「僕」と「彼女」の、夏休み~おんぼろアパートの隣人妖怪たちによるよくある日常~

石河 翠

文字の大きさ
14 / 30

14.熱帯夜と「僕」のおはなし

しおりを挟む
 仕事先からのとんぼ返り。疲れ果てた体を引きずるようにしてようやく戻ってきたのは、午前0時をとっくに回った時間帯のこと。自宅に入ろうとしていたわたしは、隣室である「彼」の部屋の前で足を止めた。いるのだ、この中に。「彼」以外の「誰」か、いや「何か」が。

 ずる、ずる、ずるり。

 濡れた重いものを引きずるようなべっとりとした水音。ドアの向こう側にいるはずなのに、その音がいやに生々しく耳についた。わたしはインターホンなんて鳴らす必要はない。さっさとドアを開けよう。「彼」から合鍵をもらっておいて正解だった。それなのに手が震えて、うまく鍵がささらない。その間も、水音は動き続けている。

 ずる、ずる、ずりゅり。

 ようやっと開いた扉の向こう。ぴたりと音が止まった。電気なんてつけなくても、雪女は夜目よめがきく。走り込んだ部屋の中には、眠りこける「彼」以外の姿はない。けれどベッドの周りに立ち込めていた臭気に、思わず顔をしかめた。この時間にわざわざやってくるなんて、嫌がらせにもほどがある。夜の吐息にかすかに混じるのは、ぞわりと背中が震えるような「死」の気配。

「利子はちゃんと払っているはずよ」

 わたしがため息をつけば、かたかたと窓が鳴った。そこにいるのか。はっと体を硬くした私を嘲笑うかのように、カーテンがふわりとたなびく。どうやら、「彼」がベランダの窓を開けっ放しにしていたらしい。まったく、不用心過ぎるのよ。何も盗まれるものなんてないよと「彼」は言うけれど、本当に大切なものがなんなのか、「彼」はちっともわかってないのだ。

 さっさと窓を閉めたいところだけれど、部屋の中の臭いが消えるまではこのままでいようか。いっそ塩でもまくべきかもしれない。都心とは違って風が通るとはいえ、しょせん真夏の風は生ぬるい。ひんやりとした心地よい風が吹くようになるには、まだふた月ばかりかかるはず。わたしは周囲を確認してからベランダに出ると、手すりにもたれたまま下を覗いた。

 月のない夜、庭のひまわりはうなだれているようにも見える。ひまわりは、向日葵と書く花。太陽が出ていない時には下を向いて当たり前のはずだけれど、何だか不甲斐ない警備を反省しているようにも見える。ねえ、気にしないで。相手が悪かったのよ。いくらあなたでも歯向かえる相手じゃあないわ。

 視線を感じて隣を見れば、お隣の川辺さんが黙ってこちらを見ていた。日本酒に、きゅうりで晩酌かあ。そのきゅうり、「彼」のお家から採ったものじゃないでしょうね。そう笑いかけようと思ったけれど、彼女の表情がいつになく真剣なものだったからわたしも話しかけるのはやめる。そんな苦い、暗い顔をしないでほしい。この感じだと、このアパートの住人たちはみな今夜の出来事を知っているに違いない。

 彼らがわたしに何を言うか想像してみて、わたしはくすりと笑った。管理人さんはいつものようににこにこと笑うだけだろう。猫又のタマ姐は、まんまるの瞳でわたしを見つめるかしら。ざしきわらしたちは、わたしのことをよしよししてくれるかも。結局のところ、きっと誰もわたしを止めはしないのだ。だからこそいつもへらへらと笑っている河童に心配されたことがとても堪えた。それだけ危ない橋を渡っているのだということを思い知らされる。でも仕方がないのよね、他に方法などありはしないのだから。

 わたしは会釈した後部屋に戻り、窓の鍵をかける。急に息切れがして、その場にへたり込んだ。足元から溶けてしまいそうな不安にかられて、わたしはクーラーを慌ててつける。いっそ夏なんてなくなってしまえばいいのに。

 本当はずっとそばにいたいのに、仕事が山積みでそれもできない。昨夜は北の海へ、今夜は南の谷へ。空を駆け巡り、稼いでもまだ足りない。利息を払いながら、必死に必要な分を貯めているけれど、そろそろ時間切れかしらね。

 わたしの気持ちなんてこれっぽっちも知らずに、すやすやと眠る「彼」。その頬を撫でながら、わたしは唇を重ねる。「彼」がいきなり消えてしまわないように、わたしは足を絡めて隣に横たわった。

 それでも、あなたはわたしが守る。あなたを守るためなら、どうなってもかまわない。ぎゅっと唇を噛みしめる。わたしの言葉はきっと「彼」には届かない。いずれ儚く消える夢。それを選んだのはわたしなのだけれど、今だけはどうしても「彼」の温もりを感じていたくて、そのまま隣に横になった。ああ、いっそ溶け合ってひとつになれたなら。わたしはきっと幸せになれるのに。

 静かに降り積もる粉雪を思い描きながら、わたしはまぶたを閉じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―

ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」 前世、15歳で人生を終えたぼく。 目が覚めたら異世界の、5歳の王子様! けど、人質として大国に送られた危ない身分。 そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。 「ぼく、このお話知ってる!!」 生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!? このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!! 「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」 生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。 とにかく周りに気を使いまくって! 王子様たちは全力尊重! 侍女さんたちには迷惑かけない! ひたすら頑張れ、ぼく! ――猶予は後10年。 原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない! お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。 それでも、ぼくは諦めない。 だって、絶対の絶対に死にたくないからっ! 原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。 健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。 どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。 (全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

婚約破棄された悪役令嬢の心の声が面白かったので求婚してみた

夕景あき
恋愛
人の心の声が聞こえるカイルは、孤独の闇に閉じこもっていた。唯一の救いは、心の声まで真摯で温かい異母兄、第一王子の存在だけだった。 そんなカイルが、外交(婚約者探し)という名目で三国交流会へ向かうと、目の前で隣国の第二王子による公開婚約破棄が発生する。 婚約破棄された令嬢グレースは、表情一つ変えない高潔な令嬢。しかし、カイルがその心の声を聞き取ると、思いも寄らない内容が聞こえてきたのだった。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜

のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、 偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。 水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは―― 古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。 村を立て直し、仲間と絆を築きながら、 やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。 辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、 静かに進む策略と復讐の物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...