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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十二話 罪の形(1)
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みし、みし、と風が建物を押す音が続いている。人界にある隠れ処で考えごとに耽っていた朱昂は、違和感を覚えてふと顔を上げた。音が消えた。家鳴りも、外からの風も聞こえない。
辺りに目を配るも、夜目がきく紅眼に映る風景に異変はない。
朱昂は猫のように足を忍ばせて寝台を降りた。相変わらず音はしない。窓の外を見ると、風に流された雲が忙しなく月の前を横切る様子が見える。柳が一方向に腕を伸ばしている。強風はまだ吹いているのに、音はない。長椅子の背に指を置いた瞬間、視界の端で古い燭台に火が灯った。
「誰だ?」
もうひとつ、壁際に置かれた燭台に一斉に火が点る。鼓動が早くなる。燭台がひとりでに宙に浮き、誰かの手にあるように揺れながら朱昂に近づいてきた。
次の瞬間、朱昂の目が訪問者を捉えた。褐色の肌に金茶の髪を持つ偉丈夫が煙から生じたように現れ、朱昂と向かい合う形で椅子に座る。男は卓に燭台を置くと、懐手して吸血鬼の王を見た。名乗るように鳶色の目が金に変わる。
甘く垂れた目尻を見て、朱昂は己が夢王の術中にはまったことを知った。音はまだ、戻らない。
「いくら人界とはいえ、戸締まりはきちんとした方が良いぞ、真血公」
淫欲の権化めと、朱昂は男の声を聞いて思った。容姿も眼差しも声も匂いも、全てが欲をそそるようにできているらしい。うなじの辺りがぞくぞくする。
人界にある時、吸血鬼の気配ばかりを気にしていた自分に、胸中で舌打ちする。人界は、人間の精をすする淫魔にとっても慣れ親しんだ狩場だ。
淫魔の秘蹟『慈母』は数代に一度男が産まれる。男ながらに子を成す子宮を有する当代慈母は、歴代の中でも霊力と知性に恵まれ、狡猾だというのが世の評判だ。夢魔に対する警戒心ががら空きな朱昂の気配を探り当てるなど、朝飯前だったろう。
初めて他族の秘蹟と対面した朱昂の背中に汗が流れる。険しい表情のまま一言も発さない朱昂に、淘乱が愉快そうに眉を上げる。
「真血公には初めて会うが、すこぶる美男だな。そうして睨む顔も美しい。吸血鬼には美男が多いが、王は別格か。噂以上だ。むさぼりつきたくなる」
朱昂はなおも黙る。淘乱の笑みがいよいよ濃くなる。いらっと短気の虫が頭を起こすのをじっと耐える。
「気位が高く、美しくて、賢さにも自信がある。うーん、もっと早く会いに来れば良かったかな。朱昂殿、そう警戒せずに椅子に座ってくれ。俺は親殺しだからといって虐めに来たのではない、おっと」
親殺しという単語に朱昂の瞳孔が縦に伸びるのを淘乱が楽しそうに眺める。くつくつと喉まで鳴らしだした。
朱昂は長椅子に座ると、微笑した。淘乱が今にも舌なめずりしそうな顔つきで眼を細める。
「若輩であり大罪を得た身ゆえ、慈母の君にご足労いただけるとは思わず、失礼しました。――気位が高いのではなく単に短気なのです。淘乱殿のように、親が死ぬのを待つことができませんで」
よく辱しめを耐えられましたな。
朱昂が言った瞬間、笑顔を吹き消した淘乱が立ち上がる。部屋は無明に包まれ、座っていたはずの椅子が消失し、朱昂は尻餅をついた。
体勢を立て直す間もなくガシャンという音ともに上から降ってきた鉄格子に閉じ込められ、両脇から伸びてきた鎖にがんじがらめにされる。うつ伏せに倒れた口元には枷が嵌められ、気づけば白い衣服を纏わされている。
夢王の夢の強力さに慌てた朱昂は顔を上げて絶句した。そこには龍王がいた。緑がかった黒髪、乳白色の角、薄墨色の瞳。
「淫魔が! 全身の血を抜いてくれる!」
頭を覗かれたことに激怒した朱昂が叫ぶと、龍王の形をした淘乱が笑った。頬にくっきりとえくぼが刻まれる。
「元気なことよな、朱昂。自分の罪も知らぬ愚か者」
「よう知っておるわ」
「いいや、お前は気づいていないよ。見なさい」
龍王の眉が憐れむように下がる。その左手が後方の闇を探り、暗闇から何かを引きずり出した。それは大柄な人だった。黒い髪は腰まで伸びて、艶やかに光っている。龍王の腕に引かれた人影がたたらを踏んだ瞬間、甘い芳香が振り撒かれる。女物の裾から覗くくるぶしが、それが男であることを知らせていた。
龍王に化けた淘乱は男の顎をつかむと、床に転がる朱昂に見せつけるように上体を折らせた。耐えきれず、男が派手な音をたてて床に膝を打ち付けた。至近距離で目が合う。美しく化粧した顔を見た朱昂は、息を忘れた。
「伯陽……」
男の顔は追い求める者の面影が、ありありと表れていた。
辺りに目を配るも、夜目がきく紅眼に映る風景に異変はない。
朱昂は猫のように足を忍ばせて寝台を降りた。相変わらず音はしない。窓の外を見ると、風に流された雲が忙しなく月の前を横切る様子が見える。柳が一方向に腕を伸ばしている。強風はまだ吹いているのに、音はない。長椅子の背に指を置いた瞬間、視界の端で古い燭台に火が灯った。
「誰だ?」
もうひとつ、壁際に置かれた燭台に一斉に火が点る。鼓動が早くなる。燭台がひとりでに宙に浮き、誰かの手にあるように揺れながら朱昂に近づいてきた。
次の瞬間、朱昂の目が訪問者を捉えた。褐色の肌に金茶の髪を持つ偉丈夫が煙から生じたように現れ、朱昂と向かい合う形で椅子に座る。男は卓に燭台を置くと、懐手して吸血鬼の王を見た。名乗るように鳶色の目が金に変わる。
甘く垂れた目尻を見て、朱昂は己が夢王の術中にはまったことを知った。音はまだ、戻らない。
「いくら人界とはいえ、戸締まりはきちんとした方が良いぞ、真血公」
淫欲の権化めと、朱昂は男の声を聞いて思った。容姿も眼差しも声も匂いも、全てが欲をそそるようにできているらしい。うなじの辺りがぞくぞくする。
人界にある時、吸血鬼の気配ばかりを気にしていた自分に、胸中で舌打ちする。人界は、人間の精をすする淫魔にとっても慣れ親しんだ狩場だ。
淫魔の秘蹟『慈母』は数代に一度男が産まれる。男ながらに子を成す子宮を有する当代慈母は、歴代の中でも霊力と知性に恵まれ、狡猾だというのが世の評判だ。夢魔に対する警戒心ががら空きな朱昂の気配を探り当てるなど、朝飯前だったろう。
初めて他族の秘蹟と対面した朱昂の背中に汗が流れる。険しい表情のまま一言も発さない朱昂に、淘乱が愉快そうに眉を上げる。
「真血公には初めて会うが、すこぶる美男だな。そうして睨む顔も美しい。吸血鬼には美男が多いが、王は別格か。噂以上だ。むさぼりつきたくなる」
朱昂はなおも黙る。淘乱の笑みがいよいよ濃くなる。いらっと短気の虫が頭を起こすのをじっと耐える。
「気位が高く、美しくて、賢さにも自信がある。うーん、もっと早く会いに来れば良かったかな。朱昂殿、そう警戒せずに椅子に座ってくれ。俺は親殺しだからといって虐めに来たのではない、おっと」
親殺しという単語に朱昂の瞳孔が縦に伸びるのを淘乱が楽しそうに眺める。くつくつと喉まで鳴らしだした。
朱昂は長椅子に座ると、微笑した。淘乱が今にも舌なめずりしそうな顔つきで眼を細める。
「若輩であり大罪を得た身ゆえ、慈母の君にご足労いただけるとは思わず、失礼しました。――気位が高いのではなく単に短気なのです。淘乱殿のように、親が死ぬのを待つことができませんで」
よく辱しめを耐えられましたな。
朱昂が言った瞬間、笑顔を吹き消した淘乱が立ち上がる。部屋は無明に包まれ、座っていたはずの椅子が消失し、朱昂は尻餅をついた。
体勢を立て直す間もなくガシャンという音ともに上から降ってきた鉄格子に閉じ込められ、両脇から伸びてきた鎖にがんじがらめにされる。うつ伏せに倒れた口元には枷が嵌められ、気づけば白い衣服を纏わされている。
夢王の夢の強力さに慌てた朱昂は顔を上げて絶句した。そこには龍王がいた。緑がかった黒髪、乳白色の角、薄墨色の瞳。
「淫魔が! 全身の血を抜いてくれる!」
頭を覗かれたことに激怒した朱昂が叫ぶと、龍王の形をした淘乱が笑った。頬にくっきりとえくぼが刻まれる。
「元気なことよな、朱昂。自分の罪も知らぬ愚か者」
「よう知っておるわ」
「いいや、お前は気づいていないよ。見なさい」
龍王の眉が憐れむように下がる。その左手が後方の闇を探り、暗闇から何かを引きずり出した。それは大柄な人だった。黒い髪は腰まで伸びて、艶やかに光っている。龍王の腕に引かれた人影がたたらを踏んだ瞬間、甘い芳香が振り撒かれる。女物の裾から覗くくるぶしが、それが男であることを知らせていた。
龍王に化けた淘乱は男の顎をつかむと、床に転がる朱昂に見せつけるように上体を折らせた。耐えきれず、男が派手な音をたてて床に膝を打ち付けた。至近距離で目が合う。美しく化粧した顔を見た朱昂は、息を忘れた。
「伯陽……」
男の顔は追い求める者の面影が、ありありと表れていた。
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