リポグラム短編集～『あい』を失った女～

『にぬ』りは剥げて

　老人ろうじんホームの片隅かたすみ。簡素かんそなベッドの上うえで、祖母そぼはいつも古ふるびた櫛くしを撫なでていた。
　祖母そぼ曰いわく、この鉛丹色えんたんいろをした櫛くしは生うまれつき持もっていたのだとか。

　欧米おうべいでは「銀ぎんの匙さじをくわえて生うまれてくる」というが、それは「裕福ゆうふくな家いえの子どもとして生うまれる」という意味いみの慣用句かんようくである。赤子あかごが銀ぎんの匙さじを持もって、母親ははおやの胎内たいないより出でてくるわけではない。

　母ははは祖母そぼの話はなしを、痴呆老人ちほうろうじんの戯ざれ言ごとだと嘲あざけり罵ののしった。あるいはやるせなかったのかもしれない。かいがいしく世話せわを焼やく母ははとは挨拶あいさつさえ成なり立たたない。そのくせ物言ものいうこともない櫛くしを相手あいてとして、祖母そぼは絶たえ間まなくおしゃべりを続つづけていたのだから。

　幾度いくどとなく、祖母そぼは櫛くしを失うしないかけた。ある時ときはうっかり落おとして。ある時ときは他ほかの人ひとの物ものと勘違かんちがいされて。またある時ときは母ははが窓まどの外そとへ投なげ捨すてた。けれどどう転ころんでも、櫛くしは祖母そぼのもとへ帰かえってくる。まるで祖母そぼの身体からだの一部いちぶのようでもあった。

　そうして数年すうねんが経たった。櫛くしの赤あかみの強つよい橙色だいだいいろが色褪いろあせせるのと同おなじく、祖母そぼの記憶きおくも剥はがれ落おちていった。その代かわりというべきか、近頃ちかごろはどうも幻覚げんかくを見みているらしい。
　今日きょうは祖父そふが、祖母そぼを埋うめるための穴あなを掘ほっているところだと微笑ほほえんでいた。南方なんぽうの海うみで死しんだ祖父そふは、骨ほねのかけらさえ帰かえってこなかったことも忘わすれたのか。
　とうとう昼夜ちゅうやの感覚かんかくさえあいまいとなり、娘むすめが誰だれかもわからなくなった。そのくせ、あの櫛くしだけはしっかりと抱かかえ込こんでいるから、母はははたびたび泣なきながら怒おこっていた。

　ある日ひの夕方ゆうがた。そっと部屋へやを訪たずねてみれば、祖母そぼは口くちを開あけたままこんこんと眠ねむっていた。いつか祖母そぼはすべて忘わすれるだろう。どこか冷さめた気持きもちでそれを受うけ入いれながら、それでも生いきる意味いみを考かんがえてみる。
　窓まどからは沈しずみかけの夕日ゆうひ。白しろで統一とういつされた味気あじけない部屋へやは、まるで燃もえているようだった。ただ祖母そぼの枕元まくらもとの櫛くしだけが、ひっそりと在ありし日ひの美うつくしさで輝かがやいている。