リポグラム短編集～『あい』を失った女～

『さくら』散る春の夜に、『あわき』想いを君に

なまこさんこと、Gyo￥0-様に捧ぐ

条件:「さ」「ざ」「く」「ぐ」「ら」「あ」「わ」「き」「ぎ」を使用してはならない




　緩ゆるやかに舞まい落おちる薄桃色うすももいろの花弁かべん。その花はなの名なを俺おれは知しるよしもない。密ひそやかに春はるを告つげ、たちどころに命いのちを失うしなう花はな。届とどかないと知しりつつも、俺おれはそっと手てを伸のばしてみる。

　夢幻ゆめまぼろしにも似にた儚はかない光景こうけい。それを日ひがな一日いちにち眺ながめ続つづけてしまうのは、俺おれを構成こうせいする遺伝子いでんしが、昔懐むかしなつかしいようなむず痒がゆい何なにかを感かんじているせいだろうか。

「一体いったいどうなっているの。飼かい主ぬしが名前なまえを呼よんだのに返事へんじもないなんて。本当ほんとうにいいご身分みぶんね」

　ぼんやりとしていた俺おれを、ご主人しゅじんが蹴けり飛とばした。地じべたに倒たおれこんだ俺おれの鼻はなをかすめるのは、乾燥かんそうした土埃つちぼこりに混まじる海風うみかぜの匂におい。実じつのところ俺おれは知しっている。ご主人しゅじんが蹴けるのは絶対ぜったいに俺おれのおしり。派手はでな音おとはするけれど、それほど痛いたみはない。つまり、俺おれのご主人しゅじんはそういう思おもいやりを持もったおかたなのだ。

　ご主人しゅじんの護衛ごえいが、俺おれのことを不愉快ふゆかいそうに見みつめている。そりゃそうだろう、この世界せかいでは俺おれたちより下等かとうな生物せいぶつはいない。ご主人しゅじんたち上位種じょういしゅの慈悲じひがなければ、文字通もじどおり死しんでしまうのだ。

　それなのにご主人しゅじんは、俺おれを裸はだかのまま放置ほうちせずにちゃんとした衣装いしょうを準備じゅんびする。飼料しりょうではない美味おいしいごはんまで用意よういする。下したにも置おかぬ生活せいかつだ。そのために余計よけいに反感はんかんを買かっているのだと知しりつつ、俺おれは平然へいぜんと過すごしている。何なんと言いっても躾しつけがなっていないと評判ひょうばんの俺おれなのだ。ついでに寝転ねころがったまま天てんを見みた。

　ここを囲かこうのは、緩ゆるやかに弧こを描えがいた透明とうめいなドーム。このドームがなければ俺おれたちヒトは容易よういに溺おぼれ死しぬ。姿すがたを変かえるすべを持もち、水みずの中なかも、外そとも自由じゆうなご主人しゅじんたちは、神かみの愛いとし子ごに違ちがいない。

　ドームのずっと向むこうでは、太陽たいようという眩まぶしい天体てんたいが宙ちゅうに浮うかび周囲しゅういを輝かがやかせているのだという。けれどここは一日中いちにちじゅう穏おだやかな夜よるの世界せかい。海うみの上うえの様子ようすなど、想像そうぞうもつかない。

　かつて、ヒトはその太陽たいようの下したで、地上ちじょうの覇者はしゃとして振舞ふるまっていたそうだ。その粗暴そぼうな行おこないゆえに神かみの怒いかりを買かい、すべての大地だいちは水みずの底そこに沈しずんだのだという。そして、海うみの生物せいぶつたちが今いまの世よを統すべる支配者しはいしゃになったのだとか。

　ゆえにこの世界せかいにヒトの権利けんりなどない。ヒトは金持かねもちが見栄みえのために飼かう動物どうぶつだ。近頃ちかごろは奉仕活動ほうしかつどうの一環いっかんとして、学校がっこうで飼かうことも増ふえたのだとか。とはいえ番つがいで飼かうのは好このまれない。ぽろぽろと子こを産うみ、たちまち群むれをなすためだ。

　不必要ふひつようになれば政府管轄せいふかんかつの農場のうじょうに譲渡じょうとし、種付たねつけが無理むりになれば骨ほねの髄ずいまでヒト用ようの飼料しりょうに加工かこうする。それが法律上ほうりつじょうでも正ただしい全まっとうなヒトの飼かい方かただ。深ふかい海うみの底そこには、太陽たいようの光ひかりは届とどかない。直じかに眺ながめることが叶かなう日ひなど、永遠えいえんに訪おとずれることはないだろう。

　それでも、俺は幸運こううんなのだ。微笑ほほえみかける俺おれとは異ことなり、ご主人しゅじんはどこか哀かなしげにも見みえる。少すこしばかり憂うれいを帯おびたそれは、唯一ゆいいつ俺おれのためだけの表情ひょうじょう。垣間見かいまみる悦よろこびに、俺おれは快感かいかんまで覚おぼえてしまう。傲慢ごうまんで、愚おろかで、それでいてヒトと言いえども見捨みすてることをしない気高けだかい女神めがみ。

「逃にがそうと思おもっただけなの。ずっとこんな場所ばしょに閉とじこめているなんて。世界せかいはこんなに広ひろいのに」

　うんと昔むかし、まだ稚いとけない主人しゅじんが俺おれをドームの外そとに出だし、ともに闇夜やみよをたゆたった日ひのことを覚おぼえている。そのまま死しにかけた俺おれを抱かかえて震ふるえていたご主人しゅじんの涙なみだは、確たしかに海うみと同おなじ香かおりがした。ショックを受うけた愛娘まなむすめを見て、ご主人しゅじんの両親りょうしんはゴ・ミ・を捨すてようとしたのだったか。そんなふたりを必死ひっしでなだめ、俺おれを助たすけたご主人しゅじんは、やっぱり親切しんせつなかただ。たとえそれが飼かい主ぬしが下等かとうな生物せいぶつに向ける歪いびつな情じょうでしかなかったとしても、別べつにかまいやしない。

　俺おれはご主人しゅじんを残のこし、早々そうそうに死しぬだろう。俺おれたちヒトの寿命じゅみょうは、どれだけ頑張がんばってもご主人しゅじんの半分はんぶんにも満みたない。老おいて容姿ようしが衰おとろえれば、それだけで処分しょぶんの理由りゆうになる。それでもご主人しゅじんが飼かい主ぬしで良よかった。俺おれは、そう信しんじている。終焉しゅうえんが訪おとずれるその日ひまで、俺おれはご主人しゅじんのそばにいよう。この感情かんじょうに名前なまえなど必要ひつようない。名なを告つげずとも春はるになれば花はなが自おのずと綻ほころぶように、この感情かんじょうの意味いみは俺おれだけが理解りかいしていればそれで良よいのだ。