常森 楽

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中学生になって、バスケ部に入った。
小学生の時、前から2番目だった身長はどんどん伸びて、気づけば男子よりも背が高くなった。
高校生になってもバスケは続けたけど、中学の時ほど真剣にやることはなくなった。
中学の時、あの事件が起こらなければ、私は今も真面目にプレーしていただろう。

あおい!」
そう呼ばれて、ハッとした瞬間には、もうボールが顔の目の前にあった。
「大丈夫!?」
ボールが当たった反動でよろけて、尻もちをついた。
「ああ、ごめん。大丈夫」
鼻にボールが当たり、血が出る。
「ごめんね」
瑠衣るいに手を差し伸べられた。
マネージャーが慌ててタオルを持ってきてくれる。
顔を上げて、コートの隅に移動する。

「大丈夫ですか?」
マネージャーが両膝をついて、私の顔を覗きこんだ。
この、いかにもかわいい感じが、私は少し苦手だ。
「うん、大丈夫大丈夫」
「冷やしますか?」
「いや、平気だよ。ありがとう」
壁にもたれて、体育館の窓を眺めた。
オレンジ色の強い光が差し込んで、コートを照らしている。


西日を見るたびに思い出す。
中学を卒業する半年前、私には恋人がいた。
彼女と、ふたりきりの放課後の教室でキスをした。
まるで映画のワンシーンみたいだった。
彼女の瞳が輝いて、あまりにも美しくて、思わずもう一度キスをした。
彼女は優しく笑って、照れたようにうつむいた。
私は彼女の額に、自分の額を近づけた。
目を閉じて触れると、彼女がそばにいることを実感できる。
彼女のふわふわした髪が心地よくて、ずっと撫でていたかった。

でも、そんな幸せな時間は、脆く消え去った。
誰かがその光景を見ていたらしい。
次の日学校に行くと、みんなからの視線が痛かった。
なぜか、彼女もあちら側にいた。
「私は無理やりキスされただけ」と、彼女は言い張ったらしい。
「私だって嫌だった。友達だと思ってたのに」と、怯えた顔で言い放った。
私は堪えきれなくなって、その場で泣いてしまった。
誰かの前で泣いたのは、これが最初で最後だった。
彼女が、私のそばに駆け寄ってくることはなかった。

彼女とは、小学生の時からの友達だった。
私の後をチョコチョコついてくるような子だった。
身長は私と同じくらいだった。
中学になって、クラスが別々になった。
お互い、新しい環境に慣れるのに必死だったからか、最初の1年はほとんど話さなかった。
でも2年生になって、クラスが同じになると、また話すようになった。
彼女は、背の伸びた私を上目遣いに見て「もう、ひとりだけこんなに伸びて!」と拗ねた。
それがあまりに可愛くて、恋だと気づくのに時間はかからなかった。

最初は動揺した。
まさか自分が女の子を好きになるなんて、信じられなかった。
でも、他の子と楽しそうに話している彼女を見ると、モヤモヤした。
彼女が男子に告白されたという話を聞くたびに、不安になった。
そして、もう認めざるを得なかった。

「葵、帰ろ」
大きな薄茶色の瞳が、私をとらえる。
彼女が私の腕に抱きついて、ふわっと香る彼女の匂いにクラっとしそうになる。
帰り道、私は彼女の手をほどいて、嫌われるかもしれない恐怖と闘った。
千夏ちなつ
「ん?」
眉毛の上で綺麗に切り揃えられた前髪が揺れる。
ふぅっと息をついて、手をグッと握った。
「気持ち悪いって思われるかもしれないけど……私、千夏が、好き」
「え?」と彼女は笑って「私も葵のこと大好きだよ!」と無邪気に言った。

「いや、私のは……友達としてじゃなくて」
彼女の顔が見れなくなっていた。
吐きそうなほどの緊張が体に重くのしかかる。
長い沈黙がおりて、私は耐えられなくなった。
「ごめん、キモいよね。忘れて」
私が足早に行こうとすると、彼女が私の手を掴んだ。
「わ、わからないけど……嬉しいって思った」
その言葉に、心臓がバクバク鳴った。
彼女を見ると、彼女の目が少し潤んでいた。
「……ほんと?」
やっと声をしぼり出すと、彼女はぎこちなく笑った。
「うん」

「それは……その、付き合ってくれるってこと?恋人として」
「……かな?」
「マジ?」
予想外の展開に脳が追いつかなかった。
「え、どうしよう。どうしよう」
髪をグシャグシャにしても、まったく冷静になれない。
彼女は、そんな私を見て、いつもの笑顔を浮かべた。
「葵、喜びすぎ!」
「へへ、そうだよね。ごめん。……いや、でもまさかこんな展開になるなんて思わなくて」
「私も、全然想像してなかった」
私は彼女の手をそっと握って、向き合った。
「じゃあ、これから……よろしく」
「よろしくお願いします」
彼女の口元が緩み、照れたようにうつむいた。

「じゃ、行こっか」
私も照れながら、家の方へ歩き出した。
彼女は私の後を、少し駆け足で追った。
そして、また上目遣いに「ちゃんと幸せにしてくださいよ」と笑った。
「はい、全力を尽くします」
私は敬礼した。
彼女は、ころころ笑った。

外で手を繋ぐのは、なんとなく恥ずかしくて、最初は家で繋いだ。
でも考えてみれば、友達の時には、普通に手を繋いでいたこともあったと思い、外でも手を繋ぐようになった。
あまりに繋ぎすぎると怪しまれるだろうから、ふたりとも意識しながら、手を繋いだり繋がなかったりした。
ふたりだけの秘密を共有している感じがして、すごく楽しかった。

初めてのキスも、私の部屋だった。
母親が部屋に入ってきそうになった時は焦ったけど、それも笑い話になった。

学校で初めてキスしたのは、更衣室だった。
私がバスケをしているところを見たいと彼女が言って、体育館に遊びに来ていた時だった。
タオルを替えようと更衣室に行くと、彼女がついてきて、彼女は私の頬にキスをした。
私は驚いて、まわりを見渡した。
そうこうしている内に、彼女は、唇に唇を重ねた。
「ちょ……」
止める間もなく、彼女は私の頬を手で包み、舌を絡ませる。
「葵ー、そろそろ休憩終わるよー」
チームメイトの声がして、慌てて彼女と距離を取った。
彼女はいたずらに笑った。
その笑顔に胸が高鳴って、私達はヒートアップした。

歯止めが効かなくなって、ふたりきりになるたびにキスをした。
彼女を抱きしめるたびに、幸せを噛みしめた。
そして、当然のように、事件は起きた。
まさか彼女があんな反応をするとは思わなかったけど、自業自得だとも思った。

彼女からたくさん連絡がきた。
「ごめんなさい」と彼女が謝るたび、私は嗚咽を漏らした。
真っ暗な部屋で、私は布団をかぶって、引きこもるようになった。
クラスメイトの冷たい視線、彼女の怯えた瞳、すべてが怖かった。
幸せな夢を見た。
目覚めた瞬間に、胸が痛んで、涙が溢れた。

引きこもりながら、受験勉強に精を出した。
とにかく、このまま中学のクラスメイトと同じ高校に通うのだけは避けたかった。
だから、遠くの高校を受験することに決めた。

そして、誰も私を知らない高校に入学した。
帰宅部にしようと思っていたけど、瑠衣に誘われて、結局バスケ部に入部した。
誰かと深く関わることもなく、1年が過ぎた。
いかにもかわいい感じのマネージャーが入ってきたのは、その時だった。
見た瞬間、嫌な感じがした。


マネージャーは私の隣に体育座りして、コートを眺めている。
「どうしました?」
私の視線に気づいて、彼女はふわりと笑う。
「いや、なんにも」
「先輩にそんなに見られたら、私、照れちゃいますよ」
彼女は口先をすぼめながらも、とろけるように笑った。
「……じゃあ、こうしたら?」
何を思ったのか、私は彼女に顔を近づけて、壁に追いやる。
彼女の瞳孔が開き、息が荒くなる。
息がかかるほどの距離にいたことに気づき、私は冷静さを取り戻した。
「なんてね」
笑ってごまかし、座り直す。
鼻血出しながら、いったい私は何やってんだろ。

壁に背を預けて、ため息をつく。
ふとマネージャーを見ると、正座してうつむいていた。
「ごめんね」
「あ、いえ。全然、全然大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけで」
彼女の表情はかたい。
私はコートを眺めながら、鼻を押さえていたタオルを取る。
白いタオルに血がついていた。
鼻の辺りに触れると、もう血は止まったみたいだった。

「血、止まったみたい」
「あぁ、良かったです」
マネージャーと、ようやく目が合った。
でも、すぐにそらされてしまう。
「あ……でも、練習は、もう少し休んでからの方がいいと思います。まだ止まったばっかりですし」
「そうだね」
ボールが床に叩かれる音、シューズのすれる音、チームメイトの声がけ、そのどれもに現実味がなかった。
うちの高校は運動部が弱い。
練習したって、公式戦で1勝もできない。
なのに、なぜマネージャーがいるんだろうか?

「私、先輩がいたから、バスケ部のマネージャーになったんです」
「エスパー?」
「え?」
「あ、いや、ごめん。なんでもない。それで、なんだっけ?」
「あぁ、えっと……私がマネージャーになった理由です。私、実は、葵先輩と中学一緒で」
「は?」
急激に心拍数が上がる。
鼻の辺りが熱くなって、慌ててタオルで鼻を押さえる。

「中学の時、先輩のバスケの試合見たことがあって、かっこいいなぁって思ったんです。それで、先生に先輩の行った高校教えてもらって、私も受けたんです。……ごめんなさい」
「なんで、謝るの?」
「その……ストーカーみたいで、気持ち悪いかなって」
「べつに、そんなことは」
ないとも言い切れない。
いや、後輩を気持ち悪いなんて思うはずがない。
光栄なことじゃないか。
ただ、嫌な過去が、蘇るだけだ。

「私、ずっと……先輩が好きでした。今も、好きです」
彼女の瞳が潤む。
膝の上で握られた手は、少し震えているみたいだった。
「だから、先輩の隣にいられて、私幸せです」
「なんか、愛の告白みたいだね」
私は、からかうように言った。
彼女は上目遣いに私を見る。
その眼差しは真剣で、怯えているようにも見えた。
「愛の、告白です」
私の頭は真っ白になって、どう返事をすればいいかわからなくなった。

しばらくの沈黙の後、彼女は「ごめんなさい」と泣きながら体育館から出ていった。
私はどうすればいいのかわからず、血のついたタオルをいじりまわした。
「どうしたの?」
休憩に入った瑠衣が走って寄ってきた。
「あ、いや、愛の告白をされたんだけど」
言いかけて、「しまった」と思った時には遅かった。
「愛の告白?」
「あー、いやー……冗談だと思うけどね」
誤魔化し方なんて、わからなかった。

「冗談?」
瑠衣は私の隣に座って、タオルで汗を拭く。
「もしかして、冗談じゃないんじゃない?」
「え、だって女同士だよ?」
瑠衣は眉間にシワを寄せた。
「だからなに?」
「え?」
きよちゃんは、マネージャーになった時から、葵のことが好きだってみんなに言ってたよ。今時女同士だからとか、関係なくない?それって差別って言うんだよ」
瑠衣は鼻の穴を大きくさせながら、ドヤ顔をした。
「葵、ちゃんと答えてあげてよ。女だからとかじゃなくて、人としてさ」

気づけば、私の目からは涙が溢れていた。
「え、え?どうしたの?」
「いや、なんでもない」
血のついたタオルを瞼に当てて、鼻をすする。 
「なんでもなくないだろー!」
瑠衣が慌てふためいていると、他のチームメイトも寄ってくる。
「いや、大丈夫。ほんと、大丈夫」
私は溢れて止まらない涙を拭いながら、マネージャーを追いかけた。

体育館の外の階段に座り込んで、彼女は泣いていた。
「清ちゃん」
私が声をかけると、彼女の肩がビクついた。
「さっきは、何も言えなくて、ごめん」
「あ、いえ。いきなりあんなところで言ったら、誰だって……。私の方こそ、ごめんなさい」
私は彼女の隣に腰をかけた。
「私、中学の最後、全然学校行ってなかったの」
「はい」
「理由も、知ってる?」
「……はい」
「そっかあ」

揺れる木々を眺めながら、夏の風を感じる。
千夏と付き合ったのも、こんな日だった。
「先輩は、まだ……」
清ちゃんは、喉に何かが詰まったように、先を言えないようだった。
「もう、千夏のことは好きじゃないよ。嫌いになったわけでもないけどさ」
「そう、ですか」

「ありがとね」
「なにがですか?」
「あの時と同じにならないように、してくれたんだよね」
「いや……私は、本当に、私が勝手に先輩を好きになっただけなので。先輩に迷惑かけちゃいけないって思っただけなんです」
彼女は体を縮こまらせて、膝を抱えた。
「なのに、あんなところで告白なんかして……ごめんなさい。これじゃ、意味ない」
大粒の涙を瞳から溢れ出して、必死に声を押し殺そうとする。

私は彼女の肩をそっと抱いた。
彼女の押し殺していた声が、一気に溢れ出す。
「私、少し清ちゃんが苦手だった」
彼女の泣き声は止まない。
「でも今日、なんでかわかったよ」
抱いた肩を優しく叩く。
「私、清ちゃんを好きになりたくなかったんだ」
トントンと、母親が子供をあやすように、肩を叩く。
「好きになってしまったら、またあの時みたいになると思ったから」
1度止まっていた涙は、私の瞳からもこぼれ落ちた。
「好きにならないように、頑張ってた」
彼女を私の胸に抱き寄せる。

「私も、好きだよ。清ちゃん」
清ちゃんは、私の背中に腕を回して、ひときわ大きな声で泣いた。
あまりに大きな声で、私の涙は引っ込んだ。
面白くて、笑えてくる。
「なんで笑うんですかー!」
「いや、そんな大声で泣かれたら、誰だって笑っちゃうでしょ」
「笑えませんよ。私、怖かったんですから」
「そうだね、ごめん」
頭を撫でると、彼女はスンスンと鼻を鳴らして、上目遣いに私を見た。
「でも、今は、嬉しいです。頑張って、良かった」

彼女は口先をすぼめて、笑った。
気づけば私は、彼女の唇に唇を重ねていた。

離れると、彼女は目を大きく見開きながら、かたまっていた。
フッと笑うと、彼女はようやくまばたきをした。
肩で息をして、また涙を流した。
その涙を指で拭ってやると、彼女はポカポカと私の胸を叩いた。
そのまま抱きしめると、「好き」と、しぼり出すような声が聞こえた。

「どうなった?」「どうなった?」と、背後から聞こえてきて、私達は振り返る。
「なに見てんだよ」と威圧すると、瑠衣達は慌てて逃げ帰った。
私と清ちゃんはケラケラ笑って、体育館に戻った。
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