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9 素直になればいい
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「たしかにわたしを頼ってほしいとは言ったけれど、こんな夜更けにやって来るとはね」
「すみません……」
「ははは、冗談だよ。いつ何時でも頼ってくれて構わない」
微笑みながらシャンパンの入ったグラスを俺の前に置くヒューゲルさんは、日中とは違いラフな格好をしていた。
久しぶりに見る普段着の上からでも、ゴールドランクの剣士らしく逞しい体だということがよくわかる。三十を超えた大人の男の色気も十分にあり、そういうところも好みだったなと思い出した。
「さて、こんな夜更けに人肌が恋しくて酔った勢いで訪ねてきた、というわけじゃなさそうだな」
口を開きかけ、しかし問いかけに何と答えたものかと思い、口を閉じる。
「かすかだがソープの香りがする。その香りは花の館の名で有名なホテルのものだろう?」
「匂いだけでわかるなんて、さすがですね」
「あのホテルが使っているソープ類は王都から取り寄せているものだ。わたしの実家でも母や姉が使っていたからね」
「さすがは名門貴族のご子息」
「随分昔に捨てた身分だよ」
ヒューゲルさんは王都に大きな屋敷を構える名門貴族の出身だ。俺がうっかり白手袋を目指していたと話したときに、「わたしの秘密も聞いてくれるか?」と言って教えてくれた。きっと俺が「しまった」というような顔をしたから、わざとそんなふうに話してくれたのだろう。
出会った当時から、ヒューゲルさんはいまと変わらず大人で優しい。それに冒険者には似つかわしくないほど紳士的だ。普段の言葉遣いも行動も貴族らしいと感じるものが多いのに、ゴールドランクという立場が目立つからか、そのことに気づく人は少ないようだった。
「さて、そんな老舗ホテルのソープの香りを漂わせているということは、今夜はお楽しみだったんじゃないのか?」
「……食事をして、お酒を飲んだだけですよ」
「なるほど、何か気に入らなくて出てきたということか」
俺が求めていない恋人関係を迫られたことは、気に入らないことに十分当てはまる。でも、それだけじゃない感情が体の中で渦巻いて、とにかくあいつから離れたいと思ってホテルを出た。それがどういう感情なのか、自分でもよくわからない。
「ニゲルと何かあったのか?」
「……どうして」
「きみがそんな顔をするときは、大抵あの若造が関係しているときだからね」
「俺の顔、変ですか?」
「いいや、いつもどおり美しいよ。ただ、泣きそうには見える」
「泣きそう、って……」
「違ったかな?」
そんな、泣きそうな顔なんてしているはずがない。ニゲルのせいで大変な目にあったと腹は立てたが、泣くようなことは何もしなかった。
俺は金縁眼鏡を外してテーブルに置くと、右手で顔を覆ってハァとため息をついた。
「よく、わからなくなって」
こうして本音を吐露してしまうのは、サザリーとヒューゲルさんの前でだけだ。
仕事でうまくいかなかったとき、俺はよくサザリーに話を聞いてもらっていた。聞き上手の彼女は話を聞きながらも時々質問を交えることで、うまく俺の胸の内を吐き出させてくれていたように思う。
ヒューゲルさんは、そんなサザリーによく似ていた。だからうっかり白手袋の話をしてしまったんだろうし、今夜もこうして甘えてしまったに違いない。
「これまでと同じはずだったんです。食事をしてお酒を飲んで、気が向いたらベッドを共にする。そのはずだったのに、気がついたらあいつとしか寝ていなかった。それはまぁ、あいつが上手いからっていうのも、あるとは思うんですけど」
「おっと、それは同じ男として聞き捨てならないな。わたしも下手なほうではないと思っているんだが」
「ヒューゲルさんは十分上手いですよ。でなきゃ、何度も誘いに乗ったりしません」
顔を上げてそう告げれば、「うれしいことを言ってくれるね」と笑いながら、淡いピンク色のシャンパンをクイッと飲み干した。そのとき見えた喉仏が動く様に色気は感じたが、体の熱が上がることはなかった。
(これもニゲルのせいだ)
いまので確信に変わった。
俺がこの三週間、誰ともシなかったのは性欲が薄れたからじゃない。ニゲル以外の男に色気を感じても、それが性欲と結びつかなくなってしまったからだ。
「あいつ、本気で俺の体をそんなふうにしようと……」
「何か無体なことでもされてるのか?」
「『俺以外に感じないようにしたい』なんて、まさかそんなこと、できるはずないって思ったのに」
「それはまた熱烈極まりないセリフだな」
「体は即オチしたくらいだからとか、まずは体からだとか言って」
「きみは快感に弱いからね」
「……そんなこと」
「なくはないだろう? だからたくさんの男とベッドを共にしていた。違うかい?」
「男はみんな、気持ちいいことが好きでしょう」
「まぁそうだな。でもきみは、体だけの快感ばかりを追っていた。まるで気持ちが伴うことを恐れているかのように」
そんなことはない、とは言えなかった。恋人は必要ない、体だけの関係で十分、そう思ってきたのは、面倒で厄介な気持ちなんて必要ないと拒んでいたからだ。
「そう思っていたきみが、ニゲルに対しては違う気持ちになっている。そうだろう?」
「それ、は……」
好きだといわれて腹の底がスゥッと冷えた。ニゲルへの友情を含めたすべての気持ちが冷めたのだと思った。だから振り切って部屋を出た。
でも、あいつを手放したくないと思ったのも事実だ。こんな矛盾した気持ちを抱くのは初めてで、どうしていいのかわからなくなる。
「恋をしているきみは、より一層美しいな」
「……は?」
「泣きそうな表情に、誰かに縋りたいと訴えるような碧い目、いつもの凛とした姿と違う儚げな様子は、男の劣情をひどく刺激する」
「ヒューゲルさん?」
向かいに座っていたヒューゲルさんが立ち上がり、隣に座った。いつもの優しい微笑みではない表情に困惑していると、後頭部に大きな手が回り、そのまま引き寄せられてキスをされた。
それは何度も触れた唇で、すっかり馴染んでいた感触――のはずなのに。
違う、と思った。
唇の厚さが、体温が、重なり具合が、すべてが違う。後頭部に触れている手の感触も違う。近くに感じる大きな体も、体臭も違う。
そう思ったら、勝手に両手が動いていた。キスをしながら半分ほどのしかかっている逞しい肩を、グッと押す。がむしゃらに嫌がるのではなく、あなたではないのだと伝えるように、ただ静かに肩を押した。
「やはり駄目だったか」
「ヒューゲル、さん」
唇を離したヒューゲルさんは、眉尻を下げてほんの少し微笑んでいる。
「きみにそんな顔をさせたいと、ずっと思っていた。それなのに遠ざけられるのを恐れて、踏み出せないでいた。きみは誰のものにもならないだろうからと高を括っていたのもある。ほかの誰よりも親しく思ってくれている、それだけでいいかと思っていたはずなのにな」
親指で唇を撫でられた。
「実際に目の前で奪われると、どうにも心を掻き乱されてしまった。だから、心が揺れているのがわかっていて付け入ったんだ。まだわたしにもチャンスがあるんじゃないかと思ってね」
「付け入るって……」
「実際、きみはこうしてわたしのところに来ただろう? まぁ、思っていたのとは少し違う状況ではあったが」
そう告げる顔は、どこか寂しそうに見えた。見慣れた微笑みではない顔に、胸がズキリとする。ヒューゲルさんの言葉に、俺は初めてとんでもなくひどいことをしてきたのではないかと思った。
「……ごめんなさい」
「きみが気にすることはないよ。恋とはこういうものだ」
「でも、」
「恋人にはなれなかったけれど、恋人のような時間は過ごせたからね。それだけでもいいさ」
「ヒューゲルさん……」
「それに、きみとわたしは体だけの関係じゃないだろう?」
「それは、もちろんです。でも、」
「きみがサウザンドルインズに来て、受付になったときからお互いを知っているんだ。長年の友人という立場は変わらないよ」
「それに、付き合いの長さはニゲルに負けないからな」と微笑む顔に、どうしようもなく泣きたくなった。
それでも、泣くわけにはいかない。泣けばヒューゲルさんを困らせてしまう。
「過去に何があったのかはわからないが、もういいんじゃないか」
「聞かないんですか?」
「そうだな、話したいと言うなら聞くが、そうは思ってないだろう?」
「……そう、ですね」
「きっと白手袋のことも関係しているんだろうしね」
あぁそうか。ヒューゲルさんは俺が白手袋を目指さなかったという事実以外にも、何か触れられたくないことがあるに違いないと気づいていたんだ。だから、これまで白手袋のことを口にしなかったに違いない。
(本当に、昔から優しすぎる人だ)
テーブルに置かれたままの淡いピンク色のシャンパンも、おそらく俺のために用意してくれていたものだろう。以前、このシャンパンが好きだと言ったことがある。それ以来、この部屋にいつ来ても必ず淡いピンク色のシャンパンがあった。
ほかにも俺が好きだと言ったお酒が並んでいて、いつだって選り取り見取りだった。
「ハイネは、もっと自分の気持ちに素直になればいい。それを喜ばない相手なら、きみの隣に立つ男じゃなかったということだ」
「手厳しいですね」
「恋という気持ち以外でも、きみを大事に思っているからな」
「……俺は親兄弟を知りませんけど、もし兄がいたならヒューゲルさんのような感じだろうかと、少し思いました」
「なるほど、家族のような愛情ならあの若造に負けないということか」
「若造って」
いつものように笑ったヒューゲルさんが立ち上がり、俺の手を取って体を起こしてくれた。その手からは、さっきまでの熱は感じられない。きっとヒューゲルさんの中でも何かが解決したのだろう。
いや、もしかするとニゲルが現れてから変化していたのかもしれない。だからずっとベッドに誘われなかったんだ。
こんなに俺を思ってくれている人が近くにいたのに、どうしてヒューゲルさんじゃ駄目だったんだろうか……。そんなことをちらりと思い、すぐさま打ち消した。いまさらそんなことを考えたところで、何かが変わるわけじゃない。それに背中を押してくれているヒューゲルさんにも失礼だ。
「ヒューゲルさんって、ただの冒険者のままなのがもったいないですよね。腕前は確かだしゴールドランクでもあるんだから、いろんな道があったんじゃないですか?」
「そうだな。あったのかもしれないが、わたしはサウザンドルインズが気に入っているし、ハイネのそばにいられるのが楽しいから不満はないな」
ヒューゲルさんがどうして冒険者を目指すことになったのかは知らない。名門貴族なら、たとえ四男だったとしてもいろんな道を選べたはずだ。 ……いや、ヒューゲルさんが選んだ道なら、俺が余計なことを言う必要はないか。
金縁眼鏡をかけ、ソファから立ち上がってヒューゲルさんの前に立つ。
「いろいろありがとうございます、フロイン」
久しぶりに口にしたヒューゲルさんの名前に、呼ばれた本人はふわりと笑ってくれた。
「どういたしまして、ハイネ」
ギュッと抱きしめた体は慣れ親しんだ感触だったが、疼くような熱を感じることはなかった。そうして心地よい熱が広がるなか、俺はあることを決意した。
「すみません……」
「ははは、冗談だよ。いつ何時でも頼ってくれて構わない」
微笑みながらシャンパンの入ったグラスを俺の前に置くヒューゲルさんは、日中とは違いラフな格好をしていた。
久しぶりに見る普段着の上からでも、ゴールドランクの剣士らしく逞しい体だということがよくわかる。三十を超えた大人の男の色気も十分にあり、そういうところも好みだったなと思い出した。
「さて、こんな夜更けに人肌が恋しくて酔った勢いで訪ねてきた、というわけじゃなさそうだな」
口を開きかけ、しかし問いかけに何と答えたものかと思い、口を閉じる。
「かすかだがソープの香りがする。その香りは花の館の名で有名なホテルのものだろう?」
「匂いだけでわかるなんて、さすがですね」
「あのホテルが使っているソープ類は王都から取り寄せているものだ。わたしの実家でも母や姉が使っていたからね」
「さすがは名門貴族のご子息」
「随分昔に捨てた身分だよ」
ヒューゲルさんは王都に大きな屋敷を構える名門貴族の出身だ。俺がうっかり白手袋を目指していたと話したときに、「わたしの秘密も聞いてくれるか?」と言って教えてくれた。きっと俺が「しまった」というような顔をしたから、わざとそんなふうに話してくれたのだろう。
出会った当時から、ヒューゲルさんはいまと変わらず大人で優しい。それに冒険者には似つかわしくないほど紳士的だ。普段の言葉遣いも行動も貴族らしいと感じるものが多いのに、ゴールドランクという立場が目立つからか、そのことに気づく人は少ないようだった。
「さて、そんな老舗ホテルのソープの香りを漂わせているということは、今夜はお楽しみだったんじゃないのか?」
「……食事をして、お酒を飲んだだけですよ」
「なるほど、何か気に入らなくて出てきたということか」
俺が求めていない恋人関係を迫られたことは、気に入らないことに十分当てはまる。でも、それだけじゃない感情が体の中で渦巻いて、とにかくあいつから離れたいと思ってホテルを出た。それがどういう感情なのか、自分でもよくわからない。
「ニゲルと何かあったのか?」
「……どうして」
「きみがそんな顔をするときは、大抵あの若造が関係しているときだからね」
「俺の顔、変ですか?」
「いいや、いつもどおり美しいよ。ただ、泣きそうには見える」
「泣きそう、って……」
「違ったかな?」
そんな、泣きそうな顔なんてしているはずがない。ニゲルのせいで大変な目にあったと腹は立てたが、泣くようなことは何もしなかった。
俺は金縁眼鏡を外してテーブルに置くと、右手で顔を覆ってハァとため息をついた。
「よく、わからなくなって」
こうして本音を吐露してしまうのは、サザリーとヒューゲルさんの前でだけだ。
仕事でうまくいかなかったとき、俺はよくサザリーに話を聞いてもらっていた。聞き上手の彼女は話を聞きながらも時々質問を交えることで、うまく俺の胸の内を吐き出させてくれていたように思う。
ヒューゲルさんは、そんなサザリーによく似ていた。だからうっかり白手袋の話をしてしまったんだろうし、今夜もこうして甘えてしまったに違いない。
「これまでと同じはずだったんです。食事をしてお酒を飲んで、気が向いたらベッドを共にする。そのはずだったのに、気がついたらあいつとしか寝ていなかった。それはまぁ、あいつが上手いからっていうのも、あるとは思うんですけど」
「おっと、それは同じ男として聞き捨てならないな。わたしも下手なほうではないと思っているんだが」
「ヒューゲルさんは十分上手いですよ。でなきゃ、何度も誘いに乗ったりしません」
顔を上げてそう告げれば、「うれしいことを言ってくれるね」と笑いながら、淡いピンク色のシャンパンをクイッと飲み干した。そのとき見えた喉仏が動く様に色気は感じたが、体の熱が上がることはなかった。
(これもニゲルのせいだ)
いまので確信に変わった。
俺がこの三週間、誰ともシなかったのは性欲が薄れたからじゃない。ニゲル以外の男に色気を感じても、それが性欲と結びつかなくなってしまったからだ。
「あいつ、本気で俺の体をそんなふうにしようと……」
「何か無体なことでもされてるのか?」
「『俺以外に感じないようにしたい』なんて、まさかそんなこと、できるはずないって思ったのに」
「それはまた熱烈極まりないセリフだな」
「体は即オチしたくらいだからとか、まずは体からだとか言って」
「きみは快感に弱いからね」
「……そんなこと」
「なくはないだろう? だからたくさんの男とベッドを共にしていた。違うかい?」
「男はみんな、気持ちいいことが好きでしょう」
「まぁそうだな。でもきみは、体だけの快感ばかりを追っていた。まるで気持ちが伴うことを恐れているかのように」
そんなことはない、とは言えなかった。恋人は必要ない、体だけの関係で十分、そう思ってきたのは、面倒で厄介な気持ちなんて必要ないと拒んでいたからだ。
「そう思っていたきみが、ニゲルに対しては違う気持ちになっている。そうだろう?」
「それ、は……」
好きだといわれて腹の底がスゥッと冷えた。ニゲルへの友情を含めたすべての気持ちが冷めたのだと思った。だから振り切って部屋を出た。
でも、あいつを手放したくないと思ったのも事実だ。こんな矛盾した気持ちを抱くのは初めてで、どうしていいのかわからなくなる。
「恋をしているきみは、より一層美しいな」
「……は?」
「泣きそうな表情に、誰かに縋りたいと訴えるような碧い目、いつもの凛とした姿と違う儚げな様子は、男の劣情をひどく刺激する」
「ヒューゲルさん?」
向かいに座っていたヒューゲルさんが立ち上がり、隣に座った。いつもの優しい微笑みではない表情に困惑していると、後頭部に大きな手が回り、そのまま引き寄せられてキスをされた。
それは何度も触れた唇で、すっかり馴染んでいた感触――のはずなのに。
違う、と思った。
唇の厚さが、体温が、重なり具合が、すべてが違う。後頭部に触れている手の感触も違う。近くに感じる大きな体も、体臭も違う。
そう思ったら、勝手に両手が動いていた。キスをしながら半分ほどのしかかっている逞しい肩を、グッと押す。がむしゃらに嫌がるのではなく、あなたではないのだと伝えるように、ただ静かに肩を押した。
「やはり駄目だったか」
「ヒューゲル、さん」
唇を離したヒューゲルさんは、眉尻を下げてほんの少し微笑んでいる。
「きみにそんな顔をさせたいと、ずっと思っていた。それなのに遠ざけられるのを恐れて、踏み出せないでいた。きみは誰のものにもならないだろうからと高を括っていたのもある。ほかの誰よりも親しく思ってくれている、それだけでいいかと思っていたはずなのにな」
親指で唇を撫でられた。
「実際に目の前で奪われると、どうにも心を掻き乱されてしまった。だから、心が揺れているのがわかっていて付け入ったんだ。まだわたしにもチャンスがあるんじゃないかと思ってね」
「付け入るって……」
「実際、きみはこうしてわたしのところに来ただろう? まぁ、思っていたのとは少し違う状況ではあったが」
そう告げる顔は、どこか寂しそうに見えた。見慣れた微笑みではない顔に、胸がズキリとする。ヒューゲルさんの言葉に、俺は初めてとんでもなくひどいことをしてきたのではないかと思った。
「……ごめんなさい」
「きみが気にすることはないよ。恋とはこういうものだ」
「でも、」
「恋人にはなれなかったけれど、恋人のような時間は過ごせたからね。それだけでもいいさ」
「ヒューゲルさん……」
「それに、きみとわたしは体だけの関係じゃないだろう?」
「それは、もちろんです。でも、」
「きみがサウザンドルインズに来て、受付になったときからお互いを知っているんだ。長年の友人という立場は変わらないよ」
「それに、付き合いの長さはニゲルに負けないからな」と微笑む顔に、どうしようもなく泣きたくなった。
それでも、泣くわけにはいかない。泣けばヒューゲルさんを困らせてしまう。
「過去に何があったのかはわからないが、もういいんじゃないか」
「聞かないんですか?」
「そうだな、話したいと言うなら聞くが、そうは思ってないだろう?」
「……そう、ですね」
「きっと白手袋のことも関係しているんだろうしね」
あぁそうか。ヒューゲルさんは俺が白手袋を目指さなかったという事実以外にも、何か触れられたくないことがあるに違いないと気づいていたんだ。だから、これまで白手袋のことを口にしなかったに違いない。
(本当に、昔から優しすぎる人だ)
テーブルに置かれたままの淡いピンク色のシャンパンも、おそらく俺のために用意してくれていたものだろう。以前、このシャンパンが好きだと言ったことがある。それ以来、この部屋にいつ来ても必ず淡いピンク色のシャンパンがあった。
ほかにも俺が好きだと言ったお酒が並んでいて、いつだって選り取り見取りだった。
「ハイネは、もっと自分の気持ちに素直になればいい。それを喜ばない相手なら、きみの隣に立つ男じゃなかったということだ」
「手厳しいですね」
「恋という気持ち以外でも、きみを大事に思っているからな」
「……俺は親兄弟を知りませんけど、もし兄がいたならヒューゲルさんのような感じだろうかと、少し思いました」
「なるほど、家族のような愛情ならあの若造に負けないということか」
「若造って」
いつものように笑ったヒューゲルさんが立ち上がり、俺の手を取って体を起こしてくれた。その手からは、さっきまでの熱は感じられない。きっとヒューゲルさんの中でも何かが解決したのだろう。
いや、もしかするとニゲルが現れてから変化していたのかもしれない。だからずっとベッドに誘われなかったんだ。
こんなに俺を思ってくれている人が近くにいたのに、どうしてヒューゲルさんじゃ駄目だったんだろうか……。そんなことをちらりと思い、すぐさま打ち消した。いまさらそんなことを考えたところで、何かが変わるわけじゃない。それに背中を押してくれているヒューゲルさんにも失礼だ。
「ヒューゲルさんって、ただの冒険者のままなのがもったいないですよね。腕前は確かだしゴールドランクでもあるんだから、いろんな道があったんじゃないですか?」
「そうだな。あったのかもしれないが、わたしはサウザンドルインズが気に入っているし、ハイネのそばにいられるのが楽しいから不満はないな」
ヒューゲルさんがどうして冒険者を目指すことになったのかは知らない。名門貴族なら、たとえ四男だったとしてもいろんな道を選べたはずだ。 ……いや、ヒューゲルさんが選んだ道なら、俺が余計なことを言う必要はないか。
金縁眼鏡をかけ、ソファから立ち上がってヒューゲルさんの前に立つ。
「いろいろありがとうございます、フロイン」
久しぶりに口にしたヒューゲルさんの名前に、呼ばれた本人はふわりと笑ってくれた。
「どういたしまして、ハイネ」
ギュッと抱きしめた体は慣れ親しんだ感触だったが、疼くような熱を感じることはなかった。そうして心地よい熱が広がるなか、俺はあることを決意した。
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