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「マリアベル・ノア・ホワイト! 何をしているのです!」

 私の言葉に目の前の少女が、ふてくされながらも立ち上がる。ふわふわの金色の巻き毛に、お人形のように整った顔立ち。じっとしていれば、天使のように美しい女の子だ。あくまでじっとしていればの話なのだけれど。

「自分より小さな生き物には、優しくしてあげなくてはいけません」
「なによ、あなたはわたしをいじめてるじゃない!」

 水たまりの中に引きずり込まれどろどろになった犬のジョンが、なんとも言えない哀れな声をあげている。おおかた泥遊びの相手を見つけることができず、無理矢理連れてきたのだろう。

 現役の猟犬や牧羊犬ならともかく、ジョンはすっかりおじいちゃんなのだ。激しい遊びは正直難しい。それでも健気に主人に従った結果、こうなってしまったに違いない。

「マリアベル。私がやっていることはいじめではなく、しつけです」
「あら、わたしもジョンをしつけているの」
「ではこれから私も、あなたを躾ける際には水たまりに突き落とします。あなたの嫌いなニンジンスープの中でもいいかもしれませんね」
「もう、なによ! あなたなんか、だいっきらいなんだから!」
「わかっていますとも。さあ、今すぐ着替えないと。ピアノのレッスンの時間まで、あまり時間がありませんからね」
「ふん!」

 あっかんべーと思いっきり顔を歪ませ、どしんどしんと足音を立てて屋敷に向かうマリアベル。私はそのまま、周囲のメイドたちに指示を出した。

「あの状態で癇癪を起こされたら厄介です。まずは風呂に入れます。駄々をこねたら、私も手伝いますから呼ぶように。お腹が空いていらいらしているのかもしれませんね。ミルククッキーと紅茶を厨房から持ってきて。いちごジャムも忘れないでね。ああ、そこのあなたは、ジョンを庭で洗ってやってちょうだい」

 承知しましたと頭を下げて、使用人たちが散っていく。ピアノの先生がいらっしゃるまであとわずか。私もまた足早に彼らの後を追いかけた。

 部屋の花瓶を倒す。
 授業を抜け出して、木登りや泥遊びをする。
 勝手にドレスを切り刻む。
 まったく、驚くほどのいたずらの数々。静かにしていると思えば、たいていとんでもないことをしでかしている。

 とはいえ、元気のありあまった子どもというものは、おしなべてこういうものなのかもしれない。マリアベルにとって不幸だったのは、彼女が村娘などではなく、貴族の跡取り娘として生まれたことだろう。

 彼女に手を焼いているらしい使用人たちには感謝されているけれど、悪意による嫌がらせというものは、こんな生ぬるいものではない。私は実家の家族を思い出しながら、そっとかぶりを振った。

 私の母は、幼い頃に亡くなっている。そして父は、喪が明けるのもそこそこに義母と義妹を連れ帰ってきた。まったくよくある話だ。そこから先も、お決まりの流れ。散々こきつかわれたあげく、奥さまを亡くしたという方のもとに、お嫁にいくことになったのだ。義妹の別れ際の言いぐさときたら。

 ――惨めなものね。お義姉ねえさまったら。亡くなった奥さまの忘れ形見のお嬢さんがいるから、新しい子どもなんていらないそうよ。この家でも邪魔な人間。新しい家でも不要な人間なんて傑作ね。これからも惨めったらしく、嫌われ者として生きるがいいわ!――

 私とて、実家から外へ出たところで世界が劇的に変わるだなんて考えてもいなかった。所詮、政略結婚。青い鳥を探す気力など、残ってはいなかったのだ。

 ところが嫁いだ先で旦那さまに告げられたのは、義妹の話と似ているようでまったく意味の異なるものだった。

「グレース、娘にはできるだけ厳しく接するように。彼女の周りの人間は、私も含め彼女を甘やかし過ぎた。このままでは彼女のためにならない。継母として、嫌われる覚悟を決めていただきたい」
「……はあ」
「それから、申し訳ないが白い結婚になる。矛盾しているようだが、マリアベルが不安になることは避けたい。思うところはあるだろうが、娘の前では仲の良い夫婦に見えるように振舞ってもらうつもりだ」
「承知いたしました、旦那さま」

 私の返事に、旦那さまはほんのりと苦い笑みを浮かべた。都合の良いお願いをしている自覚はあるのだろう。

 悪い方ではない。娘思いの優しい父親だ。優しさの方向性を間違えていたことに気がついたなら、まだ十分に間に合うはずだ。

 それに、私はむしろほっとした。家族ごっこをする必要がないということは、とてもありがたいことだったから。

 私にとって「母」は、遠い存在だ。

 実の母は、私を見ながらいつもため息ばかりついていた。彼女にとって、自身の不幸の元凶は私だったのた。

 義理の母もまた、いわゆる「母」とは呼べない方だった。「継母」としてはお手本のような女性だったけれど。

 だから、『嫌われる覚悟を』という旦那さまの言葉は、私の心を軽くしてくれた。無理をして母親になることもない。彼女には身近な大人つまりは家庭教師のようなものとして、その都度手助けをしてあげたらよいのだ。

 そういう訳で、私は結婚以来、率先してマリアベルの世話を焼いている。マリアベルは当初から迷惑そうにしていたが、最近ではだいぶ受け入れてくれるようになった気がする。

 もしかしたらこれは自己満足の代償行為なのかもしれない。マリアベルの心に寄り添うことで、かつての自分を救いたいだけなのかもしれない。

 それでも、マリアベルが幸せになってくれるなら、私もまた幸せになれるような気がするのだ。

「あら、今日はいい日になるかしら」

 庭を我が物顔でうろつくのは、2羽のカササギ。その深い青色の羽が眩しくて、私はそっと目を閉じた。
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