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『ぎょくよう』のおもひで
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条件:「き」「ぎ」「ょ」「よ」「く」「ぐ」「う」「ヴ」を使用してはならない
「え、だから夏は来ないんだろ?」
背負ったランドセルをかたかた鳴らしながらの帰り道。心から驚いたとでも言いたげな顔で、幼馴染みが返事をしました。一体何を考えているのやら。担任の先生も頭を抱えて嘆いておられることだと思います。これでは、一番の歌詞の花の名前だって、食べ物と勘違いしているやもしれません。
「あなたの考え通りなら、そもそも題名は『夏は来ぬ』になりますね。今回の場合は、既にあった過去であり、つまりすっかり夏は……」
わたしの説明が始まるなり、彼は慌てて駆け出しました。察するに、煩雑で長いわたしの話が嫌になったこと、そして習い事の準備をやっていないのではないかと思われます。明日は明日の風が……なんて言ってはばからない彼のことですから、本日提出の課題そっちのけで、趣味のサッカーにのめり込んでいたはずです。
幼馴染みの背中を見ながら、わたしはこっそり笑い出しました。やはり今の彼に古語について説明したところで、何のことだかさっぱりわからないし、そもそも関心だってないに違いありません。
「もののあはれ」に、「侘び」「寂び」。雅なんて言葉からはほど遠い幼馴染みの姿。夏の欠片そのものの溌剌としたあなたが、今のわたしにはとても好ましいものに見えます。
あの日出会ったわたしは、夏を告げるだけのしがない渡り鳥。あなたが持てあましたお暇をつぶすことさえ難しい有り様でした。まずあなたに忍音を。その一心で渡りを終わらせたのだと告げたなら、笑われたかもしれませんね。外をしみじみ眺めながら、切なげに声を漏らすその姿を、わたしは恋慕ったのです。せめてわたしに狐狸と同じ力がありましたら。高望みなどせずに、おなごの姿で無心にお仕えしましたものを。
どんな時代のあなたも、とても繊細な方でした。名もない野の花さえも目をかけ、にも関わらずその柔らかな心を大切なひとにこそ踏みにじられた、哀れな方でした。
子を成す力がありながら、卵を他人に押しつける因果な鳥。そんなわたしたちを、あなたはどんな思いで見つめていたのか。母として立派に前を向かれていたあなたの御心を慮ることの難しさ。
短い命。輪廻転生の中で、わたしは毎度必死にあなたを探しました。喉を潰し、血反吐を吐いてまで。それを憐れに思し召したのか。ある日突然、わたしはあなたと同じ言葉を交わす人にかわっていたのです。
喀血などに悩まされることもない、戦地で命を落とすこともない。まさに平なるこの時代に命を得たあなたは、さらに素晴らしい時代をただひたすらに進むことと思われます。
流した汗を風で乾かしながら、走り抜けるあなた。そんなあなたは、今度は誰に恋をするのか。その相手はたぶんわたしではないと考えると、少しだけ切ない心持ちになります。それでも今のあなたなら、安心です。今度こそ、優しいあなたが踏み潰されることのない、平凡で健やかな生を過ごせることを祈って。わたしは愛おしいメロディを、空に向かって高らかに放つのです。
注釈
・『夏は来ぬ』(なつはきぬ)
佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲の日本の唱歌
(2013年まで著作権があった。現在は著作権切れ)
・一番の歌詞は以下の通り。
卯の花の 匂う垣根に
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ
卯の花は、ウツギの花の別称。白く可憐な花を咲かせ、初夏の風物詩とされる。おからの別称は、この花からきている。
忍音とは、その年のホトトギスの初鳴きのこと。(諸説あり)『枕草子』第41段でも、夜中に目が覚めてしまい忍音を聞きたくていてもたってもいられず、寝ずにこれを待つ様が描かれている。
ホトトギスは、カッコウの仲間。託卵の習性により、ウグイスの天敵とされる。「鳴いて血を吐く」と言われることから、喀血した正岡子規はホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号とした。
・永福門院の和歌は、この歌詞に影響を与えたという説がある(別の人物を推すなど、こちらも諸説ある)
ほとゝぎす空に声して卯の花の垣根も白く月ぞ出でぬる(玉葉和歌集夏319)
【口語訳】
ほととぎすよ。
お前が空にひと声鋭く啼き
静かに去って行ったころ、
白い卯の花の咲く垣根をいっそう白々と染めて
月が姿を見せたことだよ。
この和歌は『玉葉和歌集』におさめられており、永福門院の和歌はこれを含めて49首おさめられている。なお永福門院の和歌には、「憂し恋」というキーワードがたびたび見られる。玉葉とは、美しい言葉を意味する。
・永福門院
西園寺さいおんじ 鏱子しょうしのこと。鎌倉時代の歌人。伏見天皇のもとに女御として入内、さらに中宮となる。当時10名いた后妃のトップだが、唯一実子に恵まれず、典侍五辻経子が生んだ東宮胤仁(のちの後伏見天皇)を猶子とし、手許で育てた。
「え、だから夏は来ないんだろ?」
背負ったランドセルをかたかた鳴らしながらの帰り道。心から驚いたとでも言いたげな顔で、幼馴染みが返事をしました。一体何を考えているのやら。担任の先生も頭を抱えて嘆いておられることだと思います。これでは、一番の歌詞の花の名前だって、食べ物と勘違いしているやもしれません。
「あなたの考え通りなら、そもそも題名は『夏は来ぬ』になりますね。今回の場合は、既にあった過去であり、つまりすっかり夏は……」
わたしの説明が始まるなり、彼は慌てて駆け出しました。察するに、煩雑で長いわたしの話が嫌になったこと、そして習い事の準備をやっていないのではないかと思われます。明日は明日の風が……なんて言ってはばからない彼のことですから、本日提出の課題そっちのけで、趣味のサッカーにのめり込んでいたはずです。
幼馴染みの背中を見ながら、わたしはこっそり笑い出しました。やはり今の彼に古語について説明したところで、何のことだかさっぱりわからないし、そもそも関心だってないに違いありません。
「もののあはれ」に、「侘び」「寂び」。雅なんて言葉からはほど遠い幼馴染みの姿。夏の欠片そのものの溌剌としたあなたが、今のわたしにはとても好ましいものに見えます。
あの日出会ったわたしは、夏を告げるだけのしがない渡り鳥。あなたが持てあましたお暇をつぶすことさえ難しい有り様でした。まずあなたに忍音を。その一心で渡りを終わらせたのだと告げたなら、笑われたかもしれませんね。外をしみじみ眺めながら、切なげに声を漏らすその姿を、わたしは恋慕ったのです。せめてわたしに狐狸と同じ力がありましたら。高望みなどせずに、おなごの姿で無心にお仕えしましたものを。
どんな時代のあなたも、とても繊細な方でした。名もない野の花さえも目をかけ、にも関わらずその柔らかな心を大切なひとにこそ踏みにじられた、哀れな方でした。
子を成す力がありながら、卵を他人に押しつける因果な鳥。そんなわたしたちを、あなたはどんな思いで見つめていたのか。母として立派に前を向かれていたあなたの御心を慮ることの難しさ。
短い命。輪廻転生の中で、わたしは毎度必死にあなたを探しました。喉を潰し、血反吐を吐いてまで。それを憐れに思し召したのか。ある日突然、わたしはあなたと同じ言葉を交わす人にかわっていたのです。
喀血などに悩まされることもない、戦地で命を落とすこともない。まさに平なるこの時代に命を得たあなたは、さらに素晴らしい時代をただひたすらに進むことと思われます。
流した汗を風で乾かしながら、走り抜けるあなた。そんなあなたは、今度は誰に恋をするのか。その相手はたぶんわたしではないと考えると、少しだけ切ない心持ちになります。それでも今のあなたなら、安心です。今度こそ、優しいあなたが踏み潰されることのない、平凡で健やかな生を過ごせることを祈って。わたしは愛おしいメロディを、空に向かって高らかに放つのです。
注釈
・『夏は来ぬ』(なつはきぬ)
佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲の日本の唱歌
(2013年まで著作権があった。現在は著作権切れ)
・一番の歌詞は以下の通り。
卯の花の 匂う垣根に
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ
卯の花は、ウツギの花の別称。白く可憐な花を咲かせ、初夏の風物詩とされる。おからの別称は、この花からきている。
忍音とは、その年のホトトギスの初鳴きのこと。(諸説あり)『枕草子』第41段でも、夜中に目が覚めてしまい忍音を聞きたくていてもたってもいられず、寝ずにこれを待つ様が描かれている。
ホトトギスは、カッコウの仲間。託卵の習性により、ウグイスの天敵とされる。「鳴いて血を吐く」と言われることから、喀血した正岡子規はホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号とした。
・永福門院の和歌は、この歌詞に影響を与えたという説がある(別の人物を推すなど、こちらも諸説ある)
ほとゝぎす空に声して卯の花の垣根も白く月ぞ出でぬる(玉葉和歌集夏319)
【口語訳】
ほととぎすよ。
お前が空にひと声鋭く啼き
静かに去って行ったころ、
白い卯の花の咲く垣根をいっそう白々と染めて
月が姿を見せたことだよ。
この和歌は『玉葉和歌集』におさめられており、永福門院の和歌はこれを含めて49首おさめられている。なお永福門院の和歌には、「憂し恋」というキーワードがたびたび見られる。玉葉とは、美しい言葉を意味する。
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