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記憶の欠片

記憶の欠片・・・その20

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「それと、雪子様は、無邪気な一面を持っている女性かと思います。いえ、もう一人の無邪気な自分が、雪子様の中で一緒に時代を重ねてきているといった方が正しいかもしれませんね」

無邪気な雪子・・・?
きっと、去年の大みそかの夜の雪子の事かもしれないわね。
夏樹さんと一緒にいた時の、あんなに無邪気な雪子を見たのは、あの夜が初めてだったけど。

「マスターは、無邪気な雪子を見た事があるんですか?」

「いえ・・・私は、物静かな雪子様しか見た事はありません」

「でも、それじゃ、どうして雪子に無邪気な一面があるとかって分かるんですか?」

「それは、その指輪の隠し場所です」

「この指輪の隠し場所・・・ですか?」

「ええ・・・。普通は、行きつけの喫茶店の、しかも、その店の中に飾ってある、今は動かない古時計の中に隠そうなんて思わないと思いますよ」

「確かに、言われてみれば。普通は、自分の部屋の中とかに隠しますよね」

「それなのに、雪子様は、いつでも人目に付くような場所に隠すなんて、とても、子供じみていると思いませんか?」

「でも、どうして、雪子は、そこの時計の中に隠そうとしたんですか?」

「さあ・・・。なぜ、そこの古時計の中に隠そうとしたのか、その理由を訊いた事がないので分かりませんが。もしかしたら・・・」

「もしかしたら・・・?」

「雪子様にとって、ここの喫茶店は、幼い子供が読んでいるうちに、その世界に入ってしまう絵本の中だったのではないかと。私は、そんな風に思うのです」

「雪子にとって、この場所が、絵本の中・・・?」

「雪子様が、無邪気なままでいられる自分だけの世界・・・。そこには楽しい事だけが存在している世界。壁に掛かっている動かない古びた振り子時計、その中に隠している思い出の指輪・・・。そして、その指輪の存在を感じる事が出来るこの喫茶店の中で、誰にも邪魔される事もなく、好きな小説を読んでいる自分がいる・・・。でも、見方を変えて見ると、その時間の中にいる事は本当はとても楽しい時間なはずなのに、もしかしたら、雪子様にとっては、とても寂しい時間が流れていく世界だったのかもしれません」

「寂しい時間・・・どうしてですか?」

「その絵本の中の世界には、雪子様以外には誰もいないからです」

「誰もいない・・・?でも、それじゃ、どうして雪子は、そんな誰もいないような絵本の中にいたのですか?」

「きっと、雪子様は、そんな誰もいない世界から出ようとしなかったのではなくて、出たくても抜け出す事が出来なくなっていたのではないでしょうか?」

「それは、いったい、どういう事なんですか?」

「いえ・・・もしかしたら、抜け出せるのにそれを拒否していたのかもしれません・・・。私がそうだったように、雪子様も知ってしまったのかもしれませんね」

「マスターも・・・?」

「雪子様の場合は事情が私とは違いますが、きっと、心の中の感情は・・・。雪子様は、初めのうちは絵本の中の世界にいる事で、外の世界にいる時の自分の感情をコントロールする事が出来ていたのだと思います。ですが、時間が経つにつれて、大人として成長していくうちに、雪子様は、絵本の中のいる自分の感情が外の世界に出たら、無意識のうちに人を傷つけてしまう事を知ってしまった。だから、雪子様は、自分の存在理由の半分を否定されてしまう無邪気な感情を持った自分の方を、絵本の中に閉じ込めてしまったのかもしれません。大人が子供のままの感情で行動をしようとすると、知らぬ間に周りの人を傷つけてしまうように・・・。ただ・・・」

「ただ・・・?」

優しい言葉で静かに話すマスターの表情が、少し厳しく、辛そうな視線を見えない何かに移していく。
そして、静かに瞳を閉じると、また、優しい言葉で何かに語りかけるように話を続けていく。

「雪子様は、その事を知っていたはずだったのですが・・・」

「知っていたはず・・・。もしかして、雪子は・・・?」

「おそらく、雪子様は、絵本の中の世界から抜け出そうとしている自分がいる事に、気がついていないのではないかと思います」

裕子は、あの夜に感じた雪子の感情の変化を思い出していた。
雪子が、裕子のメールの相手が夏樹だと知った、あの夜に。
裕子は、あの夜、雪子の中で雪子自身も知らない何かが壊れて、そして、何かが生まれ始めていたのかもしれないと思った。

「もしかしたら、雪子様は、今・・・いつか忘れてきた記憶の欠片を探し始めたのかもしれません」

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