これが最後の異世界トリップ

河居ありさ

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1巻

1-2

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「女王じゃないわよ。アンタの目は節穴なの?」
(ん?)
「まあ。アタシがそのくらい美しいっていうのは、当然だけど」
(んんん?)

 あざけりを含んだ声とともに、小さく扇の音が鳴る。するとそれが合図だったのか、するすると御簾みすが上げられ、台座の正面にも明かりが灯された。

(うわあ。びっじーん)


 現れたのは、想像を上回る花のかんばせ。陶磁器のような滑らかな肌に、冷笑を浮かべたつやめく紅唇こうしん。切れ長の目元に走る紫のアイラインは、深い紫の瞳と相まってなんともいえない色気がある。不機嫌を隠さない顔ですら、人を惹きつけてやまない玲瓏れいろうたる銀髪美女。天姿国色てんしこくしょく仙姿玉質せんしぎょくしつ、傾国の美人――様々な言葉が頭に浮かんだ。
 なのに――なんだか、おかしい。もう一度まじまじと相手を見つめる。
 蘇芳すおう色の長衣に重ねた、淡白色たんはくしょくしゃの外衣。締めた帯はこっくりとした柳色やなぎいろだ。かなりゆるく着崩しているのに見苦しくなく、それどころかはっと息を呑むほどうるわしい。袖口とえり元に細やかな刺繍ししゅうほどこされているせいか、身動きするたびにきらりきらりと輝いて見えた。

(おかしいところなんて何もないよねえ?)

 不敬にあたることも忘れ、思わずじっと見つめていると、ようやく先ほどの言葉が脳内に到達した。

(女王陛下じゃない。けど、周りの人たちは皇帝陛下って言ってたよね……?)

 怜悧れいりな美貌の横には翡翠ひすい珊瑚さんご瑠璃るりなどの耳飾りが揺れている。そしてそのまま視線をズラす。白い首筋に目がいくけど、その首元にはどう見ても――

「えっ、えええっ? 喉仏があるって、もしかしてオカマさん!?」
「貴様っ!!」

 我ながら大失言だと気がついたときにはもう遅かった。背後から怒号が聞こえるや否や、背中に強い衝撃が走った。

「ぐうっ……!」

 棒状のもので殴られたみたいな鈍く重い痛みに、ろくに息もできず小さくうずくまる。

(いったあ……っ)

 うう~~。馬鹿をやってしまった。今までなまじ他の異世界でうまくやれていたのがあだになった。また異世界に飛ばされたと不貞腐ふてくされてないで、もっと慎重に行動するべきだったのに。

(でもまさか、いきなり一国の皇帝が出てくるなんて思わないよぉっ)
「貴様……っ! 殷煌様に何たる暴言!」

 男たちのなじる声と耳元でうなった風の音に、次の一撃を覚悟する。けれども身を硬くした私の上に落ちたのは、そんな彼らを制止する声だった。

キンれい尚書しょうしょ殿! 何という手荒なことをするのです! おやめください」

 その声を聞いて恐る恐る顔を上げれば、私をかばうように立つ青年の背中と、偉そうにふんぞりかえったネズミのような男が目に入った。

「我らが皇帝陛下を侮辱ぶじょくしたのですぞ!? それを見過ごすなど、陛下の信頼も厚い明貴メイキ殿のお言葉とは思えませんな!」

 先ほどの怒号はこの人だ。やたら甲高い声と、癖のある早口言葉みたいな話し方。目立つ出っ歯にせわしない動きなど、立ち振る舞いまでネズミっぽい。そんな彼がヒステリックに私をなじっている。
 だが、ネズミ男の殴打からかばってくれた神官風の青年が、穏やかかつ舌鋒ぜっぽう鋭く応戦し始めた。

「落ち着いてください、金礼部尚書殿。この娘は異界よりび寄せました大切な『龍神の娘』です。無知による多少の無礼は致し方ないと思われます。また、殷煌陛下のたぐいまれなる美貌は、諸侯百官も知るところ。短慮たんりょはやめていただきましょう」
「この、みすぼらしい娘を、『龍神の娘』と言われますか!」

 そんな神官風の男性に対し、声を荒らげるネズミ男はやや劣勢だ。気がつけば、他の者たちまで口を挟み、場は騒然とし始める。
 侃々諤々かんかんがくがくとあちこちで議論が起こる中、私はネズミ男が落とした棒にすがってゆっくりと立ち上がった。

(うう~。どこか折れたりしてないよね……)

 背中はずきずきと痛んだままだけど、手を開いたり閉じたりしてもしびれはない。骨折したような感じもないみたいだ。大きなあざは残るだろうけど、冷やして安静にしておけば大丈夫だと判断し、ようやっと安堵の溜息を漏らした。
 そして、未だに言い合いを続けている人々を見て、どうしたものかと考える。すると、彼らを牽制けんせいするように、鈍い金属音が響き渡った。

「どうでもいいけど、アンタたち、アタシが興味を持てる女を探してたんじゃないの?」

 いつの間にか手に持っていた長い煙管キセルで、煙草たばこぼんを叩いた美女――否、オカマ陛下は、心底嫌そうに言う。その姿は、まるで遊郭映画の花魁おいらんみたいに色っぽかった。

「それともまさか、この茶番をアタシに見せたかったの? だとしたら頭も趣味も悪いわね。アタシ、馬鹿は嫌いよ」

 片頬を上げニヒルに笑う姿さえ、見惚みとれるほど美しい。

(本当に、男の人――なんだよね?)

 なんか妙にどきりとしちゃう。奇抜なはずなのになぜか目が離せない。童顔丸顔な自分とは大違いだ。
 長い指先で煙管キセルを唇に運ぶ――そんな姿に見惚みとれていると、興味なさそうな顔をしている陛下と一度だけ目が合った。
 その瞳は、『今起きていることは処理しなくてはいけない、面倒な瑣末事さまつごと』といった心情を映しており、なぜかそれがすごく印象に残る。

(ああ、この人、私に全然興味がないんだ)

 私が有用な異世界人かどうかさえ気にしていない。ただただ、どうでもいい。そう思っているのだと肌で感じる。
 変に興味を持たれるよりはありがたいけれど、正直この反応は意外だ。この紫の瞳に強い知性の光が見えなければ、自分では何も考えない傀儡かいらいの王なのかと疑ったかもしれない。ただ、知性とともに強い鬱屈うっくつも感じるけれど。
 そんな私の考えをさえぎるように、つやのある口唇から細い紫煙が吐き出される。

「ねえ、金礼部尚書」
「はっ! なんでございましょう」
「アンタが言うようにその小娘が『龍神の娘』じゃないのなら、アタシが召喚に失敗したってことになるけど――それはそれで問題があるんじゃないの」
「いえっ、それは殷煌様!」

 慌てるネズミ男には目もくれず、陛下は神官風の男性に視線をやる。そしてちょっと皮肉っぽい口調で問いかけた。

「で、明貴。もう一度聞くけど、そこの貧相な小娘が本当にアタシとこの国に絶対に必要な娘なの?」
「はい。我が印東国、最後の『龍の加護』を持つ殷煌様の和子わこすのは、この娘。この異界の娘こそ『龍神の娘』であり、貴方様の伴侶になるお方でございます」
「はいぃぃっ!?」

 そこの方、今なんて言いました?
 突然の異世界トリップに、絶世の美女の皇帝陛下。これだけでもお腹いっぱいなのに、なんですかその馬鹿げた召喚理由は。

「無理無理むりむりっ!」

 自然と高速拒否が口をついて出た。

(だって花嫁候補だよ? どれだけ人材足りてないの、印東国さん!)

 いくら女性に興味がなさそうな陛下だからって、これだけ美人なんだからどうとでもなるだろうに。本人だってすごい嫌そうに顔をしかめてるのに、なんでこんな馬鹿げた召喚なんてしたの?

「いや、私、そういうのと違いますしっ、『龍神の娘』とか知らないですし!」

 焦れば焦るほど、うまく言葉が出てこない。

(あああ……もうほんっとに私の人生ついてない。ようやく元の世界に戻れたと思ったのに、結局ポテチもチョコも食べれなかったし。おにぎりたちに会えたのだって何年ぶりだったと思ってんのよ。もう、ほんとにひどくない!? それにしても、あと何回こうやって住む場所が変わればいいんだろ。初恋もしないまま、五回も異世界に飛ばされてさ。それでも今までの世界ではなんとか大人しく暮らせてたのに、今度はいきなりオカマ陛下の嫁候補だなんて。さすがにあんまりだ。詐欺だ。ペテン師だっ! 私の青春返してよおぉぉ)

 勢い余ってウロウロその場を歩いているうちに、目尻に涙が浮かんでくる。
 あまりに突拍子もない理由で召喚されたことに、私が一人胸の内で叫んでいると――

「アンタ、なかなか面白いこと言ったわね」
「……へ?」

 壇上の陛下がくわえていた煙管キセルを下げ、じっとこちらを見つめていた。

「今、五回も異世界に飛ばされたと言ってたわ」

 独り言のようなその言葉に、息を呑む音があちこちから聞こえる。その後、皆が膝をついていく。気がつけば大勢の人たちが興奮を押し殺したようにこちらを向いてぬかずいている。

「あ、あのう……?」

 今まで自分が平伏することはあっても、されたのは初めてだ。つうっと嫌な汗が背中を流れる。

「……あの、私、また何か言っちゃってました?」
「アンタが、たとえ言い伝えの『龍神の娘』じゃなかったとしても、いくつもの異界渡りをしてきた娘なら、話は違うわね。――面白いわ」

 口角を上げて笑った陛下に、どよめきが起きる。

(えええ……もう何。なんなんですか、この人たち)
遠水えんすい 天連てんつらなりて龍の如し その身で五界を渡り 地に満つる」
「え?」
「我が印東国開闢かいびゃくから伝わる古い言い伝えですよ、お嬢さん」

 私のことを『龍神の娘』と言い切った神官風の男性が、タレ目を細くしてうっとりと微笑みを浮かべる。
 ぬかずく人々からも、

「ついに陛下が女に興味を示された!」
「しかも五界を渡る姫君だぞ」
「我らが悲願、殷煌様の血脈をどうぞ我らに!」

 と、わけのわからない恐ろしい発言が続く。

(なんか熱に浮かされたような声が怖いよ!)

 知らずに後退あとずさり、逃げ道を探す私の耳に、パシンと扇の音が響いた。

「――お前たち、明貴以外は下がりなさい」
「はっ!」

 その声とともに、波が引くように人々が消えていく。
 あっという間に、私と神官風の男性、そして優雅な仕草で玉座から立ち上がった陛下だけが残った。

「ふうん。近くで見てみるとますますたぬきに似てるわね、アンタ。まんまる顔にダサい眼鏡。しかも乳臭いから仔狸こだぬきかしら」
(お、大きい……)

 それが、そばに来た陛下を間近で見た最初の感想。
 身長は百八十センチはあるのではないだろうか。すらりとした長身に腰まである銀の髪が流れる。
 近くで見ると、その威圧感たるや半端ない。

「と、とりあえず『たぬき』じゃなくて、きちんと名前を呼んでください! 私の名前は田中香織です。これでも一応、十八になります。それから、大変申し訳ありませんが、このたびはご協力できそうにないので、早めに帰してもらえませんでしょうか!」
(結婚なんて、絶対にお断りです!!)

 そんな不満がありありと顔に出ていたのか、陛下はきゅっと柳眉りゅうびを寄せて私に流し目を一つ。そして、そのままふうっと煙を吹きかけられた。

「馬鹿じゃないの? アタシだってたぬきとなんて願い下げよ」
「なっ……! ケホッ、ゴホッ」

 吹きかけられた紫煙にむせる。

「でもアンタを利用すれば、今後も子供を作らない理由ができるわね」
「はいぃ?」
「陛下……」
「何よ、明貴。コレが最大限の譲歩よ。アタシはその女はいらないわ。けれど皇妃こうひ候補として後宮に入れて、その後に除籍する。そうすれば『龍神の娘』とすら共寝をしなかったという事実ができる。そんなアタシにこれ以上結婚をすすめる連中もいなくなるでしょう。ただし期間は一年間よ。それ以上たぬき顔と一緒にいたら、アタシの美貌まで損なわれそうだわ」
「はぁ!?」

 つまり、今後も結婚したくないから、私に偽装結婚をしろってこと?

「なんでそんな面倒なことするんですか。君主なら責任持って子供くらい作ってくださいよ。結婚しないポリシーだって言うなら、身内から適当な人を見繕みつくろって跡継ぎにすればいいじゃないですか」

 どんな性格の女かもわからないのに、結婚したくないがために異世界人を嫁にって普通の発想じゃない。そもそも一方的に召喚して嫁になれって、どういうことだ。
 理不尽な状況に、だんだん怒りが湧いてきて勢いでそう言うと、

「ま、正論ね。そうよ、普通じゃないのよ」

 とあっさりと首肯しゅこうされる。

「印東国は周辺諸国にも名高い、歴史ある大国よ。肥沃ひよくな大地に悠々と流れる大河。広大な領地をぐるりと囲む山脈は、国を守るように高く険しいから国防にも有利。アンタみたいな仔狸こだぬきを秘術で召喚しなくても、国内外から花嫁候補はごまんと押しかけるし、優秀な官僚も山ほどいるの」

 聞けば、すでに陛下の後宮にはたくさんの美姫がいるらしい。

「なら……わざわざ異世界からぶことないじゃないですかぁ!」

 こんなの、私にしてみれば異世界召喚テロだ、誘拐だ。声だって恨めしげになるよ。

「その先は、明貴。アンタが説明しなさい。明貴、神官長を務める男よ。今回の秘術の熱心な遂行者でもあるわ。言いたい文句は明貴にお言い」

 陛下は煙管キセルで示しながらそう言う。すると、先ほど私をかばってくれた神官風の男性――明貴さんが、神官らしい所作で私の前に膝をつき、深く叩頭こうとうする。

「改めまして。初めてお目にかかります、神官長を務めます明貴と申します。『龍神の娘』たる田中香織様をおびすることが叶いまして、恐悦の至りでございます」
「あ、えと。ご丁寧にどうも」

 召喚の首謀者と聞いて文句を言おうと思ったけれど、丁寧に挨拶されてしまって口にできなくなる。
 そのうえ絶妙のタイミングでにこりと微笑まれ、毒気を抜かれた気分になった。

(なんだかなあ、もう……)

 毒舌家で存在感のある陛下と、柔和な微笑みで周りをいなす明貴さん。対極だけど、いいコンビかもしれない、この二人。

「で、あの、早速質問なんですけど、なんでこんな馬鹿げた召喚をしたんですか。さっき言ってた、最後の『龍の加護』を持つ殷煌様――のためなんですか?」

 そう問いかけると、

「そうです。よく覚えていらっしゃいましたね」

 と、明貴さんが小さく頷く。

「龍神は、水や天の気をつかさどる天神です。そして『龍の加護』を持つ殷煌様は、龍神の声を聞いて天の気を読み、荒れ狂う大河を治めてきた龍神のかんなぎなのです」

 陛下が、龍神のかんなぎかんなぎとは男の巫女さんのことだ。
 つまり『龍の加護』を持つ人イコール龍神の声を聞ける人。言い換えれば、正答率が高い気象予報士ってことだろうか。
 だとしたらそれってすごい。どこの世界でも日照りに干ばつ、長雨に洪水は悩みの種だったもの。
 ちょっと見直して、思わず陛下を振り返る。

「龍神の声を聞くには、一族の人間だけが使える『龍のたま』と呼ばれる宝珠が必要よ。その宝珠を使って、民に大地の恵みを与えてきたのが、歴代の皇帝ってわけ。龍帝とも呼ばれるわ」

 陛下は欄干らんかんにもたれたまま、もう一服している。尊大だけれど、どこか投げやりな陛下の声に、真摯しんしな明貴さんの声が続く。

「殷煌様はかんなぎとしての御力も強く、皇帝としても稀代きたいの名君でいらっしゃいます。年々力が弱まる宝珠から龍神の声を拾い上げ、見事に印東国を統治なさっておいでです。その最後の血筋を、なんとしてでも後世に残すのが、国民の悲願」
「はあ……」

 国民の悲願って言われてもなあ。
 とはいえ、ただの跡継ぎでは意味がなく、その宝珠を使える次世代の皇帝――血の繋がった子供が欲しいというのは、理解できた。一子相伝いっしそうでんの伝統芸能みたいなものだよね。

「なんとなく話はわかりました。陛下は子供をつくる気がない。けど周囲の方々は、なんとしてでも陛下に跡継ぎを作ってほしい。――ってことですよね。……でもそれと私と、一体何の関係があるんですか? 正妻である皇妃こうひ様はいなくても、後宮はあるっておっしゃってましたよね?」
「そのとおりでございます。ですが、殷煌様は後宮の妃嬪ひひんや女官たちに一切の興味を示されません。諸外国から来る縁談も、『最低条件として自分より優れた容姿を持つこと』と公言してはばからないため、まとまりません」
「それは……すごいですね」

 それでよく外交問題にならないものだ。きっと陛下は外見だけでなく政治面においても、『大成しない秀才』ではなく、『奇抜な天才』なのだろう。
 視線を向ければ、人のことをたぬきと言い捨て、百花繚乱ひゃっかりょうらんの美姫に目もくれないらしい陛下は、不敵な笑みを浮かべている。

「そこで、『龍神の娘』ならば殷煌様もご納得してくださると考え、貴女をおびしたのですよ」
「ええと? そもそも『龍神の娘』ってなんですか?」
「ある日天から現れ、初代龍帝に宝珠を授けた異界の乙女のことです。その姿はうるわしく、たぐいまれなるえいをもって龍帝のうれいを晴らしたといわれています」
「なるほど。――って、いや、何度も言いますが、人違いですよ」
「困りましたね、香織殿」

 絶対拒否の姿勢を貫く私に、明貴さんが微笑んだまま顔を近づける。

(ううっ。この人ずっと笑ってるけど、その笑顔が怖いよ)
「私としては、貴女が『龍神の娘』であると――いえ、言い換えましょう。貴女が殷煌様にとって、必要不可欠な人材であると確信しています」
「そんな確信されても、すっごい迷惑です!」
「たとえ偽装結婚でも構いません。一年、そのお時間をいただきましょうか」
「なんで勝手にび出されて、そんなことしなきゃいけないんですかぁ! 普通に帰してくれればいいじゃない!」

 話が通じなすぎて、涙目ですよ。

「香織殿。ちなみに召喚のための費用は、一年分の国家予算に相当します」
「こ、こ、国家予算?」

 声がひっくり返る。
 国家予算だなんて、あまりに大きい単位で、想像もつかない。
 確かに精緻せいちな祭壇を作るにはそこそこお金が必要かもしれないけど、それだけで国家予算なんて使わないだろう。
 だまされないぞと非難がましい目を明貴さんに向ければ、横から陛下の馬鹿にしたような声が聞こえてきた。

「ほんと、欲しくもない花嫁候補を召喚させられた挙げ句、アタシの秘蔵の宝石を捧げて降り立ったのが乳臭い仔狸こだぬきじゃ、文句も言いたくなるわよねぇ」

 そうして煙管キセルで示されたのは、祭壇に同心円状に置かれた腰までの水晶柱。
 その上には焦げた石のようなものがのっている。まさか、これ――

金剛石こんごうせき瑠璃るり玻璃はり。それから珊瑚さんご瑪瑙めのう琥珀こはく硨磲しゃこ、真珠に玫瑰まいかい――龍神に関係する九つの宝玉よ」
「それを燃やしたの……?」

 思わず、しばし絶句。

(あ。これ、ガチなやつだ)

 ゴクリとつばを呑み込む。
 帰還の秘術に同じだけのものが必要だとして、私のためにそれを捧げてくれるだろうか。そう考えれば、答えは否……

「じゃ、じゃあせめて宮城きゅうじょうで下働きとして雇ってください。あとは自分で生きていきますし……」

 途端にトーンダウンした声で、少しでも現実的な和解策を探る。

「それはできかねます。『龍神の娘』である香織殿に下働きなど。どうしてもお嫌でしたら、御身は神殿預かりとなりますから、陛下専門の女官になっていただきます」
「陛下専門の女官?」
「朝日が昇る前の沐浴もくよくから始まりまして、書巻二十巻分の神楽かぐらと儀式の全手順を覚えていただき、毎回必ず『龍神の娘』として陛下のおそばに立っていただきます。ああ、こちらは一年では終わりませんし、陛下のおそばにいる形になるので、後宮の姫君からの目は厳しいでしょうね」
「明貴、それはつまりこのたぬきが後宮に入らなければ、アタシの世話係につくってこと?」

 陛下のその問いに、微笑みで返す明貴さん。

(実はこの人のほうがたぬきなんじゃないの?)

 そう思った私に、明貴さんはふいに何かを思い出したかのように振り返り、にこりと微笑む。

「後宮に入ってくださるのなら、そのお礼といってはなんですが……貴女は先ほど、『あと何回住む場所が変わればいいのよ』とおっしゃってましたね。もしかしたら、様々な世界を渡り歩くことにお疲れなんじゃないですか?」
「え……っ」

 その言葉を聞いて、私の肩がピクリと跳ねた。

「もし貴女が皇妃こうひ候補として一年間後宮入りをしてくださいましたら、その後の面倒を見させていただきましょう。こちらの世界の知識や衣食住を提供いたします」

 優しい悪魔が私に微笑む。
 そんなことしてもらわなくても、生きていくための異世界アルバイト生活には慣れている。今までだってそうだったし、今回だってそうすればいいだけだ。適当に過ごしていれば、いつかは地球に戻されるよね。

(でも、召喚されてきた今回は、もしかして自然とは帰れないかもしれない……?)

 なんの法則もなく飛ばされてきた今までとは、話が違うのかもしれない。それに、この世界にずっといればもう二度と他の世界に行かなくて済むかも――
 そう思ったら気持ちが根底からぐらりと揺れた。
『突然奪われない平穏な生活』、そして『未来を考えられる日常』。
 それは、私にとって地球に帰りたい気持ちよりも、ずっとずっと強い誘惑だった。
 口の中がカラカラに乾いて、無意識につばを呑み込む。深くうつむいたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。

「……――か」
「え? なんでしょう。もう一度お願いします」
「おこめ……ありますか……?」
「おこめ? 米、ですか? 稲作は盛んですからございますが、それが一体……?」

 目を白黒させている明貴さんに、今度は大豆の有無を問う。

「大豆はもちろん、味噌もありますし、醤油しょうゆもございます」
「砂糖はありますか? 食用油は動物性ですか、それとも植物性ですか? 小麦もありますかっ!?」
「ご、ございますが……」

 矢継ぎ早に問いかけた私に、明貴さんが気圧けおされたように答える。

(ならばよし!)

 返答を聞いたと同時に、私は拳をぐっと天に突き出した。
 お米があるならお酒も作られている可能性は高いし、塩も当然あるはず。たとえ日本のとは違ったとしても、好みの味を一生涯かけて研究してやる!

「本当に結婚するんじゃなくて、一年間後宮で過ごすだけですよね」

 最後の確認をする。でも、声にしたときにはもう心は決まっていた。

「お約束いたしましょう」
「明貴にしてやられた感が強いけど、今回は仕方がないわね」

 紫煙をたなびかせていた陛下も、煙管キセル煙草たばこぼんにことんと置いて同意した。


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