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(24)桃珊瑚-4
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とっぷりと日の暮れた世界。鳥居を越えた場所は、花月のお庭とは思えない場所だった。だだっ広く、ただゆるゆると続く長い長い坂があるだけ。あまりにも何も見えないので、鳥居から離れたら自分が立っている場所さえ見失ってしまいそうだ。うっかり迷子になったらここから二度と出られないような気がして、朔夜さんの手をぎゅっと握りしめた。
「朔夜さん、ここは一体どこなんですか?」
「清香さんはすでに何回か来たことがあるはずですよ」
「……何回か、来たことがある?」
こんな怪しげな場所にそう何回も迷い込んでたまるものかと言いたいところだけれど、実際、私はお届けものやさんという名目でたびたび奇妙な場所に招かれている。そう、あやかし坂に。
「あやかし坂って、自分から入ることができたんですね」
「今回は鳥居をくぐりましたし、僕も一緒にいます。それに、ちゃんとつけてきてくれましたから」
手を繋いでいない方の手で、朔夜さんが私のピアスに触れる。急に首元に手を置かれたせいか、妙に緊張した。
「こ、この、桃珊瑚が何か?」
「まだ、思い出してもらえませんか。寂しいなあ。ちょっと、お手伝いしましょうか」
「さ、朔夜さん、ちょ、近いんじゃ?」
「少し力を込めますね」
朔夜さんの綺麗な顔が、急接近してくる。ちゅっとゆらゆらと揺れる小さな桃珊瑚に、朔夜さんが何かしたらしい。伝聞系なのは、自分の耳元で起きた出来事は、私の目では確認することができないからだ。
本当に心臓に悪い。正直、キスされるかと思った。いきなりキスして許されるのは、猫ちゃんとかわんちゃんくらいなもんだよ。
たぶん、「猫」というのは鍵のひとつだったのだろう。妙に楽しそうな朔夜さんが、こちらを見ながら笑っていた。目がらんらんとしていて、獲物を捕まえる直前の猫の顔によく似ている。
そのまま、朔夜さんの身体の形が変わっていくかと思ったら、瞬きをしたその直後、朔夜さんがいた場所には、会社の窓から見かけたかぎしっぽの猫がちんまりと座っていた。
どういうこと? びっくりして声を上げようと思ったのに、声が出ない。慌ててなんとか喉元を確かめようとして下を見れば、自分の服装が朝出かけてきたときとは、全然異なることに気がついた。
服装だけではない。持ち物も、手の大きさも、何もかもが変わってしまっている。けれど、まったく見知らぬ姿ではない。これは、かつて庭見世で迷子になったときの自分の姿だ。祖母がはりきって、従姉妹とおそろいのブランド物のワンピースを着せてくれたからよく覚えている。
思い出せないなら、思い出させてやるってこと? 私の身体は、かつての記憶を再現しているのだろう。私の意識とは裏腹に、勝手に動いていく。
『ねこちゃん、まって。ここ、まっくらだよ。ねこちゃーん』
『こんなところにまで、ついてきたんですか。帰れなくなっても知りませんよ』
『だって、ねこちゃんとあそびたかったんだもん。しゃべるねこちゃん、すごいー』
『だからって、何も考えないまま境を越えてくるなんて。まったく、お馬鹿さんなお子ちゃまですねえ』
『わたし、おばかさんじゃないし、おこちゃまでもないもん。さやかってなまえがあるもん!』
『そういうところが、お馬鹿だと言うんです。こんなところで、大事な名前を晒してどうするんです。盗られてしまったら、帰れなくなってしまいますよ』
かぎしっぽの猫は、呆れたような声でかつての私の相手をしていた。聞き分けのない子どもの相手というのは、なかなか大変だ。映像として見せられているわけではなく、追体験させられるというのは、なかなかに恥ずかしい。朔夜さん、なぜこの方法を選んだのだろう。
『おなまえ、だいじなの?』
『ええ、ここではすごく大事ですよ』
『どこででも、だいじでしょう? おばあちゃんもせんせいもいってたよ、おともだちのことは、ちゃんと、おなまえでよびましょうねって』
『そうですね。おばあちゃんや先生が言うよりも、この世界では名前が大事なんです。なにせ、名前がなければ形があやふやになってしまいますから』
『でも、ねこちゃんは、おなまえないの?』
『ええ。自分ではつけられませんので。それに、厳密には僕は猫ではないんです。あなたが僕を猫だと思ったから、僕は猫の姿をとっているだけなので』
『いっていること、よくわからない』
かつての私が、しょんぼりとうなだれた。うんうん、それはあなたのせいじゃないよ。なんだったら、現在大人であるはずの私も、言われている意味が理解できないくらいだからね。
『ここ、たのしい?』
『あんまり、楽しくはありませんね。僕は、あなたが住んでいる場所のほうが好きです』
『ここ、まっくらだし、うちにおいでよ。いっしょにすめばいいでしょ』
『はあ、今度は簡単にあやかしを招き入れようとする。何も考えずに言葉にすると、今に大変な目に遭いますよ』
『だいじょうぶだよ。ね、ねこちゃんのこと、ちゃんとだいじにするからね。ずっといっしょにいよ。やくそくね』
『ああ、もう、言っているそばから勝手に縁を結ぶ! 僕はもう知りませんからね』
『ねこちゃん、おこってる?』
『怒っていません! ただ、あなたのことが心配なんです!』
イカ耳になった猫はにゃごにゃご抗議をしつつも、私に身体をすり寄せてきた。
「朔夜さん、ここは一体どこなんですか?」
「清香さんはすでに何回か来たことがあるはずですよ」
「……何回か、来たことがある?」
こんな怪しげな場所にそう何回も迷い込んでたまるものかと言いたいところだけれど、実際、私はお届けものやさんという名目でたびたび奇妙な場所に招かれている。そう、あやかし坂に。
「あやかし坂って、自分から入ることができたんですね」
「今回は鳥居をくぐりましたし、僕も一緒にいます。それに、ちゃんとつけてきてくれましたから」
手を繋いでいない方の手で、朔夜さんが私のピアスに触れる。急に首元に手を置かれたせいか、妙に緊張した。
「こ、この、桃珊瑚が何か?」
「まだ、思い出してもらえませんか。寂しいなあ。ちょっと、お手伝いしましょうか」
「さ、朔夜さん、ちょ、近いんじゃ?」
「少し力を込めますね」
朔夜さんの綺麗な顔が、急接近してくる。ちゅっとゆらゆらと揺れる小さな桃珊瑚に、朔夜さんが何かしたらしい。伝聞系なのは、自分の耳元で起きた出来事は、私の目では確認することができないからだ。
本当に心臓に悪い。正直、キスされるかと思った。いきなりキスして許されるのは、猫ちゃんとかわんちゃんくらいなもんだよ。
たぶん、「猫」というのは鍵のひとつだったのだろう。妙に楽しそうな朔夜さんが、こちらを見ながら笑っていた。目がらんらんとしていて、獲物を捕まえる直前の猫の顔によく似ている。
そのまま、朔夜さんの身体の形が変わっていくかと思ったら、瞬きをしたその直後、朔夜さんがいた場所には、会社の窓から見かけたかぎしっぽの猫がちんまりと座っていた。
どういうこと? びっくりして声を上げようと思ったのに、声が出ない。慌ててなんとか喉元を確かめようとして下を見れば、自分の服装が朝出かけてきたときとは、全然異なることに気がついた。
服装だけではない。持ち物も、手の大きさも、何もかもが変わってしまっている。けれど、まったく見知らぬ姿ではない。これは、かつて庭見世で迷子になったときの自分の姿だ。祖母がはりきって、従姉妹とおそろいのブランド物のワンピースを着せてくれたからよく覚えている。
思い出せないなら、思い出させてやるってこと? 私の身体は、かつての記憶を再現しているのだろう。私の意識とは裏腹に、勝手に動いていく。
『ねこちゃん、まって。ここ、まっくらだよ。ねこちゃーん』
『こんなところにまで、ついてきたんですか。帰れなくなっても知りませんよ』
『だって、ねこちゃんとあそびたかったんだもん。しゃべるねこちゃん、すごいー』
『だからって、何も考えないまま境を越えてくるなんて。まったく、お馬鹿さんなお子ちゃまですねえ』
『わたし、おばかさんじゃないし、おこちゃまでもないもん。さやかってなまえがあるもん!』
『そういうところが、お馬鹿だと言うんです。こんなところで、大事な名前を晒してどうするんです。盗られてしまったら、帰れなくなってしまいますよ』
かぎしっぽの猫は、呆れたような声でかつての私の相手をしていた。聞き分けのない子どもの相手というのは、なかなか大変だ。映像として見せられているわけではなく、追体験させられるというのは、なかなかに恥ずかしい。朔夜さん、なぜこの方法を選んだのだろう。
『おなまえ、だいじなの?』
『ええ、ここではすごく大事ですよ』
『どこででも、だいじでしょう? おばあちゃんもせんせいもいってたよ、おともだちのことは、ちゃんと、おなまえでよびましょうねって』
『そうですね。おばあちゃんや先生が言うよりも、この世界では名前が大事なんです。なにせ、名前がなければ形があやふやになってしまいますから』
『でも、ねこちゃんは、おなまえないの?』
『ええ。自分ではつけられませんので。それに、厳密には僕は猫ではないんです。あなたが僕を猫だと思ったから、僕は猫の姿をとっているだけなので』
『いっていること、よくわからない』
かつての私が、しょんぼりとうなだれた。うんうん、それはあなたのせいじゃないよ。なんだったら、現在大人であるはずの私も、言われている意味が理解できないくらいだからね。
『ここ、たのしい?』
『あんまり、楽しくはありませんね。僕は、あなたが住んでいる場所のほうが好きです』
『ここ、まっくらだし、うちにおいでよ。いっしょにすめばいいでしょ』
『はあ、今度は簡単にあやかしを招き入れようとする。何も考えずに言葉にすると、今に大変な目に遭いますよ』
『だいじょうぶだよ。ね、ねこちゃんのこと、ちゃんとだいじにするからね。ずっといっしょにいよ。やくそくね』
『ああ、もう、言っているそばから勝手に縁を結ぶ! 僕はもう知りませんからね』
『ねこちゃん、おこってる?』
『怒っていません! ただ、あなたのことが心配なんです!』
イカ耳になった猫はにゃごにゃご抗議をしつつも、私に身体をすり寄せてきた。
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