垂れ耳兎は蒼狼の腕の中で花開く

朏猫(ミカヅキネコ)

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番外編・遠い街で1

 目の前にキラキラと光を反射する水面が広がっている。ルヴィニは今日も変わらないその風景をぼんやりと見つめていた。

(海なんて池と同じようなものだと思ってたのに)

 毎日変化する様子に少しずつ惹かれるようになった。些細な変化にも気づくくらい毎日眺めている。高台にあるこの屋敷に来てからというもの、ベランダに出てこうして海を眺めるのがルヴィニの日課になっていた。

(あそこが街道で、その先に街があって……そこにリトスがいる)

 リトスは、月の宴が行われる街に屋敷を構えたという蒼灰そうはいの君の花嫁になった。
 蒼灰そうはいの君は狼族の長の息子で、次の長になると言われている狼族だ。彼のような名家の狼族は満月の夜に行われる月の宴で花嫁を求める。花嫁候補には、兎族の雄の中でもとくに美しいものが選ばれた。
 ルヴィニもそんな花嫁候補の一人だった。しかし、ルヴィニが花嫁に選ばれることはなかった。なぜなら蒼灰そうはいの君自身が兄であるリトスを選んだからだ。
 兎族から選ばれたわけではないリトスは、なぜか特別な花嫁として月の宴に登場した。そうしてあっという間に蒼灰そうはいの君の花嫁に決まってしまった。

(いまでも兎族の間では大騒ぎだ)

 この先もずっと語り継がれるに違いない。そのくらい兎族にとっては青天の霹靂の出来事だった。

(アフィーテは絶対に選ばれないはずなのに……)

 垂れ耳のアフィーテは劣勢種だ。リトスも小柄な体で適齢期を迎えても満足に発情できなかった。子が孕めず種を与えることもできないアフィーテは、兎族にとっては汚点でしかない。だから蔑まされてきた。

(アフィーテのことを知ったのは、いつだったっけ)

 小さい頃、リトスに毎日手入れをしてもらっていた赤毛を指先でいじりながらぼんやりと考える。「そういやどの本にも似たようなことが書かれてたっけ」と思い出したところで、納屋で目にした衝撃的な光景までも蘇り唇を噛み締めた。
 あの日、ルヴィニは姿が見えなくなったリトスを心配して家の周りを探し回っていた。あちこち探し、家から少し離れたところにある納屋の近くまで探しに行った。そのとき聞こえてきた声が気になって窓を覗き込むと、数人の兎族に囲まれているリトスの姿が見えた。

『やっぱりアフィーテは淫乱だよな』
『小さいくせに、もうトロトロにしてさ』
『ほら、気持ちいいんだろ?』

 いまでもあのときの声が耳の奥に残っている。適齢期を迎えるよりずっと前で発情すら知らなかったルヴィニにとって、その光景はあまりに衝撃的だった。聞こえてきたアフィーテという単語が忘れられず、家に帰って初めて本を開いて調べもした。
 そこに書かれていた内容に、ルヴィニは頭を殴られたような衝撃を受けた。アフィーテがどんな存在か知ったときの衝撃はルヴィニを根こそぎ変えてしまうほどだった。
 それからというもの、いつも一緒だったリトスに近づけなくなった。まるで知らない兎族のように思えて怖くなった。そのうちリトスがアフィーテだということが許せなくなり、気がつけば他の兎族のように蔑んでひどい言葉を投げつけるようになっていた。

「……本当は大好きだったのに」

 こうして口に出せば簡単なことだ。ルヴィニは兄のことがずっと好きだった。アフィーテだとわかったあとも大好きだった。
 それなのに真反対のことをしてしまった。自分の気持ちに蓋をして、リトスに嫌われてしまうようなことばかり口にした。いっそ嫌われてしまえばいいんだと思い、ひどい言葉を何度もぶつけた。

(……違う。僕はリトスに嫌われたかったんじゃない。本当はリトスをそういう目で見てしまう自分が怖かったんだ)

 半裸のリトスが兎族に触られている姿を見て、ルヴィニはどうしようもなく興奮した。その感覚がどうしても忘れられず、リトスをちゃんと見ることができなくなったくらいだ。

(現実のリトスは見られないのに、あのときのリトスはいつでも頭に浮かぶなんて……)

 真っ赤になった顔も嫌だという唇も、小柄で華奢な体も何もかもが綺麗だと思った。何より股の間で震えるように勃ち上がっていた雄の証から目が離せなかった。この手で触れてみたい、他の兎族のように触りたいと思った。そう思いながら自分の股間を膨らませていた。

(そんなことを思う自分が怖くてたまらなかった)

 だからリトスにつらく当たった。兄に欲情してしまう自分が許せなくて、そんなふうになるのは全部リトスのせいだと思った。劣情が憎しみに変わり、段々とひどい言葉をぶつけるようになっていった。
 そのくせ自分から離れようとするのが許せなかった。勝手に新天地に行くことを決めたリトスが許せず、その新天地からも姿を消したと知ったときは絶望した。そして月の宴の屋敷で遭遇したとき、ひどく混乱して取り乱してしまった。

(僕は……僕が花嫁になればすべてうまくいくと思ってたんだ)

 名家の花嫁になれば家族は一生静かに暮らしていける。外に出られなくなったリトスを屋敷に引き取ることもできる。そうすれば一生リトスを側に置いておける。ルヴィニはそうなることを夢見ていた。
 だから花嫁候補に選ばれたとき心の底から喜んだ。これでリトスを誰にも渡さずに済むと本気で思った。僕が喜べば同じように喜び、僕が機嫌を損ねれば顔を曇らせるリトスを、この先もずっと側に置いておけると勘違いした。

(だから間違えたんだ。すっかり僕のものだと勘違いしている間に、リトスを蒼灰そうはいの君に奪われてしまった)

 どうして間違えてしまったんだろう。
 どうして優しくしてやれなかったんだろう。
 どうして大好きな気持ちを素直に言えなかったんだろう。
 どうして、ひどいことをしてしまったんだろう。

「どうして、僕は……っ」

 一度目の月の宴のとき、あまりの衝撃に頭が真っ白になった。「そんなことがあるわけない」と思い込もうとした。アフィーテだからすぐに捨てられるとひどい期待をした。
 それなのにリトスは戻って来なかった。代わりに新しい蒼灰そうはいの君の花嫁候補にまた僕が選ばれた。
「今度こそ」と願った。同じ花嫁になれば、今度こそリトスとずっと一緒にいられる。僕が子を生めば役目は終わる。あとはリトスと二人で静かに暮らしていこう。
 その夢も二度目の月の宴であっさり消えてなくなった。それどころか蒼灰そうはいの君は「俺の花嫁はアフィーテであるこのリトスだけだ」と宣言までした。

(あんなの……あんなふうになったリトスなんて見たことなかった)

 紺碧の目を閉じると、いまでも蒼灰そうはいの君に口づけられたリトスが蘇る。表情は見えなかったものの、初めて見る甘く蕩けるような雰囲気にルヴィニは絶望にも似た気持ちになった。身も心も全部蒼灰そうはいの君に奪われてしまったのだとようやく理解した。

(……いや、あれは僕への当てつけだ)

 きっとあの場でキスをしたのは自分に見せつけるためだったに違いない。

(僕がどんな目でリトスを見ているか、蒼灰そうはいの君は気づいてたんだ)

「リトスはもうおまえのものじゃない」と言っているようにしかルヴィニには見えなかった。あの光景を思い出すだけで苦い気持ちが広がっていく。ルヴィニは熱くなる目頭に奥歯をグッと噛み締めた。

「わたしの花嫁は、また泣いているのかな?」

 不意に聞こえて来た声に、慌てて目尻を指先で拭った。そうして「別に」と答えて海を見る。

「隠す必要はないよ。おまえの心に別の誰かが棲んでいることはわかっているからね」
「……」
「気が強いところも好ましいと思うが、わたしの前でまで強がる必要はない」

 近づいてきた気配が背後に立つ。こうして海を眺めているときに声をかけられるのも、気がつけば日課のようになっていた。

(僕のことなんて気にしなくていいのに)

 それなのに、この狼族は毎日こうして声をかけてくる。「いっそ無視してくれればいいのに」と、背後に立つ番の狼族を拒絶するのもいつものことだった。
 二度目の月の宴で、ルヴィニは港街に住む狼族の花嫁になった。蒼灰そうはいの君ほどではないものの古くから続く名家の狼族で、長く一緒にいた番の兎族を亡くしたばかりだと聞いている。
 年が二回り近く違うせいか、狼族からは番というより父親に近い雰囲気を感じた。そして年齢の違いか経験の差か、狼族はすぐにルヴィニに慕う相手がいると見抜いた。そのうえで「誰を想っていてもかまわないよ」と口にする。

「現にわたしもまだ、あの子のことを忘れられずにいる」

 あの子というのは昨年病死した番のことだろう。名家の狼族には珍しく、番はその兎族一人きりだったらしい。つがってすぐに子ができたものの死産で、その後体調を崩した兎族の世話をずっとしてきたのだと聞いている。

(そんな狼族の新しい花嫁に選ばれるなんて……)

 たった一人を愛し、死別してからも忘れられない狼族。まるで二度と手に入らないリトスを想い続けている自分のようだとルヴィニは思った。

「わたしはあの子のことを決して忘れることはないだろう。だからといって、おまえをあの子の代わりだと考えたりはしない。あの子はわたしの中で永遠に消えないだろうが、それとは別におまえを愛しいと思っている」

 本当だろうか。花嫁として屋敷に来て二カ月、ルヴィニは同じことを言われるたびにそう思った。少なくとも自分はそんな器用なことはできない。二度と会えないのだと思うたびにリトスへの想いは強く深くなっていく。
 そんな思いを抱えている自分を、なぜこの狼族は愛しいなどと言うのだろう。

「無理に忘れる必要はない。それも含めてルヴィニなんだからね。さぁ、朝食にしよう」
「……キュマ様」

 自分が何を考えているのかこの人はわかっている。わかっていて優しい言葉をかけるのだ。それが随分と年上の狼族とつがうということなのかもしれない。
 ルヴィニはそう考え、捨てられないリトスへの想いに拳を握りしめた。同時に蒼灰そうはいの君の花嫁になる兎族だと言われてきた自尊心も捨てられず唇を噛み締める。

(僕は蒼灰そうはいの君の花嫁候補だったんだ。そんな僕が、いくら名家でも蒼灰そうはいの君以外の狼族に縋るなんて絶対にあり得ない)

 そう思っていることもすべてわかっているというようなキュマの気配に、ルヴィニは海から視線を外し部屋へと足を向けた。
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