顔をじっと見返した。
「間違いなく運命のαです。あの穢らわしい男に身を委ねるのは反吐が出そうでしたが、耐え抜いてよかった。あなたと再会したことで、間もなくわたしは発情を迎えるでしょう。そのとき、あなたもわたしが運命だとわかるはずです」
そう告げたシャオティエンは、いつもと同じように左端に横になった。アルスーンに背を向け、そのうち呼吸が寝息に変わる。
一方、アルスーンは告げられた内容を反芻していた。「運命」という言葉は知らないが「発情」はよく知っている。発情したΩはとくに淫らになり、α以外にも見境なく劣情を向けてしまう。そのせいか、古くは多くのΩが軽蔑され虐待されていたとも言われていた。
(運命とは一体……?)
考えたところで知らないものはわからない。アルスーンは小さくため息をつき、いつもどおりベッドの右側に横たわり目を閉じた。
それから三日の間、シャオティエンに変わったところはなかった。侍女にもよく様子を見るように伝えたが、報告に問題がありそうな内容はない。
仕事の傍ら、アルスーンは気になっていた「運命」という言葉を調べることにした。国一番の蔵書を誇る王宮の書庫にも赴いたが彼の国の本はあまりなく、αやΩについて書かれているものは見つからなかった。
そうして五日目、侍女からシャオティエンの食欲がなくなってきたとの報告が上がってきた。少し熱っぽいようだからΩの発情ではないかという内容だった。
(どうしたものかな)
アルスーンはシャオティエンと発情をともにするつもりはない。伴侶になったが相手は元王子だ。将軍とはいえ元はただの没落貴族、そんな自分が肌を合わせるのはふさわしくない。
(申し訳ないが、張り型で我慢してもらおう)
そう考え、発情の兆候が見え始めた翌日には数種類の張り型を用意した。それを持って寝室へと向かう。
(寝室も別にしなくてはいけないか)
いま使っている寝室はシャオティエンに譲り、今夜から自分は客室を使うことにしよう。張り型を渡し、念のため様子を見てから客室へ行くかと考えながらドアを開いた。
「これは……」
思わず声が出た。出さずにはいられないほどの濃密な香りが鼻を突き抜ける。すぐにΩの香りだとわかったが、こんなに濃く甘い香りは嗅いだことがない。アルスーンは眉を寄せ香りに耐えながらベッドに近づいた。
ベッドの上には、あまりに美しいΩが横たわっていた。白い夜着の裾は乱れ、右の太ももが顕わになっている。黒く長い髪は大きく広がり、濡れた瞳は覚束ない様子で天井を見ていた。
「殿下、」
これほど猥りがましいΩは初めてだった。アルスーンもαの将軍、これまで何人かのΩとベッドをともにしたことがある。発情した貴族令嬢のΩに望まれ相手をしたこともあった。
だが、目の前のΩはそれらの誰とも違っていた。あまりに美しく、それでいて抗えないほど淫靡な気配を纏っている。これまで相当に訓練しΩの発情に流されることがなくなったアルスーンも、さすがに眉を寄せ耐えるように奥歯を噛み締めた。
「やっと、わたしのαが来た」
赤い唇でそう囁かれた瞬間、アルスーンの右手はシャオティエンへと伸びていた。
「シャオティエン殿下、そろそろ休みましょうか」
もはや恒例となりつつある言葉をかけ就寝を促した。いつもなら返事も頷くこともなく左端に横になるところが、シャオティエンはベッドに腰掛けたままだ。
「殿下?」
もう一度声をかける。すると、黒髪をさらりと揺らしながら小振りな頭がゆっくりと上を向いた。
アルスーンは初めて間近でシャオティエンの顔を見た。黒い前髪は眉を少し隠すくらいに切り揃えられ、両側の髪の一部は顎を隠す長さに整えられている。彼の国に住んでいたという侍女をそばに置いたから、彼女が彼の国の髪型に整えているのだろう。着ている夜着もこの国では珍しい前部分を重ね合わせるようなものだ。
「なぜ、わたしに触れないのですか?」
シャオティエンがそう口にした。決して大きくないが涼やかでよく通る声だ。
「殿下は望んでおられないでしょう」
「Ωの感情など、αにとっては詮無きこと」
アルスーンはなるほどと思った。王はシャオティエンの気持ちなどお構いなしに手折ったのだろう。王族として生まれ高貴なるΩとして育ったシャオティエンにとっては屈辱だったに違いない。
「俺は一介の将軍でしかありません。殿下が望まれぬことをするつもりはありません」
生真面目に答える様子に黒眼がわずかに細くなる。
「一介の将軍などと謙遜を。この国では王よりも人心を集めていると聞いています」
「さて、いずれの噂でしょうか」
「我が国でも、この国に連れて来られてからも耳にしました。賞賛する声は王へのものをも上回るとか」
アルスーンはわずかに警戒心を抱いた。たしかに軍人たちや民たちの間で慕われている自覚はある。下級貴族からの立身出世は民からすれば夢のような物語で、軍人たちにとっても希望に見えるからだろう。
しかし、滅んだ国の王子がそのことを口にする理由はない。「おまえもαなら抱きたいのではないか」と言えば済む話だ。本当に行為を望んでいるなら挑発なり媚びるなりすればいいだけで、触れたら触れたで「おまえもどうせ王と同じだろう」と侮蔑することもできる。
(それなのに、なぜ人心などと口にする)
囚われの亡国王子が気にすることではない。帰る国があるなら反乱を画策する一端とも考えられるが、すでに祖国は滅んでいる。アルスーンは玉座から遠い下級貴族出身の一将軍というだけで、誑かしたところで意味はない。
(憎いこの国をどうにかしたいのであれば、王を誑かせばよかったはず)
しかし王はシャオティエンを手放した。しかもアルスーンを嘲笑うための道具とし、大勢の前で子を孕むことができないΩだと蔑んだ。この一年で二人の間に深い溝ができた証明でもある。
「あなたはわたしの運命です。あの日そう感じ、この一月で確信しました」
「運命……?」
シャオティエンの言葉に内心首を傾げた。おそらくαやΩの関係性のことだろうが、そういった言葉は耳にしたことがない。アルスーンはシャオティエンが何を言いたいのかわからず、美しい顔をじっと見返した。
「間違いなく運命のαです。あの穢らわしい男に身を委ねるのは反吐が出そうでしたが、耐え抜いてよかった。あなたと再会したことで、間もなくわたしは発情を迎えるでしょう。そのとき、あなたもわたしが運命だとわかるはずです」
そう告げたシャオティエンは、いつもと同じように左端に横になった。アルスーンに背を向け、そのうち呼吸が寝息に変わる。
一方、アルスーンは告げられた内容を反芻していた。「運命」という言葉は知らないが「発情」はよく知っている。発情したΩはとくに淫らになり、α以外にも見境なく劣情を向けてしまう。そのせいか、古くは多くのΩが軽蔑され虐待されていたとも言われていた。
(運命とは一体……?)
考えたところで知らないものはわからない。アルスーンは小さくため息をつき、いつもどおりベッドの右側に横たわり目を閉じた。
それから三日の間、シャオティエンに変わったところはなかった。侍女にもよく様子を見るように伝えたが、報告に問題がありそうな内容はない。
仕事の傍ら、アルスーンは気になっていた「運命」という言葉を調べることにした。国一番の蔵書を誇る王宮の書庫にも赴いたが彼の国の本はあまりなく、αやΩについて書かれているものは見つからなかった。
そうして五日目、侍女からシャオティエンの食欲がなくなってきたとの報告が上がってきた。少し熱っぽいようだからΩの発情ではないかという内容だった。
(どうしたものかな)
アルスーンはシャオティエンと発情をともにするつもりはない。伴侶になったが相手は元王子だ。将軍とはいえ元はただの没落貴族、そんな自分が肌を合わせるのはふさわしくない。
(申し訳ないが、張り型で我慢してもらおう)
そう考え、発情の兆候が見え始めた翌日には数種類の張り型を用意した。それを持って寝室へと向かう。
(寝室も別にしなくてはいけないか)
いま使っている寝室はシャオティエンに譲り、今夜から自分は客室を使うことにしよう。張り型を渡し、念のため様子を見てから客室へ行くかと考えながらドアを開いた。
「これは……」
思わず声が出た。出さずにはいられないほどの濃密な香りが鼻を突き抜ける。すぐにΩの香りだとわかったが、こんなに濃く甘い香りは嗅いだことがない。アルスーンは眉を寄せ香りに耐えながらベッドに近づいた。
ベッドの上には、あまりに美しいΩが横たわっていた。白い夜着の裾は乱れ、右の太ももが顕わになっている。黒く長い髪は大きく広がり、濡れた瞳は覚束ない様子で天井を見ていた。
「殿下、」
これほど猥りがましいΩは初めてだった。アルスーンもαの将軍、これまで何人かのΩとベッドをともにしたことがある。発情した貴族令嬢のΩに望まれ相手をしたこともあった。
だが、目の前のΩはそれらの誰とも違っていた。あまりに美しく、それでいて抗えないほど淫靡な気配を纏っている。これまで相当に訓練しΩの発情に流されることがなくなったアルスーンも、さすがに眉を寄せ耐えるように奥歯を噛み締めた。
「やっと、わたしのαが来た」
赤い唇でそう囁かれた瞬間、アルスーンの右手はシャオティエンへと伸びていた。
72
あなたにおすすめの小説
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
氷の公爵様と身代わりパティシエ~「味覚なし」の旦那様が、僕のお菓子でトロトロに溶かされています!?~
水凪しおん
BL
【2月14日はバレンタインデー】
「お前の菓子だけが、私の心を溶かすのだ」
実家で「魔力なしの役立たず」と虐げられてきたオメガのリウ。
義弟の身代わりとして、北の果てに住む恐ろしい「氷血公爵」ジークハルトのもとへ嫁ぐことになる。
冷酷無慈悲と噂される公爵だったが、リウが作ったカカオのお菓子を食べた途端、その態度は激変!?
リウの持つ「祝福のパティシエ」の力が、公爵の凍りついた呪いを溶かしていき――。
拾ったもふもふ聖獣と一緒に、甘いお菓子で冷たい旦那様を餌付け(?)する、身代わり花嫁のシンデレラストーリー!
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
運命よりも先に、愛してしまった
AzureHaru
BL
幼馴染で番同士の受けと攻め。2人は運命の番ではなかったが、相思相愛だった。そんな時、攻めに運命の番が現れる。それを知った受けは身籠もっていたが、運命の番同士の子供の方が優秀な者が生まれることも知っており、身を引く事を決め姿を消す。
しかし、攻めと運命の番の相手にはそれぞれに別の愛する人がいる事をしり、
2人は運命の番としてではなく、友人として付き合っていけたらと話し合ってわかれた。
その後、攻めは受けが勘違いしていなくなってしまったことを両親達から聞かされるのであった。
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる