リポグラム短編集～『あい』を失った女～

『あなた』のいない世界、『うそ』のない世界

条件：「あ」「な」「た」「だ」「う」「そ」「ぞ」を使用してはならない



　妻つまと夫おっとと言いえど、信しんじ続つづけることは難むずかしい。サインひとつで、道みちは別わかれてしまう。過すぎさりし日々ひびがいかに光輝ひかりかがやくものでも、終おわりは一瞬いっしゅん。実じつにつまらぬもの。

　家いえの鍵かぎを見みつめていれば、不意ふいに昨夜さくやの熱ねつが蘇よみがえる。力強ちからづよいてのひら。柔やわらかい髪かみ。吸すいこまれる緑みどりの瞳ひとみ。広ひろい背せに残のこる引ひっかき傷きず。どこか三日月みかづきにも似にている心変こころがわりの印しるし。見知みしらぬ夫おっとの笑顔えがおがひどく遠とおい。唇くちびるを噛かみしめ、地面じめんに視線しせんを落おとす。嫉妬しっとに苦くるしみ言いい募つのる自分じぶんと、困こまりきって微笑ほほえむ夫おっと。絵面えづらはわかりきっているから、このまま勝手かってに出でて行いくことにする。ずるくて、弱よわい自分じぶんが恥はずかしい。

　空からっぽの部屋へやに残のこる夫おっとの気持きもちを考かんがえてみる。まさかと疑問ぎもんを持もつのか。やはりと合点がてんがいくのか。ふっと、小ちいさく息いきがもれる。馬鹿馬鹿ばかばかしい。代かわりの女性じょせいくらい、夫おっとにはいくらでもいる。妻つまの家出いえでをこれ幸さいわいとばかりに、気きままに過すごすはず。もとより、夫おっとが家いえに戻もどってくるのかさえもわからぬ無様ぶざまさ。夫おっとの手てで捨すてられるよりも先さきにこの身みを廃はいするべきか。

　夫おっとを寝取ねとられて出でて行いくみすぼらしい年増としま。街まちの人ひとに揶揄やゆされても別べつに良よい。真実しんじつは自身じしんの胸むねの奥おくに。海底かいていで眠ねむる真珠しんじゅのごとく。山羊やぎの群むれが食はむ草くさに紛まぎれ込こむ四よつ葉ばのごとく。偽いつわりにまみれて暮くらすよりも、きっと幸さいわいのはず。

　一日いちにちの始はじまりを告つげる天てんをひとり見みつめる。憎にくむ前まえに。忌いむ前まえに。これが、己おのれにできる唯一ゆいいつの誠実せいじつさ。罪深つみぶかい夫おっとに向むかって誇ほこれる自分じぶんの心こころ。囁ささやきは地面じめんに落おち、小ちいさく跳はねてどこかへ消きえる。