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姉の身代わり・1
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「お亡くなりになりました」
医者の静かな声に、母が「あぁ!」と声を上げて崩れ落ちた。畳の上で泣き崩れる母の肩を抱く父の目にも光るものが見える。これまで一度も見たことがない父の様子に、両親にとって姉がどれほど大きな存在だったのか改めて実感した。
(姉さん……)
歪みの一つもない布団に近づいた僕は、真っ白な姉の頬にそっと触れた。まだ温かいからか眠っているようにしか見えない。それでも僕の呼びかけに目を開けることはなく反応もしないということは、本当に死んでしまったのだ。
「姉さん」
最後まで首につけていた桜色の首飾りをそっと外した。これにずっと縛られてきた姉にはもう必要のないものだ。この家に縛り、Ωであることに縛りつけていた首飾りがまるで首輪のように見える。
(もう姉さんは自由だよ)
それを姉が望んでいたかはわからない。もしかすると本心ではαに所有されたいと思っていたのかもしれない。βである僕には、Ωだった姉の考えていたことは一生わからないだろう。
(それでも、死んでからも縛られたままだなんてやっぱり嫌だよね)
ぎゅっと握り締めた桜色の首飾りは冷たく、姉の体温を感じさせてはくれなかった。
僕は八歳年上の姉が大好きだった。昔から病弱だった姉と過ごす時間は決して多くなかったけれど、すべてがかけがえのない時間だった。どんなときも可憐な微笑みを向けてくれる姉のことを僕は心の底から慕っていた。
小鳥のような美しい声が聞きたくて、小さい頃は本を読んでほしいと何度もねだった。鈴のような声で笑ってくれるのが嬉しくて、学校であったことを一生懸命話して聞かせたりもした。姉しかそばにいてくれる家族がいなかったこともあり、僕は姉だけを慕い、姉だけを家族だと思ってきた。
その姉が死んでしまった。もう僕に家族はいない。この家に留まる理由もなくなった。
(家を出よう)
姉の葬儀が終わったら家を出て行こうと心に決めた。両親に挨拶をし、僕のことも家のことも誰も知らない遠い街で生きていこう。そう考えてできるだけ遠くの町で生きていく算段もつけた。ところが挨拶をするより先に父に呼び出されてしまった。
(僕を呼ぶなんて初めてだ)
どうしたのだろうと少し不安に思いながらドアを開けると、喪服を着たままの父がソファに座っている。
「お呼びでしょうか」
父は返事をすることなく、視線で向かいのソファに座るように促してきた。緊張しながら座ると「おまえには珠守家に行ってもらう」と言い出して驚いた。
「それはどういう……」
「先方からおまえでもよいという返事をもらった。明香莉の代わりにおまえに行ってもらうことが決まったということだ」
質問を遮るように告げられた言葉に、僕はただ呆然とした。
珠守家というのは姉、明香莉が嫁ぐはずだった家だ。僕も許嫁の修一朗さんには何度も会っているからよく知っている。姉が病弱でなかったなら、とっくの昔に輿入れしていただろう。
(でも、嫁ぐ前に姉さんは倒れてしまった)
姉が倒れたのは十八歳の誕生日を迎えた直後だった。それから亡くなる二十七歳まで、姉が珠守家に嫁ぐことはなかった。許嫁である修一朗さんが「病気のまま嫁ぐのは家族も心配だろう」と言って結婚を先延ばしにしたからだ。
その代わりというように修一朗さんはたびたび我が家にやって来た。婚約した当初ならまだしも、結婚を延期した後まで足繁く通うのは珍しい。とくに名家である珠守家の次男が、旧家とはいえ寂れてしまった寳月の家にわざわざ通うのはあり得ないことだ。
周囲は「それくらい許嫁を思っているのだろう」と噂し、「もしや許嫁は運命の相手なのでは?」と囁いた。
(本当に運命の相手だったのかもしれない)
αとΩには“運命の相手”と呼ばれる相手がいることは僕も知っている。二人の間には誰にも引き離せないほど固く結ばれた絆があり、初めて会った瞬間から強烈に惹かれ合うのだという。
βの僕にはそういった関係性は理解できない。ただ、修一朗さんが来るたびに姉が嬉しそうな顔をしていたから好いているに違いないとは思っていた。
その修一朗さんが、姉の代わりに僕を迎えるのだという。
(そんなこと、あるはずがない)
もし僕がΩだったらあり得たかもしれない。いまや虫の息でしかない寳月家は、権勢を誇る珠守家と何がなんでも繋がりを持ちたがっている。それなら死んだ姉の代わりにΩの弟をと考えるのも頷ける。
でも、僕はβだ。βの僕がαの元へ行くのはまったくもっておかしい。βの男では子どももできないし、なにより世間体が悪い。珠守家の次男は男色家かと囁かれては家のためにもならないだろう。
そもそも旧家と言っても、いまの寳月は名ばかりの家柄だ。逆に成金だなんだと言われていた珠守家のほうが、いまや帝室の方々も懇意にするほど華族同然の扱いを受けている。そんな珠守家がβの僕を受け入れるほど寳月の家名をほしがっているとは思えなかった。
「どういうことでしょうか」
かろうじてそれだけ口にすることができた。αの父に面と向かって質問をしたのはこれが初めてだ。言い終わった途端に嫌な汗が背中を流れ落ちる。こわばる顔を見られないように少し顔を伏せながらじっと言葉を待った。
「修一朗くんにおまえをもらってくれないかと相談したのだ。渋られるかと思ったが快く受け入れてもらえた。それだけだ」
つまり姉の代わりに僕を差し出し、代わりに寳月の家は珠守家に連なることになったということだ。そうまでして……と思ったものの、βの僕が何を思ったところでどうすることもできない。
βの僕では寳月家を盛り立てていくことはできないし、αの父がそれを望んでいないこともわかっている。だから遠くで一人ひっそり生きていこうと考えていたのに、それさえも許されないのだと悟った。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。ただのβでしかない僕は父に逆らうことができない。これがαでもΩでもない僕の人生なのだろう。
「初七日が明けたら珠守家に行くことになっている。準備をしておきなさい」
(そんなに早く……)
もしかして僕が遠くへ行こうとしていたことに勘づいていたのだろうか。だから逃げられる前に珠守家に引き渡そうとしているのだろうか。
(……いや、結婚じゃないからか)
祝い事なら憚られるだろうけれど、βの男がαの元へ行くだけなら喪中や忌服であっても問題にはならない。それに父は今回のことを早く形にしておきたいのだろう。僕を物理的に珠守家に預けることで実質的な繋がりを得たいのだ。
僕は静かに頭を下げて父の部屋を出た。
(こんな形でこの家を出ることになるなんて思わなかったな)
廊下を少し進み、姉の部屋から見える庭に下りた。小さい頃、ここでよく姉と花摘みをしたのを思い出す。大きくなってからも姉と一緒によく庭を眺めて過ごした。
(小さい頃は仲のよいΩの姉弟だと思われていたっけ)
姉と瓜二つだった僕はきっとΩに違いないと思われていた。僕自身もそうだろうと思っていた。
けれど、七歳のときに受けた検査でβだということが判明した。父は無言になり、Ωの母は「どうして」とつぶやいた。αでないことはわかっていたから、せめて使い道のあるΩであれと願っていたに違いない。
Ωが二人いれば、華族としての寳月家を復活させることができるかもしれない。あわよくば帝室のどなたかに輿入れさせる未来も描けただろう。両親はそう思っていたのかもしれないけれど、それは叶わぬ夢となった。
「あれはたしか……そうだ、千香彦というかいう名の長男だ」
「相変わらず美しいな」
「あれでΩでないとは、なんとも残念だ」
「ご当主もさぞかし残念に思っていることだろう」
少し離れたところからそんな声が聞こえてきた。弔問客の誰かだろうけれど、そうした言葉もすっかり聞き慣れてしまった。僕は「ふぅ」と息を吐き、そのまま庭を通り抜けて自分の部屋に戻った。
(大きくなれば少しは違ってくると思っていたのにな)
ところが姉に瓜二つだった顔はやや男らしさを含みつつも大きく変わることはなかった。おかげで手足がすらりと伸び背丈も随分大きくなったというのに華奢な雰囲気が抜けないままでいる。そのせいで僕はずっと姉と比べられ続けた。
――姉は可憐で愛らしく、βの弟は美しいがΩではない。あれでΩだったなら嫁ぎ先もあっただろうに。
βだとわかってからもずっとそう言われ続けた。いくら美しいと言われても僕はただのβだ。βである限り家の役に立つことはないし、両親に必要とされることもない。
(こんな僕を引き受けなくちゃいけなくなるなんて、修一朗さんも気の毒だ)
修一朗さんを最後に見たのは五日前だ。姉の見舞いに来て、それから僕にハイネの詩集をくれた。おそらく姉と詩集の話をしていたのを覚えてくれていたのだろう。
でも、僕が見たかったのはゲーテであってハイネじゃない。ハイネが好きなのは姉のほうだ。「これは僕宛じゃない」と思ったからか、どうしてもお礼の言葉を口にすることができなかった。
(あれじゃあ臍を曲げた子どもと一緒だ)
きっと気を悪くしたに違いないのに、修一朗さんは「今度は別の詩集を持ってこよう」と言ってくれた。僕は思わず「詩集よりも外国の童話集がいいです」と返してしまった。子どもでもないのに童話集をねだるなんておかしな男だと思ったに違いない。それなのに修一朗さんは「いいよ」と笑ってくれた。
「童話なら神田のほうがいいかな。詩集なら本郷にもいい本がありそうだけど、まぁあちこち見てみよう」
さすがは修一朗さんだ。帝都大学に行く前に私立の大学で外国語を学んでいたと言っていたから海外の本にも詳しいのだろう。そんな修一朗さんを素敵だなと思いながらも内心では少し焦っていた。
(どうしよう)
修一朗さんを煩わせるつもりなんてなかった。本当はハイネでも十分嬉しいのに、修一朗さんにまで姉の付属品のように思われているのだと勝手に思い、ちっぽけな自尊心が頭をもたげてしまった。
だからあんな我が儘を口にしてしまったのだ。それなのに修一朗さんはニコッと笑って「次に会うときに持ってこよう」と約束してくれた。
(ああ言ってくれたけど、修一朗さんがこの家に来ることはもうない)
次に会うのは僕が珠守家に行ったときだ。そのとき僕は明香莉の弟としてじゃなく、姉の代わりに差し出された……何になるんだろう。
(どっちにしても、修一朗さんは快く思わないかもしれない)
いや、「かもしれない」なんて希望を挟む余地はない。βの男を押しつけられるなんてβの男でも嫌なことだ。αの修一朗さんにとってはさらに迷惑なことで、もしかしたら会ってもらえないかもしれない。
そう思ったら胸がツキンと痛んだ。修一朗さんに嫌われたかもしれないと思うと、会いたかった気持ちもすぅっと消えていく。
「僕だって、姉さんに負けないくらい本当は……」
思わず口に出しそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。
大好きな姉が好いていた修一朗さん。αなのに父と違って温厚で、βの僕にも優しかった人。
大好きな姉の後ろから見ているうちに、僕はそんな修一朗さんを好きになってしまっていた。話しかけてもらうだけで、その日は寝るまでふわふわした気分になった。贈り物を受け取るたびに舞い上がるほど嬉しかった。
修一朗さんにもらった詩集やハンカチ、シャアプペンシルや洋紙の便せんはいまもずっと大事に仕舞ってある。もったいなくて使うことなんてできなかった。ハイネの詩集も姉に譲ることなく手元に置いたままだ。
(あれこれ考えるのはよそう。とにかく準備をしておかないと)
父が初七日が明けたらと言ったということは、明けた翌日には珠守家に送り出されるということだ。それまでの間に荷物を整理して、不要なものは処分してもらわなくてはいけない。
(……といっても、もうほとんど片付けてるからすぐに終わりそうだな)
予定では、今頃南へ向かう汽車に乗っていた。そのために用意した小さな旅行カバンもある。中には着替えと身の回りの物が少し、それに修一朗さんにもらった品々も入っていた。
(そうか、このカバン一つ持って珠守家に行けばいいのか)
僕はそのままにしていく予定だった着物や学校の道具などをすべて処分してもらうことにした。それを聞いた使用人たちが「まるで身辺整理のようだ」と囁いている。
(身辺整理か……あながち間違ってはないかな。この家には二度と帰って来ることはないだろうし)
不意に葬儀のことを思い出した。姉の葬儀は旧家の名に恥じない立派なものだった。まだこんな葬式が出せる財力があったのかと驚いたけれど、珠守家がすべて手配してくれたのだと仕出し屋が話していたのを耳にした。そのことに胸がツキンとしたのは、修一朗さんがまだ姉のことを想っているに違いないと感じたからだ。
そんな修一朗さんの元へ初七日が明けた翌日、僕は向かうことになった。
医者の静かな声に、母が「あぁ!」と声を上げて崩れ落ちた。畳の上で泣き崩れる母の肩を抱く父の目にも光るものが見える。これまで一度も見たことがない父の様子に、両親にとって姉がどれほど大きな存在だったのか改めて実感した。
(姉さん……)
歪みの一つもない布団に近づいた僕は、真っ白な姉の頬にそっと触れた。まだ温かいからか眠っているようにしか見えない。それでも僕の呼びかけに目を開けることはなく反応もしないということは、本当に死んでしまったのだ。
「姉さん」
最後まで首につけていた桜色の首飾りをそっと外した。これにずっと縛られてきた姉にはもう必要のないものだ。この家に縛り、Ωであることに縛りつけていた首飾りがまるで首輪のように見える。
(もう姉さんは自由だよ)
それを姉が望んでいたかはわからない。もしかすると本心ではαに所有されたいと思っていたのかもしれない。βである僕には、Ωだった姉の考えていたことは一生わからないだろう。
(それでも、死んでからも縛られたままだなんてやっぱり嫌だよね)
ぎゅっと握り締めた桜色の首飾りは冷たく、姉の体温を感じさせてはくれなかった。
僕は八歳年上の姉が大好きだった。昔から病弱だった姉と過ごす時間は決して多くなかったけれど、すべてがかけがえのない時間だった。どんなときも可憐な微笑みを向けてくれる姉のことを僕は心の底から慕っていた。
小鳥のような美しい声が聞きたくて、小さい頃は本を読んでほしいと何度もねだった。鈴のような声で笑ってくれるのが嬉しくて、学校であったことを一生懸命話して聞かせたりもした。姉しかそばにいてくれる家族がいなかったこともあり、僕は姉だけを慕い、姉だけを家族だと思ってきた。
その姉が死んでしまった。もう僕に家族はいない。この家に留まる理由もなくなった。
(家を出よう)
姉の葬儀が終わったら家を出て行こうと心に決めた。両親に挨拶をし、僕のことも家のことも誰も知らない遠い街で生きていこう。そう考えてできるだけ遠くの町で生きていく算段もつけた。ところが挨拶をするより先に父に呼び出されてしまった。
(僕を呼ぶなんて初めてだ)
どうしたのだろうと少し不安に思いながらドアを開けると、喪服を着たままの父がソファに座っている。
「お呼びでしょうか」
父は返事をすることなく、視線で向かいのソファに座るように促してきた。緊張しながら座ると「おまえには珠守家に行ってもらう」と言い出して驚いた。
「それはどういう……」
「先方からおまえでもよいという返事をもらった。明香莉の代わりにおまえに行ってもらうことが決まったということだ」
質問を遮るように告げられた言葉に、僕はただ呆然とした。
珠守家というのは姉、明香莉が嫁ぐはずだった家だ。僕も許嫁の修一朗さんには何度も会っているからよく知っている。姉が病弱でなかったなら、とっくの昔に輿入れしていただろう。
(でも、嫁ぐ前に姉さんは倒れてしまった)
姉が倒れたのは十八歳の誕生日を迎えた直後だった。それから亡くなる二十七歳まで、姉が珠守家に嫁ぐことはなかった。許嫁である修一朗さんが「病気のまま嫁ぐのは家族も心配だろう」と言って結婚を先延ばしにしたからだ。
その代わりというように修一朗さんはたびたび我が家にやって来た。婚約した当初ならまだしも、結婚を延期した後まで足繁く通うのは珍しい。とくに名家である珠守家の次男が、旧家とはいえ寂れてしまった寳月の家にわざわざ通うのはあり得ないことだ。
周囲は「それくらい許嫁を思っているのだろう」と噂し、「もしや許嫁は運命の相手なのでは?」と囁いた。
(本当に運命の相手だったのかもしれない)
αとΩには“運命の相手”と呼ばれる相手がいることは僕も知っている。二人の間には誰にも引き離せないほど固く結ばれた絆があり、初めて会った瞬間から強烈に惹かれ合うのだという。
βの僕にはそういった関係性は理解できない。ただ、修一朗さんが来るたびに姉が嬉しそうな顔をしていたから好いているに違いないとは思っていた。
その修一朗さんが、姉の代わりに僕を迎えるのだという。
(そんなこと、あるはずがない)
もし僕がΩだったらあり得たかもしれない。いまや虫の息でしかない寳月家は、権勢を誇る珠守家と何がなんでも繋がりを持ちたがっている。それなら死んだ姉の代わりにΩの弟をと考えるのも頷ける。
でも、僕はβだ。βの僕がαの元へ行くのはまったくもっておかしい。βの男では子どももできないし、なにより世間体が悪い。珠守家の次男は男色家かと囁かれては家のためにもならないだろう。
そもそも旧家と言っても、いまの寳月は名ばかりの家柄だ。逆に成金だなんだと言われていた珠守家のほうが、いまや帝室の方々も懇意にするほど華族同然の扱いを受けている。そんな珠守家がβの僕を受け入れるほど寳月の家名をほしがっているとは思えなかった。
「どういうことでしょうか」
かろうじてそれだけ口にすることができた。αの父に面と向かって質問をしたのはこれが初めてだ。言い終わった途端に嫌な汗が背中を流れ落ちる。こわばる顔を見られないように少し顔を伏せながらじっと言葉を待った。
「修一朗くんにおまえをもらってくれないかと相談したのだ。渋られるかと思ったが快く受け入れてもらえた。それだけだ」
つまり姉の代わりに僕を差し出し、代わりに寳月の家は珠守家に連なることになったということだ。そうまでして……と思ったものの、βの僕が何を思ったところでどうすることもできない。
βの僕では寳月家を盛り立てていくことはできないし、αの父がそれを望んでいないこともわかっている。だから遠くで一人ひっそり生きていこうと考えていたのに、それさえも許されないのだと悟った。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。ただのβでしかない僕は父に逆らうことができない。これがαでもΩでもない僕の人生なのだろう。
「初七日が明けたら珠守家に行くことになっている。準備をしておきなさい」
(そんなに早く……)
もしかして僕が遠くへ行こうとしていたことに勘づいていたのだろうか。だから逃げられる前に珠守家に引き渡そうとしているのだろうか。
(……いや、結婚じゃないからか)
祝い事なら憚られるだろうけれど、βの男がαの元へ行くだけなら喪中や忌服であっても問題にはならない。それに父は今回のことを早く形にしておきたいのだろう。僕を物理的に珠守家に預けることで実質的な繋がりを得たいのだ。
僕は静かに頭を下げて父の部屋を出た。
(こんな形でこの家を出ることになるなんて思わなかったな)
廊下を少し進み、姉の部屋から見える庭に下りた。小さい頃、ここでよく姉と花摘みをしたのを思い出す。大きくなってからも姉と一緒によく庭を眺めて過ごした。
(小さい頃は仲のよいΩの姉弟だと思われていたっけ)
姉と瓜二つだった僕はきっとΩに違いないと思われていた。僕自身もそうだろうと思っていた。
けれど、七歳のときに受けた検査でβだということが判明した。父は無言になり、Ωの母は「どうして」とつぶやいた。αでないことはわかっていたから、せめて使い道のあるΩであれと願っていたに違いない。
Ωが二人いれば、華族としての寳月家を復活させることができるかもしれない。あわよくば帝室のどなたかに輿入れさせる未来も描けただろう。両親はそう思っていたのかもしれないけれど、それは叶わぬ夢となった。
「あれはたしか……そうだ、千香彦というかいう名の長男だ」
「相変わらず美しいな」
「あれでΩでないとは、なんとも残念だ」
「ご当主もさぞかし残念に思っていることだろう」
少し離れたところからそんな声が聞こえてきた。弔問客の誰かだろうけれど、そうした言葉もすっかり聞き慣れてしまった。僕は「ふぅ」と息を吐き、そのまま庭を通り抜けて自分の部屋に戻った。
(大きくなれば少しは違ってくると思っていたのにな)
ところが姉に瓜二つだった顔はやや男らしさを含みつつも大きく変わることはなかった。おかげで手足がすらりと伸び背丈も随分大きくなったというのに華奢な雰囲気が抜けないままでいる。そのせいで僕はずっと姉と比べられ続けた。
――姉は可憐で愛らしく、βの弟は美しいがΩではない。あれでΩだったなら嫁ぎ先もあっただろうに。
βだとわかってからもずっとそう言われ続けた。いくら美しいと言われても僕はただのβだ。βである限り家の役に立つことはないし、両親に必要とされることもない。
(こんな僕を引き受けなくちゃいけなくなるなんて、修一朗さんも気の毒だ)
修一朗さんを最後に見たのは五日前だ。姉の見舞いに来て、それから僕にハイネの詩集をくれた。おそらく姉と詩集の話をしていたのを覚えてくれていたのだろう。
でも、僕が見たかったのはゲーテであってハイネじゃない。ハイネが好きなのは姉のほうだ。「これは僕宛じゃない」と思ったからか、どうしてもお礼の言葉を口にすることができなかった。
(あれじゃあ臍を曲げた子どもと一緒だ)
きっと気を悪くしたに違いないのに、修一朗さんは「今度は別の詩集を持ってこよう」と言ってくれた。僕は思わず「詩集よりも外国の童話集がいいです」と返してしまった。子どもでもないのに童話集をねだるなんておかしな男だと思ったに違いない。それなのに修一朗さんは「いいよ」と笑ってくれた。
「童話なら神田のほうがいいかな。詩集なら本郷にもいい本がありそうだけど、まぁあちこち見てみよう」
さすがは修一朗さんだ。帝都大学に行く前に私立の大学で外国語を学んでいたと言っていたから海外の本にも詳しいのだろう。そんな修一朗さんを素敵だなと思いながらも内心では少し焦っていた。
(どうしよう)
修一朗さんを煩わせるつもりなんてなかった。本当はハイネでも十分嬉しいのに、修一朗さんにまで姉の付属品のように思われているのだと勝手に思い、ちっぽけな自尊心が頭をもたげてしまった。
だからあんな我が儘を口にしてしまったのだ。それなのに修一朗さんはニコッと笑って「次に会うときに持ってこよう」と約束してくれた。
(ああ言ってくれたけど、修一朗さんがこの家に来ることはもうない)
次に会うのは僕が珠守家に行ったときだ。そのとき僕は明香莉の弟としてじゃなく、姉の代わりに差し出された……何になるんだろう。
(どっちにしても、修一朗さんは快く思わないかもしれない)
いや、「かもしれない」なんて希望を挟む余地はない。βの男を押しつけられるなんてβの男でも嫌なことだ。αの修一朗さんにとってはさらに迷惑なことで、もしかしたら会ってもらえないかもしれない。
そう思ったら胸がツキンと痛んだ。修一朗さんに嫌われたかもしれないと思うと、会いたかった気持ちもすぅっと消えていく。
「僕だって、姉さんに負けないくらい本当は……」
思わず口に出しそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。
大好きな姉が好いていた修一朗さん。αなのに父と違って温厚で、βの僕にも優しかった人。
大好きな姉の後ろから見ているうちに、僕はそんな修一朗さんを好きになってしまっていた。話しかけてもらうだけで、その日は寝るまでふわふわした気分になった。贈り物を受け取るたびに舞い上がるほど嬉しかった。
修一朗さんにもらった詩集やハンカチ、シャアプペンシルや洋紙の便せんはいまもずっと大事に仕舞ってある。もったいなくて使うことなんてできなかった。ハイネの詩集も姉に譲ることなく手元に置いたままだ。
(あれこれ考えるのはよそう。とにかく準備をしておかないと)
父が初七日が明けたらと言ったということは、明けた翌日には珠守家に送り出されるということだ。それまでの間に荷物を整理して、不要なものは処分してもらわなくてはいけない。
(……といっても、もうほとんど片付けてるからすぐに終わりそうだな)
予定では、今頃南へ向かう汽車に乗っていた。そのために用意した小さな旅行カバンもある。中には着替えと身の回りの物が少し、それに修一朗さんにもらった品々も入っていた。
(そうか、このカバン一つ持って珠守家に行けばいいのか)
僕はそのままにしていく予定だった着物や学校の道具などをすべて処分してもらうことにした。それを聞いた使用人たちが「まるで身辺整理のようだ」と囁いている。
(身辺整理か……あながち間違ってはないかな。この家には二度と帰って来ることはないだろうし)
不意に葬儀のことを思い出した。姉の葬儀は旧家の名に恥じない立派なものだった。まだこんな葬式が出せる財力があったのかと驚いたけれど、珠守家がすべて手配してくれたのだと仕出し屋が話していたのを耳にした。そのことに胸がツキンとしたのは、修一朗さんがまだ姉のことを想っているに違いないと感じたからだ。
そんな修一朗さんの元へ初七日が明けた翌日、僕は向かうことになった。
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