38 / 39
番外編 殿下の嫉妬2
しおりを挟む
「兄上、もしや何か、」
「まぁ聞きなさい。たしかにメレキアにいたときより安心ではあるが、将軍を頼るだけではいけないと思っていてね。自分の手で自らを守りきれるようになってほしいと思っている」
「兄上」
「昔は武人になることを止めたくせにと思うかい?」
「いえ……」
「そりゃあ今でも思うことはいろいろある。だが、剣の腕を磨くのが最良ではないかと思ったのもたしかだ。それにイシュー自身も将軍に守られているだけじゃ満足できないんじゃないかい?」
こげ茶色の目が優しくなった。昔よく見た表情に懐かしさを感じるとともに、兄とも父とも思うような感情がわき上がってくる。
(今も昔もエメウス兄上はどれだけわたしを思ってくれているのだろう)
メレキアはこれから大きく変わる。良くも悪くも内外から注目され、その視線は自分にも向けられるだろう。そのことで何かが起きるのではと心配しているに違いない。
キュッと唇を引き締めた。膝に置いた手に少しばかり力が入る。自分はもう心配されるだけの人間ではいられない。いや、いたくないと思った。
「剣の腕は、いえ、武人としてもまだ将軍の足元にも及びません。ですが、いつか将軍と並び立てるような武人になりたいと思っています。そのための努力も惜しまないつもりです」
「なんとも頼もしい言葉だ。イシューが武人になりたいと言い出したときは頭を抱えたものだけれど、今となってはそれでよかったのだと心から思っているよ。これも女神のお導きかもしれない。ということでグレモンティ将軍、いろいろまとめてイシューのこと、よろしく頼むよ」
「どうぞお任せを」
「もう一つ、ついでだからこれも言っておこう。将軍、ベッドの中ではくれぐれも手加減するように」
「あ、兄上!」
真面目な話をしていたかと思えば、突然とんでもないことを言い始めてギョッとした。
「だってそうだろう? いくら武人のように鍛えているとはいえイシューと将軍ではこんなにも体格が違う。それなのにベッドでも全力で挑まれてはイシューが壊れかねない」
「あ~、それは俺も以前注意したところです。ディオは体に見合った精力の持ち主ですからね」
「やはりか」
「一晩で二回、いや三回でも落ち着くかどうか」
「それではイシューが壊れてしまう……!」
「将軍の精が尽きる前に殿下が倒れてしまう可能性は否定できません」
「二人とも、いい加減にしてください……!」
二人してなんという話をしているのだろうか。慌てて止めに入るが聞き入れるつもりがないようで、「しかも毎日やっても枯れない男です」とエルドが言うと「ああぁぁ!」とエメウスが悲鳴のような声を上げた。
「とまぁ、とんでもない男ですけど、ベッドの中では意外と紳士だと思いますよ?」
「どういうことだい?」
「こう見えてディオはそのあたりは意外と練達ですし、ベッドでイシェイド殿下が困ることはないでしょう」
「おっと、それはそれは」
にやけるエメウスに思わず頭を抱えてしまった。社交の場ではこうした下世話な話題で盛り上がることがあると聞いたことはあるが、まさかこんなところでと目の前がクラクラする。
「ディオもいい年ですからね。許嫁こそいませんでしたが、国一番の武人となれば熟女から声をかけられることも多いんです」
「なるほど、うら若き乙女たちは怖がっても百戦錬磨のご婦人方にはたまらない、というわけか」
「そういうことです」
どうやって止めようかと考えていたが、今の会話で思考がぴたりと止まった。
(百戦錬磨のご婦人方……?)
それはつまり、そうした女性たちと懇ろの関係になっていたということだろうか。そのおかげで練達と呼ぶほどの状態になったのだとしたら……ベッドでのことを思い返した。「もしやああしたことも……」と思った途端に体の奥から何かがぶわっと膨れ上がる。
(将軍も三十八とよい年だ。武人としての魅力だけでなく男としても十分すぎるほど魅力的だと思う。そんな将軍が誰からも声をかけられないはずがないじゃないか)
わかっている。わかってはいるが、どうしてもモヤモヤとしたものがわき上がった。自分の知らない将軍を誰かが知っているのかと思うと、なんともいえない複雑な気持ちになる。
「おやおや、まさかイシューがそんな顔をするとは驚いた」
笑いを含んでいるようなエメウスの声に顔を上げた。
「呆れたわけでもからかったわけでもないから、そう睨まないでくれ。イシューが心の底から将軍を想っているのだとわかって嬉しだけなんだ」
「……そんなふうに見えますか?」
「もちろん。そもそも心から慕っていなければそうやって嫉妬したりはしないだろう?」
「……それは……」
「昔からイシューは自分の欲を後回しにするような子どもだった。アレクィードや王妃の手前、そうせざるを得なかったのもわかっている。だが、神殿に入ってからもそうした様子は変わらなかったと聞いている。そのことに嘆いていた者たちもいたのだよ。もっと自分の気持ちを大事にしてほしいってね。ほら、乳母や乳母の子どもたちのことは覚えているかい?」
「ぼんやりとですが……」
乳母は三歳になるまで世話を焼いてくれた女性で、たしか年の近い子たちがいた。
「彼女たちは王宮を離れてからもイシューのことをずっと心配してくれていてね。だからといって手を差し伸べることはできないのだと嘆いていたんだ」
エメウスの言葉に「わかっています」と返した。もしそんなことをすれば王太子が何かしていたことだろう。
「あの頃に比べれば今のイシューは随分と自分に素直になった。そのことも嬉しいけれど、素直になれる相手がイシューにできて本当によかったと心から思っているんだよ」
将軍をちらりと見た。表情はいつもと変わらないが、はしばみ色の目が少しだけ笑っているように見える。
「イシューの幸せそうな顔を見ることができて本当によかった。これでメレキアのことに集中できそうだ」
微笑みながらエメウスが立ち上がった。見送ろうとドアまでついていく。
「しばしのお別れだ。くどいようだけれど、くれぐれも身辺気をつけるようにね」
「エメウス兄上こそ、どうか気をつけてください。兄上は長く国外にいました。王太子派だけでなく、そのことを快く思わない者たちもいるはずです。それにマルガレート様のこともあります」
エメウスの亡父は短期間とはいえメレキア国王の座にあった。二十年前なら異母兄よりエメウスのほうが王にふさわしいと思う者が大勢いただろう。だが、時間が経ちすぎた。国を出ていたエメウスを快く思わない者たちもいるはずだ。伴侶がアトレテス王の姪だということで風当たりも強くなるだろう。
「大丈夫だよ。王宮に入ってもアトレテスの武人たちが近衛兵としてついてくれる。彼らはグレモンティ将軍が厳選した武人たちだ。それにマギーもいるからね。彼女より強い武人はそうそういないだろう」
「マルガレート様にも十分お気をつけてとお伝えください」
「ありがとう。ところでイシュー、次にマルガレートに会うときは“マギー”と呼んでくれるかな。そうでなければマギーが悲しむ」
「そうでした」
苦笑するとエメウスがにこりと微笑んだ。「では、戴冠式で会おう」と言って部屋を出て行く。護衛のためにエルドも後に続いた。何も心配することはないのだとわかっていても、つい閉まったドアをじっと見つめてしまう。
「どうぞご安心を。陛下の身辺はアトレテスでも屈指の武人たちがお守りしますので」
「ありがとうございます。メレキアの王宮兵よりアトレテスの武人のほうが安心できるというのは情けない限りですが……」
「戴冠式を経て、エメウス陛下が国王として本格的に動き始めれば状況も変わるでしょう。エメウス陛下は難しい道になると覚悟を決めていらっしゃる。そのお姿を目にすれば多くの者たちが陛下に付き従うはずです」
「そうであってほしいと願っています」
どうかこれ以上悲惨なことが起きませんように……心の中で女神にそう祈った。
「ところで殿下」
「はい」
声をかけられ隣を見上げるが、なぜか戸惑うような表情を浮かべるばかりで何も言おうとしない。いったいどうしたのだろうか。
「将軍?」
「先ほどの話ですが……」
先ほどという言葉と将軍の気まずそうな表情から、エルドの「熟女」と「練達」という言葉が蘇った。途端に苦い気持ちまで蘇る。
「どうか先ほどの話はお忘れください」
「なぜそんなことを?」
「殿下がお怒りかと思いまして」
「別に怒ってなどいません」
怒っているわけではない。ただ、どうにも胸の奥がモヤモヤして仕方がないだけだ。ちろっと視線を向けると将軍が眉尻を下げた。
「殿下を不快にさせているとわかっても過去を変えることはできません。わたしの我が儘ではありますが、どうかお忘れください」
これほどの困り顔をした将軍を見るのは初めてだ。そんな顔を自分がさせているのかと思うと妙にくすぐったい気持ちになる。
(それだけ想われているのだと自惚れてもよいのだろうか)
頬が緩むのをなんとか抑えつつ、将軍と向き合うように立ってから手を伸ばした。両手で包み込むように頬に触れ、「では、お願いがあります」と囁くように言葉を続ける。
「綺麗さっぱり忘れてしまうくらい、わたしを抱きしめてください」
睦言のように囁きながら左頬の傷痕に指を這わせた。多くの者はこの傷を見ると驚き、見慣れてからも怯えるのだと将軍が話していた。だが、こうした傷も武人としての勲章だと思えば愛おしくて仕方がない。
(頬の傷だけじゃない。体中にあるどの傷痕も愛おしい)
長く戦場に立っているからか、将軍の体には大小様々な傷が残っている。目を覆いたくなるような傷はないが、あまりの多さに女性なら驚いて目を伏せるだろう。
だが、自分には傷痕すべてが愛おしく思えて仕方がなかった。今では傷痕に指を這わせることもあれば口づけることもある。
「喜んで」
将軍の手が背中に回った。逞しい腕に抱かれることに、これほど安堵感を覚えることになるとは一年前は想像すらしなかった。
(この腕を、将軍を失いたくない)
エメウスの言葉が蘇る。
(守られているだけで満足できるはずがない。わたしは将軍と対等でありたい。守られるだけでなく、わたしも将軍を守りたい)
大きな背中に両手を回し、グッと力を込めて抱き返した。いつかこの背中を任されるような存在になりたい。もう何度も思っているが、その思いは日々強くなるばかりだ。
「本日はエメウス陛下との面会しか予定が入っていませんが、この後どうされますか?」
「できれば手合わせを」
そう答えると将軍が喉を鳴らすように笑った。「そうおっしゃると思いました」と答えながら両腕を解く。
「では、中庭に」
「はい」
差し出された将軍の手に右手を載せた。まるで姫君にするような行為だが、将軍にそうした思いはない。以前それとなく尋ねたときに「そういえば」と初めて気がついたような顔をしていた。
(わたしに触れたいと無意識に思っている表れなのかもしれない)
そう考えると、ただ手を取るだけの仕草だというのに愛おしさに胸が切なくなった。こんなにも想える相手がいるのはなんと幸せなことだろう。あふれる気持ちを噛み締めながら、愛しい人と剣を交えるために中庭へと向かった。
「まぁ聞きなさい。たしかにメレキアにいたときより安心ではあるが、将軍を頼るだけではいけないと思っていてね。自分の手で自らを守りきれるようになってほしいと思っている」
「兄上」
「昔は武人になることを止めたくせにと思うかい?」
「いえ……」
「そりゃあ今でも思うことはいろいろある。だが、剣の腕を磨くのが最良ではないかと思ったのもたしかだ。それにイシュー自身も将軍に守られているだけじゃ満足できないんじゃないかい?」
こげ茶色の目が優しくなった。昔よく見た表情に懐かしさを感じるとともに、兄とも父とも思うような感情がわき上がってくる。
(今も昔もエメウス兄上はどれだけわたしを思ってくれているのだろう)
メレキアはこれから大きく変わる。良くも悪くも内外から注目され、その視線は自分にも向けられるだろう。そのことで何かが起きるのではと心配しているに違いない。
キュッと唇を引き締めた。膝に置いた手に少しばかり力が入る。自分はもう心配されるだけの人間ではいられない。いや、いたくないと思った。
「剣の腕は、いえ、武人としてもまだ将軍の足元にも及びません。ですが、いつか将軍と並び立てるような武人になりたいと思っています。そのための努力も惜しまないつもりです」
「なんとも頼もしい言葉だ。イシューが武人になりたいと言い出したときは頭を抱えたものだけれど、今となってはそれでよかったのだと心から思っているよ。これも女神のお導きかもしれない。ということでグレモンティ将軍、いろいろまとめてイシューのこと、よろしく頼むよ」
「どうぞお任せを」
「もう一つ、ついでだからこれも言っておこう。将軍、ベッドの中ではくれぐれも手加減するように」
「あ、兄上!」
真面目な話をしていたかと思えば、突然とんでもないことを言い始めてギョッとした。
「だってそうだろう? いくら武人のように鍛えているとはいえイシューと将軍ではこんなにも体格が違う。それなのにベッドでも全力で挑まれてはイシューが壊れかねない」
「あ~、それは俺も以前注意したところです。ディオは体に見合った精力の持ち主ですからね」
「やはりか」
「一晩で二回、いや三回でも落ち着くかどうか」
「それではイシューが壊れてしまう……!」
「将軍の精が尽きる前に殿下が倒れてしまう可能性は否定できません」
「二人とも、いい加減にしてください……!」
二人してなんという話をしているのだろうか。慌てて止めに入るが聞き入れるつもりがないようで、「しかも毎日やっても枯れない男です」とエルドが言うと「ああぁぁ!」とエメウスが悲鳴のような声を上げた。
「とまぁ、とんでもない男ですけど、ベッドの中では意外と紳士だと思いますよ?」
「どういうことだい?」
「こう見えてディオはそのあたりは意外と練達ですし、ベッドでイシェイド殿下が困ることはないでしょう」
「おっと、それはそれは」
にやけるエメウスに思わず頭を抱えてしまった。社交の場ではこうした下世話な話題で盛り上がることがあると聞いたことはあるが、まさかこんなところでと目の前がクラクラする。
「ディオもいい年ですからね。許嫁こそいませんでしたが、国一番の武人となれば熟女から声をかけられることも多いんです」
「なるほど、うら若き乙女たちは怖がっても百戦錬磨のご婦人方にはたまらない、というわけか」
「そういうことです」
どうやって止めようかと考えていたが、今の会話で思考がぴたりと止まった。
(百戦錬磨のご婦人方……?)
それはつまり、そうした女性たちと懇ろの関係になっていたということだろうか。そのおかげで練達と呼ぶほどの状態になったのだとしたら……ベッドでのことを思い返した。「もしやああしたことも……」と思った途端に体の奥から何かがぶわっと膨れ上がる。
(将軍も三十八とよい年だ。武人としての魅力だけでなく男としても十分すぎるほど魅力的だと思う。そんな将軍が誰からも声をかけられないはずがないじゃないか)
わかっている。わかってはいるが、どうしてもモヤモヤとしたものがわき上がった。自分の知らない将軍を誰かが知っているのかと思うと、なんともいえない複雑な気持ちになる。
「おやおや、まさかイシューがそんな顔をするとは驚いた」
笑いを含んでいるようなエメウスの声に顔を上げた。
「呆れたわけでもからかったわけでもないから、そう睨まないでくれ。イシューが心の底から将軍を想っているのだとわかって嬉しだけなんだ」
「……そんなふうに見えますか?」
「もちろん。そもそも心から慕っていなければそうやって嫉妬したりはしないだろう?」
「……それは……」
「昔からイシューは自分の欲を後回しにするような子どもだった。アレクィードや王妃の手前、そうせざるを得なかったのもわかっている。だが、神殿に入ってからもそうした様子は変わらなかったと聞いている。そのことに嘆いていた者たちもいたのだよ。もっと自分の気持ちを大事にしてほしいってね。ほら、乳母や乳母の子どもたちのことは覚えているかい?」
「ぼんやりとですが……」
乳母は三歳になるまで世話を焼いてくれた女性で、たしか年の近い子たちがいた。
「彼女たちは王宮を離れてからもイシューのことをずっと心配してくれていてね。だからといって手を差し伸べることはできないのだと嘆いていたんだ」
エメウスの言葉に「わかっています」と返した。もしそんなことをすれば王太子が何かしていたことだろう。
「あの頃に比べれば今のイシューは随分と自分に素直になった。そのことも嬉しいけれど、素直になれる相手がイシューにできて本当によかったと心から思っているんだよ」
将軍をちらりと見た。表情はいつもと変わらないが、はしばみ色の目が少しだけ笑っているように見える。
「イシューの幸せそうな顔を見ることができて本当によかった。これでメレキアのことに集中できそうだ」
微笑みながらエメウスが立ち上がった。見送ろうとドアまでついていく。
「しばしのお別れだ。くどいようだけれど、くれぐれも身辺気をつけるようにね」
「エメウス兄上こそ、どうか気をつけてください。兄上は長く国外にいました。王太子派だけでなく、そのことを快く思わない者たちもいるはずです。それにマルガレート様のこともあります」
エメウスの亡父は短期間とはいえメレキア国王の座にあった。二十年前なら異母兄よりエメウスのほうが王にふさわしいと思う者が大勢いただろう。だが、時間が経ちすぎた。国を出ていたエメウスを快く思わない者たちもいるはずだ。伴侶がアトレテス王の姪だということで風当たりも強くなるだろう。
「大丈夫だよ。王宮に入ってもアトレテスの武人たちが近衛兵としてついてくれる。彼らはグレモンティ将軍が厳選した武人たちだ。それにマギーもいるからね。彼女より強い武人はそうそういないだろう」
「マルガレート様にも十分お気をつけてとお伝えください」
「ありがとう。ところでイシュー、次にマルガレートに会うときは“マギー”と呼んでくれるかな。そうでなければマギーが悲しむ」
「そうでした」
苦笑するとエメウスがにこりと微笑んだ。「では、戴冠式で会おう」と言って部屋を出て行く。護衛のためにエルドも後に続いた。何も心配することはないのだとわかっていても、つい閉まったドアをじっと見つめてしまう。
「どうぞご安心を。陛下の身辺はアトレテスでも屈指の武人たちがお守りしますので」
「ありがとうございます。メレキアの王宮兵よりアトレテスの武人のほうが安心できるというのは情けない限りですが……」
「戴冠式を経て、エメウス陛下が国王として本格的に動き始めれば状況も変わるでしょう。エメウス陛下は難しい道になると覚悟を決めていらっしゃる。そのお姿を目にすれば多くの者たちが陛下に付き従うはずです」
「そうであってほしいと願っています」
どうかこれ以上悲惨なことが起きませんように……心の中で女神にそう祈った。
「ところで殿下」
「はい」
声をかけられ隣を見上げるが、なぜか戸惑うような表情を浮かべるばかりで何も言おうとしない。いったいどうしたのだろうか。
「将軍?」
「先ほどの話ですが……」
先ほどという言葉と将軍の気まずそうな表情から、エルドの「熟女」と「練達」という言葉が蘇った。途端に苦い気持ちまで蘇る。
「どうか先ほどの話はお忘れください」
「なぜそんなことを?」
「殿下がお怒りかと思いまして」
「別に怒ってなどいません」
怒っているわけではない。ただ、どうにも胸の奥がモヤモヤして仕方がないだけだ。ちろっと視線を向けると将軍が眉尻を下げた。
「殿下を不快にさせているとわかっても過去を変えることはできません。わたしの我が儘ではありますが、どうかお忘れください」
これほどの困り顔をした将軍を見るのは初めてだ。そんな顔を自分がさせているのかと思うと妙にくすぐったい気持ちになる。
(それだけ想われているのだと自惚れてもよいのだろうか)
頬が緩むのをなんとか抑えつつ、将軍と向き合うように立ってから手を伸ばした。両手で包み込むように頬に触れ、「では、お願いがあります」と囁くように言葉を続ける。
「綺麗さっぱり忘れてしまうくらい、わたしを抱きしめてください」
睦言のように囁きながら左頬の傷痕に指を這わせた。多くの者はこの傷を見ると驚き、見慣れてからも怯えるのだと将軍が話していた。だが、こうした傷も武人としての勲章だと思えば愛おしくて仕方がない。
(頬の傷だけじゃない。体中にあるどの傷痕も愛おしい)
長く戦場に立っているからか、将軍の体には大小様々な傷が残っている。目を覆いたくなるような傷はないが、あまりの多さに女性なら驚いて目を伏せるだろう。
だが、自分には傷痕すべてが愛おしく思えて仕方がなかった。今では傷痕に指を這わせることもあれば口づけることもある。
「喜んで」
将軍の手が背中に回った。逞しい腕に抱かれることに、これほど安堵感を覚えることになるとは一年前は想像すらしなかった。
(この腕を、将軍を失いたくない)
エメウスの言葉が蘇る。
(守られているだけで満足できるはずがない。わたしは将軍と対等でありたい。守られるだけでなく、わたしも将軍を守りたい)
大きな背中に両手を回し、グッと力を込めて抱き返した。いつかこの背中を任されるような存在になりたい。もう何度も思っているが、その思いは日々強くなるばかりだ。
「本日はエメウス陛下との面会しか予定が入っていませんが、この後どうされますか?」
「できれば手合わせを」
そう答えると将軍が喉を鳴らすように笑った。「そうおっしゃると思いました」と答えながら両腕を解く。
「では、中庭に」
「はい」
差し出された将軍の手に右手を載せた。まるで姫君にするような行為だが、将軍にそうした思いはない。以前それとなく尋ねたときに「そういえば」と初めて気がついたような顔をしていた。
(わたしに触れたいと無意識に思っている表れなのかもしれない)
そう考えると、ただ手を取るだけの仕草だというのに愛おしさに胸が切なくなった。こんなにも想える相手がいるのはなんと幸せなことだろう。あふれる気持ちを噛み締めながら、愛しい人と剣を交えるために中庭へと向かった。
118
あなたにおすすめの小説
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
別れたはずの元彼に口説かれています
水無月にいち
BL
高三の佐倉天は一歳下の松橋和馬に一目惚れをして告白をする。お世話をするという条件の元、付き合えることになった。
なにかと世話を焼いていたが、和馬と距離が縮まらないことに焦っている。
キスを強請った以降和馬とギクシャクしてしまい、別れを告げる。
だが別れたのに和馬は何度も会いに来てーー?
「やっぱりアレがだめだった?」
アレってなに?
別れてから始まる二人の物語。
氷の公爵様と身代わりパティシエ~「味覚なし」の旦那様が、僕のお菓子でトロトロに溶かされています!?~
水凪しおん
BL
【2月14日はバレンタインデー】
「お前の菓子だけが、私の心を溶かすのだ」
実家で「魔力なしの役立たず」と虐げられてきたオメガのリウ。
義弟の身代わりとして、北の果てに住む恐ろしい「氷血公爵」ジークハルトのもとへ嫁ぐことになる。
冷酷無慈悲と噂される公爵だったが、リウが作ったカカオのお菓子を食べた途端、その態度は激変!?
リウの持つ「祝福のパティシエ」の力が、公爵の凍りついた呪いを溶かしていき――。
拾ったもふもふ聖獣と一緒に、甘いお菓子で冷たい旦那様を餌付け(?)する、身代わり花嫁のシンデレラストーリー!
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
紳士オークの保護的な溺愛
flour7g
BL
■ 世界と舞台の概要
ここはオークの国「トールキン」。
魔法、冒険者、ギルド、ダンジョン、獣人やドラゴンが存在する、いわゆる“典型的な異世界”だが、この国の特徴はオークが長命で、理知的な文明社会を築いていることにある。
トールキンのオークたちは、
灰色がかった緑や青の肌
鋭く澄んだ眼差し
鍛え上げられた筋骨隆々の体躯
を持ち、外見こそ威圧的だが、礼節と合理性を重んじる国民性をしている。
異世界から来る存在は非常に珍しい。
しかしオークは千年を生きる種族ゆえ、**長い歴史の中で「時折起こる出来事」**として、記録にも記憶にも残されてきた。
⸻
■ ガスパールというオーク
ガスパールは、この国でも名の知れた貴族家系の三男として生まれた。
薄く灰を帯びた緑の肌、
赤い虹彩に金色の瞳孔という、どこか神話的な目。
分厚い肩と胸板、鍛え抜かれた腹筋は鎧に覆われずとも堅牢で、
銀色に輝く胸当てと腰当てには、代々受け継がれてきた宝石が嵌め込まれている。
ざらついた低音の声だが、語調は穏やかで、
貴族らしい品と、年齢を重ねた余裕がにじむ話し方をする。
● 彼の性格
• 極めて面倒見がよく、観察力が高い
• 感情を声高に表に出さないが、内側は情に厚い
• 責任を引き受けることを当然のように思っている
• 自分が誰かに寄りかかることだけは、少し苦手
どこか「自分は脇役でいい」と思っている節があり、それが彼の誠実さと同時に、不器用さでもあった。
⸻
■ 過去と喪失 ――愛したオーク
ガスパールはかつて、平民出身のオーク男性と結ばれていた。
家柄も立場も違う相手だったが、
彼はその伴侶の、
不器用な優しさ
朝食を焦がしてしまうところ
眠る前に必ず手を探してくる癖
を、何よりも大切にしていた。
しかし、その伴侶はすでにこの世を去っている。
現在ガスパールが暮らしているのは、
貴族街から少し離れた、二階建ての小さな屋敷。
華美ではないが、掃除が行き届き、静かな温もりのある家だ。
彼は今も毎日のように墓参りを欠かさない。
それは悲嘆というより、対話に近い行為だった。
⸻
■ 現在の生活
ガスパールは現在、
街の流通を取り仕切る代表的な役職に就いている。
多忙な職務の合間にも、
洗濯、掃除、料理
帳簿の整理
屋敷の修繕
をすべて自分でこなす。
仕事、家事、墓参り。
規則正しく、静かな日々。
――あなたが現れるまでは。
【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】
古森きり
BL
【書籍化決定しました!】
詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります!
たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました!
アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。
政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。
男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。
自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。
行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
アプリで元カノを気にしなくなるくらい魅力的になろうとした結果、彼氏がフリーズしました
あと
BL
「目指せ!!魅力的な彼氏!!」
誰にでも優しいように見えて重い…?攻め×天然な受け
⚠️攻めの元カノが出て来ます。
⚠️強い執着・ストーカー的表現があります。
⚠️細かいことが気になる人には向いてません。
合わないと感じた方は自衛をお願いします。
受けは、恋人が元カノと同級生と過去の付き合いについて話している場面に出くわしてしまう。失意の中、人生相談アプリの存在を知る。実は、なぜか苗字呼び、家に入れてもらえない、手を出さないといった不思議がある。こうして、元カノなんか気にしなくなるほど魅力的になろうとするための受けの戦いが始まった…。
攻め:進藤郁也
受け:天野翔
※誤字脱字・表現の修正はサイレントで行う場合があります。
※タグは定期的に整理します。
※批判・中傷コメントはご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる