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第一章
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「え……侯爵さまが……? テッド、あなた、私と一緒に過ごしているって侯爵さまにお伝えしていたの?」
「うん。アンちゃんが優しいこと、アンちゃんのお料理が美味しいこと、たくさん伝えているよ。父さまも、優しいお友だちができてよかったって」
思わずアンナとジムは顔を見合わせてしまった。初対面であれほど厳しく言い捨てられたのだ。それがいくらテッドの困りごとに気が付き、学習環境の改善に大きく貢献したとはいえ、すぐにアンナへの信頼が構築されるものだろうか。テッドの手前、侯爵の悪口になりそうな物言いは避けたいが、「はいわかりました」とは言いにくい。
「あの、ジム。視力の件や、眼鏡の件は、私の名前をふせて侯爵さまに話を通しているのよね?」
「さようでございます」
「食事を作っている件についても、あなたからの報告はしていないのでしょう?」
「通常のメニューとは異なるものをお出ししているという話だけです」
ジムは貴族に仕える者らしく、嘘ではないが完全なる真実ではないという形で侯爵に報告をしている。その報告を聞いた上で、テッドの話を鑑み、こちらへの態度を軟化させたということなのだろうか。なんとも判断に困る。
「つまり、食事会の招待の件も、あなたはご存じない?」
「お恥ずかしながら初耳でございます。大変申し訳ございません」
ジムが把握していないということであれば、侯爵が独自に発案したということなのだろう。いや、瞳をきらきらと輝かせておねだりモードに入っているテッドを見ると、侯爵が食事会に誘ったという形で、テッドが企画立案したのかもしれない。
「ねえねえ。アンちゃん、離れじゃなくってあっちのお家に来てくれる? 来てくれるよね?」
「この食事会を考えてくれたのは、テッドなの?」
「……あれ、もうバレちゃったの? うん、そうなの。僕、アンちゃんと父さま、三人でごはんを食べたいの」
「テッドは、離れのお部屋はあんまり好きじゃないのかしら」
そこでテッドがぶんぶんと首を左右に振った。
「違うよ。離れが嫌いなわけじゃないの。でも、アンちゃんがひとりぼっちでこっちに住んでいるのが嫌なの! みんなで、一緒に住んだらいいのに!」
「テッド、あのね」
「僕、知ってるもん。こっちの離れに住んでいるひとは、あっちに入っちゃいけないんだよね。ひいおばあさまもそう言っていたもの」
ここが先々代の妾の住まいとまでは知らなくても、なんとなく忌むべき場所だったことは理解していたらしい。そこはせめてもっと隠しておいてくれ。頭を抱えたくなりながら、アンナはテッドの言葉に耳を傾ける。
「でもね、僕はアンちゃんだけが離れに住むなんて嫌だ。僕は、おばあさまみたいな意地悪言わないもん。父さまだって、そんなこと絶対言わないよ」
「……テッド、私は好きで離れに住んでいるのよ。でも、心配をかけてしまっていたのね。本当にごめんなさい」
どうにも疑わしいと言わんばかりにアンナをのぞき込んでくるテッドに、アンナは困ったように肩をすくめた。侯爵と自分の関係の悪さを知らないテッドは、父親にとんでもないお願いをしてしまっていることを知らないらしい。もしや侯爵は既に怒り心頭なのではないか。想像もしたくない事実に気づかされ、背筋が凍る。
「アンちゃんはどうして隠すの?」
「え?」
「あのね、アンちゃんって僕の新しい」
「わ、わ、わ、ちょっといったん待ってね!」
大慌てで両手を振り回すアンナに、テッドが目を丸くした。ダメだ、それ以上は言ってはいけない。この世の中には、暗黙の了解というものがある。言葉にした瞬間、一巻の終わりというものもまた存在しているのだ。
「大丈夫。私がどんな立場の人間であろうとも、あなたを傷つけたりしないと約束するわ。だから、これからもお友だちとしてそばにいてもいいかしら?」
「お友だち?」
「ええ。別に無理をして呼び方を変える必要なんてないでしょう? 私は私として、あなたとこれからも仲良くしていきたいの」
アンナとて、今世の実母のことはお母さま、継母のことはお義母さまと心の中でしっかりと区別していた。大切な母親の場所を奪い取ろうだなんて、そんな畏れ多いことなどできるはずがない。
「だから、大丈夫よ。これからも『アンちゃん』って呼んでちょうだいね」
「……アンちゃんはそれでいいの?」
「ええと、何が?」
「別にアンちゃんがいいのなら、僕は文句なんてないよ。それで、アンちゃんは食事会は来てくれないの?」
別にいいよ、文句なんてないよと言いながら、テッドが不満たらたらであるのはアンナにもよく理解できた。けれどこの流れの中で、テッドが一体何に不満を抱いたのか。そこだけはどれだけ考えてもアンナにはわからなかったのである。
誰か、アンナに救いの手を差し伸べてくれるひとはいないだろうか。ぐるりと辺りを見回しても、ジムは考え込み、マシューおじさんはもっちゃもっちゃとトマトにかじりつくのみ。
「つ、謹んでお受けいたします」
そして「母」と呼ばれることを回避してしまったアンナには、これ以上自分の提案を断ったら泣き出してやるとこちらを涙目で見上げてくるテッドの誘いを断る度胸など持ち合わせてはいなかったのだった。
「うん。アンちゃんが優しいこと、アンちゃんのお料理が美味しいこと、たくさん伝えているよ。父さまも、優しいお友だちができてよかったって」
思わずアンナとジムは顔を見合わせてしまった。初対面であれほど厳しく言い捨てられたのだ。それがいくらテッドの困りごとに気が付き、学習環境の改善に大きく貢献したとはいえ、すぐにアンナへの信頼が構築されるものだろうか。テッドの手前、侯爵の悪口になりそうな物言いは避けたいが、「はいわかりました」とは言いにくい。
「あの、ジム。視力の件や、眼鏡の件は、私の名前をふせて侯爵さまに話を通しているのよね?」
「さようでございます」
「食事を作っている件についても、あなたからの報告はしていないのでしょう?」
「通常のメニューとは異なるものをお出ししているという話だけです」
ジムは貴族に仕える者らしく、嘘ではないが完全なる真実ではないという形で侯爵に報告をしている。その報告を聞いた上で、テッドの話を鑑み、こちらへの態度を軟化させたということなのだろうか。なんとも判断に困る。
「つまり、食事会の招待の件も、あなたはご存じない?」
「お恥ずかしながら初耳でございます。大変申し訳ございません」
ジムが把握していないということであれば、侯爵が独自に発案したということなのだろう。いや、瞳をきらきらと輝かせておねだりモードに入っているテッドを見ると、侯爵が食事会に誘ったという形で、テッドが企画立案したのかもしれない。
「ねえねえ。アンちゃん、離れじゃなくってあっちのお家に来てくれる? 来てくれるよね?」
「この食事会を考えてくれたのは、テッドなの?」
「……あれ、もうバレちゃったの? うん、そうなの。僕、アンちゃんと父さま、三人でごはんを食べたいの」
「テッドは、離れのお部屋はあんまり好きじゃないのかしら」
そこでテッドがぶんぶんと首を左右に振った。
「違うよ。離れが嫌いなわけじゃないの。でも、アンちゃんがひとりぼっちでこっちに住んでいるのが嫌なの! みんなで、一緒に住んだらいいのに!」
「テッド、あのね」
「僕、知ってるもん。こっちの離れに住んでいるひとは、あっちに入っちゃいけないんだよね。ひいおばあさまもそう言っていたもの」
ここが先々代の妾の住まいとまでは知らなくても、なんとなく忌むべき場所だったことは理解していたらしい。そこはせめてもっと隠しておいてくれ。頭を抱えたくなりながら、アンナはテッドの言葉に耳を傾ける。
「でもね、僕はアンちゃんだけが離れに住むなんて嫌だ。僕は、おばあさまみたいな意地悪言わないもん。父さまだって、そんなこと絶対言わないよ」
「……テッド、私は好きで離れに住んでいるのよ。でも、心配をかけてしまっていたのね。本当にごめんなさい」
どうにも疑わしいと言わんばかりにアンナをのぞき込んでくるテッドに、アンナは困ったように肩をすくめた。侯爵と自分の関係の悪さを知らないテッドは、父親にとんでもないお願いをしてしまっていることを知らないらしい。もしや侯爵は既に怒り心頭なのではないか。想像もしたくない事実に気づかされ、背筋が凍る。
「アンちゃんはどうして隠すの?」
「え?」
「あのね、アンちゃんって僕の新しい」
「わ、わ、わ、ちょっといったん待ってね!」
大慌てで両手を振り回すアンナに、テッドが目を丸くした。ダメだ、それ以上は言ってはいけない。この世の中には、暗黙の了解というものがある。言葉にした瞬間、一巻の終わりというものもまた存在しているのだ。
「大丈夫。私がどんな立場の人間であろうとも、あなたを傷つけたりしないと約束するわ。だから、これからもお友だちとしてそばにいてもいいかしら?」
「お友だち?」
「ええ。別に無理をして呼び方を変える必要なんてないでしょう? 私は私として、あなたとこれからも仲良くしていきたいの」
アンナとて、今世の実母のことはお母さま、継母のことはお義母さまと心の中でしっかりと区別していた。大切な母親の場所を奪い取ろうだなんて、そんな畏れ多いことなどできるはずがない。
「だから、大丈夫よ。これからも『アンちゃん』って呼んでちょうだいね」
「……アンちゃんはそれでいいの?」
「ええと、何が?」
「別にアンちゃんがいいのなら、僕は文句なんてないよ。それで、アンちゃんは食事会は来てくれないの?」
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誰か、アンナに救いの手を差し伸べてくれるひとはいないだろうか。ぐるりと辺りを見回しても、ジムは考え込み、マシューおじさんはもっちゃもっちゃとトマトにかじりつくのみ。
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