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第一話 茉莉花の香る夜(2)
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宵に暗く沈んだ廊下を、王は一人歩いていた。あと数年で三十を迎える王は、若々しい闊達さよりも、思慮深い優しさが滲む人柄だった。
それ故に実弟への愛はいよいよ周囲を混乱させた。
ボハイラの一族は妖術をよくするらしいともっともらしく言う者もあった。ボハイラの母はそれで前王を魅了し、ボハイラは兄として育った王の心を絡め取るのだ、と。
それらの言葉を、ラアド王は呆れ果てた思いで耳にしていた。ラアドはボハイラが生まれた頃から、後宮にある弟の部屋に足繁く通った。赤ん坊のボハイラが五つ年上の兄に、どんな魅了の術をかけたというのか、と。
――いや、私はボハイラに魅了されたのだけれど、そういう意味ではない。
幼いラアドは、己と異なる顔立ちで、濃い色の肌を持つボハイラを見るなり、「なんてかわいい赤ちゃん!」と叫んだのだという。その時の衝撃と、愛らしい弟を持ったという誇らしさは今も覚えている。
その頃からずっと、ラアドはこの廊下を歩いてきた。もう、それも今日で終わりかという愛惜の念を噛みしめる間もなく、王弟の部屋の扉が見えてきた。
扉の奥は、ひとつランプが灯されたきりであった。
鍵がかかっていなかったことに幾分安堵を覚えながら、ラアドは枕辺のランプに照らされた弟の寝顔を見る。
黒っぽい褐色の肌に映える:黄桃(きもも)色の唇。豊かなまつげはくるりと上向いて寝顔を一層安らかにしている。少し丸っぽい鼻は殊更愛らしく、それがふう、と息を吐いたのを見て、兄はにこりと笑う。
体格に恵まれ、ラアドより縦にも横にも大きい。厚い胸板、どっしりとした腰や尻。もしも武芸を許されていたならば、よく兵を率いたかもしれないと思うと、父王と異教徒の母との間に生まれたボハイラが哀れだった。
ラアドは金のランプを持ち、窓辺にある大きな燭台に火を灯していく。
部屋が明るくなっても起きない弟に苦笑して、ラアドはボハイラの足首に絡んだシーツをそっとつまんだ。
「――――!」
そっと持ちあげたはずなのに、ボハイラはびくっと体を震わせて目を開け、怯えた目で兄を見た。
驚いた兄が言葉もなくまばたきしているのを見ると、少し口を開き、眉を下げる。
「兄上か……」
「他に誰が来るのだよ、ビビ」
己がつけた愛称で弟を呼ぶ兄が、寝台に腰掛ける。ボハイラは決まり悪そうに首を回すと、立ち上がった。
「酒とお茶、どっち?」
「お茶」
自分で聞いておきながら、ボハイラはへえ、と驚いた声を出した。首の後ろと背中で括られた髪が、ふわりと尻を打つ。
「珍しいね」
「寝坊をして見送りができなかったら困る」
すでに深夜だ。夜が明ければボハイラは後宮を去る。荷造りのために、殺風景になった部屋を見て、ラアドは眉を下げつつ、ボハイラが運んできたティーカップを傾けた、一口飲んで、眉を寄せる。
「ジャスミンティーじゃないのか?」
「ミントティーだけど」
妙な顔でラアドは弟を見る。すんと鼻を鳴らした。
「何? 変な顔して」
「いや、ジャスミンの匂いがするから、てっきりジャスミンティーを淹れたのかと」
のっしりと寝台に座った弟の眉がむっと寄った。目を伏せて琥珀色の瞳を左右にうろつかせる。
「何を照れているんだ?」
「照れてないよ! 姉上のくれたジャスミンが香ってるんだろう、たぶん」
「蕾でこんなに香るかなぁ」
「いいから」
「え? ――んっ、……珍しいな」
「――このままのんびり話をして、朝になりそうだから」
ラアドがボハイラにくちづけを返す。兄弟揃いの琥珀色の瞳を互いに見つめながら、兄は弟の腰をなで、弟は己の襟を広げた。
それ故に実弟への愛はいよいよ周囲を混乱させた。
ボハイラの一族は妖術をよくするらしいともっともらしく言う者もあった。ボハイラの母はそれで前王を魅了し、ボハイラは兄として育った王の心を絡め取るのだ、と。
それらの言葉を、ラアド王は呆れ果てた思いで耳にしていた。ラアドはボハイラが生まれた頃から、後宮にある弟の部屋に足繁く通った。赤ん坊のボハイラが五つ年上の兄に、どんな魅了の術をかけたというのか、と。
――いや、私はボハイラに魅了されたのだけれど、そういう意味ではない。
幼いラアドは、己と異なる顔立ちで、濃い色の肌を持つボハイラを見るなり、「なんてかわいい赤ちゃん!」と叫んだのだという。その時の衝撃と、愛らしい弟を持ったという誇らしさは今も覚えている。
その頃からずっと、ラアドはこの廊下を歩いてきた。もう、それも今日で終わりかという愛惜の念を噛みしめる間もなく、王弟の部屋の扉が見えてきた。
扉の奥は、ひとつランプが灯されたきりであった。
鍵がかかっていなかったことに幾分安堵を覚えながら、ラアドは枕辺のランプに照らされた弟の寝顔を見る。
黒っぽい褐色の肌に映える:黄桃(きもも)色の唇。豊かなまつげはくるりと上向いて寝顔を一層安らかにしている。少し丸っぽい鼻は殊更愛らしく、それがふう、と息を吐いたのを見て、兄はにこりと笑う。
体格に恵まれ、ラアドより縦にも横にも大きい。厚い胸板、どっしりとした腰や尻。もしも武芸を許されていたならば、よく兵を率いたかもしれないと思うと、父王と異教徒の母との間に生まれたボハイラが哀れだった。
ラアドは金のランプを持ち、窓辺にある大きな燭台に火を灯していく。
部屋が明るくなっても起きない弟に苦笑して、ラアドはボハイラの足首に絡んだシーツをそっとつまんだ。
「――――!」
そっと持ちあげたはずなのに、ボハイラはびくっと体を震わせて目を開け、怯えた目で兄を見た。
驚いた兄が言葉もなくまばたきしているのを見ると、少し口を開き、眉を下げる。
「兄上か……」
「他に誰が来るのだよ、ビビ」
己がつけた愛称で弟を呼ぶ兄が、寝台に腰掛ける。ボハイラは決まり悪そうに首を回すと、立ち上がった。
「酒とお茶、どっち?」
「お茶」
自分で聞いておきながら、ボハイラはへえ、と驚いた声を出した。首の後ろと背中で括られた髪が、ふわりと尻を打つ。
「珍しいね」
「寝坊をして見送りができなかったら困る」
すでに深夜だ。夜が明ければボハイラは後宮を去る。荷造りのために、殺風景になった部屋を見て、ラアドは眉を下げつつ、ボハイラが運んできたティーカップを傾けた、一口飲んで、眉を寄せる。
「ジャスミンティーじゃないのか?」
「ミントティーだけど」
妙な顔でラアドは弟を見る。すんと鼻を鳴らした。
「何? 変な顔して」
「いや、ジャスミンの匂いがするから、てっきりジャスミンティーを淹れたのかと」
のっしりと寝台に座った弟の眉がむっと寄った。目を伏せて琥珀色の瞳を左右にうろつかせる。
「何を照れているんだ?」
「照れてないよ! 姉上のくれたジャスミンが香ってるんだろう、たぶん」
「蕾でこんなに香るかなぁ」
「いいから」
「え? ――んっ、……珍しいな」
「――このままのんびり話をして、朝になりそうだから」
ラアドがボハイラにくちづけを返す。兄弟揃いの琥珀色の瞳を互いに見つめながら、兄は弟の腰をなで、弟は己の襟を広げた。
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