「僕」と「彼女」の、夏休み~おんぼろアパートの隣人妖怪たちによるよくある日常~

石河 翠

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14.熱帯夜と「僕」のおはなし

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 仕事先からのとんぼ返り。疲れ果てた体を引きずるようにしてようやく戻ってきたのは、午前0時をとっくに回った時間帯のこと。自宅に入ろうとしていたわたしは、隣室である「彼」の部屋の前で足を止めた。いるのだ、この中に。「彼」以外の「誰」か、いや「何か」が。

 ずる、ずる、ずるり。

 濡れた重いものを引きずるようなべっとりとした水音。ドアの向こう側にいるはずなのに、その音がいやに生々しく耳についた。わたしはインターホンなんて鳴らす必要はない。さっさとドアを開けよう。「彼」から合鍵をもらっておいて正解だった。それなのに手が震えて、うまく鍵がささらない。その間も、水音は動き続けている。

 ずる、ずる、ずりゅり。

 ようやっと開いた扉の向こう。ぴたりと音が止まった。電気なんてつけなくても、雪女は夜目よめがきく。走り込んだ部屋の中には、眠りこける「彼」以外の姿はない。けれどベッドの周りに立ち込めていた臭気に、思わず顔をしかめた。この時間にわざわざやってくるなんて、嫌がらせにもほどがある。夜の吐息にかすかに混じるのは、ぞわりと背中が震えるような「死」の気配。

「利子はちゃんと払っているはずよ」

 わたしがため息をつけば、かたかたと窓が鳴った。そこにいるのか。はっと体を硬くした私を嘲笑うかのように、カーテンがふわりとたなびく。どうやら、「彼」がベランダの窓を開けっ放しにしていたらしい。まったく、不用心過ぎるのよ。何も盗まれるものなんてないよと「彼」は言うけれど、本当に大切なものがなんなのか、「彼」はちっともわかってないのだ。

 さっさと窓を閉めたいところだけれど、部屋の中の臭いが消えるまではこのままでいようか。いっそ塩でもまくべきかもしれない。都心とは違って風が通るとはいえ、しょせん真夏の風は生ぬるい。ひんやりとした心地よい風が吹くようになるには、まだふた月ばかりかかるはず。わたしは周囲を確認してからベランダに出ると、手すりにもたれたまま下を覗いた。

 月のない夜、庭のひまわりはうなだれているようにも見える。ひまわりは、向日葵と書く花。太陽が出ていない時には下を向いて当たり前のはずだけれど、何だか不甲斐ない警備を反省しているようにも見える。ねえ、気にしないで。相手が悪かったのよ。いくらあなたでも歯向かえる相手じゃあないわ。

 視線を感じて隣を見れば、お隣の川辺さんが黙ってこちらを見ていた。日本酒に、きゅうりで晩酌かあ。そのきゅうり、「彼」のお家から採ったものじゃないでしょうね。そう笑いかけようと思ったけれど、彼女の表情がいつになく真剣なものだったからわたしも話しかけるのはやめる。そんな苦い、暗い顔をしないでほしい。この感じだと、このアパートの住人たちはみな今夜の出来事を知っているに違いない。

 彼らがわたしに何を言うか想像してみて、わたしはくすりと笑った。管理人さんはいつものようににこにこと笑うだけだろう。猫又のタマ姐は、まんまるの瞳でわたしを見つめるかしら。ざしきわらしたちは、わたしのことをよしよししてくれるかも。結局のところ、きっと誰もわたしを止めはしないのだ。だからこそいつもへらへらと笑っている河童に心配されたことがとても堪えた。それだけ危ない橋を渡っているのだということを思い知らされる。でも仕方がないのよね、他に方法などありはしないのだから。

 わたしは会釈した後部屋に戻り、窓の鍵をかける。急に息切れがして、その場にへたり込んだ。足元から溶けてしまいそうな不安にかられて、わたしはクーラーを慌ててつける。いっそ夏なんてなくなってしまえばいいのに。

 本当はずっとそばにいたいのに、仕事が山積みでそれもできない。昨夜は北の海へ、今夜は南の谷へ。空を駆け巡り、稼いでもまだ足りない。利息を払いながら、必死に必要な分を貯めているけれど、そろそろ時間切れかしらね。

 わたしの気持ちなんてこれっぽっちも知らずに、すやすやと眠る「彼」。その頬を撫でながら、わたしは唇を重ねる。「彼」がいきなり消えてしまわないように、わたしは足を絡めて隣に横たわった。

 それでも、あなたはわたしが守る。あなたを守るためなら、どうなってもかまわない。ぎゅっと唇を噛みしめる。わたしの言葉はきっと「彼」には届かない。いずれ儚く消える夢。それを選んだのはわたしなのだけれど、今だけはどうしても「彼」の温もりを感じていたくて、そのまま隣に横になった。ああ、いっそ溶け合ってひとつになれたなら。わたしはきっと幸せになれるのに。

 静かに降り積もる粉雪を思い描きながら、わたしはまぶたを閉じた。
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