リポグラム短編集～『あい』を失った女～

聖パトリックに『みどり』を捧ぐ

条件：「み」「と」「り」「ど」「は」「ぱ」「ば」を使用してはならない



　一面いちめん翡翠色ひすいいろに染そまった街まちを、ただあてもなくそぞろ歩あるく。案内あんないしてくれる予定よていだった男性だんせいから何なんの連絡れんらくもなく、結局けっきょく会あえずじまいだ。これが翠玉すいぎょくの島風しまふうの歓迎かんげいなのだろうか。まったくこの国くにの名高なだかさが、余計よけいにうらめしく思おもえてしまう。

　せっかくだから、故郷こきょうに遊あそびにおいで。数年すうねんで婚家こんかを去さった「彼女かのじょ」に誘さそわれて来きたものの後悔こうかいだけがあふれてきた。街まちに出掛でかけてくる。そう告つげたわたしに「彼女かのじょ」が押おしつけてきた若草色わかくさいろのワンピース。あなたのために用意よういしておいたなんて言いわれても、センスの違ちがいが致命的ちめいてきだ。その事実じじつが余計よけいにわたしを憂鬱ゆううつにさせる。

　賑にぎやかな音色ねいろ、真夏まなつの草原そうげんを思おもい出ださせる世よにも鮮あざややかな色彩しきさい。ほらまたギネスビールを片手かたてにご機嫌きげんな集団しゅうだんが、わたしの横よこで愉たのしげに笑わらい声ごえをあげる。

　押おし寄よせる群衆ぐんしゅうにのまれ、寄よる辺べなさに足あしがふらついた。急きゅうに酸素さんそが薄うすくなったわけでもあるまいに、うまく息いきが吸すえなくなる。荒あらくなる呼吸こきゅうを、意識いしきして遅おそくした。

　すべてが恐おそろしくあやふやだ。薄うすい膜まくが、わたしからこの世界せかいを隔へだてているような。気きを紛まぎらわせるために掴つかんだ自身じしんの服ふくの裾すそ。それさえ本物ほんものか定さだかでない。迷まよいこんだ路地裏ろじうらのすえた臭においに、思おもわず小ちいさくえずく。

　美うつくしい「彼女かのじょ」。自由じゆうが良よく似合にあう「彼女かのじょ」。結婚けっこんし、やがて子こを産うんだものの、「彼女かのじょ」の気性きしょうがそうそう変かわるわけもなかった。「お母かあさん」。我わが子こにそう呼よびかけられてなお顔かおをしかめていたくらいだ。異国いこくの風習ふうしゅうに嫌気いやけがさし、娘むすめを置おいて単身たんしん帰国きこくするその苛烈かれつささえ「彼女かのじょ」らしい。

　それでも、それがわかっていても、苦くるしかった。蛇へびのように絡からんでくる苛立いらだたしさに、また唇くちびるを噛かむ。

　中肉中背ちゅうにくちゅうぜい、典型的てんけいてきな日本人にほんじんの父《ちち》の横よこにいても、わたしの外見がいけんが悪目立わるめだちする。父ちちの再婚相手さいこんあいて、そして生うまれた弟妹ていまいたち。新あたらしい家庭かていの中なかにいつまでたっても馴染なじまない。馴染なじめない。

　預あずかってほしいって言いわれても、ガイジンじゃあねえ。困惑こんわくしつつ難色なんしょくを示しめした父方ちちかたの祖父母そふぼが悪わるいわけでもないのだ。狭せまい田舎いなかに厄介やっかいな火種ひだねなんて持もち込こまれたくないに違ちがいない。

　「彼女かのじょ」の家いえに行いっても、結局けっきょく同おなじ。日本にほんで生うまれ育そだったわたしに、「彼女かのじょ」のような英語えいごが扱あつかええるわけもない。学校がっこうの英語えいごですら落おちこぼれているのに、ネイティブ、それもこんなに訛なまっているだなんて。

　あなたって本当マジでサムライなのね！　「彼女かのじょ」の姉妹しまいの物言ものいいが胸むねに刺ささる。要約ようやくするなら古ふるくさい、そう笑わらわれた日本ニッポンの学校英語がっこうえいご。宙ちゅうに浮うかんだあの気持きもち。あぶれ者ものの異邦人いほうじん。誰だれの横よこにいても、息苦いきぐるしい。

　行ゆき交かう老若男女ろうにゃくなんにょの手てにした三色旗さんしょくきが、風かぜに翻ひるがえっている。シロツメクサなんて大嫌だいきらい。何なにが幸運こううんの象徴しょうちょうだ。わたしの想おもいに関係かんけいなく、行進こうしんが進すすんでゆく。

　彼かれらの目的地もくてきちを思おもい、ため息いきをつく。そこに佇たたずむ美うつくしい教会きょうかいに心惹こころひかれるものの、列れつに加くわわるなんておそれ多おおかった。「彼女かのじょ」ならいざ知らず、かの方かたの奇跡きせきを信しんじているわけでもないわたしにその資格しかくなぞない。一体いったい誰だれに祈いのるのが正ただしいのか。それさえわからないのに。

　気きのせいだろうか、風かぜにあおられたワンピースが、シロツメクサの一片いっぺんにも似にているよう。祈いのるくらいならいっそ、わたしそのものを貴方あなたに捧ささげてしまえたなら。

　それでも誰だれかの優やさしい手てが欲ほしくて、ここにいても良よいのだ、そう言いってもらいたくて、空そらを仰あおぐ。いずこかに虹にじが出でていやしないか。空そらの向むこうまでなんて言いわない。虹にじの根ねっこに宝物たからものを隠かくしている靴職人くつしょくにんの妖精ようせいになら、わたしの声こえが聞きこえるかもしれない。

　異国いこくにて陋巷ろうこうにさまよう。シャムロック柄がらの大おおきな帽子ぼうしを抜ぬぎ、金貨きんかチョコを投なげ込こんで、密ひそやかに願ねがいを囁ささやいた。



・エメラルドの島(Emerald Isle)はアイルランドの別名。



・聖パトリックデーとは、アイルランドの祝日。（アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日）。ダブリンを始め、各地でパレードやミサ、イベントが行われる。



・聖パトリックデーでは、緑色が主役。ギネスビールでさえもこの日は緑色。三つ葉のクローバー（shamrock）を身につけたり、靴職人の妖精（おじさんの妖精とも）と親しまれるレプリカン（Leprechaun）の格好をしたりする。



・アイルランドに蛇はいないが、これも聖パトリックによるものと言われている。



・地域によっては、レプリカン トラップ（LeprechaunTrap）と呼ばれるものを前日に作る。レプリカン（Leprechaun）は、緑色、クローバー、金貨、虹が好き（虹の下に金貨をポットに入れて隠している）と言われているため、それを踏まえたトラップになる。