身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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後天性Ωとは2

「今日はハーブティーにしよう。ちょうど友人からジャーマンカモミールをもらったんだ。レモンバァムをブレンドするといいと言われて少し加えている。すっきりしているから食後にちょうどいいよ」

 聞き慣れない単語に曖昧に頷きながら三人掛けのソファに座った。

「もう少ししたら秋摘みの紅茶が手に入るから楽しみにしているんだ」
「秋……の紅茶ですか?」
「紅茶は春だというのが英国人たちの話だけれど秋の紅茶もおいしいよ。ミルクを入れてもいいし、ジャムを入れるのもおいしいね」

 紅茶は飲んだことあるけれど季節によって味が違うことは知らなかった。修一朗さんは食べ物のことも詳しいんだなと改めて感心する。きっと外国の友人が多いからそうしたことも話題に上るのだろう。

(どれだけ物知りなんだろう)

 いったいどのくらい勉強すれば修一朗さんに追いつけるだろうか。

「さぁ、召し上がれ」
「ありがとうございます」

 カップを手に取るとふわりと花の香りがした。少しだけリンゴのような香りにも感じる。そこに柑橘系の香りが混じっているということは、これがレモンなんとかというものだろうか。

「おいしいです」
「それはよかった」

 飲んだことのない香りだけれど気持ちが和らいだ。もう一口飲んだところで「落ち着いて話を聞いてほしくてハーブティーにしたんだ」と言われてドキッとする。

「これから僕が話すことに驚くかもしれない。いや、きっと驚く。それどころか怖くなるかもしれない」

 真剣な修一朗さんの表情にごくりと喉が鳴った。大事な話に違いないと思い、カップをテーブルに戻して姿勢を正す。

「千香彦くんは後天性Ωという言葉を聞いたことがあるかい?」
「こうてんせい、Ω?」
「この国では馴染みのない言葉だけど外国ではけっこう話題になっていてね」
「もしかして病気のことですか?」

 そう思ったのは姉のことが頭に浮かんだからだ。

「いや、病気の話じゃない。外国の友人らは“神の奇跡”と呼んでいる」
「神の奇跡、」

 思いもしなかった言葉に戸惑った。Ωの話題で姉に関係ないとしたらなんの話だろうか。

「後天性Ωというのは、文字どおり後天的にΩになることを指している。それこそ病気でそうなったり事故で突然そうなることもあるんだそうだ。もちろん稀なことではあるそうだけれど」

 頷き返しながら「こうてんせい」が「後天性」だということに気がついた。

「そうなる条件はいろいろあると言われているけれど、はっきりした要因はわかっていない。ただ、兄弟姉妹にΩがいるとそうなるのではという研究結果もあるそうなんだ」
「え……?」
「身近に強いαがいるとそうなるとも言われている」
「それって……」
「僕は千香彦くんもそうなるんじゃないかと思っている」
「僕が……Ωになるかもしれない、ということですか?」

 まさかと思った。そんなことはあり得ない。小さい頃から「Ωだったらよかったのに」と言われることは多かったけれど僕はβだ。父の命令で三度検査をしても覆らなかった。それに第二次性は十歳前後で確定すると言われている。僕はもう十九歳で、いまさらΩになるなんてことはあり得ないはずだ。

「おかしなことを言う男だと思うかい?」
「そういうわけじゃ、ないですけど……」

 修一朗さんが与太話や根拠のない噂話を真剣に受け止めるとは思えない。それでも信じられなかった。そもそもβが突然Ωになるなんてことがあれば大騒ぎになるはずだ。いくら世間に疎い僕でも耳にするはず。けれど学校でも新聞でもそんな話は聞いたことも見たこともない。

「噂話にも上らないのは後天性Ωがとても少ないからだ。それにわざわざ自分から『じつはΩになったんです』とは言わないだろうからね」

 言われて「それもそうか」と納得した。名家ならまだしも、ただの庶民のβがΩになっても喜んだりはしないだろう。この国には古くからΩに対する偏見がある。名家のΩならαに嫁ぐという将来のため大事にされるけれど、庶民のΩは優秀なαを誑かす存在として蔑まれてきた。以前はそうした庶民のΩを集めたいかがわしい店があったとも聞いている。

(でも、本当に隠しとおせるんだろうか。だってΩには発情がある)

 病弱だった姉の発情は軽いものだったけれど、それでも二日か三日は部屋に閉じこもっていた。βの僕も部屋に近づかないように言われていたくらいで、黙っていても発情がくればきっと周囲にはわかってしまう。

「聞いた話では後天性Ωになった人たちのそばには強いαがいたそうだ。ほとんどは恋人だったようだし、そうしたαが大事にしているんじゃないかな。だから噂になることがほとんどないと僕は考えている」

 戸惑う僕の隣に修一朗さんが座った。こうして隣に座ることはいつものことなのに、なぜか胸の奥がざわざわして落ち着かない。

「何度も言っているけれど、僕はβだとか男だとか関係なく千香彦くんのことが好きだ。千香彦くんだからこんなにも好きになったのだし、千香彦くんが運命の相手だというのも間違いない。だけど、βのままではいつか千香彦くんが遠くへ行ってしまうんじゃないかと不安に思っているのも事実なんだ」

 修一朗さんの指が頬に触れた。少し伸びた髪の毛を耳にかけてくれたかと思えば、そのまま首筋を撫でてから着物の襟元へと指先を滑らせる。

「後天性Ωの話を聞いたのは何年前だったかな。欧州に移り住んだ友人が一時帰国したときにそんな話をしていてね。そのときは大して興味も湧かなかったんだけど、千香彦くんから甘い香りがしていることに気づいてもしかしてと思ったんだ」
「甘い、香り?」
「シャボンのようにも感じるけれど……うん、今夜もほんのわずかだけど香っている。最初は香水の類いかと思っていたんだ。だけどきみは香水を使わない、そうだね?」
「は、はい」
「ただの体臭と言われたらそうかもしれなけれど……いや、やっぱり違う。香りを嗅ぐと僕のαの本能がざわつく」

 顔を近づけた修一朗さんが首の近くでクンと鼻を鳴らした。「やっぱり甘い香りがするよ」と囁かれて背中がゾクッと震える。それだけじゃない。何かが体の内側からせり上がってくるような気がした。真夏の炎天下で歩き回った後に熱がこもっているような、真冬に辛いものを食べたときに汗がにじみ出るような、そんなおかしな感覚がすることに戸惑った。

「あぁ……ほんのわずかだけど香りが強くなった」

 囁く修一朗さんの声に耳が痺れた。うなじがぞわぞわして鳥肌が立つのがわかる。僕はいったいどうしてしまったのだろうか。わからない。わからないのに熱がどんどん上がっていく。自分の体がおかしくなっていくような気がして混乱した。

「この香りはやっぱり……」
「しゅうい、ろ、さんっ」

 鼻を埋めているのと反対側の首筋を撫でられて体が震えた。驚いて身をよじろうとしたけれど、首筋を撫でる手と修一朗さんの顔に挟まれて仰け反ることもできない。
 耳のそばでクンクンと鼻を鳴らされて頭のてっぺんまで血が上った。「離して」と訴えたものの声は掠れていて小さく、聞こえなかったのか首筋を撫でる修一朗さんの手も匂いを嗅ぐ仕草も続いている。

「しゅういっ、……っ」

 首筋にキスをされたのがわかって慌てて体を押し返した。いつもなら嬉しさと恥ずかしさで胸が高鳴るのに、恐怖のようなものを感じて背中がゾクゾクする。
 少しでも修一朗さんから離れなくてはと仰け反ったけれど、ソファの背もたれに阻まれて動けなくなった。座面に片膝を乗り上げた修一朗さんが、「逃げないで」と言って僕を挟み込むように背もたれに両手をつく。

「僕から逃げないで」
「しゅう、」
「それとも僕が怖いかい?」

 怖い、そう思った。αの威圧を受けているわけでもないのに肌がビリビリする。初めて威圧を感じたときのような、だけどそれとは違う得体の知れない気配に再び背中をゾクッとしたものが走り抜けた。

「どうか怖がらないでほしい」

 優しい声にハッとした。視線を上げると眉尻を下げた修一朗さんが僕を見下ろしている。

「僕はただ、誰かに千香彦くんが奪われるんじゃないかと不安なだけなんだ」
「修一朗、さん?」
「きみは成長するにつれてますます美しくなった。中には“βでもかまわないじゃないか”と言い出す輩もいるくらいだ。実際、社交パーティで千香彦くんの話をする華族を何人も見かけている」
「そんなこと、あるわけないです」
「きみは自分のことを知らなさすぎる。それにお父上のこともだ。きみのお父上は寳月の家を守るためなら条件のよい華族にきみを引き渡そうとしたに違いない。たとえ珠守でなくてもね。それこそ情人としてでもいいからと考えていたはずだ」
「それは……」

 そんなことはないとは言えなかった。あの日、算段どおり南のほうへ逃げ出したとしてもきっと連れ戻されたことだろう。姉が亡くなったいま、寳月の家を守るには僕がどうにかするしかない。けれど父がβの僕に期待することはなかったはずだ。となれば“見た目だけならΩだ”と言われてきた僕の使い道は限られてくる。

「僕は千香彦くんを守りたい。千香彦くんがΩになればうなじを噛んでつがいになることができる。婚姻届より強力な繋がりを持てば千香彦くんを守れると、どうしても考えてしまうんだ」
「修一朗さん……」

 頬を撫でる手はいつもどおりとても優しい。それでも背中が震えるような感覚は消えなかった。同時に抑えがたい熱が体の奥から沸々とわき上がってくる。

(もし僕がΩになれたら……Ωだったら、修一朗さんにうなじを噛んでもらえるのだろうか。そうすれば修一朗さんは僕だけの……)

 そう思った瞬間、うなじがカッと熱くなった。そこからなんとも表現しがたい感覚が背中を伝って腰へと下りていく。そのせいかお腹やあらぬところまで熱くなり慌てて視線を逸らした。

(僕はなんて傲慢なんだ)

 それになんていやらしいのだろう。たしかにΩならαを夢中にさせることができるけれど、それは体でということだ。
 頬にあった修一朗さんの手が動いた。顎に触れてから耳たぶを摘み、そうかと思えば襟足を梳いてからうなじをするりと撫でる。

「んっ」

 自分が漏らした声に驚いた。首筋にキスをされたときよりうなじを触られたほうがひどく感じる。僕はそんなにくすぐったがりだっただろうか。指でスリスリとされるだけで背中が震えて息が漏れた。

「修一朗、さん、」
「僕の話は荒唐無稽かもしれない。実際に後天性Ωを見たことはないし、外国人だけに現れる現象なのかもしれない。それでも僕はそうなってくれたらいいと、そうすれば完璧に守ってあげられると思っているんだ」
「しゅういちろう、さん」

 修一朗さんの話を聞かなくてはと思っているのに頭がぼんやりしてきた。まるで湯船に浸かっているときのようなじんわりした熱がうなじから全身に広がっていく。

(なんだか……とても気持ちがいい……)

 修一朗さんに感じていた恐怖も、自分がβだという悩みも、あれこれ考えていたことがすっかりどこかへ行ってしまった。夢うつつのような状態に目がとろんとしてしまう。

「それにΩになってくれれば僕だけのものにできる」
「しゅ、いちろ、さん……?」
「なんでもないよ。満腹になって眠くなったのだろう。少し休んでいくといい」
「でも、」
「大丈夫、同意もないのに贈り物のリボンをほどいたりはしないから」

 何を言い出すんだろう。思わずフッと笑うとうなじを撫でていた手が離れた。代わりに半分閉じていた瞼を優しく覆われる。「おやすみ」と耳元で囁かれて瞼を閉じた。

(あぁ、修一朗さんの香りがする)

 爽やかな香水の香りにホッとした。修一朗さんの近くにいることが増えたのに、ここまではっきりと香りを感じたのは初めてかもしれない。

(それだけ修一朗さんの近くにいるってことだ)

 まるで修一朗さんに包まれているようだと思った。ここなら安心して眠れる。ここなら誰にも邪魔されず修一朗さんといられる。

(ここは僕と修一朗さんの……)

 あまりにも気持ちがよくて、気がつけばそのまま眠ってしまっていた。
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