身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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Ωになりたいという欲2

「後天性Ωの話をしたのが悪かったかな」

 朝食を食べ終わり、食後の紅茶を飲んでいると修一朗さんがそんなことを言い出した。

「僕があんな話をしたせいで千香彦くんは後天性Ωが気になって仕方がない。そうだろう?」
「それは……」

 そのとおりだけれど、そうだとは答えづらかった。

(だって、頷けばきっと僕が修一朗さんとそういうことをしたがっていると思われる)

 αとΩの絆はそういう行為を経て結ばれると聞いている。結婚より強い“つがい”という絆を結ぶためには夫婦としての行為が必要だからだ。修一朗さんと結婚した僕がΩになりたいと言えば、ただΩになりたがっているだけとは絶対に受け取られない。

(そんなの恥ずかしすぎる……だけど、本心では僕は……)

 修一朗さんと肌を合わせたい。そうしてΩのようにうなじを噛んでほしい。そんないやらしいことを考えていた。

(男のβでしかない僕が修一朗さんに抱いてほしいだなんて……)

 それともΩになりたいあまり、心だけΩのようになってしまったのだろうか。

(心だけなんて満足できるはずがない。僕はΩになりたい)

 Ωになって修一朗さんに抱かれたい。心も体も一つになりたい。肌を合わせればαとΩはつがいになれる。一度つがえば生涯離れられない。そんな強固な絆で結ばれたいと強く望んでいた。

(僕は朝からなんて破廉恥なことを考えているんだ)

 朝日の中でキラキラと輝く修一朗さんが眩しすぎて見ていることができなくなった。そっと視線を逸らしながら紅茶の入ったティーカップに口を付ける。

「僕はΩだとかβだとか関係なく千香彦くんだから好きになった。好きでたまらないから結婚したんだ。そのことは忘れないでほしい」
「……わかっています」

 修一朗さんは僕が何を考えているかなんてお見通しに違いない。浅ましい自分がたまらなく恥ずかしくなった。耳まで熱くなるのを感じながら一口紅茶を飲み、落ち着かないのを誤魔化すようにカップを少しだけ揺らす。揺れる紅茶を見ながら「僕だって修一朗さんがαでなくても好きになった」と心の中で思ったものの、うまく声が出なくて口をつぐむ。

「偉そうなことを言っているけど、千香彦くんの気持ちはよくわかるよ。性別なんて関係ないと思っていてもどうしようもない焦燥感に駆られることがよくあるからね」
「焦燥感、ですか?」
「千香彦くんが誰かに奪われてしまうんじゃないかと不安になるんだ。そんなこともあって、つい後天性Ωの話をしてしまった」

 そう言って修一朗さんが苦笑するような笑みを浮かべた。その顔が切なくて、どうか心配しないでほしいと思いながら口を開く。

「僕は修一朗さんが好きで、だから結婚したんです。Ωじゃないのでつがいにはなれませんけれど、でも僕はほかの誰のものにもなったりしません」
「わかっている。婚姻届も受理され、僕と千香彦くんは名実ともに夫婦になった。だけど、どうやっても胸に渦巻く不安は消えてくれない。もしかするとこれがαの本能なのかもしれない」
「αの本能……?」

 修一朗さんが持っていたティーカップをテーブルに戻した。そうして向かい側に座る僕をじっと見つめる。僕も姿勢を正しながらカップを戻した。

「千香彦くんが誰かに奪われるんじゃないかと、千香彦くんがほかの誰かに惹かれてしまうんじゃないかと不安になるんだ。もちろん千香彦くんが浮気性だとか、そういったことを疑っているわけじゃない。ただどうしようもない焦燥感に、いや、これは一種の飢餓感かもしれない」

 修一朗さんの目がキラリと光った。朝日が反射しているだけにしては、まるで夜空に浮かぶ一番星のような強さを感じる。

「こんな気持ちになるのは初めてだ。僕自身どうすれば気持ちが落ち着くのかわからなくてね。婚姻届を出しても、こうしてお揃いの結婚指輪をしても落ち着かなくて、自分の気持ちを少し持て余している」

 修一朗さんの左手薬指には僕とお揃いの指輪が光っている。その手が何かを掴むように動いた。そうかと思えばすぐに開き、何度か握ったり開いたりをくり返す。

「この手で掴みたい、そのままずっと掴んでいたい、そんな衝動に駆られることもある。この腕にずっと閉じ込めて、誰にも見られないように隠してしまいたい、そう思うこともあるんだ」

 修一朗さんが立ち上がった。そうしていつもどおり僕の隣に腰かけるけれど、いつもと違って表情が硬い。
 こんな修一朗さんは初めてだ。心配と不安が混じり合うような気持ちで修一朗さんを見つめる。僕の視線に気づいたのか指輪をした手がゆっくりと伸びてきた。

「昔に比べると外国との行き来も増えて、物だけじゃなく知識や情報もたくさん入ってくるようになった。外国の技術はもちろん、我が国の医学も驚くほど進歩している。それでもαとΩのことはまだよくわかっていない。発情や香りの仕組みもわからないままだ」

 温かくて大きな手が頬に触れた。いつもならそれだけで嬉しくなるのに、肌がピリッとして不安を感じてしまうのはなぜだろう。

「後天性Ωの話も本当かどうかわからない。それでも本当であってほしいと願わずにはいられない。βでも男でもかまわないと言いながら矛盾していると笑ってくれてかまわないよ」
「そんな、笑うなんて……」
「きみがΩになれば正真正銘僕だけのものにできる。体だけじゃない、魂までも僕のものにできる。つい、そう思ってしまう」

 頬を包んでいた手が耳に触れた。そのまま髪の毛を掻き分けるように後頭部へと回り、指先でうなじを撫でる。

「んっ」

 今度こそ声が漏れた。触れられたところにまるで静電気が走ったかのような痛みを感じる。冬になると静電気でビリッとすることはあるけれど、それも一瞬のことだ。それなのに修一朗さんが触れているところはずっとビリビリしていて、次第に痛いのかそうでないのかわからなくなってきた。

「きみがΩなら、ここを噛むだけで僕だけのΩにできる。つがいになったαとΩは誰であっても引き裂くことはできない。たとえ帝や帝室の方々であってもね」

 不意に爽やかな香りが鼻に入ってきた。すっかり馴染んだ香水の香りだというのに、なぜか香りを嗅ぐたびに胸がざわついて落ち着かない。それに香水より甘い香りのほうが少しだけ強く感じる。いや、少しなんかじゃない。甘い香りがすると気づいたからか、香りが段々と強くなってきた。あまりの甘さに一瞬だけ目の前がクラッとしてしまったほどだ。

「あぁ、千香彦くんから甘い香りがしている。シャボンよりずっと甘くて……首からとくにいい香りがする」

 修一朗さんの顔がググッと近づいた。そのまま耳の下あたりに鼻を埋め、クンクンと匂いを嗅ぎ始める。そうしながら指は何かを確かめるようにずっとうなじを撫でていた。
 首全体がゾクゾクと震えた。ぞわっとした感覚が背中をすべり落ちて腰まで震えそうになる。

「修一朗、さん」
「なんて芳しい香りだろう……ほんのわずかだけれど間違いなくこれは千香彦くんの香りだ。βのきみからこんな香りがするはずがないことはわかっている。だけどこれは……それとも僕がおかしくなってしまったんだろうか」
「しゅうい、ろ、さん」

 耳たぶに熱い吐息が触れた。鼻先が肌を擦るようにゆっくりと動き始める。耳たぶから血管をたどるように首の付け根に移動し、そこですぅっと息を吸うのがわかった。冬の朝だからそれほど汗は掻いていないと思うけれど、それでも体臭を嗅がれるのは恥ずかしい。
 うなじを撫でている腕を掴みながら「修一朗さん」と声をかけた。この距離で聞こえないはずはないのに、修一朗さんの鼻を鳴らす音もうなじを撫でる指も止まらない。

「きみはβだけれど、こんなにも僕を魅了する香りを放っている。これなら……噛めばもしかして……」

 うなじを撫でていた手が急に後頭部を掴んだ。普段感じたことがない荒っぽい仕草に驚いていると、そのままグッと引き寄せられて前屈みになる。「修一朗さんっ」と声を上げたけれど腕の力が緩むことはない。
 僕の頭を抱え込むようにしながら修一朗さんが上半身を屈めた。そうして何かを囁いたあと、顕わになったうなじにチュッと吸いついた。

「っ」

 手とは比べものにならないビリリッとした強烈な痛みに肩が跳ねた。突然の刺激に体が驚いたのか、心臓がドクンドクンと激しく動き出す。慌てて体を起こそうとしたものの修一朗さんの力は強く、後頭部を押さえている手をどけることすらできない。

「修一朗さん、」

 僕の呼びかけにも反応がない。触れたままの唇が肌と擦れるたびにビリビリと静電気が走り、それが背中を刺激してビクビクと震えた。
 修一朗さんはいったいどうしてしまったのだろう。僕の体もなんだかおかしい。おかしなことばかりで頭が混乱した。それでも修一朗さんをどうにかしなくてはと思い、目の前にある修一朗さんの服を掴んだときだった。

「ひぃっ」

 思わず悲鳴のような声が漏れた。うなじに何か硬いものが触れている。ただ皮膚の表面に触れているだけなのに、痛みとは違う恐怖がせり上がってきて体がガクガクと震えだした。

「な、なに、」

 修一朗さんの声は聞こえない。代わりにフーッフーッという荒い息が襟足に当たっている。

「修一朗さんっ」

 何か言ってほしくて名前を呼んだ。それでも返事はなかった。不安のあまり服を掴む手に力を入れた次の瞬間、うなじに触れていた硬いものが少しだけ食い込むのがわかった。
「しゅう、っ」

 かろうじて声になったのはそれだけだった。得体の知れない感覚に喉が詰まる。暖かな部屋だというのに背中に冷水を浴びせられたような感覚がした。それなのに体の奥は火照るように熱い。硬い感触が食い込もうとしているところが一番熱く感じた。

「んっ」

 うなじの熱を意識した途端に背筋がゾクゾクッと震えた。いまのは恐怖じゃない。痺れるような感覚が背中を駆け下り、それがお腹の奥を刺激して股間がギュッと熱くなるのがわかった。

(ぼ、僕は何を……)

 感じているのは間違いなく快感だ。体が震えるほどの恐怖を感じていたはずなのに、なぜか体の奥ではそれが快感に変わってしまう。恐ろしさで震えていた体が、今度は淫らな熱で震えだした。

「やめて」

 そう訴えた口からは「はぁ、はぁ」と乱れた息が漏れた。吐き出した息は熱く、まるでそういうことをしているかのようだ。実際、股間は熱くたぎり腰が揺れそうになる。

「しゅ、いちろ、さんっ」

 どうにかしてほしくて必死に服を掴んだ。うなじに触れているものをどけてほしいのに、どこかでもっと強く押してほしいと思っている自分がいる。怖いのに気持ちがいい。「やめて」と「もっと」が頭の中でグルグルと回った。

「や、めて……」

 服を掴む手にぎゅううっと力が入った。このままじゃ気が変になってしまう。きっとおかしなことを口走る。

「や……め、ないで」

 思わず出た言葉に修一朗さんがビクッと震えたのがわかった。うなじに触れていた硬い感触が消えた。後頭部にあった手の感触も消え、掴んでいた服がすっと遠のく。

「僕は何を……」

 修一朗さんの戸惑うような声が聞こえてきた。ゆっくりと顔を上げると、僕を見た修一朗さんがハッとしたような表情を浮かべる。

「大丈夫かい? あぁいや、僕が近くにいたら怖いだろう? 少し離れるから」
「離れ、ないで」

 ソファから遠ざかろうとする修一朗さんの手を咄嗟に掴んだ。驚く修一朗さんを見つめながら、「はぁ」と熱い息を吐く。

「怖く、ないですから」
「でも、」
「そばに、いてください」

 そばにいてほしい。修一朗さんのそばにいたい。戸惑うような修一朗さんの目元がパッと赤くなる。その表情になぜかホッとするような、それでいて満足するような気持ちになった。

「千香彦くんにそう言われたら断ることはできないな」

 ソファに座り直した修一朗さんが背中に手を回し、胸に寄りかかるように抱き寄せてくれた。

(あぁ……修一朗さんの香りだ)

 甘い香りが胸いっぱいに入ってくる。嬉しくて背中がヒクッと震えた。それを別の意味に受け取ったのか、大きな手がなぐさめてくれるように背中を何度も撫でてくれる。

(僕はΩになりたい)

 Ωになって修一朗さんのαとしての香りを嗅ぎたい。Ωになってうなじを噛まれたい。そうして修一朗さんだけのΩにしてほしい。そんなことを思いながらゆっくりと目を閉じた。
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