転滅アイドル【1部 完結しています】

富士なごや

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1部 1章

鶏と卵は商売の基礎 1

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 目を開けてすぐ感じたのは、身体中が濡れていることだった。
 汗だ。肌着が肌に張り付いていて気持ち悪い。
 最近、冬季が明確に終わり始めたなと実感することが増えてきたとはいえ、まだまだ明け方は冷える。このままでいれば体温を奪われ風邪を引いてしまうため、オレは上体を起こしながら肌着を脱いだ。上半身裸になっても、体感の寒さは変わらない。いや、むしろ暖かくなった。身体を壊したくなければ濡れた衣類を着たままでいるな、というのは正しい。

「――ゔっ」
 急な、猛烈な吐き気に襲われた。
 濡れた肌着を適当に左手で握ったまま、布団を蹴飛ばして慌てて立ち上がる。
 せり上がってくる苦く酸っぱいもの。熱いものを飲み食いしたときのような痛みを喉に感じながら、まだ吐き出せないと懸命に堪えていると、ごろろと喉が変な音を上げた。

 布団の傍に脱いであった草履をつっかけ、木製の薄い壁越しに父親の豪快ないびきが聞こえてくる中、妹と共同で使っている狭い部屋――オレや妹が欲したのではない。父親が自分たち親の寝所と、オレたち子どもの寝所を分けたくて、与えられたものだ。理由は、まあ、大人の営みである――から出る。
 ぎぃぎぃと床板を軋ませながら木製の通路を進んでいく。

 ここは、賃貸料を払って自分たちが暮らしている、長屋。この町にある建築物の中でも、だいぶ年期の入ったほうだ。
 あちこち傷んだ木製通路をぎしぎし軋ませながら、奥まったところにある共同便所に向かう。ボロ屋だから、ほかの居住者の、寝息だったり、ひそひそという話し声だったり、押し殺された生々しい人の奏でる音だったりが耳に入ってくる。
 増す吐き気。喉奥にまで来た苦味酸味。右手で口を押える。

 共同便所の中に駆け込み、臭う穴に向かって屈む。
 手を口から外して、吐くと意識すれば、すぐに嘔吐できた。ほかの住人に迷惑をかけたくないという思いはあれど、汚い音を抑えることはできない。
 三十秒ほど吐いて、もう唾液しか垂らせなくなった。

「――お兄ちゃん?」

 便所の壁に肌着を持ったままの左手を付いて荒い呼吸を落ち着けていると、背後で知った声がした。
 右手の甲で雑に口を拭い、全身で振り返る。
 妹が目を擦りながら立っていた。

「どうしたのぉ? 大丈夫ぅ?」
 少し舌ったらずな声は、まだ眠気をまとっている。
「ちょっと気持ち悪くなっただけ。大丈夫だよ」
 共同便所から出て、妹の黒紫色の髪のぴょこんと跳ねた寝癖部分を左手で撫でてやる。

「おはよう、シルキア」
「んぅ、おはよぉ、お兄ちゃん」
「……オレはもうこのまま仕事に行くけど、お前はどうする? もう少し寝るか?」
 普段と比べて、時刻はだいぶ早い。もう二時間ほどは眠れる。
「ううん、お兄ちゃんと一緒ぉ」
「そっか。じゃあ、行くか」
 こくんと頷いたシルキア。
 オレは握ったままの肌着を着て、空けた左手を差し出す。
 兄妹、手を繋いで長屋から外へ出た。

               ※

 夜は明けたけれどまだ朝と呼ぶには暗さの漂っている景色は、青みがかっている。
 油や蝋が勿体ないため、火を灯している家や人はない。それでも、今日一日の営みがあちこちで始まっていることはわかる。水を汲むためだろう桶を竿で担いでいる人、家畜の世話のための道具を持つ人、遠出するのか馬を連れている人など、行き交う町民は少なくない。
 とはいえ、まだ眠っている人たちのほうが多いわけだが。

「ねねっ、お兄ちゃん?」
 もう三分ほど歩いていることもあって、妹の声から眠気はなくなっていた。
「ん?」
「おじさんのところ向かってるんだよねぇ?」
「ああ」

 今この流れでオレたちの会話で登場する『おじさん』は、たった一人しかいない。
 オレたちが暮らす長屋の持ち主である、グレンさんのことだ。

「いっつもより早いけどぉ、もう起きてるかなぁ」
「起きてるさ。あの人はとことんまで商売人だから」
 朝は早く、夜は遅い。
 それが商売人の生き方というものだ。
 とくに、とことん金儲けが好きな人ほど、その気質ばかりだろう。
「そっかぁ、なら大丈夫かぁ」
 もうこの話は決着がついたらしく、妹は可愛らしい鼻歌を奏で始めた。
 微笑ましく思いながらオレは辺りの観察を続ける。
 情報は金になると教えてくれたのは、話に登場したそのグレンさんだ。

 小さな町なんだって、グレンさんは言ってたっけ。
 ここ《コテキ》で生まれてから、まだ一度も他所へ行ったことがないオレには、比較することができないから、どれほどの小ささなのかはわからない。
 とはいえ、日々の学舎での勉学の中で、地理に関することも習ったことはあるから、知識としてはその通りなんだろうと思うことはできる。
 ここは、村→町→街→都という順に都市の規模を表すなら、確かに、町に該当する規模だろう。ここより大きな都市――例えば、ここから馬を一週間ほど走らせたところにある《リーリエッタ》では、もっと人が多くて建物も立派で騒々しく凄いところのはずだ。
 商売の規模も、それはもう、目が回るくらいに派手なものだろう。

 羨ましい。
 いつか、行ってみたい。
 そういった大きな街で、壮大な都で、商人として勝負してみたい。
 儲けてみたい。
 とはいえ、今どれだけ夢想しても、叶うことはないのだから虚しいばかり。
 遠すぎる目標に手を伸ばすよりも、まずは近くにある成功を確実に掴むべきだろう。
 実直に、一歩一歩現実的に、脳味噌を働かせて歩んでいく。
 小銭だとしても、たった一枚の銅貨だとしても、増やしていく。
 それでいいのだ。
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