身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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Ωになりたいという欲1

 寳月の家にいたとき、僕は社交パーティでのことや華族社会の噂話の多くを聞き流していた。βの僕が聞いたところで意味はなく、そもそもパーティに行くこともないから知識としても必要ない。αの級友の中にはパーティでのことを大袈裟に話して聞かせる人もいたけれど興味を抱くことはなかった。
 高等学校を卒業してからはそうした噂話すら聞く機会がなくなった。僕が寳月の家で与えられていた役目は姉の相手をすることで、父の仕事の関係者やほかの華族に顔を覚えてもらうことじゃない。僕も華族の長男としての役目がほしいとは思わなかった。

(だからああした話を聞いたのも久しぶりだ)

 今朝、少しだけ早起きした僕は、いつもより少し早い時間に修一朗さんの部屋に行くことにした。理由は朝食を修一朗さんの部屋で一緒に取るためで、修一朗さんが忙しくないときは夕食も一緒に食べるようにしている。
 本当はもう少し一緒の時間を過ごしたい。けれど仕事で忙しい修一朗さんの邪魔はしたくない。それにいずれ新居を、という話だからそれまで我慢するべきだ。

(せめて同じ部屋だったら、もう少し一緒に過ごせるのにな)

 我慢すると決めたのに、ついそんなことを思ってしまう。底の見えない自分の欲深さが嫌になる。軽く頭を振ってから廊下を進み、庭が見える廊下のほうへ曲がろうとしたときだった。
 奥向きのほうに繋がっている廊下の先に使用人たちがいるのが見えた。少し離れているけれど挨拶をしたほうがいいだろうか。それとも黙っていたほうが気を使わせなくて済むだろうか。そんなことを考えて廊下の角で足を止めたとき、その噂話が耳に入った。

「大河原伯爵様の奥方様、結局屋敷を出られたそうよ」
「まぁ」
「αの旦那様が余所にお相手を作ったとはいえ、奥方様のほうが出て行かなくてはいけないなんてねぇ。やっぱり奥方様がβだったからかしら」
「同じ女性として胸が痛むわ」

 聞こえてきたのはそれだけだ。それでも僕にはどういうことか想像がついた。
 いまのは伯爵家のご当主がよそに女性を作ったという話だったに違いない。そうした話は演劇や物語の題材にも取り上げられるくらいで特別驚いたりはしない。けれど「αの旦那様」と「奥方様がβ」という言葉にドキッとした。
 もしβ同士ならそうはならなかったはずだ。たとえ当主が外に妾を作り、その人との間に子ができたとしても妾を認めるかどうかは女主人である奥方が決める。その子を当主の子として認めるなら奥方が引き取って育てるのが華族社会の常識だった。
 ところが話題に出ていた伯爵は女主人のほうを追い出した。「奥方様がβだったから」ということは妾がΩだったに違いない。
 使用人たちが立ち去ったのを確認してから角を曲がった。歩きながら心臓がドクンドクンと嫌な音を立てる。αとβが結婚してもいずれそうなるのだと突きつけられたような気がして胸が痛くなった。

(きっとその奥方の生家は伯爵家より弱い立場だったのだろう)

 まるで寳月と珠守の家のようだ。たとえば僕に同じようなことが起きたとしたら、間違いなく僕は珠守の家を追い出されるだろう。
 想像しただけで胸がズキンと痛んだ。修一朗さんがそんなことをするはずがないのに、これまで気にも留めなかったそうした噂話が次々と頭に浮かぶ。

(αとΩは本能で惹かれるという話だし、そこにβが入り込む余地は最初からない)

 いくら修一朗さんが僕を想ってくれているとしても、理想のΩに出会えばβの僕は霞んでしまう。

(やっぱりαとβじゃ難しいのかもしれない)

 最初からわかっていたことなのに毎日が幸せですっかり忘れてしまっていた。嫌な音を立てる鼓動を落ち着かせたくて薬指の指輪を何度も撫でる。
 足を止めて指輪を見た。朝日にキラリと光るダイヤモンドを支えているのは捻梅という名前の台座で、まるで梅の花の真ん中で宝石が光っているように見える。「千香彦くんには桜よりも梅が似合うと思ってね」と微笑んだ修一朗さんの顔は生涯忘れないだろう。
 指輪をひと撫で、ふた撫でして深呼吸した。沈んだ顔のまま修一朗さんに会うわけにはいかない。パンと少し強めに頬を叩いて気持ちを切り替えた。

 トントン。

 大丈夫、僕はいつもどおりだ。そう言い聞かせながらドアを叩くと、すぐに「どうぞ」という声がした。この声をこの先もずっと聞くことができるといいな、なんて考えてしまう自分が嫌で慌てて表情を引き締める。それでも顔を見られたくなくて、部屋に入るとすぐに「おはようございます」と言って頭を下げた。
 もしおかしな表情をしていたとしても顔は見えていなかったはず。頭を下げたまま小さく深呼吸をしてから顔を上げた。

「何かあったのかい?」
「えっ」
「部屋に入ってきたとき、いつもと少し表情が違って見えたから何かあったのかと思って」

 修一朗さんの言葉に違う意味で鼓動が跳ねた。どんな些細なことにも気づいてくれる修一朗さんに胸が熱くなる。同時になんてひどい想像をしたのだろうと申し訳なくなった。

「何もないですよ。少し早起きをしたので、まだちょっとぼんやりしているだけです」
「それならいいけれど……いや、やっぱり心配だ。微熱もまだ安心できないし、やっぱり僕の部屋にもう一つベッドを入れてしまおうか。そうすれば夜は一緒に寝ることができるから、具合がよくなくてもすぐに気づける」
「大丈夫です。それに僕のせいで仕事に差し障りがあったら大変ですから」
「僕がそんな間抜けに見えるかい?」
「そんなこと、思ったことないです。僕はただ、修一朗さんにはゆっくり休んでほしいと思っているだけで……」
「うん、わかっている。千香彦くんは優しいからね。でも、僕としては千香彦くんのそばにいるほうが落ち着くんだ。あぁいや、寝顔を見たら興奮してやっぱり休めないかな」
「修一朗さん……」

 真面目な話をしているのにと少し咎めるように名前を呼ぶと、まるで悪戯が成功したかのように修一朗さんが笑った。その顔を見ていたら僕まで少し笑ってしまった。

「うん、やっぱり千香彦くんには笑顔がよく似合う。ところで浮かない顔の原因は大河原伯爵の件かな」
「えっ?」
「千香彦くんの顔を曇らせるとしたら大河原伯爵の話かと思ってね」

 どう返事をすればいいのか困ってしまった。ここで「はい」と頷けば立ち聞きしたのだと白状するようなものだ。そんなみっともないことをする男だと思われたくない。

「心配しなくても千香彦くんが立ち聞きしたなんて思っていないよ。大河原伯爵の話は社交パーティでも大きな話題になっていてね。さすがに大手の新聞社は控えているようだけれど、巷で話題の雑誌にはおもしろおかしく書かれているくらいだ」

 だから使用人たちもあんなふうに噂していたのだろうか。

「大河原伯爵は若くして当主になった人で、実直で奥方一筋の男だった。Ω令嬢との見合いを断ってまでβの奥方と結婚したのは有名な話でね。だから今回の件には誰もが驚いている」
「そうだったんですか」

 修一朗さんの話では結婚当時、αとβということだけでなく奥方の生家が商社に勤める庶民だということでも話題になったのだそうだ。商社自体が大手でも、ただの勤め人の娘が伯爵家当主の奥方になることは珍しい。そういうこともあり映画のようだと言われていたそうだけれど、そのせいで今回のことも大きな話題になったのだろう。

「大河原伯爵のことは驚いたけれど、あり得ないことじゃあない。華族には庶民に比べてαやΩがそれなりにいるから出会いも多い。こうしたことは華族社会ではよくある話だ」
「そう、ですね」

 つまり修一朗さんもΩと出会うことが多いということだ。もちろんそんなことはわかっている。姉も病がちでなければそうした場でαと出会うこともあっただろう。それが華族のαである修一朗さんの置かれている状況だとわかっているのに胸が苦しかった。

「たとえパーティでΩと会うことがあったとしても、僕は誰にも惹かれたりしないよ」

 ハッとして顔を上げた。いつの間にか修一朗さんが目の前に立っている。

「僕の運命の相手は千香彦くんだ。どんなに美しいΩが僕の前に立ったとしても毛ほども興味はない」
「でも、僕はβです。αとΩの関係にβは太刀打ちできません」
「僕にとって千香彦くんはβじゃない。“千香彦くん”という唯一の存在なんだ」

 修一朗さんの手が頬に触れた。そうかと思えば指先で耳に触れ、そのまま首へと移動する。肌が粟立つような感覚に唇を噛み締めると、「可愛い」と囁いた修一朗さんがうなじをするりと撫でた。少し延びた襟足が指と擦れただけで背中がゾクッとする。

(体がぞわぞわする)

 くすぐったいのとは違う表現しがたい感覚に戸惑った。このままうなじを触られ続けたらおかしな声が出てしまう。そんな恥ずかしいことはしたくないのに嫌だと拒むことができない。

 トントン。

 ドアを叩く音にドキッとした。「朝食が来たね」と言って修一朗さんが離れた。たったそれだけのことなのに、遠のく修一朗さんの姿に胸がざわざわする。撫でられていたうなじがピリピリして落ち着かない気分になる。
 使用人と話をしている修一朗さんの背中をみながら、指でうなじをそっと撫でた。自分の指にもなぜかビリッとした刺激を感じて首を傾げる。

(静電気……とは違う気がするけれど……)

 まるで首周りだけ敏感になってしまったかのようだ。くすぐったがりではあるけれど、ただ触れられただけでピリピリしたものが続くだろうか。それとも修一朗さんが触れたからだろうか。

(そういえば修一朗さん、最近よく首に触れるような)

 首筋やうなじを優しく撫でられることが増えた気がする。だけどくすぐったいと思ったことはない。むしろ……。

「千香彦くん、さぁ食べようか」
「は、はい」

 自分の指と修一朗さんの指を重ね合わせていたからか、返事をする声が上ずってしまった。朝からいやらしい気分になっている自分が恥ずかしくて、誤魔化すように「パン、おいしそうですね」と話題を振る。

「千香彦くんは柔らかいパンが好きだろう? それならフランス式のパンよりイギリス式のパンのほうがいいかと思って用意させたんだ」
「ありがとうございます」

 たしかに僕は硬いパンより柔らかいほうが好きだ。そのことに気づいたのは珠守の家に来てからだ。
 寳月の家で食事にパンが出ることはなかった。学校ではパンを食べる級友もそれなりに多かったけれど、寳月でパンを食べていたのは戦争中だけだったと聞いている。

(戦時中は米が手に入りづらかったからと聞いているけれど、いまは小麦より米のほうが安いというし、そもそも寳月の家では洋食は贅沢品だったから)

 テーブルにはパンや卵料理、スープ、それに果物やサラダもある。寳月でのテーブルとはまったく違い、まるで話に聞くホテルでの食事のようだ。

(こんな素敵な食事を毎日修一朗さんと食べられるなんて、僕はなんて幸せなんだろう)

 それなのにまだ足りないのだと思ってしまう。もっと欲しいのだと藻掻いてしまう。
 大河原伯爵の話を聞いたとき頭に浮かんだのは“後天性Ω”のことだった。僕はやっぱりΩになりたい。修一朗さんのためにも……違う、これは僕の欲だ。Ωになれば修一朗さんをほかのΩに奪われないで済むと考える僕の傲慢さの表れだ。
 頭の中でちらつく“後天性Ω”の文字を無理やり片隅へと追いやる。そうしてできるだけ笑顔をと心がけながら修一朗さんの向かい側に腰かけた。
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