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2.日常
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くどい
何度目かの押し問答の末、たまりかねたように国王は声を荒げた。日頃は見せない苛立ちを前面に出されて、己の失態を悟った上級貴族たちは鼻白んだように押し黙る。でっぷりとした腹をさすりながら、中年男たちはまだ諦めきれぬように何やら言い募った。
種々の煩わしさから解放されたくて、東国人の部下と二人で執務室に引きこもっていた国王は、招かれざる客の出現に大層ご機嫌斜めである。やすやすと客人として部屋に通した衛兵の無能っぷりに内心歯噛みした。王はもとが美しいだけに、怒りが露わになれば底冷えする凄みのある笑顔になる。このまま刃物のように切れ味の良い言葉で、目の前の使えない貴族どもを叩き潰そうとした彼女を引き止めたのは、人懐っこい笑顔をした腹心の男だった。
側に置いて三年を数えるが、未だに年齢不詳の東国人はいつも顔に微笑みを浮かべている。そして大概のことは上手く煙に巻いてしまうのだ。今もさすが西国の女はみな美しいだとか、たった一人を選んで身を固めるには早過ぎるだとか若いうちに楽しまねば勿体無いだとか、実はとある娼館に王の贔屓の女がいるらしいだとか次から次に適当なことを話して、言いくるめている。
そもそも即位するまで婚約者の一人もいなかったこと自体がおかしな話なのだが、とりあえずこの場を切り抜けさえすればよいので国王もあえて口は挟まない。この世の中には適材適所というものがあるのだと、彼女はよく理解していた。正論だけではなく、立ち回りを上手くしなければこの世界では生きてはいけない。
ふと男が腰の刀を見せつけるように、狸親父たちに囁いた。先ほどまで赤ら顔で怒鳴っていた男たちは、今度は急に青ざめた顔をしている。赤くなったり青くなったり、全く忙しない男たちだ。女はつい先日の酒宴を思い出す。酒を飲んで興が乗った部下は、愛用の剣とともに惚れ惚れとするような舞踏を披露してくれた。
ところが剣舞の最中に、男はうっかりとある高位貴族の鬘を投げ飛ばし、また別の高位貴族の髭を半分剃ってしまったのだ。酒の席の出来事であるし、国王がお許しになったということで男は咎められなかったのであるが、御髪に不安のある男性にとっては脅威に思われているらしい。頭より厚顔無恥なその顔を先に隠せと、女は内心、辛辣にこき下ろした。
そもそも自分は女である。普段は確かに男のような形をしているが、女を孕ませる力など持ち合わせていない。女が女を抱いたところで子を成せぬことなど、自明の理である。言われるがままに上級貴族の娘の誰かと結婚したところで、次は世継ぎだとせっつかれるのは目に見えているではないか。
いっそ腹に王家に連なる子を孕んだ女を探したいところだが、流石に国王その人に托卵し、西国の民すべてに背こうとする度胸のある女などいないだろう。この国の女の美徳とは、貞淑さなのである。そもそも国王自身にではなく実家に忠実な妻を得てしまえば、秘密が露見する可能性が高くなるばかりで、利点などないに等しい。他国の姫を迎え入れるなどもってのほか。国王という名の肩書を持つ女は忌々しそうに、ひとつため息をついた。
そのため息を合図と受け取ったのか、部下はこうるさい貴族たちを扉の外につまみ出す。正面突破で中に突入してきた中年男たちも、東国流にのらりくらりとお断りされてはどうしようもなかったらしい。
常識知らずの異邦人という肩書きはこういう時に使うべしと、男はほくそ笑みながら女に小声で囁いて出ていった。面倒な中年男たちが大人しく引き下がるのを見て女は、いっそ西国の兵たちをみなこの部下の複製にしてしまえはしないかと半ば本気で思案している。油じみた男たちが視界から消えたのを確認し、女はゆっくりと目を閉じた。
確かに、仮初めの妻を迎えるという案を考えなかったといえば嘘になる。己が男として不能であるという不名誉に甘んじれば、嫁を迎えろという圧力から解放されるという考えは魅力的であった。はなから男ではないのだから、男の矜持など初めから持ち合わせてなどおらぬ。陰口などで傷つくような繊細な心はとうの昔にどこかに置いてきた。
後は相手次第だが、例え清い結婚であったとしても、貧しい名ばかりの貴族女性ならば王個人からの援助と引き換えに受け入れる者もあるのではないか……そんなさもしい考えは確かにあったのだ。しかし少しばかり考えてみれば、これは欠陥ばかりのどうしようもない考えであった。
そもそも己が不能だと主張したところで、それはおそらく認められぬであろう。撒く種が悪いのではなく、育てる畑が悪いのだというのは貴族社会の馬鹿な男どもの昔からの弁である。使えぬと判断されれば、いくら王が見初めた女とはいえ、不実をでっち上げられて離縁されるか、はたまた毒殺されるか。それが実家に力のない弱小貴族などであれば、なおさらだ。
女は、記憶の引き出しを開けて今は亡き母の面影を探してみる。自分以外に子を成せなかった母。瞳の色が瓜ふたつだと言われたことが懐かしい。物心ついた時には寝たきりだった母は実家に力もなく、世継ぎを産んだとはいえ子は一人しか成せなかった。万一のことも考え、子どもは複数を望まれるのが常だ。たった一人の子どもは性別を偽り、そこへ心労が重なって体調を崩したのか。それとも……周囲に疎まれたのか。何と言っても父と母の出会いは、遠乗りに出かけた際の森だったと聞いているのだ。産後の肥立ちが本当に悪かったのかもわからない。とはいえ当時を知る侍医もすでに亡く、確かめようもないのだが。
罪もない若い女たちを、母と同じような目に遭わせるのは忍びなかった。個人的に親しい令嬢はいなかったが、国王として様々な公の場で出会った彼女たちはみなか弱く可愛らしい庇護欲をそそる存在に思えた。例え裏では口の悪いご令嬢たちであっても、彼女が身につけることのない柔らかな衣装に包まれた存在はまぶしく輝いて見える。したがって国王として正しく紳士的に接していたし、女たちはそんな国王を理想の男性として受け入れていた。
まがい物の蜜月だと言われればそれまでである。けれど同じ女たちが捨て駒にされるのをみすみす受け入れるつもりはなかった。そこまで落ちぶれてはおらぬ。どうせ結婚したところで子を成すまで、名門貴族のうら若き令嬢たちが、代わる代わる送り込まれるだけなのである。そのすべてを屍に変えて、物言わぬ躯の上に立ち続けることなど、彼女には出来そうになかった。
甘さを捨てきれぬ自分が一番の大きな秘密を抱えているという世の理不尽さに、彼女はうんざりする。いっそ何もかもぶちまけてしまいたいような捨て鉢な気分で、苛々と羽ペンをいじくりまわした。この状況は自分の手に余り、もはやどうすることもできぬ。一番良いのは自らが病を得たことにして、叔父である先の国王の弟に王位を譲ることであるが、それも口で言うほど簡単にいきそうもない。
長年浮いた噂のなかった叔父が、女を囲っているらしい。何と相手は連れ子のいる未亡人であるというのだ。しかもここ最近は城にも顔出さず、屋敷に篭りぱなし。初めて女を知った若造でもあるまいし、やはり男とはよくわからぬ。女は嘆息する。不用意に王位を譲れば、またもや人死にが出るであろう。もし叔父の血を引いた正当な世継ぎが誕生するのが遅ければ、叔父亡き後外戚に国政は良いように扱われるのはまず間違いない。
なぜそんな厄介な女を選んだのか理解に苦しむが、自分が言う筋合いの問題ではない。それこそ出歯亀であろう。そもそも自分が性別を偽っていなければ、起きなかった問題なのである。さらにここしばらく、王都ではきな臭い噂が飛び交っている。解決の糸口はまだ見えない。王位を譲るにしても、まだまだ道のりは遠く険しい。
少し頭を休めようかとこめかみを押さえたその時、自分の前にすっと茶器が差し出された。取っ手のない小さな東国の茶器だ。いつもは冬の空のような青磁や深雪のような白磁を好んで使うくせに、今日はなぜか玻璃でできた透明なものを持ってきた。酒を呑むのと勘違いしているかと思ったが、どうやらこのままで問題ないらしい。男は流れるような仕草で茶を注ぐ。この男は武人として召抱えられているというのに、こうやって給仕顔負けの茶まで入れてみせるのだ。
男の持つ茶壺の中を見てみれば、ふうわりと茶の中で菊花と茉莉花が花開いていた。鞠のようにこんもりとした菊花の上に、まるで虹のように緩やかな弧を描いて、ゆらゆらと白い茉莉花の花弁が揺れる。思わず男を見上げてみれば、悪戯が成功した子どものように片目をつぶって見せた。工芸茶というらしい。茶葉にこだわった先日の烏龍茶も香り高かったが、今日の工芸茶は確かに見た目も華やかで美しかった。
男のふりをしているが、本当ならば可愛いらしいものはみな好ましいと思う。けれどただでさえ秘密を抱えている身としては慎重にならざるをえなくて、過度に可愛いらしいものから距離を取っている。世の中には、甘味の好きな男も、花の好きな男も、小動物が好きな男も、おそらくは溢れているだろうに。 だから、この菊花と茉莉花の工芸茶はとても好ましかった。
遠い異国から運ばれてきた花がゆらゆらと揺れる様は、とても趣きがあるものだ。茶葉の質それ自体としてはそれほど上級のものではない。きっとこれを見れば、彼のことを疎ましく思っている連中はまた槍玉にあげるだろう。紅茶のいろはも知らぬ田舎者と。けれど女という生き物は、味だけでなくこういう可愛らしい見た目の品が好きなのだ。そもそも紅茶とて東国からもたらされたものに過ぎない。自国で栽培できないものを、自分たちがあれこれ上から批評してどうなるというのだ。
女ははしゃがぬように気をつけながら、ゆっくりとお茶を飲む。茶杯を持つ手は、白魚のように美しい。けれどこの手も、ここ最近まで荒れ放題だったのだと誰が知っていようか。書類仕事を重ねれば、必然的に指先は荒れるのだ。けれど、侍女達のように気軽に香油など塗る気になれなかった。まるで女のようだと言われることを彼女はひどく恐れていた。
ところが、戴冠式の後から召し抱えた東国人は、こともなげに言って、自分に今流行りの店で買った品を寄越したのだ。手先に傷があれば、万一の際に武器を取り落とすやもしれませぬ。薔薇の香りなど薬と思って我慢していただきたい。もしくは薬草の軟膏の親戚だと思えば良いではありませぬか。そんな風にしてもらったこの香油がどれだけ嬉しいものだったか、きっと男は知る由もないだろう。可愛らしい小瓶を後生大事に持っているなど、口が裂けても言うつもりもないが。
今日のお茶に合わせて、勧められた甘味とて今までは執務室に上がることはなかったものだ。それを、疲れた時には糖分だと言って執拗に置くのを勧めたのはこの男である。自分はそう大して甘いものは食べないくせに、ちょいちょい珍しいものを手に入れた、流行りの品が手に入ったと言っては何かしら携えてやってくる。しかもどうやって購入しているのか、小煩い貴族たちは、国王が最近甘味を嗜んでいるなどと思いもよらぬようだ。どうやら狸親父たちの耳に入らぬように細心の注意を払っているらしい。
色街にもよく行く男だ。馴染みの女に渡すついでに、自分にも土産を買っているに過ぎないのだろう。事実彼女も、一度や二度どころではなく彼と共に色街に出かけている。城の女を部屋に呼んでは貴族の派閥に響く、未亡人に手ほどきを願うなどもってのほかだと男が主張したのだ。おかげで自分は女嫌いやら、不能とは呼ばれずに済んでいるのだが。
毎度店に着けば、男は馴染みの女たちを呼んで宴を開く。美しい色街の女たちは、身分を隠した自分のことを何くれと可愛がってくれる。確かにあの場所に行けば、自分は少しだけ自由になるのだ。例えそこが、見知らぬ男と女が仮初めの愛を囁く場所であったとしても。
男が楽器を爪弾くのを、女はその場所で初めて知った。西国の楽器とは異なる二胡。憂いを帯びた音色は、なぜか郷愁を誘うものだった。自分はこの国以外どこにも行けぬというのに、なぜか涙が止まらなかった。男のことを女はまるで何も知らない。生まれた国も、過去も、その生き方も。そして思い知るのだ、男にとって女はただ自分を取り立てた遠い国の王に過ぎないのだと。自分が失脚すればきっとこの男はこの国を捨て、どこかまた違う国に一人で旅立ってしまうのだろうと。
それでもたまに女は錯覚して眩暈を起こしそうになる。自分はもしかしたら、男にとっての特別なのではないだろうかと。秘密が露見するやもしれぬと、ただその一心で心に鎧を着て生きていた。頑なに見える部分があることも認めよう。そんな自分に、男はとても甘いのだ。なぜ自分が欲しいものを男はこうも簡単に与えてくれるのだろう。それは男が自分を特別に思ってくれているからではないかと、不意にそんな子どもじみた考えが浮かんでくるのだ。それは甘く甘く、幸せな手に入らない幻。
再度茶を望めば、男は嬉しそうにいそいそと準備をする。彼の手は自分よりもずっと大きい。象牙色のなめらかな肌と、綺麗に整えられた指先。雅に楽器を爪弾くこともある男の指は、すらりと長い。茶を入れるその手つきは、武人とは思えぬほど繊細で優しげだ。この男の指先は、閨の中で抱く女の肌もああやって優しくなぞるのだろうかとぼんやり考え、女は一人赤面した。
そんな彼女を見て、お茶の温度が熱すぎただろうかといらぬ気をまわす男が妙に小憎たらしく思えて、女は一言、問題ないとだけ答えてそっぽを向いた。
東国では、夏から夏の終わりに茉莉花の花は咲くのだという。掌におさまった茶杯の中で、茉莉花の花がくるくると踊っていた。
何度目かの押し問答の末、たまりかねたように国王は声を荒げた。日頃は見せない苛立ちを前面に出されて、己の失態を悟った上級貴族たちは鼻白んだように押し黙る。でっぷりとした腹をさすりながら、中年男たちはまだ諦めきれぬように何やら言い募った。
種々の煩わしさから解放されたくて、東国人の部下と二人で執務室に引きこもっていた国王は、招かれざる客の出現に大層ご機嫌斜めである。やすやすと客人として部屋に通した衛兵の無能っぷりに内心歯噛みした。王はもとが美しいだけに、怒りが露わになれば底冷えする凄みのある笑顔になる。このまま刃物のように切れ味の良い言葉で、目の前の使えない貴族どもを叩き潰そうとした彼女を引き止めたのは、人懐っこい笑顔をした腹心の男だった。
側に置いて三年を数えるが、未だに年齢不詳の東国人はいつも顔に微笑みを浮かべている。そして大概のことは上手く煙に巻いてしまうのだ。今もさすが西国の女はみな美しいだとか、たった一人を選んで身を固めるには早過ぎるだとか若いうちに楽しまねば勿体無いだとか、実はとある娼館に王の贔屓の女がいるらしいだとか次から次に適当なことを話して、言いくるめている。
そもそも即位するまで婚約者の一人もいなかったこと自体がおかしな話なのだが、とりあえずこの場を切り抜けさえすればよいので国王もあえて口は挟まない。この世の中には適材適所というものがあるのだと、彼女はよく理解していた。正論だけではなく、立ち回りを上手くしなければこの世界では生きてはいけない。
ふと男が腰の刀を見せつけるように、狸親父たちに囁いた。先ほどまで赤ら顔で怒鳴っていた男たちは、今度は急に青ざめた顔をしている。赤くなったり青くなったり、全く忙しない男たちだ。女はつい先日の酒宴を思い出す。酒を飲んで興が乗った部下は、愛用の剣とともに惚れ惚れとするような舞踏を披露してくれた。
ところが剣舞の最中に、男はうっかりとある高位貴族の鬘を投げ飛ばし、また別の高位貴族の髭を半分剃ってしまったのだ。酒の席の出来事であるし、国王がお許しになったということで男は咎められなかったのであるが、御髪に不安のある男性にとっては脅威に思われているらしい。頭より厚顔無恥なその顔を先に隠せと、女は内心、辛辣にこき下ろした。
そもそも自分は女である。普段は確かに男のような形をしているが、女を孕ませる力など持ち合わせていない。女が女を抱いたところで子を成せぬことなど、自明の理である。言われるがままに上級貴族の娘の誰かと結婚したところで、次は世継ぎだとせっつかれるのは目に見えているではないか。
いっそ腹に王家に連なる子を孕んだ女を探したいところだが、流石に国王その人に托卵し、西国の民すべてに背こうとする度胸のある女などいないだろう。この国の女の美徳とは、貞淑さなのである。そもそも国王自身にではなく実家に忠実な妻を得てしまえば、秘密が露見する可能性が高くなるばかりで、利点などないに等しい。他国の姫を迎え入れるなどもってのほか。国王という名の肩書を持つ女は忌々しそうに、ひとつため息をついた。
そのため息を合図と受け取ったのか、部下はこうるさい貴族たちを扉の外につまみ出す。正面突破で中に突入してきた中年男たちも、東国流にのらりくらりとお断りされてはどうしようもなかったらしい。
常識知らずの異邦人という肩書きはこういう時に使うべしと、男はほくそ笑みながら女に小声で囁いて出ていった。面倒な中年男たちが大人しく引き下がるのを見て女は、いっそ西国の兵たちをみなこの部下の複製にしてしまえはしないかと半ば本気で思案している。油じみた男たちが視界から消えたのを確認し、女はゆっくりと目を閉じた。
確かに、仮初めの妻を迎えるという案を考えなかったといえば嘘になる。己が男として不能であるという不名誉に甘んじれば、嫁を迎えろという圧力から解放されるという考えは魅力的であった。はなから男ではないのだから、男の矜持など初めから持ち合わせてなどおらぬ。陰口などで傷つくような繊細な心はとうの昔にどこかに置いてきた。
後は相手次第だが、例え清い結婚であったとしても、貧しい名ばかりの貴族女性ならば王個人からの援助と引き換えに受け入れる者もあるのではないか……そんなさもしい考えは確かにあったのだ。しかし少しばかり考えてみれば、これは欠陥ばかりのどうしようもない考えであった。
そもそも己が不能だと主張したところで、それはおそらく認められぬであろう。撒く種が悪いのではなく、育てる畑が悪いのだというのは貴族社会の馬鹿な男どもの昔からの弁である。使えぬと判断されれば、いくら王が見初めた女とはいえ、不実をでっち上げられて離縁されるか、はたまた毒殺されるか。それが実家に力のない弱小貴族などであれば、なおさらだ。
女は、記憶の引き出しを開けて今は亡き母の面影を探してみる。自分以外に子を成せなかった母。瞳の色が瓜ふたつだと言われたことが懐かしい。物心ついた時には寝たきりだった母は実家に力もなく、世継ぎを産んだとはいえ子は一人しか成せなかった。万一のことも考え、子どもは複数を望まれるのが常だ。たった一人の子どもは性別を偽り、そこへ心労が重なって体調を崩したのか。それとも……周囲に疎まれたのか。何と言っても父と母の出会いは、遠乗りに出かけた際の森だったと聞いているのだ。産後の肥立ちが本当に悪かったのかもわからない。とはいえ当時を知る侍医もすでに亡く、確かめようもないのだが。
罪もない若い女たちを、母と同じような目に遭わせるのは忍びなかった。個人的に親しい令嬢はいなかったが、国王として様々な公の場で出会った彼女たちはみなか弱く可愛らしい庇護欲をそそる存在に思えた。例え裏では口の悪いご令嬢たちであっても、彼女が身につけることのない柔らかな衣装に包まれた存在はまぶしく輝いて見える。したがって国王として正しく紳士的に接していたし、女たちはそんな国王を理想の男性として受け入れていた。
まがい物の蜜月だと言われればそれまでである。けれど同じ女たちが捨て駒にされるのをみすみす受け入れるつもりはなかった。そこまで落ちぶれてはおらぬ。どうせ結婚したところで子を成すまで、名門貴族のうら若き令嬢たちが、代わる代わる送り込まれるだけなのである。そのすべてを屍に変えて、物言わぬ躯の上に立ち続けることなど、彼女には出来そうになかった。
甘さを捨てきれぬ自分が一番の大きな秘密を抱えているという世の理不尽さに、彼女はうんざりする。いっそ何もかもぶちまけてしまいたいような捨て鉢な気分で、苛々と羽ペンをいじくりまわした。この状況は自分の手に余り、もはやどうすることもできぬ。一番良いのは自らが病を得たことにして、叔父である先の国王の弟に王位を譲ることであるが、それも口で言うほど簡単にいきそうもない。
長年浮いた噂のなかった叔父が、女を囲っているらしい。何と相手は連れ子のいる未亡人であるというのだ。しかもここ最近は城にも顔出さず、屋敷に篭りぱなし。初めて女を知った若造でもあるまいし、やはり男とはよくわからぬ。女は嘆息する。不用意に王位を譲れば、またもや人死にが出るであろう。もし叔父の血を引いた正当な世継ぎが誕生するのが遅ければ、叔父亡き後外戚に国政は良いように扱われるのはまず間違いない。
なぜそんな厄介な女を選んだのか理解に苦しむが、自分が言う筋合いの問題ではない。それこそ出歯亀であろう。そもそも自分が性別を偽っていなければ、起きなかった問題なのである。さらにここしばらく、王都ではきな臭い噂が飛び交っている。解決の糸口はまだ見えない。王位を譲るにしても、まだまだ道のりは遠く険しい。
少し頭を休めようかとこめかみを押さえたその時、自分の前にすっと茶器が差し出された。取っ手のない小さな東国の茶器だ。いつもは冬の空のような青磁や深雪のような白磁を好んで使うくせに、今日はなぜか玻璃でできた透明なものを持ってきた。酒を呑むのと勘違いしているかと思ったが、どうやらこのままで問題ないらしい。男は流れるような仕草で茶を注ぐ。この男は武人として召抱えられているというのに、こうやって給仕顔負けの茶まで入れてみせるのだ。
男の持つ茶壺の中を見てみれば、ふうわりと茶の中で菊花と茉莉花が花開いていた。鞠のようにこんもりとした菊花の上に、まるで虹のように緩やかな弧を描いて、ゆらゆらと白い茉莉花の花弁が揺れる。思わず男を見上げてみれば、悪戯が成功した子どものように片目をつぶって見せた。工芸茶というらしい。茶葉にこだわった先日の烏龍茶も香り高かったが、今日の工芸茶は確かに見た目も華やかで美しかった。
男のふりをしているが、本当ならば可愛いらしいものはみな好ましいと思う。けれどただでさえ秘密を抱えている身としては慎重にならざるをえなくて、過度に可愛いらしいものから距離を取っている。世の中には、甘味の好きな男も、花の好きな男も、小動物が好きな男も、おそらくは溢れているだろうに。 だから、この菊花と茉莉花の工芸茶はとても好ましかった。
遠い異国から運ばれてきた花がゆらゆらと揺れる様は、とても趣きがあるものだ。茶葉の質それ自体としてはそれほど上級のものではない。きっとこれを見れば、彼のことを疎ましく思っている連中はまた槍玉にあげるだろう。紅茶のいろはも知らぬ田舎者と。けれど女という生き物は、味だけでなくこういう可愛らしい見た目の品が好きなのだ。そもそも紅茶とて東国からもたらされたものに過ぎない。自国で栽培できないものを、自分たちがあれこれ上から批評してどうなるというのだ。
女ははしゃがぬように気をつけながら、ゆっくりとお茶を飲む。茶杯を持つ手は、白魚のように美しい。けれどこの手も、ここ最近まで荒れ放題だったのだと誰が知っていようか。書類仕事を重ねれば、必然的に指先は荒れるのだ。けれど、侍女達のように気軽に香油など塗る気になれなかった。まるで女のようだと言われることを彼女はひどく恐れていた。
ところが、戴冠式の後から召し抱えた東国人は、こともなげに言って、自分に今流行りの店で買った品を寄越したのだ。手先に傷があれば、万一の際に武器を取り落とすやもしれませぬ。薔薇の香りなど薬と思って我慢していただきたい。もしくは薬草の軟膏の親戚だと思えば良いではありませぬか。そんな風にしてもらったこの香油がどれだけ嬉しいものだったか、きっと男は知る由もないだろう。可愛らしい小瓶を後生大事に持っているなど、口が裂けても言うつもりもないが。
今日のお茶に合わせて、勧められた甘味とて今までは執務室に上がることはなかったものだ。それを、疲れた時には糖分だと言って執拗に置くのを勧めたのはこの男である。自分はそう大して甘いものは食べないくせに、ちょいちょい珍しいものを手に入れた、流行りの品が手に入ったと言っては何かしら携えてやってくる。しかもどうやって購入しているのか、小煩い貴族たちは、国王が最近甘味を嗜んでいるなどと思いもよらぬようだ。どうやら狸親父たちの耳に入らぬように細心の注意を払っているらしい。
色街にもよく行く男だ。馴染みの女に渡すついでに、自分にも土産を買っているに過ぎないのだろう。事実彼女も、一度や二度どころではなく彼と共に色街に出かけている。城の女を部屋に呼んでは貴族の派閥に響く、未亡人に手ほどきを願うなどもってのほかだと男が主張したのだ。おかげで自分は女嫌いやら、不能とは呼ばれずに済んでいるのだが。
毎度店に着けば、男は馴染みの女たちを呼んで宴を開く。美しい色街の女たちは、身分を隠した自分のことを何くれと可愛がってくれる。確かにあの場所に行けば、自分は少しだけ自由になるのだ。例えそこが、見知らぬ男と女が仮初めの愛を囁く場所であったとしても。
男が楽器を爪弾くのを、女はその場所で初めて知った。西国の楽器とは異なる二胡。憂いを帯びた音色は、なぜか郷愁を誘うものだった。自分はこの国以外どこにも行けぬというのに、なぜか涙が止まらなかった。男のことを女はまるで何も知らない。生まれた国も、過去も、その生き方も。そして思い知るのだ、男にとって女はただ自分を取り立てた遠い国の王に過ぎないのだと。自分が失脚すればきっとこの男はこの国を捨て、どこかまた違う国に一人で旅立ってしまうのだろうと。
それでもたまに女は錯覚して眩暈を起こしそうになる。自分はもしかしたら、男にとっての特別なのではないだろうかと。秘密が露見するやもしれぬと、ただその一心で心に鎧を着て生きていた。頑なに見える部分があることも認めよう。そんな自分に、男はとても甘いのだ。なぜ自分が欲しいものを男はこうも簡単に与えてくれるのだろう。それは男が自分を特別に思ってくれているからではないかと、不意にそんな子どもじみた考えが浮かんでくるのだ。それは甘く甘く、幸せな手に入らない幻。
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そんな彼女を見て、お茶の温度が熱すぎただろうかといらぬ気をまわす男が妙に小憎たらしく思えて、女は一言、問題ないとだけ答えてそっぽを向いた。
東国では、夏から夏の終わりに茉莉花の花は咲くのだという。掌におさまった茶杯の中で、茉莉花の花がくるくると踊っていた。
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