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地獄の針番人
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『地獄の針番人』
これは不本意ながらも地獄で名声を馳せた「彼女」のお話。
「お母さんは、――の味方よ。約束。」
「――はお父さんの一番大切な娘だよ。お前がくれた手紙はずっととってあるんだ。」
「これからはずっと俺が――のそばにいるからもう大丈夫。約束。」
「お母さんが可哀想だと思わないの?私だけがいつも大変じゃない。」
「離婚したあとも娘にここまでしてやる父親はいない。お父さんだって大変なんだよ。」
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません。』
「そうだな、じゃあ約束しよう、指切りでもする?」
「…しない。なぜか私と指切りした人は、みんな約束を守ってくれないから。」
これが走馬灯か。幼いころから交わしてきた数々の約束が目の前を掠める。
あたりは真っ暗で自分の姿すらも認識できない。しかし目の前に小さな光が漂っている。
「短い人間生活、お疲れさまでした。ここは冥界と呼ばれる場所です。あなたは死にました。」
やっぱりそうか。そんな気はしていた。
しかしあいかわらず記憶はとぎれとぎれだ。
「いやあそれにしても、あなたは生前、たくさんの人と指切りをしたんですね。両親、婚約者、友人、親戚、同僚…そしてみな、あなたとの約束を守ってくれなかった。おいたわしい!」
余計なお世話だ。
「彼らは死後、針を千本飲まなければなりません。そういうものなのです。実はあなたが飲ませる予定の針の数は、天界記録なんですよ。
…おや?一人だけ針を飲ませそびれた人がいるではないですか。彼にも飲ませることができていたら、天界地獄含めての記録達成でしたのに。
惜しかったですね。ですが、これは素晴らしい記録です。これを讃えて、あなたには地獄の針番人という、神としての立場を与えることになりました!
よかったですね。みなから恐れ崇められる存在として、地獄生活を謳歌するといいですよ。」
こう言われたのが、もう随分と前のこと。
わけのわからぬままこちらの世界にやってきて、気が付けば私は地獄の偉い人になっていた。
もはや人と呼べるのかも怪しいのだが。
人間にしては長すぎる赤い髪、禍々しい角、少々露出度の高い赤と黒を基調とした服装、それに相応しく豊満な身体。
そして何より、私の身丈は地獄の山一つ分ほどもあるのだ。
地獄の山といっても想像がつかないだろうが、人間の平均身長と比べ物にならないくらいの大きさだと思ってほしい。
確かに私は生前、他者に約束を破られ続けてきたようだ。終盤のほうは、もう誰かに期待をすることすら半ばやめていたような気がする。
幸か不幸か、地獄の針番人になったいまも、人間だったころの記憶が残っている。
創造主の設計ミスか?と思ったが特に困ることもないのでそのままにしている。
「ドロスフィエル様、本日もお美しい!」
そう。この重厚感のある名が、今の私の名前。
突如地獄のそれなりの地位についた私のもとには、下級悪魔や地獄の死者たちがよく供物をもって私の神殿に現れるのだ。
この供物というのがまた困ったもので、不当に冥界からくすねてきたと思われる死者の魂(こっそり冥界に送ってやっている)や、地獄の土をこねて作った大きな窯(何に使えば?)、ほかの地獄部署の罪人たちの血を集めた巨大な瓶(地獄で人気の血液風呂に寄付したっけ)、さらには罪人たちの臓器を小綺麗に並べた装飾が豪華な箱(腐らないのか心配だわ)…のように、いかにも地獄風味なものたちが毎日私のところへせっせと運ばれてくる。
最初は困惑したものの、崇め奉られるというのも悪くないもので、最近は供物の返礼として私の針を渡すと、彼らは「これがあれば乗り越えられる!」と大喜びして去っていく。
さらに笑みを返すと、みな卒倒するばかりか、性別問わず淫魔たちにも慕われるようになって驚いた。
「当然です!ドロスフィエル様は地獄いちの美貌をお持ちですよ。最近は、あなた様を一目見たいと罪人たちが順番待ちをしている状況です。」
地獄の針番人と言うだけあって、私の地獄での役割は、「生前大切な約束を破った罪人に針を千本飲ませること」、「針が無数に設置されている場所に罪人を落とす針地獄の管理と執行」、「地獄におけるすべての針の管理」などなど。
私の仕事と役割は多岐に渡り、大変に見えるがまがりにも神の一員であるからか実はそうでもなく、特に針と呼べるものすべてに私の力が宿っているというのは不思議な感覚だ。
というのも、私が念じれば即座に赤黒い針が生まれる。
その針は、なんであっても貫くことができる。物体はもちろん、己の意志のような、形のないものであっても。
しかし同時に針自体は脆いものであり、一度使用すれば崩れ落ち消え、使い方によっては使用者もろとも崩れ落ちてしまうのだ。
そんな諸刃の剣であっても私の針を求める者は多く、地獄を忌み嫌う天界の天使すら私の元を訪れることがある。
強いて言うなら、一番大変なのは罪人たちに針を飲ませることかもしれない。
嘔吐く罪人たちに、私の使役悪魔たちが無理やり針を飲ませる様子を眺めるのは気持ちの良いものではなかったが、最近はもう慣れてきた。
人間の頃の記憶があると言ったが、私が生前指切りを交わした人間たちの顔だけは絶対に思い出せない。
私が針を飲ませた罪人たちの中に彼らもいたのかもしれないが、もう過ぎたことで、興味もないのだった。
「憂い顔も美しいね、ドロスフィエル。今日もたくさんの供物だ。さすがだね。」
こう言うのは地獄の悪魔、ベルグラト。
彼は元は天界で名の知れた天使だったようだが、何か事件を起こし、地獄送りになったらしい。
天界で罪を犯せば消滅は免れないそうだが、「俺は力のある天使だったからそれはできないんだよね~」とのこと。本当かはわからないし、興味もない。
名前さえ失って、自らベルグラトと名乗っている。
天使だった名残か非常に美しい容姿をしている。背中の痛々しい大きな傷を除いては。こちらでは堕天使とも呼ばれる身分だ。
堕天使は地獄でやることがなくて暇だと言い、私の神殿へ現れては供物を勝手にどこかへ持っていったり、天界にいた頃の話をしてきたり、私を慕う淫魔を誑かしたり、まさに悪魔のようなことをしている。
「あ、この供物。いいね、もらっていい?」
「ご勝手に。」
「ああ、興味のなさそうな顔も唆られるな、そろそろ君の人間だった頃の話が聞きたいんだけど。」
ベルグラトはどこから聞いたのか私が元人間であることを知っている。
地獄で恐れられている私は、崇められるばかりで話し相手と呼べる存在がいなかったので彼の存在は少し特別だが、自分の身の上話をできるほど信用もしていないのだった。
だからいつも聞こえていないふりをする。
「ねえ!ドロスフィエル。無視しないでよ。」
もちろん私の方がはるかに大きい身丈をしているので顔を逸らせば彼は私の顔なんて見えない。
こうなると、私の使役悪魔である2人がすぐに駆け寄ってくる。
「ベルグラト!また現れたな!!」
「ドロスフィエル様の供物をくすねるのみならず不快な口を開いて。不敬。」
アレリとソルリと名付けた私の使役悪魔は、私が一番最初に造った悪魔で、一番気に入っている。
「げ。思ったより早かったな。じゃあまた来るから~。」
ベルグラトの見目は美しいと思うけれども、あの飄々とした感じがどうも掴みきれない。
「ドロスフィエル様、あの駄天使になにもされていませんかあ~!!アレリは心配です…!!」
「ソルリも心配です…。」
アレリとソルリは2人で私の手に乗るほどの大きさで、とても私を慕ってくれているので非常に可愛い。
アレリが赤、ソルリが黒の、私と似た装飾を身に纏って、大きすぎる私の私の身の回りの世話をしてくれている。
私の使役悪魔なだけあって、彼らも武器として彼らの身丈ほどの針を常備しており、それもまた可愛らしい。
「大丈夫よ。いつも心配してくれるのね。」
「当然です!」
「当然です。」
「ドロスフィエル様、天界から手紙を預かっております!」
「私達はこちらを渡しに参ったのです。」
ソルリが私に差し出したのは小さな光の塊で、私が触れるとそれは私が読みやすい大きさの手紙の形になった。
「ありがとう。持ち場に戻っていいわ。」
「はい!」
「お返事を書かれた際は、私達にお申し付けください。」
私が2人を撫でると、彼らは可愛らしく笑ってスキップをしながら持ち場へ戻っていった。
手紙の内容はこうだった。
親愛なる隣人、地獄の針番人ドロスフィエル様
初めてお手紙差し上げます。
私は天界の上級天使、アカルポトと申します。
まずは貴職の日々のご尽力に敬意を表します。
私は長い間、上級天使として天界を守ってまいりました。
最近は私の部下たちが、信念を持って仕事をこなすようになり、天界の秩序は以前に比べて強固なものになったと実感しています。
聞くに、あなた様は供物の対価として、針を賜っているそうですね。
その針には、なんでも貫く力があるのだとか。
近年、天界の下級天使たちが、自分の仕事を全うするという意志を貫くために、地獄の麗人であるあなた様の針を利用していると調査がされました。
この行為は、天界と地獄の均衡が崩れてしまう可能性があると、私は危惧しています。
天界と冥界の均衡は我々の共同の負担であり、その均衡の逸脱は双方にとって望ましくありません。
つきましては、天界に存在するあなたの針を一括して回収して、近々、使いの者にその全てを返却しに伺わせます。
受け取りのうえ、以後は天界との如何なる取引も差し控えていただきたく存じます。
どうか、秩序を重んじた対応をお願いいたします。
上級天使 アカルポト
…どうやらわたしは怒られてしまったようだ。
確かに、天界の下級天使たちが私のもとを訪れるということは最近よくあった。
天界のお菓子、美味しかったのに。
「へえ、アカルポト。偉くなったもんだね。」
私の肩のあたりで頬杖をついているのは、またしてもベルグラトだった。
「戻ってくるのが早いわね。」
「さっきは出て行くと見せかけて、供物の新鮮な臓器を頂いてたんだよね。ご馳走様。」
この男の悪食は毎度のことだ。
真っ赤に染まった手と口元は彼の美しい容姿に妖艶な磨きをかけており、神殿に来ている淫魔たちが釘付けになっている。
「アカルポトなんてさ、俺が天界にいた時は下級天使と同等くらいだったんだよ?天界なんて腐ったところだよほんとに。嫌になっちゃうね。」
「天使のあなたを知っている天使たちが今のあなたを見たら驚くでしょうね。」
ベルグラトは指についた血を舐めながら視線をこちらへ向けた。
「地獄はいいとこだねえ。毎日好きなことしてて良いんだもん。君みたいな美麗な神と仲良くなれたしさ。」
「あなたも私に供物を捧げても良いのよ?」
つい口をついて出た。
最近は人間の頃のことを思い出すことも少なくなって、地獄の神としての自分に適応してきているようだ。
「おお!うん、確かに。それも悪くないね。よし。たまには君に捧げ物をしてみようかな。」
ベルグラトは意味ありげに笑みを浮かべると、楽しみにしててね~と、神殿を出ていった。
その姿を発見したアレリとソルリが怒りながら彼を追いかけるのを少し微笑ましい気持ちで眺めた。
彼がその「供物」を持ってくる日は、思ったよりもすぐに訪れた。
「ドロスフィエル!」
ベルグラトが珍しく神殿の正面から現れ、他の礼拝者と同じように私の前に「供物」を置いた。
「約束の供物です。どう?気に入った??」
見ると、神殿の大きな皿の上には、見たことがない装飾を身につけ、大きな白い羽根を携えた天使が横たわっている。
しかもまだ息があるようだ。
「…これがあなたの供物なの?」
「ああそうだよ。君が気にいると思ってさ?
ふ…まあもう白状しちゃうんだけど。
アカルポトの馬鹿がよこした使いの天使!ははは!」
ベルグラトは腹を抱えて笑っている。
彼は本当に天使だったんだろうか?悪魔よりも悪魔然としすぎている。
よりにもよって使いの天使を手にかけるなんて…
「なんて奴!!ドロスフィエル様の顔に泥を塗ったな!!」
「悪魔。駄駄天使。」
「あなたのことだからふざけるんだろうなと思った。アレリソルリ、落ち着いて、彼の治療をするから。」
今にも武器をベルグラトに突き立てそうなアレリとソルリを抑えて、私は皿の上で伸びている天使を治療しようと皿を持ち上げた。
「ええ。もう治しちゃうんだつまんない。もっと彼をよく見てみてよ。」
ベルグラトが残念そうに口を尖らせている。
悪食でおふざけがすぎる堕天使を無視して皿の上の天使に顔を近づけると、私は驚いて固まってしまった。
「え…」
「ドロスフィエル様?」
「如何されましたか。」
「ほらどうしたの?早く彼を治療しないと俺が食べちゃうよ。」
皿の上で眠っている天使は、私が人間だった頃に唯一指切りをしなかった「彼」と同じ姿をしていた。
「なんで…」
私は皿を持ったまま呆然としてしまった。
人間だった頃の記憶なんて、最近はずっと思い出してもいなくて、関わった人たちの顔も思い出せなくなっていたのに。
どうして天使の姿で彼が現れるの?
「あとほらドロスフィエル。この天使が持ってきた針ね、淫魔たちに配っといたから。ねえ聞いてる??」
ベルグラトがわざとらしく私に話しかけてくる。
「どうしたっていうのさ。その天使、知り合いだった?」
「ドロスフィエル様…?」
「心配。」
アレリとソルリが純粋な眼差しで私を心配している。
人間だった私と、地獄の神である私が揺れている。
私を慕ってくれているアレリとソルリに心配をかけたくない。
次第に心が乱れてきた。
地獄の神になってから初めての経験だった。
やがて神殿の周りの天気すらも荒れ始め、日常的に暗い地獄の空がより暗くなった。雨風が吹き荒れ、神殿に雨が激しく打ちつけた。
神殿の外にいた他の使役悪魔たちも神殿の中に入ってきて、心配した眼差しで私を見上げた。
「ドロスフィエル様?」「如何されたんですか?」「雨なんて初めてみた!」「雷が鳴ってる」
使役悪魔たちがざわざわし始めて、アレリとソルリがそれを制してくれた。
思考が完全に停止していると急に、皿の上の彼が起き上がった。
私は視界の端で起き上がる彼に驚いて顔を向けた。
「んん……。ん……?ここは……。
……おお!あなたがドロスフィエル様。
聞いていた通り、とても美しい方だ。」
私が焦がれたあの笑みで彼が私を見る。
声までも同じなんて!
「えー、もう起きたの?踊り食いは流石に趣味じゃないかも。」
いつのまにか私の肩の上に来ていたベルグラトはやれやれと腕を組んだ。
「あ、あなたは、天使の…使い…ですか…?」
なんだか私の中に2人いるみたいな感覚になって、気持ちが悪い。
「あはは、なにそれ!ドロスフィエル、かわいい。」
ベルグラトはまた腹を抱えて笑っている。腹立たしい。元はと言えばお前のせいだ。
しかし私はそんな堕天使のことなんてもう目に入っていなかった。
「ええ。すみません、なぜか意識を失っていたみたいです。
私がアカルポト様の使いです。
あなた様の針を返却しに参ったのですが…すみません、私は、もう針を渡しましたか?」
見慣れた、少し抜けたような笑みが私の心を刺した。
同時に、人間の頃の記憶が流れ込む。
唯一私が指切りをしたくなかった相手ーー。
私は生前、婚約者を亡くしている。
理由は、わからなかった。
大人になりきれなかった両親の揉め事に巻き込まれ、疲れ果てた私に、「これからは自分がそばにいる」と指切りまでして約束した婚約者は、理由もわからぬまま突然行方をくらまし、その先で亡くなっていた事実だけが私に告げられた。
私が他人に期待するのをやめようと諦めてしまったのも、この出来事が大きかったんだろう。
理由がわからなかっただけに、自分を責め続ける毎日を随分と長い間過ごした。
「彼」は、私の歳の離れた幼馴染だった。
私は彼に憧れていたし、彼も私をよく気にかけてくれていた。
とても仲良くしていたが、彼の結婚を機に次第に疎遠になっていった。
寂しい気持ちもあったが、仕方がないと言い聞かせていた。
どこから私の話を聞いたのか、彼は突然、遠方に住んでいたのを無理やり帰ってきて、美味しいものでも食べようと、私を食事に誘った。
いつしか表にはあまり出せなくなっていたが、私は彼を心から慕っていたので、つい、つらつらと自分の心の内を曝け出してしまった。
彼は黙って私の話を聞いた。
そして、聞き終わると、君が生きててくれてよかったよ。と言った。そして、
「君は君のままでいいんだよ。」
と続けた。
私はきっとそれがとても嬉しかった。
私はずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
心を開け渡してしまいそうになったが、私はもう他人に期待して傷つくのが嫌だった。
それに、彼の立場も、それが許されない人だ。
「俺ができることは、なんでも力になる。他人に、頼って良いんだよ。1人で抱えこまないで。」
「ありがとう、私は、大丈夫だよ。」
「俺も幼馴染として力になるからさ。そうだな、じゃあ約束しよう、指切りでもする?」
「…しない。なぜか私と指切りした人は、みんな約束を守ってくれないから。」
嫌なことを思い出した。
思い出したくなかった。確かこの後すぐに、私は交通事故でーー。
昇華されない、他人と繋がりたくても繋がれなかった、ちっぽけな人間の記憶。
その可能性を心から欲して、しかし同時に顔をそむけ続けた、残滓のような彼女を、少しだけ見つけてくれた「彼」が今になって現れるなんて。
いやいや。なぜか見目が同じだけど、この天使は彼ではないはずだ。
「ドロスフィエル様?」
目の前の天使は「私」を呼んだ。
「あ、え、ええ。もう受け取ったわ。
もう結構だから、身体が大丈夫なら、天界に戻りなさい。」
「そうですか!安心しました。
ですが、すみません。なぜか羽根が動かなくて。少し休ませていただければと思うのですが。」
彼の羽根はよく見ると真っ白な中に少しだけ茶色がかった部分があるように見える。
肩にいるベルグラトがクスッと笑った。
私が神の力を使って彼を治そうとすると、ベルグラトが突然皿の上に移動した。
「なんか。気に食わないから俺が食べても良い?」
ベルグラトが座り込む彼に向かって手を振り上げると、
「だめ!」
つい大声を出してしまった。
神殿が揺れる。
雨風はもう止んでいた。
ベルグラトは驚いた顔をしてこちらを見た。
「はは、嘘だよドロスフィエル。慌てた顔もかわいいね。」
私は堕天使を無視して、彼に神の力を使って羽の傷を治した。
「ああ!ありがとうございます。
このご恩は忘れません、必ずお礼をさせてください。
申し遅れました。私は、中級天使 アクティと申します。
美しきドロスフィエル様。」
アクティと名乗った彼は、礼儀正しく、私に天使らしい一礼をした。
私が皿を下ろすと、アクティは静かに私の目の前に立つと、再びお礼をして神殿を後にした。
ベルグラトは心底満足そうな顔で私を見た。
「ドロスフィエル。やっぱり君は素敵だ。
ああ、本当に供物を持ってきてよかったよ。あはは!」
「いい加減にしろ駄天使!!!」
「不快。消えろ。」
アクティの姿が見えなくなるまで彼の姿を見つめた。
彼はお礼をすると言ったが、この神殿をまた訪れてくれるのだろうか。
心ここにあらずの私の姿を見て、使役悪魔たちは心配そうな顔をして私を見つめていた。
しばらくして、天界と地獄を繋ぐ冥界への門付近。
そこには一仕事終えて門を開こうとするアクティの姿があった。
門番に身分証を提示して、門を開けてもらおうとすると、
「やあ。」
ベルグラトの姿があった。
「ああ、あなたは!先ほどは、ドロスフィエル様の神殿まで案内してくださってありがとうございました。」
「困ったときはお互い様ってやつだよ。君、急に倒れちゃうからさ、天界に戻ったらしっかり休養したほうがいいよ?ところで…」
「ええ、そうします。…何か?」
アクティは人の好さそうな笑みを浮かべている。相変わらず天使ってのは気に入らない。
「さっき、ドロスフィエルに助けてもらったでしょ。具体的に、どんなお礼をしようと思っているのかな。
彼女は、地獄でも人気の神でね。生半可な供物じゃ満足してもらえないと思うな。」
「もちろん、存じ上げていますよ。ドロスフィエル様は見目麗しいだけでなく、地獄では珍しく信者たちや眷属にもよく慕われていると。
そうですね…、確かに、供物選びも慎重にしなければ。アカルポト様にも相談してみます。」
「ああだめだめ!アカルポトが選ぶ供物なんて時代遅れ過ぎてドロスフィエルが満足するわけないよ。
俺、結構彼女とは気が知れた仲でね。彼女について教えてあげようか?」
「それはありがたいお話ですが…。なぜあなたはそこまでしてくれるんです?」
「人助けさ。地獄ってのは暇なんだ。」
「そういうものなのですか…?」
「まあ俺が親切だっていうのもあるよ?そうだなまずは…」
門番は口を出さない。彼らは、冥界の門を守り、管理することだけが仕事として与えられているからだ。
こちらの世界の住人は、自分の役割だけを全うする。
神にそう設計されているから。
たとえ目の前の堕天使が、何を囁いていても、気にも留めないのだ。
冥界の門をくぐり、天界への階段を上る最中、アクティは考えていた。
「ドロスフィエル様…」
初めて謁見した、地獄の針番人 ドロスフィエル。
地獄の神にしては珍しく、美しく優しい神だとは聞いていたが想像と少し異なった。
事前に得ていた情報によると、信者との謁見の際は威厳ある態度をとるとのことだったが…
どこか慌てた様子だった。
中級天使の自分がこう言っていいのかはわからないが、なぜか彼女は寂しそうに見えた。
地獄で名を馳せ、毎日たくさんの供物を捧げられるほど慕われた神なのに、どうして自分には彼女が寂しそうに見えるんだろう?
なんにせよ、私は彼女に助けてもらった。そのお礼をしにまた会いに行かなければ。
しばらくして天界の仕事が落ち着いたころ。
アカルポトの目を盗んでアクティは再び冥界の門を叩いた。
天界で「ドロスフィエルの針」の使用が禁じられて、天界と地獄での取引はより一層厳しく取り締まられるようになった。
しかしその性質上天界と地獄が完全に切り離されることは不可能なので、中級天使以上の役職があれば地獄へ行くことは不自然ではない。
(これは、職務乱用ということになるのだろうか…?いや、助けてもらったお礼をするのは秩序だった行いのはずだ。)
アクティは二度目の地獄訪問となった。
結局、ベルグラトからの話とアドバイスをたくさん聞いたものの、供物を選ぶなんて経験が無さすぎるあまりに、迷いに迷って決めた彼女への供物…気に入ってもらえるだろうか。
地獄の空は赤く、暗い。天界の青い空とは大違いだ。
悲鳴が聞こえるのは当たり前で、ずっと血の匂いがするし、場所によっては風が激しく吹き荒れ、灼熱の気温になる場所もある。
ドロスフィエルの神殿は地獄の端の方にある。
風が吹き荒れる場所は天使の羽根が風を受けてまっすぐ歩けなくなってしまうので、そこを避けて、飛んでいくことにした。
ドロスフィエルの神殿に到着すると、そこは相変わらずの人気で悪魔や罪人たちが列をなしている。
この列に並ぶと謁見までだいぶ時間がかかってしまいそうだ。
そういえば、事前に手紙などを出しておくべきだっただろうか…。
アクティが考え込んでいると、小さな二匹の悪魔が話しかけてきた。
「お前はこの間の…、なぜ天使が用もなくここにいるんだ!」
「何の用ですか。」
ドロスフィエルと似た服装をしている。彼女の使役悪魔だろう。
説明すれば、彼女への謁見を取り付けてくれるだろうか。
「私は中級天使 アクティと申します。ドロスフィエル様に助けていただいたお礼をと思ったのですが…。
手紙も出さず、不躾な訪問となってしまいました。申し訳ありません。」
アクティが深々と頭を下げると、アレリとソルリは少し狼狽えた。
というのも、天使が悪魔に頭を下げることなんてありえないことだからだ。
「な…!」
「!」
「私はあまり長く地獄に滞在することができません。どうか、少しだけでもドロスフィエル様の謁見の許可をいただけませんか?」
「…ド、ドロスフィエル様は…お前が来た日からどこか上の空だ。」
「…少しだけなら、許可します。」
「! 感謝します。」
アクティは微笑んだ。
ドロスフィエルを慕うアレリとソルリは、最近の彼女の様子が心配でたまらなかったのだ。
彼女はいつも通り仕事をこなし、皆が望むドロスフィエルであり続けているけれども、彼女に一番最初に作られた使役悪魔の二人は、彼女の態度に隠れた違和感を感じ取っていた。
列をなす参拝者たちの対応を引き受け、アレリとソルリはアクティをドロスフィエルのもとに案内した。
アクティの姿を見るなりドロスフィエルは心底驚いた顔をした。
「ま、まあ。あの時の。もう羽根の具合は良くなったのかしら。」
まさか手紙もなしに急に彼が現れるなんて!
でも大丈夫、何度もシミュレーションしたもの。普段通りに接すればいいのよ。
「ドロスフィエル様。おかげさまで、私の羽根は以前よりも調子が良いです。あの時は、助けてくださって本当にありがとうございました。
本日は、そのお礼にと、供物をお持ちしたのです。」
「地獄の神として当然のことをしたまでです。ご苦労様。」
私は毅然とした態度をとらないと!
「何を贈るかとても迷いましたが、あなた様自身への贈り物が供物として捧げられることが少ないと伺いましたので、天界いちの技術職人が造ったこの櫛を…気に入っていただけると良いのですが。」
地獄の環境の性質ゆえ、装飾品などを用意できる身分は彼女と同等の神でないと難しい。さらに彼女は非常に美しいので、気後れしてしまう者がほとんどらしい。
「櫛…」
アクティが差し出しているのは、いかにも天界産の、真っ白で貝殻のような虹色の輝きをもつ櫛だった。
しかしドロスフィエルは地獄の山一つ分の大きさの身体を持つ。彼女にはいささか小さすぎるようだ。
ドロスフィエルは壊さないように両手でそれを受け取った。
「あれ…?おかしいな、使用者に合わせた大きさになると聞いたのに…」
ドロスフィエルがその櫛を受け取ってからも、櫛の大きさはアクティが持っていた時と変わらない。
「ふふ…とても素敵な櫛だわ。もったいなくて、使えないくらい。飾るだけでも素敵。ありがとう。」
これって、プレゼント、よね?
ドロスフィエルは、今までたくさんの供物をもらってきたけれども、この櫛は特別なような気がした。
自分の中の残滓が、跳ねて喜んでいるみたい。
ドロスフィエルはアクティに心からの笑みを見せた。
そうよね、今は、このプレゼントを心から喜んだっていいんだわ。
「あ…そ、そう言っていただけて、よかった。嬉しいです。その…あなた様の赤い髪は、とても素敵なので…。」
アクティは顔が沸騰するんじゃないかというほど熱くなるのを感じた。
なんだこれは。
初めての感覚だ。
前は彼女は寂しそうだと思ったのに、自分が選んだプレゼントに喜んでくれる彼女を見たら…。
「もし良かったら、また…会いに来てくれる…?」
「は、はいもちろん!」
また彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「また、すぐにでも。」
アクティは思わずそう言った。
彼を見送った後、
ドロスフィエルは突然、激しい頭痛に襲われた。
苦しむ彼女の声を聞きつけて、アレリとソルリが駆け付けた時。
彼女の山一つ分あった体躯は、普通の天使や悪魔と同じくらいになっていた。
「ドロスフィエル様!?」
「何事。」
アレリとソルリは非常に慌てた様子だ。
「ん…どうしたの?あれ、なんだか二人とも、大きくなったみたい。」
騒ぎを聞きつけて、限られた存在しか入れないドロスフィエルの謁見の間に、いつも通りどこからかベルグラトが入り込んできた。
「ええ!ドロスフィエル!どうしちゃったの!」
「あわわわわ…あの天使を通してしまったばっかりに…!?でもなぜ…!?」
「お、落ち着けアレリ。ま、まずは信者たちにこの姿を見せないようにしないと…!」
アレリとソルリは大慌てで走り去っていった。
「ベルグラト、あなたも、なんだか大きくなったみたい。」
状況を把握できていない様子のドロスフィエル。
ベルグラトは彼女にゆっくり近づくと、手を自分の頭と彼女の頭の上に乗せて、わざとらしく身長を測るような素振りをした。
今はベルグラトのほうがかなり身長が高い。
「俺、最近筋トレしてるんだ。…君は、神格が下がっちゃったのかな?」
「神格?」
「でもこれはこれで、可愛いよドロスフィエル。ふふ。」
ベルグラトはドロスフィエルの頭を撫でた。
さすがに少し腹が立ってきて、彼の手を払いのけた。
「…どういうこと?」
「うーん。どういうわけか、君の神としての格が下がっちゃってるみたい!」
神としての格が下がる…?どうして?
よくわからないが、それによって私の身体が、縮んでしまったらしい。
「ん~?手に持ってるその趣味の悪い白いの、何?」
今の縮んでしまった彼女には、アクティがプレゼントした櫛が丁度いい大きさになっていた。
むしろ少し大きいくらいだ。
そうだ、この櫛が丁度いい大きさになったら、彼が褒めてくれたこの髪を梳かすことができるではないか。
うれしくなって、彼女は櫛を抱きしめた。
「うえ。ねえ、な~にそれ?教えてよ。」
「うるさい。もらったの。」
「俺の供物に?」
「もうあなたの供物じゃないわ。」
「妬けるな~。」
そうだ。身体が小さくなって困ることなんて何もない。
元はよくわからないまま地獄の神になってずっとその役目をこなしてきていたんだから。
このあたりでもう神を辞めたっていいんじゃない?
「でも気を付けてねドロスフィエル。地獄は天使には合わないからさ。」
ベルグラトはそう囁いて、いつも通りふらふらと手を振って消えていった。
天使は天界、悪魔は地獄にいるものなんだから当たり前でしょう。
いまさら何を。
数日経ってもドロスフィエルの身体は依然として小さいままで、神格が下がったと地獄の住人に知れ渡ってはいけないというアレリとソルリの判断で、今まで行われていた謁見は完全に無くなった。
罪人への刑の執行も、ありがたいことに私のたくさんの使役悪魔たちが代わりにやってくれている。
それは同時にドロスフィエルが自由に過ごせる時間が増えたということであり、暇があれば神殿の外を散歩したり、誰もいない場所を選んでそっと出かけたりした。
彼女にとってその時間はいままで無かったもので、新鮮な気持ちだった。
ベルグラトがたまにふらっと現れては、ドロスフィエルを心配する信者たちからの供物を勝手につまみ、アクティの櫛に対して文句を言ったりした。
前回よりも間を開けずにアクティは再びドロスフィエルの神殿に訪れた。
今回は、アレリとソルリよりも先に、神殿の周りを散歩していたドロスフィエルと出会った。
「ま、また手紙を出さずに来てしまいました…って、あれ、ド、ドロスフィエル様!?」
アクティは非常に驚いた様子で、二、三歩後ずさりして身振り付きで驚愕を表した。
その姿がなんだかおもしろくて、ドロスフィエルはふふと笑った。
「ど、どうしてそのようなお姿に!?い、いや、その姿も…じゃなくて!えっと…」
「なんだか、神格とやらが下がってしまったらしいの。」
「な、なぜ…」
「わからない。でもいいの、あなたがくれた櫛が使えるし…。あれ、とても良いわ。天界には、腕の良い職人がいるのね。」
異常な事態だろうに、ドロスフィエルはなぜか落ち着いている。
自分が悩んで決めて、プレゼントした櫛をほめてくれて嬉しいが、あの巨大な身体をしていたドロスフィエルが自分よりも小さな目線から話しかけてくるのに慣れない。
アクティは天界の書物で神格についての知識をある程度持っていた。
神格が下がるなんて、よほどの罪を犯した事例くらいしか本に載っていなかった。
しかもその事例は神としての立場をはく奪され消滅したというもので、このように身体が縮んでしまったなんて聞いたこともない…。
「ねえ、聞いてる?あなた、私に会いに来たのよね?」
「それはそうですが…、些か、落ち着きすぎではありませんか?」
「ふふ、確かにそうかも。でも今の姿も、悪くないでしょう?」
ドロスフィエルはいたずらっぽく笑うと、こっちに来て、とアクティの手を引いて走り出した。
アクティも、彼女が神格について気にしていない様子だったので、まあいいか、という気持ちになっていった。
走っていった先は、神殿の裏にある大きな赤い池だった。
神殿の一部なだけあって、黒い石造りの装飾が施されていた。
赤い池に浮かぶ細い歩道を歩くと、赤い池に浮遊するように佇む屋根付きの小堂がある。
二人はその歩道を歩いた。
アクティは初めて見る赤い池を何度も目をやって凝視すると、
「この赤い液体は…」
と言った。
前を歩くドロスフィエルはにやりとして振り向いて、
「ここは地獄よ?」
と笑った。
アクティは一瞬きゅっと目を閉じて、で、ですよね…と言った。
小堂に着いて、二人は向かい合う豪華な椅子に座った。
間には猫足の小さなテーブルがある。
ドロスフィエルは両手で頬杖をついてアクティの方を見た。
アクティは、かしこまった様子で両手を膝にまっすぐついて座っている。
「もっと楽にしてくれていいのに。今日は、どうしたの?」
なんだかこうして向かい合って話していると、人間のころに戻ったみたい。
前会ったときはすっかり狼狽えてしまったけれど、こうして目線が一緒になるとなんだか安心するわ。
人間の時も、彼が結婚する前はよくご飯に連れて行ってくれたりしていたっけ…。
アクティと同じ目線で話をしていると、忘れていた、人間のころの記憶が溢れてくる。
「彼」は、こんなにかしこまって座らなかったけれど。
いつも私が食べたいものを、何でも食べていいよって、言ってくれたわ。
「今日は、中級天使になってから初めての休日で…。なにをしようか迷っていた時、あなたの顔が思い浮かんだんです。」
アクティは真っ赤になって言葉を紡ぐ。
初めての休日に私に会いに来てくれたの?こんなに嬉しいことはないわ!
「とっても嬉しい。たくさんお話ししましょう。この池には、私と限られた使役悪魔しか入ってこれないの。」
「は、はい!」
ドロスフィエルは今の自分に感謝した。だって「彼」が今私だけを見てくれているなんて、不思議な感覚。
この気持ちが人間だったころの私の残滓によるものかもしれないことは、見ないようにした。
だって、そんなもの見たって、考えたってしょうがないじゃない。
ドロスフィエルとアクティは、時間の許す限りたくさん話をした。
神殿から冥界の門までは、誰にも見つからずに行くことが不可能なので、ドロスフィエルが天界に行くことはできない。
その代わりアクティは時間を見つけては彼女に会いにきた。
時には池の小堂で話を、小舟を池に浮かべたときもあった。
誰も立ち入らない埃の被った神殿の屋上で、地獄の赤い空を2人で眺めたりもした。
確実に2人は惹かれあっていた。
地獄の、お世辞にも美しいとは思えない、燃え上がるような赤い空を見ながら、アクティはこう言った。
「私は、冥界に興味があるのです。
中級天使という役職を得て、こう言っていいのかわかりませんが、冥界は、人間たちが人生を全うして一番最初に辿り着く場所…。碧海で、魂がどんな輝きをしているのか、見てみたい。」
天国と地獄の間にある、冥界。そこの人間界に近い部分には、碧海(へきかい)という、死者の魂が流れる海があると言う。
自らの地獄行きか天国行きかを決める審判が下されるまで、人間の魂は、碧海に漂うのだ。
彼女は、少し特殊だったけれど。
「冥界は、人間界の海と繋がっている。
天界はとても美しいところですが、静かで、閉鎖的だ。」
アクティはそう溢した。
きっと心からの言葉なのだ。
「でも役職を持つ天使は碧海には立ち寄れない。
冥界の門を開ければ、天国に続く階段を登るようにだけ設計されていますから。
仕方のないことですね。」
きっと天使という役割上、誰にも話したことがないことを私に話してくれたことが嬉しい。
もちろん応援したいけれど…
アクティの諦めたような笑みをみて、寂しさを覚えた。
「希望を持つことは、素敵なことだわ。
あなたがその気持ちを持てることは、何かきっと意味があるはず。」
私は精一杯、彼を勇気付ける言葉を選んだ。
本当にそう思うから。
するとアクティは少し驚いたように目を瞬かせたあと、照れたように笑った。
「こんなこと、誰にも話したことがないから、聞いてもらえただけで嬉しいです。」
彼の姿を見て、ドロスフィエルは自分の言葉選びが間違っていないようだと安堵した。
それと同時に、彼の羽根に目がいった。
アクティの羽根の先が、黒くなっているーー
「は、羽根が…!」
最初にアクティがドロスフィエルの神殿を訪れた時よりもはっきりと、より黒々とした黒色になっている。
アクティが羽根を動かしてそれを見ると、何も言わず驚いた表情をした。
「待って、今治すから…」
ドロスフィエルが手を翳しても、前のように治療できない。
慌てていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「神格が下がっているから、無理だろうね。」
ベルグラトが柱の影から姿を見せ、皮肉な笑みを浮かべている。
アクティに歩み寄り、彼の羽根を見て鼻で笑うと、
「地獄の神への献身はね、天界では罪なんだよ。」
天界での罪ーーそれはすなわち堕天してしまうことを意味している。このままでは…
そんな!私のせいでアクティが消されてしまうかもしれないの?
また大切な人を失うの…?
「そ、そんな、わ、私…私のせいで…?」
同時に人間だった頃の嫌な記憶が一気に押し寄せてきた。
また誰かを失う感覚、繋がれない記憶ーー。
ドロスフィエルは立っていられなくなってその場にしゃがみ込んでしまった。
アクティは挑発するような態度のベルグラトを振り切って彼女に駆け寄る。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい!」
またしても誰かに期待してしまった。
それでまた、失うんだわ。
今度は確実に私の存在のせいで…。
アクティは彼女を宥め、抱き寄せた。
「違う。私の行動は、私が選んだこと。」
そして静かに、こう続けた。
「あなたは、あなたのままで美しい。」
呼吸が一瞬できなくなった。
また、そう言うの?
天使の姿になってまで、あなたは私のことを見てくれるの…?
「で、でも…」
アクティの羽根がみるみる黒くなってゆく。
彼は、微笑んでいる。寂しさは含まない、優しい笑みだ。
彼をこのまま堕天させていいの?
このまま流れに身を任せてしまったら、残滓の私が消化されないまま、また大事な人を失うだけ。
それでは前と同じだわ。
私にだけ自分の希望を話してくれた彼の力になりたいーー
ならば。
ドロスフィエルは、力を込めた。
自分の神格に願いを込めて。
それに応えるかのように、彼女の手には真っ赤な針が現れた。
「アクティ、これを、あなたに。」
羽根はもう少しで真っ黒になりそうだ。
ベルグラトは口を挟まず見守っている。
「これは私の針。あなたは、あなたの希望を貫いて。」
ドロスフィエルはその赤い針をアクティに突き立てた。
彼らを中心に、耳鳴りのような音と同時に衝撃波のような激しい風が吹き荒れる。
「これが、神の力…!」
ベルグラトが瞳を輝かせる。
目も開けていられないほどの衝撃の中、ドロスフィエルは願いを込めて針を握り続けた。
アクティは、その手を握った。
暫くして風がおさまる。
ドロスフィエルがゆっくりと瞳を開くと、アクティは白い羽根を取り戻していたが、中級天使の装束ではなく、赤と黒をした天使の装飾を纏っていた。
アクティも、驚いたように自分の装飾を見ていた。
「ドロスフィエル様の加護を感じます…。」
こう溢した。
天使の装束だけれど悪魔のような色。でも真っ白な羽根はある。
ちぐはぐなアクティの姿に、ドロスフィエルも困惑した。
「私の…加護…??」
「はい、今までの、創造主の加護ではなく、あなたの…。
実は私も、よくわかりません。はは。
とにかく、またあなたに助けられたようです。」
ドロスフィエルもよくわかっていないが、アクティが消えなくて良さそうなので、ほっとしてまた膝の力が抜けた。
「よ、よかった…。」
「へえ!すごい!こんなこともあるんだね。いいもん見た。」
安堵する空気を切り裂くようにベルグラトが再び口を挟んできた。
「ドロスフィエルの加護なんてさ。羨ましいよ。
まあでも、その装束じゃ、天界には戻れないね。」
「確かに…。」
ぎくっとした。
アクティはまた装飾を眺めている。
確かに、あんな地獄色じゃ、天界には…。
「いいんです。この装束は、私自身の希望を貫けと、応援してくれている気がします。」
そしてドロスフィエルをみて、また微笑んだ。
「本当にありがとう。
私は、私の希望を貫きます。
あなたも、あなた自身のままでいてください。」
私自身…。
今の私は…。
「…そうね、あなたが私の加護を得ているなら。
私が、私自身のままいなくちゃね。」
私は自分の力で大切な人を守れた。
ならば。もう「残滓の私」とは訣別する。
今私が感じている気持ちは、今の私のものだと信じて。
ドロスフィエルは再び力を込める。
先ほどとは打って変わって、より力強く大きな、赤い針が幾重にも積み重なってゆく。
彼女を包み込んだ後、その形は大きな赤と黒の杖に変わっていた。
彼女の身体も、元の地獄の山一つ分の体躯に戻っていた。
その杖をかざす。
そうしなければならない気がした。
赤と黒の煙が現れ神殿全体を覆い、彼女自身も包んだ。
そして煙の中で彼女は目を閉じた。
煙の中で、人間だった頃の私が目の前にいる。
「私」が私の手を握る。
やっとわかった。
誰かと繋がりたかった私を守るために、記憶として私の中にいてくれたのよね。
ずっと見て見ぬふりをしていてごめんなさい。
今度はね、今の私の力で、大切な人を失わずに済んだわ。
心から私はあなたにこう言いたい。
「もう、大丈夫。ずっとそばにいてくれてありがとう。」
「私」は微笑み、頷いた。
「これからは新しい私を生きる。あなたはもう休んで。」
握られた手を離す。
私は、人間だった頃の私を手放す。
それは前世の記憶を失うということを意味するけれど。
それでいい、私も、新しい希望を見つけるわ。
神格が戻るのを感じる。
「私」に、お礼を言われているような気がした。
再びドロスフィエルが目を開けた時、神殿はより豪華なものになった。
手元には、地獄の神の力を示す新しい杖。
足元には、新しい姿をしたアクティと、すべての元凶とも思えるベルグラトがいた。
アレリとソルリも駆け寄ってきて、元の彼女の姿を見てぴょんぴょん喜んでいる。
「これが今のあなたなのですね。」
アクティがそう言う。
そしてドロスフィエルはこう返した。
「ええ。だって私は、地獄の針番人だもの。」
これは不本意ながらも地獄で名声を馳せた「彼女」のお話。
「お母さんは、――の味方よ。約束。」
「――はお父さんの一番大切な娘だよ。お前がくれた手紙はずっととってあるんだ。」
「これからはずっと俺が――のそばにいるからもう大丈夫。約束。」
「お母さんが可哀想だと思わないの?私だけがいつも大変じゃない。」
「離婚したあとも娘にここまでしてやる父親はいない。お父さんだって大変なんだよ。」
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません。』
「そうだな、じゃあ約束しよう、指切りでもする?」
「…しない。なぜか私と指切りした人は、みんな約束を守ってくれないから。」
これが走馬灯か。幼いころから交わしてきた数々の約束が目の前を掠める。
あたりは真っ暗で自分の姿すらも認識できない。しかし目の前に小さな光が漂っている。
「短い人間生活、お疲れさまでした。ここは冥界と呼ばれる場所です。あなたは死にました。」
やっぱりそうか。そんな気はしていた。
しかしあいかわらず記憶はとぎれとぎれだ。
「いやあそれにしても、あなたは生前、たくさんの人と指切りをしたんですね。両親、婚約者、友人、親戚、同僚…そしてみな、あなたとの約束を守ってくれなかった。おいたわしい!」
余計なお世話だ。
「彼らは死後、針を千本飲まなければなりません。そういうものなのです。実はあなたが飲ませる予定の針の数は、天界記録なんですよ。
…おや?一人だけ針を飲ませそびれた人がいるではないですか。彼にも飲ませることができていたら、天界地獄含めての記録達成でしたのに。
惜しかったですね。ですが、これは素晴らしい記録です。これを讃えて、あなたには地獄の針番人という、神としての立場を与えることになりました!
よかったですね。みなから恐れ崇められる存在として、地獄生活を謳歌するといいですよ。」
こう言われたのが、もう随分と前のこと。
わけのわからぬままこちらの世界にやってきて、気が付けば私は地獄の偉い人になっていた。
もはや人と呼べるのかも怪しいのだが。
人間にしては長すぎる赤い髪、禍々しい角、少々露出度の高い赤と黒を基調とした服装、それに相応しく豊満な身体。
そして何より、私の身丈は地獄の山一つ分ほどもあるのだ。
地獄の山といっても想像がつかないだろうが、人間の平均身長と比べ物にならないくらいの大きさだと思ってほしい。
確かに私は生前、他者に約束を破られ続けてきたようだ。終盤のほうは、もう誰かに期待をすることすら半ばやめていたような気がする。
幸か不幸か、地獄の針番人になったいまも、人間だったころの記憶が残っている。
創造主の設計ミスか?と思ったが特に困ることもないのでそのままにしている。
「ドロスフィエル様、本日もお美しい!」
そう。この重厚感のある名が、今の私の名前。
突如地獄のそれなりの地位についた私のもとには、下級悪魔や地獄の死者たちがよく供物をもって私の神殿に現れるのだ。
この供物というのがまた困ったもので、不当に冥界からくすねてきたと思われる死者の魂(こっそり冥界に送ってやっている)や、地獄の土をこねて作った大きな窯(何に使えば?)、ほかの地獄部署の罪人たちの血を集めた巨大な瓶(地獄で人気の血液風呂に寄付したっけ)、さらには罪人たちの臓器を小綺麗に並べた装飾が豪華な箱(腐らないのか心配だわ)…のように、いかにも地獄風味なものたちが毎日私のところへせっせと運ばれてくる。
最初は困惑したものの、崇め奉られるというのも悪くないもので、最近は供物の返礼として私の針を渡すと、彼らは「これがあれば乗り越えられる!」と大喜びして去っていく。
さらに笑みを返すと、みな卒倒するばかりか、性別問わず淫魔たちにも慕われるようになって驚いた。
「当然です!ドロスフィエル様は地獄いちの美貌をお持ちですよ。最近は、あなた様を一目見たいと罪人たちが順番待ちをしている状況です。」
地獄の針番人と言うだけあって、私の地獄での役割は、「生前大切な約束を破った罪人に針を千本飲ませること」、「針が無数に設置されている場所に罪人を落とす針地獄の管理と執行」、「地獄におけるすべての針の管理」などなど。
私の仕事と役割は多岐に渡り、大変に見えるがまがりにも神の一員であるからか実はそうでもなく、特に針と呼べるものすべてに私の力が宿っているというのは不思議な感覚だ。
というのも、私が念じれば即座に赤黒い針が生まれる。
その針は、なんであっても貫くことができる。物体はもちろん、己の意志のような、形のないものであっても。
しかし同時に針自体は脆いものであり、一度使用すれば崩れ落ち消え、使い方によっては使用者もろとも崩れ落ちてしまうのだ。
そんな諸刃の剣であっても私の針を求める者は多く、地獄を忌み嫌う天界の天使すら私の元を訪れることがある。
強いて言うなら、一番大変なのは罪人たちに針を飲ませることかもしれない。
嘔吐く罪人たちに、私の使役悪魔たちが無理やり針を飲ませる様子を眺めるのは気持ちの良いものではなかったが、最近はもう慣れてきた。
人間の頃の記憶があると言ったが、私が生前指切りを交わした人間たちの顔だけは絶対に思い出せない。
私が針を飲ませた罪人たちの中に彼らもいたのかもしれないが、もう過ぎたことで、興味もないのだった。
「憂い顔も美しいね、ドロスフィエル。今日もたくさんの供物だ。さすがだね。」
こう言うのは地獄の悪魔、ベルグラト。
彼は元は天界で名の知れた天使だったようだが、何か事件を起こし、地獄送りになったらしい。
天界で罪を犯せば消滅は免れないそうだが、「俺は力のある天使だったからそれはできないんだよね~」とのこと。本当かはわからないし、興味もない。
名前さえ失って、自らベルグラトと名乗っている。
天使だった名残か非常に美しい容姿をしている。背中の痛々しい大きな傷を除いては。こちらでは堕天使とも呼ばれる身分だ。
堕天使は地獄でやることがなくて暇だと言い、私の神殿へ現れては供物を勝手にどこかへ持っていったり、天界にいた頃の話をしてきたり、私を慕う淫魔を誑かしたり、まさに悪魔のようなことをしている。
「あ、この供物。いいね、もらっていい?」
「ご勝手に。」
「ああ、興味のなさそうな顔も唆られるな、そろそろ君の人間だった頃の話が聞きたいんだけど。」
ベルグラトはどこから聞いたのか私が元人間であることを知っている。
地獄で恐れられている私は、崇められるばかりで話し相手と呼べる存在がいなかったので彼の存在は少し特別だが、自分の身の上話をできるほど信用もしていないのだった。
だからいつも聞こえていないふりをする。
「ねえ!ドロスフィエル。無視しないでよ。」
もちろん私の方がはるかに大きい身丈をしているので顔を逸らせば彼は私の顔なんて見えない。
こうなると、私の使役悪魔である2人がすぐに駆け寄ってくる。
「ベルグラト!また現れたな!!」
「ドロスフィエル様の供物をくすねるのみならず不快な口を開いて。不敬。」
アレリとソルリと名付けた私の使役悪魔は、私が一番最初に造った悪魔で、一番気に入っている。
「げ。思ったより早かったな。じゃあまた来るから~。」
ベルグラトの見目は美しいと思うけれども、あの飄々とした感じがどうも掴みきれない。
「ドロスフィエル様、あの駄天使になにもされていませんかあ~!!アレリは心配です…!!」
「ソルリも心配です…。」
アレリとソルリは2人で私の手に乗るほどの大きさで、とても私を慕ってくれているので非常に可愛い。
アレリが赤、ソルリが黒の、私と似た装飾を身に纏って、大きすぎる私の私の身の回りの世話をしてくれている。
私の使役悪魔なだけあって、彼らも武器として彼らの身丈ほどの針を常備しており、それもまた可愛らしい。
「大丈夫よ。いつも心配してくれるのね。」
「当然です!」
「当然です。」
「ドロスフィエル様、天界から手紙を預かっております!」
「私達はこちらを渡しに参ったのです。」
ソルリが私に差し出したのは小さな光の塊で、私が触れるとそれは私が読みやすい大きさの手紙の形になった。
「ありがとう。持ち場に戻っていいわ。」
「はい!」
「お返事を書かれた際は、私達にお申し付けください。」
私が2人を撫でると、彼らは可愛らしく笑ってスキップをしながら持ち場へ戻っていった。
手紙の内容はこうだった。
親愛なる隣人、地獄の針番人ドロスフィエル様
初めてお手紙差し上げます。
私は天界の上級天使、アカルポトと申します。
まずは貴職の日々のご尽力に敬意を表します。
私は長い間、上級天使として天界を守ってまいりました。
最近は私の部下たちが、信念を持って仕事をこなすようになり、天界の秩序は以前に比べて強固なものになったと実感しています。
聞くに、あなた様は供物の対価として、針を賜っているそうですね。
その針には、なんでも貫く力があるのだとか。
近年、天界の下級天使たちが、自分の仕事を全うするという意志を貫くために、地獄の麗人であるあなた様の針を利用していると調査がされました。
この行為は、天界と地獄の均衡が崩れてしまう可能性があると、私は危惧しています。
天界と冥界の均衡は我々の共同の負担であり、その均衡の逸脱は双方にとって望ましくありません。
つきましては、天界に存在するあなたの針を一括して回収して、近々、使いの者にその全てを返却しに伺わせます。
受け取りのうえ、以後は天界との如何なる取引も差し控えていただきたく存じます。
どうか、秩序を重んじた対応をお願いいたします。
上級天使 アカルポト
…どうやらわたしは怒られてしまったようだ。
確かに、天界の下級天使たちが私のもとを訪れるということは最近よくあった。
天界のお菓子、美味しかったのに。
「へえ、アカルポト。偉くなったもんだね。」
私の肩のあたりで頬杖をついているのは、またしてもベルグラトだった。
「戻ってくるのが早いわね。」
「さっきは出て行くと見せかけて、供物の新鮮な臓器を頂いてたんだよね。ご馳走様。」
この男の悪食は毎度のことだ。
真っ赤に染まった手と口元は彼の美しい容姿に妖艶な磨きをかけており、神殿に来ている淫魔たちが釘付けになっている。
「アカルポトなんてさ、俺が天界にいた時は下級天使と同等くらいだったんだよ?天界なんて腐ったところだよほんとに。嫌になっちゃうね。」
「天使のあなたを知っている天使たちが今のあなたを見たら驚くでしょうね。」
ベルグラトは指についた血を舐めながら視線をこちらへ向けた。
「地獄はいいとこだねえ。毎日好きなことしてて良いんだもん。君みたいな美麗な神と仲良くなれたしさ。」
「あなたも私に供物を捧げても良いのよ?」
つい口をついて出た。
最近は人間の頃のことを思い出すことも少なくなって、地獄の神としての自分に適応してきているようだ。
「おお!うん、確かに。それも悪くないね。よし。たまには君に捧げ物をしてみようかな。」
ベルグラトは意味ありげに笑みを浮かべると、楽しみにしててね~と、神殿を出ていった。
その姿を発見したアレリとソルリが怒りながら彼を追いかけるのを少し微笑ましい気持ちで眺めた。
彼がその「供物」を持ってくる日は、思ったよりもすぐに訪れた。
「ドロスフィエル!」
ベルグラトが珍しく神殿の正面から現れ、他の礼拝者と同じように私の前に「供物」を置いた。
「約束の供物です。どう?気に入った??」
見ると、神殿の大きな皿の上には、見たことがない装飾を身につけ、大きな白い羽根を携えた天使が横たわっている。
しかもまだ息があるようだ。
「…これがあなたの供物なの?」
「ああそうだよ。君が気にいると思ってさ?
ふ…まあもう白状しちゃうんだけど。
アカルポトの馬鹿がよこした使いの天使!ははは!」
ベルグラトは腹を抱えて笑っている。
彼は本当に天使だったんだろうか?悪魔よりも悪魔然としすぎている。
よりにもよって使いの天使を手にかけるなんて…
「なんて奴!!ドロスフィエル様の顔に泥を塗ったな!!」
「悪魔。駄駄天使。」
「あなたのことだからふざけるんだろうなと思った。アレリソルリ、落ち着いて、彼の治療をするから。」
今にも武器をベルグラトに突き立てそうなアレリとソルリを抑えて、私は皿の上で伸びている天使を治療しようと皿を持ち上げた。
「ええ。もう治しちゃうんだつまんない。もっと彼をよく見てみてよ。」
ベルグラトが残念そうに口を尖らせている。
悪食でおふざけがすぎる堕天使を無視して皿の上の天使に顔を近づけると、私は驚いて固まってしまった。
「え…」
「ドロスフィエル様?」
「如何されましたか。」
「ほらどうしたの?早く彼を治療しないと俺が食べちゃうよ。」
皿の上で眠っている天使は、私が人間だった頃に唯一指切りをしなかった「彼」と同じ姿をしていた。
「なんで…」
私は皿を持ったまま呆然としてしまった。
人間だった頃の記憶なんて、最近はずっと思い出してもいなくて、関わった人たちの顔も思い出せなくなっていたのに。
どうして天使の姿で彼が現れるの?
「あとほらドロスフィエル。この天使が持ってきた針ね、淫魔たちに配っといたから。ねえ聞いてる??」
ベルグラトがわざとらしく私に話しかけてくる。
「どうしたっていうのさ。その天使、知り合いだった?」
「ドロスフィエル様…?」
「心配。」
アレリとソルリが純粋な眼差しで私を心配している。
人間だった私と、地獄の神である私が揺れている。
私を慕ってくれているアレリとソルリに心配をかけたくない。
次第に心が乱れてきた。
地獄の神になってから初めての経験だった。
やがて神殿の周りの天気すらも荒れ始め、日常的に暗い地獄の空がより暗くなった。雨風が吹き荒れ、神殿に雨が激しく打ちつけた。
神殿の外にいた他の使役悪魔たちも神殿の中に入ってきて、心配した眼差しで私を見上げた。
「ドロスフィエル様?」「如何されたんですか?」「雨なんて初めてみた!」「雷が鳴ってる」
使役悪魔たちがざわざわし始めて、アレリとソルリがそれを制してくれた。
思考が完全に停止していると急に、皿の上の彼が起き上がった。
私は視界の端で起き上がる彼に驚いて顔を向けた。
「んん……。ん……?ここは……。
……おお!あなたがドロスフィエル様。
聞いていた通り、とても美しい方だ。」
私が焦がれたあの笑みで彼が私を見る。
声までも同じなんて!
「えー、もう起きたの?踊り食いは流石に趣味じゃないかも。」
いつのまにか私の肩の上に来ていたベルグラトはやれやれと腕を組んだ。
「あ、あなたは、天使の…使い…ですか…?」
なんだか私の中に2人いるみたいな感覚になって、気持ちが悪い。
「あはは、なにそれ!ドロスフィエル、かわいい。」
ベルグラトはまた腹を抱えて笑っている。腹立たしい。元はと言えばお前のせいだ。
しかし私はそんな堕天使のことなんてもう目に入っていなかった。
「ええ。すみません、なぜか意識を失っていたみたいです。
私がアカルポト様の使いです。
あなた様の針を返却しに参ったのですが…すみません、私は、もう針を渡しましたか?」
見慣れた、少し抜けたような笑みが私の心を刺した。
同時に、人間の頃の記憶が流れ込む。
唯一私が指切りをしたくなかった相手ーー。
私は生前、婚約者を亡くしている。
理由は、わからなかった。
大人になりきれなかった両親の揉め事に巻き込まれ、疲れ果てた私に、「これからは自分がそばにいる」と指切りまでして約束した婚約者は、理由もわからぬまま突然行方をくらまし、その先で亡くなっていた事実だけが私に告げられた。
私が他人に期待するのをやめようと諦めてしまったのも、この出来事が大きかったんだろう。
理由がわからなかっただけに、自分を責め続ける毎日を随分と長い間過ごした。
「彼」は、私の歳の離れた幼馴染だった。
私は彼に憧れていたし、彼も私をよく気にかけてくれていた。
とても仲良くしていたが、彼の結婚を機に次第に疎遠になっていった。
寂しい気持ちもあったが、仕方がないと言い聞かせていた。
どこから私の話を聞いたのか、彼は突然、遠方に住んでいたのを無理やり帰ってきて、美味しいものでも食べようと、私を食事に誘った。
いつしか表にはあまり出せなくなっていたが、私は彼を心から慕っていたので、つい、つらつらと自分の心の内を曝け出してしまった。
彼は黙って私の話を聞いた。
そして、聞き終わると、君が生きててくれてよかったよ。と言った。そして、
「君は君のままでいいんだよ。」
と続けた。
私はきっとそれがとても嬉しかった。
私はずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。
心を開け渡してしまいそうになったが、私はもう他人に期待して傷つくのが嫌だった。
それに、彼の立場も、それが許されない人だ。
「俺ができることは、なんでも力になる。他人に、頼って良いんだよ。1人で抱えこまないで。」
「ありがとう、私は、大丈夫だよ。」
「俺も幼馴染として力になるからさ。そうだな、じゃあ約束しよう、指切りでもする?」
「…しない。なぜか私と指切りした人は、みんな約束を守ってくれないから。」
嫌なことを思い出した。
思い出したくなかった。確かこの後すぐに、私は交通事故でーー。
昇華されない、他人と繋がりたくても繋がれなかった、ちっぽけな人間の記憶。
その可能性を心から欲して、しかし同時に顔をそむけ続けた、残滓のような彼女を、少しだけ見つけてくれた「彼」が今になって現れるなんて。
いやいや。なぜか見目が同じだけど、この天使は彼ではないはずだ。
「ドロスフィエル様?」
目の前の天使は「私」を呼んだ。
「あ、え、ええ。もう受け取ったわ。
もう結構だから、身体が大丈夫なら、天界に戻りなさい。」
「そうですか!安心しました。
ですが、すみません。なぜか羽根が動かなくて。少し休ませていただければと思うのですが。」
彼の羽根はよく見ると真っ白な中に少しだけ茶色がかった部分があるように見える。
肩にいるベルグラトがクスッと笑った。
私が神の力を使って彼を治そうとすると、ベルグラトが突然皿の上に移動した。
「なんか。気に食わないから俺が食べても良い?」
ベルグラトが座り込む彼に向かって手を振り上げると、
「だめ!」
つい大声を出してしまった。
神殿が揺れる。
雨風はもう止んでいた。
ベルグラトは驚いた顔をしてこちらを見た。
「はは、嘘だよドロスフィエル。慌てた顔もかわいいね。」
私は堕天使を無視して、彼に神の力を使って羽の傷を治した。
「ああ!ありがとうございます。
このご恩は忘れません、必ずお礼をさせてください。
申し遅れました。私は、中級天使 アクティと申します。
美しきドロスフィエル様。」
アクティと名乗った彼は、礼儀正しく、私に天使らしい一礼をした。
私が皿を下ろすと、アクティは静かに私の目の前に立つと、再びお礼をして神殿を後にした。
ベルグラトは心底満足そうな顔で私を見た。
「ドロスフィエル。やっぱり君は素敵だ。
ああ、本当に供物を持ってきてよかったよ。あはは!」
「いい加減にしろ駄天使!!!」
「不快。消えろ。」
アクティの姿が見えなくなるまで彼の姿を見つめた。
彼はお礼をすると言ったが、この神殿をまた訪れてくれるのだろうか。
心ここにあらずの私の姿を見て、使役悪魔たちは心配そうな顔をして私を見つめていた。
しばらくして、天界と地獄を繋ぐ冥界への門付近。
そこには一仕事終えて門を開こうとするアクティの姿があった。
門番に身分証を提示して、門を開けてもらおうとすると、
「やあ。」
ベルグラトの姿があった。
「ああ、あなたは!先ほどは、ドロスフィエル様の神殿まで案内してくださってありがとうございました。」
「困ったときはお互い様ってやつだよ。君、急に倒れちゃうからさ、天界に戻ったらしっかり休養したほうがいいよ?ところで…」
「ええ、そうします。…何か?」
アクティは人の好さそうな笑みを浮かべている。相変わらず天使ってのは気に入らない。
「さっき、ドロスフィエルに助けてもらったでしょ。具体的に、どんなお礼をしようと思っているのかな。
彼女は、地獄でも人気の神でね。生半可な供物じゃ満足してもらえないと思うな。」
「もちろん、存じ上げていますよ。ドロスフィエル様は見目麗しいだけでなく、地獄では珍しく信者たちや眷属にもよく慕われていると。
そうですね…、確かに、供物選びも慎重にしなければ。アカルポト様にも相談してみます。」
「ああだめだめ!アカルポトが選ぶ供物なんて時代遅れ過ぎてドロスフィエルが満足するわけないよ。
俺、結構彼女とは気が知れた仲でね。彼女について教えてあげようか?」
「それはありがたいお話ですが…。なぜあなたはそこまでしてくれるんです?」
「人助けさ。地獄ってのは暇なんだ。」
「そういうものなのですか…?」
「まあ俺が親切だっていうのもあるよ?そうだなまずは…」
門番は口を出さない。彼らは、冥界の門を守り、管理することだけが仕事として与えられているからだ。
こちらの世界の住人は、自分の役割だけを全うする。
神にそう設計されているから。
たとえ目の前の堕天使が、何を囁いていても、気にも留めないのだ。
冥界の門をくぐり、天界への階段を上る最中、アクティは考えていた。
「ドロスフィエル様…」
初めて謁見した、地獄の針番人 ドロスフィエル。
地獄の神にしては珍しく、美しく優しい神だとは聞いていたが想像と少し異なった。
事前に得ていた情報によると、信者との謁見の際は威厳ある態度をとるとのことだったが…
どこか慌てた様子だった。
中級天使の自分がこう言っていいのかはわからないが、なぜか彼女は寂しそうに見えた。
地獄で名を馳せ、毎日たくさんの供物を捧げられるほど慕われた神なのに、どうして自分には彼女が寂しそうに見えるんだろう?
なんにせよ、私は彼女に助けてもらった。そのお礼をしにまた会いに行かなければ。
しばらくして天界の仕事が落ち着いたころ。
アカルポトの目を盗んでアクティは再び冥界の門を叩いた。
天界で「ドロスフィエルの針」の使用が禁じられて、天界と地獄での取引はより一層厳しく取り締まられるようになった。
しかしその性質上天界と地獄が完全に切り離されることは不可能なので、中級天使以上の役職があれば地獄へ行くことは不自然ではない。
(これは、職務乱用ということになるのだろうか…?いや、助けてもらったお礼をするのは秩序だった行いのはずだ。)
アクティは二度目の地獄訪問となった。
結局、ベルグラトからの話とアドバイスをたくさん聞いたものの、供物を選ぶなんて経験が無さすぎるあまりに、迷いに迷って決めた彼女への供物…気に入ってもらえるだろうか。
地獄の空は赤く、暗い。天界の青い空とは大違いだ。
悲鳴が聞こえるのは当たり前で、ずっと血の匂いがするし、場所によっては風が激しく吹き荒れ、灼熱の気温になる場所もある。
ドロスフィエルの神殿は地獄の端の方にある。
風が吹き荒れる場所は天使の羽根が風を受けてまっすぐ歩けなくなってしまうので、そこを避けて、飛んでいくことにした。
ドロスフィエルの神殿に到着すると、そこは相変わらずの人気で悪魔や罪人たちが列をなしている。
この列に並ぶと謁見までだいぶ時間がかかってしまいそうだ。
そういえば、事前に手紙などを出しておくべきだっただろうか…。
アクティが考え込んでいると、小さな二匹の悪魔が話しかけてきた。
「お前はこの間の…、なぜ天使が用もなくここにいるんだ!」
「何の用ですか。」
ドロスフィエルと似た服装をしている。彼女の使役悪魔だろう。
説明すれば、彼女への謁見を取り付けてくれるだろうか。
「私は中級天使 アクティと申します。ドロスフィエル様に助けていただいたお礼をと思ったのですが…。
手紙も出さず、不躾な訪問となってしまいました。申し訳ありません。」
アクティが深々と頭を下げると、アレリとソルリは少し狼狽えた。
というのも、天使が悪魔に頭を下げることなんてありえないことだからだ。
「な…!」
「!」
「私はあまり長く地獄に滞在することができません。どうか、少しだけでもドロスフィエル様の謁見の許可をいただけませんか?」
「…ド、ドロスフィエル様は…お前が来た日からどこか上の空だ。」
「…少しだけなら、許可します。」
「! 感謝します。」
アクティは微笑んだ。
ドロスフィエルを慕うアレリとソルリは、最近の彼女の様子が心配でたまらなかったのだ。
彼女はいつも通り仕事をこなし、皆が望むドロスフィエルであり続けているけれども、彼女に一番最初に作られた使役悪魔の二人は、彼女の態度に隠れた違和感を感じ取っていた。
列をなす参拝者たちの対応を引き受け、アレリとソルリはアクティをドロスフィエルのもとに案内した。
アクティの姿を見るなりドロスフィエルは心底驚いた顔をした。
「ま、まあ。あの時の。もう羽根の具合は良くなったのかしら。」
まさか手紙もなしに急に彼が現れるなんて!
でも大丈夫、何度もシミュレーションしたもの。普段通りに接すればいいのよ。
「ドロスフィエル様。おかげさまで、私の羽根は以前よりも調子が良いです。あの時は、助けてくださって本当にありがとうございました。
本日は、そのお礼にと、供物をお持ちしたのです。」
「地獄の神として当然のことをしたまでです。ご苦労様。」
私は毅然とした態度をとらないと!
「何を贈るかとても迷いましたが、あなた様自身への贈り物が供物として捧げられることが少ないと伺いましたので、天界いちの技術職人が造ったこの櫛を…気に入っていただけると良いのですが。」
地獄の環境の性質ゆえ、装飾品などを用意できる身分は彼女と同等の神でないと難しい。さらに彼女は非常に美しいので、気後れしてしまう者がほとんどらしい。
「櫛…」
アクティが差し出しているのは、いかにも天界産の、真っ白で貝殻のような虹色の輝きをもつ櫛だった。
しかしドロスフィエルは地獄の山一つ分の大きさの身体を持つ。彼女にはいささか小さすぎるようだ。
ドロスフィエルは壊さないように両手でそれを受け取った。
「あれ…?おかしいな、使用者に合わせた大きさになると聞いたのに…」
ドロスフィエルがその櫛を受け取ってからも、櫛の大きさはアクティが持っていた時と変わらない。
「ふふ…とても素敵な櫛だわ。もったいなくて、使えないくらい。飾るだけでも素敵。ありがとう。」
これって、プレゼント、よね?
ドロスフィエルは、今までたくさんの供物をもらってきたけれども、この櫛は特別なような気がした。
自分の中の残滓が、跳ねて喜んでいるみたい。
ドロスフィエルはアクティに心からの笑みを見せた。
そうよね、今は、このプレゼントを心から喜んだっていいんだわ。
「あ…そ、そう言っていただけて、よかった。嬉しいです。その…あなた様の赤い髪は、とても素敵なので…。」
アクティは顔が沸騰するんじゃないかというほど熱くなるのを感じた。
なんだこれは。
初めての感覚だ。
前は彼女は寂しそうだと思ったのに、自分が選んだプレゼントに喜んでくれる彼女を見たら…。
「もし良かったら、また…会いに来てくれる…?」
「は、はいもちろん!」
また彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「また、すぐにでも。」
アクティは思わずそう言った。
彼を見送った後、
ドロスフィエルは突然、激しい頭痛に襲われた。
苦しむ彼女の声を聞きつけて、アレリとソルリが駆け付けた時。
彼女の山一つ分あった体躯は、普通の天使や悪魔と同じくらいになっていた。
「ドロスフィエル様!?」
「何事。」
アレリとソルリは非常に慌てた様子だ。
「ん…どうしたの?あれ、なんだか二人とも、大きくなったみたい。」
騒ぎを聞きつけて、限られた存在しか入れないドロスフィエルの謁見の間に、いつも通りどこからかベルグラトが入り込んできた。
「ええ!ドロスフィエル!どうしちゃったの!」
「あわわわわ…あの天使を通してしまったばっかりに…!?でもなぜ…!?」
「お、落ち着けアレリ。ま、まずは信者たちにこの姿を見せないようにしないと…!」
アレリとソルリは大慌てで走り去っていった。
「ベルグラト、あなたも、なんだか大きくなったみたい。」
状況を把握できていない様子のドロスフィエル。
ベルグラトは彼女にゆっくり近づくと、手を自分の頭と彼女の頭の上に乗せて、わざとらしく身長を測るような素振りをした。
今はベルグラトのほうがかなり身長が高い。
「俺、最近筋トレしてるんだ。…君は、神格が下がっちゃったのかな?」
「神格?」
「でもこれはこれで、可愛いよドロスフィエル。ふふ。」
ベルグラトはドロスフィエルの頭を撫でた。
さすがに少し腹が立ってきて、彼の手を払いのけた。
「…どういうこと?」
「うーん。どういうわけか、君の神としての格が下がっちゃってるみたい!」
神としての格が下がる…?どうして?
よくわからないが、それによって私の身体が、縮んでしまったらしい。
「ん~?手に持ってるその趣味の悪い白いの、何?」
今の縮んでしまった彼女には、アクティがプレゼントした櫛が丁度いい大きさになっていた。
むしろ少し大きいくらいだ。
そうだ、この櫛が丁度いい大きさになったら、彼が褒めてくれたこの髪を梳かすことができるではないか。
うれしくなって、彼女は櫛を抱きしめた。
「うえ。ねえ、な~にそれ?教えてよ。」
「うるさい。もらったの。」
「俺の供物に?」
「もうあなたの供物じゃないわ。」
「妬けるな~。」
そうだ。身体が小さくなって困ることなんて何もない。
元はよくわからないまま地獄の神になってずっとその役目をこなしてきていたんだから。
このあたりでもう神を辞めたっていいんじゃない?
「でも気を付けてねドロスフィエル。地獄は天使には合わないからさ。」
ベルグラトはそう囁いて、いつも通りふらふらと手を振って消えていった。
天使は天界、悪魔は地獄にいるものなんだから当たり前でしょう。
いまさら何を。
数日経ってもドロスフィエルの身体は依然として小さいままで、神格が下がったと地獄の住人に知れ渡ってはいけないというアレリとソルリの判断で、今まで行われていた謁見は完全に無くなった。
罪人への刑の執行も、ありがたいことに私のたくさんの使役悪魔たちが代わりにやってくれている。
それは同時にドロスフィエルが自由に過ごせる時間が増えたということであり、暇があれば神殿の外を散歩したり、誰もいない場所を選んでそっと出かけたりした。
彼女にとってその時間はいままで無かったもので、新鮮な気持ちだった。
ベルグラトがたまにふらっと現れては、ドロスフィエルを心配する信者たちからの供物を勝手につまみ、アクティの櫛に対して文句を言ったりした。
前回よりも間を開けずにアクティは再びドロスフィエルの神殿に訪れた。
今回は、アレリとソルリよりも先に、神殿の周りを散歩していたドロスフィエルと出会った。
「ま、また手紙を出さずに来てしまいました…って、あれ、ド、ドロスフィエル様!?」
アクティは非常に驚いた様子で、二、三歩後ずさりして身振り付きで驚愕を表した。
その姿がなんだかおもしろくて、ドロスフィエルはふふと笑った。
「ど、どうしてそのようなお姿に!?い、いや、その姿も…じゃなくて!えっと…」
「なんだか、神格とやらが下がってしまったらしいの。」
「な、なぜ…」
「わからない。でもいいの、あなたがくれた櫛が使えるし…。あれ、とても良いわ。天界には、腕の良い職人がいるのね。」
異常な事態だろうに、ドロスフィエルはなぜか落ち着いている。
自分が悩んで決めて、プレゼントした櫛をほめてくれて嬉しいが、あの巨大な身体をしていたドロスフィエルが自分よりも小さな目線から話しかけてくるのに慣れない。
アクティは天界の書物で神格についての知識をある程度持っていた。
神格が下がるなんて、よほどの罪を犯した事例くらいしか本に載っていなかった。
しかもその事例は神としての立場をはく奪され消滅したというもので、このように身体が縮んでしまったなんて聞いたこともない…。
「ねえ、聞いてる?あなた、私に会いに来たのよね?」
「それはそうですが…、些か、落ち着きすぎではありませんか?」
「ふふ、確かにそうかも。でも今の姿も、悪くないでしょう?」
ドロスフィエルはいたずらっぽく笑うと、こっちに来て、とアクティの手を引いて走り出した。
アクティも、彼女が神格について気にしていない様子だったので、まあいいか、という気持ちになっていった。
走っていった先は、神殿の裏にある大きな赤い池だった。
神殿の一部なだけあって、黒い石造りの装飾が施されていた。
赤い池に浮かぶ細い歩道を歩くと、赤い池に浮遊するように佇む屋根付きの小堂がある。
二人はその歩道を歩いた。
アクティは初めて見る赤い池を何度も目をやって凝視すると、
「この赤い液体は…」
と言った。
前を歩くドロスフィエルはにやりとして振り向いて、
「ここは地獄よ?」
と笑った。
アクティは一瞬きゅっと目を閉じて、で、ですよね…と言った。
小堂に着いて、二人は向かい合う豪華な椅子に座った。
間には猫足の小さなテーブルがある。
ドロスフィエルは両手で頬杖をついてアクティの方を見た。
アクティは、かしこまった様子で両手を膝にまっすぐついて座っている。
「もっと楽にしてくれていいのに。今日は、どうしたの?」
なんだかこうして向かい合って話していると、人間のころに戻ったみたい。
前会ったときはすっかり狼狽えてしまったけれど、こうして目線が一緒になるとなんだか安心するわ。
人間の時も、彼が結婚する前はよくご飯に連れて行ってくれたりしていたっけ…。
アクティと同じ目線で話をしていると、忘れていた、人間のころの記憶が溢れてくる。
「彼」は、こんなにかしこまって座らなかったけれど。
いつも私が食べたいものを、何でも食べていいよって、言ってくれたわ。
「今日は、中級天使になってから初めての休日で…。なにをしようか迷っていた時、あなたの顔が思い浮かんだんです。」
アクティは真っ赤になって言葉を紡ぐ。
初めての休日に私に会いに来てくれたの?こんなに嬉しいことはないわ!
「とっても嬉しい。たくさんお話ししましょう。この池には、私と限られた使役悪魔しか入ってこれないの。」
「は、はい!」
ドロスフィエルは今の自分に感謝した。だって「彼」が今私だけを見てくれているなんて、不思議な感覚。
この気持ちが人間だったころの私の残滓によるものかもしれないことは、見ないようにした。
だって、そんなもの見たって、考えたってしょうがないじゃない。
ドロスフィエルとアクティは、時間の許す限りたくさん話をした。
神殿から冥界の門までは、誰にも見つからずに行くことが不可能なので、ドロスフィエルが天界に行くことはできない。
その代わりアクティは時間を見つけては彼女に会いにきた。
時には池の小堂で話を、小舟を池に浮かべたときもあった。
誰も立ち入らない埃の被った神殿の屋上で、地獄の赤い空を2人で眺めたりもした。
確実に2人は惹かれあっていた。
地獄の、お世辞にも美しいとは思えない、燃え上がるような赤い空を見ながら、アクティはこう言った。
「私は、冥界に興味があるのです。
中級天使という役職を得て、こう言っていいのかわかりませんが、冥界は、人間たちが人生を全うして一番最初に辿り着く場所…。碧海で、魂がどんな輝きをしているのか、見てみたい。」
天国と地獄の間にある、冥界。そこの人間界に近い部分には、碧海(へきかい)という、死者の魂が流れる海があると言う。
自らの地獄行きか天国行きかを決める審判が下されるまで、人間の魂は、碧海に漂うのだ。
彼女は、少し特殊だったけれど。
「冥界は、人間界の海と繋がっている。
天界はとても美しいところですが、静かで、閉鎖的だ。」
アクティはそう溢した。
きっと心からの言葉なのだ。
「でも役職を持つ天使は碧海には立ち寄れない。
冥界の門を開ければ、天国に続く階段を登るようにだけ設計されていますから。
仕方のないことですね。」
きっと天使という役割上、誰にも話したことがないことを私に話してくれたことが嬉しい。
もちろん応援したいけれど…
アクティの諦めたような笑みをみて、寂しさを覚えた。
「希望を持つことは、素敵なことだわ。
あなたがその気持ちを持てることは、何かきっと意味があるはず。」
私は精一杯、彼を勇気付ける言葉を選んだ。
本当にそう思うから。
するとアクティは少し驚いたように目を瞬かせたあと、照れたように笑った。
「こんなこと、誰にも話したことがないから、聞いてもらえただけで嬉しいです。」
彼の姿を見て、ドロスフィエルは自分の言葉選びが間違っていないようだと安堵した。
それと同時に、彼の羽根に目がいった。
アクティの羽根の先が、黒くなっているーー
「は、羽根が…!」
最初にアクティがドロスフィエルの神殿を訪れた時よりもはっきりと、より黒々とした黒色になっている。
アクティが羽根を動かしてそれを見ると、何も言わず驚いた表情をした。
「待って、今治すから…」
ドロスフィエルが手を翳しても、前のように治療できない。
慌てていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「神格が下がっているから、無理だろうね。」
ベルグラトが柱の影から姿を見せ、皮肉な笑みを浮かべている。
アクティに歩み寄り、彼の羽根を見て鼻で笑うと、
「地獄の神への献身はね、天界では罪なんだよ。」
天界での罪ーーそれはすなわち堕天してしまうことを意味している。このままでは…
そんな!私のせいでアクティが消されてしまうかもしれないの?
また大切な人を失うの…?
「そ、そんな、わ、私…私のせいで…?」
同時に人間だった頃の嫌な記憶が一気に押し寄せてきた。
また誰かを失う感覚、繋がれない記憶ーー。
ドロスフィエルは立っていられなくなってその場にしゃがみ込んでしまった。
アクティは挑発するような態度のベルグラトを振り切って彼女に駆け寄る。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい!」
またしても誰かに期待してしまった。
それでまた、失うんだわ。
今度は確実に私の存在のせいで…。
アクティは彼女を宥め、抱き寄せた。
「違う。私の行動は、私が選んだこと。」
そして静かに、こう続けた。
「あなたは、あなたのままで美しい。」
呼吸が一瞬できなくなった。
また、そう言うの?
天使の姿になってまで、あなたは私のことを見てくれるの…?
「で、でも…」
アクティの羽根がみるみる黒くなってゆく。
彼は、微笑んでいる。寂しさは含まない、優しい笑みだ。
彼をこのまま堕天させていいの?
このまま流れに身を任せてしまったら、残滓の私が消化されないまま、また大事な人を失うだけ。
それでは前と同じだわ。
私にだけ自分の希望を話してくれた彼の力になりたいーー
ならば。
ドロスフィエルは、力を込めた。
自分の神格に願いを込めて。
それに応えるかのように、彼女の手には真っ赤な針が現れた。
「アクティ、これを、あなたに。」
羽根はもう少しで真っ黒になりそうだ。
ベルグラトは口を挟まず見守っている。
「これは私の針。あなたは、あなたの希望を貫いて。」
ドロスフィエルはその赤い針をアクティに突き立てた。
彼らを中心に、耳鳴りのような音と同時に衝撃波のような激しい風が吹き荒れる。
「これが、神の力…!」
ベルグラトが瞳を輝かせる。
目も開けていられないほどの衝撃の中、ドロスフィエルは願いを込めて針を握り続けた。
アクティは、その手を握った。
暫くして風がおさまる。
ドロスフィエルがゆっくりと瞳を開くと、アクティは白い羽根を取り戻していたが、中級天使の装束ではなく、赤と黒をした天使の装飾を纏っていた。
アクティも、驚いたように自分の装飾を見ていた。
「ドロスフィエル様の加護を感じます…。」
こう溢した。
天使の装束だけれど悪魔のような色。でも真っ白な羽根はある。
ちぐはぐなアクティの姿に、ドロスフィエルも困惑した。
「私の…加護…??」
「はい、今までの、創造主の加護ではなく、あなたの…。
実は私も、よくわかりません。はは。
とにかく、またあなたに助けられたようです。」
ドロスフィエルもよくわかっていないが、アクティが消えなくて良さそうなので、ほっとしてまた膝の力が抜けた。
「よ、よかった…。」
「へえ!すごい!こんなこともあるんだね。いいもん見た。」
安堵する空気を切り裂くようにベルグラトが再び口を挟んできた。
「ドロスフィエルの加護なんてさ。羨ましいよ。
まあでも、その装束じゃ、天界には戻れないね。」
「確かに…。」
ぎくっとした。
アクティはまた装飾を眺めている。
確かに、あんな地獄色じゃ、天界には…。
「いいんです。この装束は、私自身の希望を貫けと、応援してくれている気がします。」
そしてドロスフィエルをみて、また微笑んだ。
「本当にありがとう。
私は、私の希望を貫きます。
あなたも、あなた自身のままでいてください。」
私自身…。
今の私は…。
「…そうね、あなたが私の加護を得ているなら。
私が、私自身のままいなくちゃね。」
私は自分の力で大切な人を守れた。
ならば。もう「残滓の私」とは訣別する。
今私が感じている気持ちは、今の私のものだと信じて。
ドロスフィエルは再び力を込める。
先ほどとは打って変わって、より力強く大きな、赤い針が幾重にも積み重なってゆく。
彼女を包み込んだ後、その形は大きな赤と黒の杖に変わっていた。
彼女の身体も、元の地獄の山一つ分の体躯に戻っていた。
その杖をかざす。
そうしなければならない気がした。
赤と黒の煙が現れ神殿全体を覆い、彼女自身も包んだ。
そして煙の中で彼女は目を閉じた。
煙の中で、人間だった頃の私が目の前にいる。
「私」が私の手を握る。
やっとわかった。
誰かと繋がりたかった私を守るために、記憶として私の中にいてくれたのよね。
ずっと見て見ぬふりをしていてごめんなさい。
今度はね、今の私の力で、大切な人を失わずに済んだわ。
心から私はあなたにこう言いたい。
「もう、大丈夫。ずっとそばにいてくれてありがとう。」
「私」は微笑み、頷いた。
「これからは新しい私を生きる。あなたはもう休んで。」
握られた手を離す。
私は、人間だった頃の私を手放す。
それは前世の記憶を失うということを意味するけれど。
それでいい、私も、新しい希望を見つけるわ。
神格が戻るのを感じる。
「私」に、お礼を言われているような気がした。
再びドロスフィエルが目を開けた時、神殿はより豪華なものになった。
手元には、地獄の神の力を示す新しい杖。
足元には、新しい姿をしたアクティと、すべての元凶とも思えるベルグラトがいた。
アレリとソルリも駆け寄ってきて、元の彼女の姿を見てぴょんぴょん喜んでいる。
「これが今のあなたなのですね。」
アクティがそう言う。
そしてドロスフィエルはこう返した。
「ええ。だって私は、地獄の針番人だもの。」
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