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第二章 月ニ鳴ク獣

幕間 狂いの芽生える音(1)

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 祈りが捧げられ、幸が集うはずの場所が燃えていた。翠色の炎で彩られているはずのびょうが、赤い炎に包まれている。呪う声が聞こえる。廟になおも松明が放り込まれる。呪詛は止まない。全て、龍玉を呪う声だった。

「公はまだお籠りか」

 龍宮は龍玉廟。普段参詣者のために開かれている本殿の門が閉まっていた。太陽を乞う龍玉の祈りはすでに十日に及んでいる。龍玉の兄であり王である憲龍けんりゅうは龍玉との面会が叶わず、むなしく来た道を戻っていた。

 長雨が続いている。龍領ではここのところ毎年、水害が発生した。
 初めてひとつの県が洪水で水没したのは八十年前。その頃は龍領の総力をかけて窮民を救い、治水工事を行うことができた。しかし、十五年後、龍宮を除けば龍領一堅牢と謳われた堤が破れ多数の死者を出した。それから先はまさに堰を切ったように凶事が続いた。貯えていた資金は目減りし、民心が荒れた。治安に呼応するように龍脈も荒廃し、龍が異常行動を起こすようになった。

 龍宮内に龍王をそしる声はなかった。角が生えると同時に王になった憲龍は、若い頃は龍王としての己を殊更大きく見せようとすることもあった。しかし壮年期に入った今は、広い視野を持ち、法に信を置く謹厳な王と慕われている。

 民は実直な王を憎めぬ代わりに、龍玉を憎んだ。
 龍玉は数世代に一度生まれるというめずらかな存在で、常に龍族のあこがれの存在だった。龍玉のいない時代は、龍玉がいるとどれほどすばらしいことが起きるかが語られる。

 龍玉がいれば苦しみはない。龍玉が早く生まれるように祈ろう。各地に小さな龍玉廟が建てられ、世の安寧を民は祈った。いつからか、龍玉は翠の炎を吐く救世主になっていた。
 龍王の治世を数えるに五代、不在の龍玉を祀り上げる信仰に民はいつしか熱狂し、やがて弾けた。各地の龍玉廟は破壊され、燃やされた。
 長雨を止められない。土砂崩れを止められない。犯罪を止められない。そういう理由で、龍玉は呪われた。

 ――止められるわけがない!

 龍王は分かっていた。龍玉は秘蹟ひせきそれそのもの。他の秘蹟のように主と同体ではない。主がいなければ、ただの象徴でしかない。今更そんな正論を言っても誰にも届かなかった。

 期待外れの救世主。そのように札付けされた龍玉・寧龍ねいりゅうは、必死に祈り続けた。長雨が、土砂崩れが、犯罪が止まるように。何に祈っているのだろうと、兄は思う。寧龍が祈りの対象も分からぬまま、頭を下げているところを想像するだけでも、胸が潰れそうだった。

 ――呪いたいのは、寧も同じだろうにな。

 これまでの政治の無策を「龍玉の不在」で片づけてきた結果が、現状だ。数百年も昔から荒廃の種はあったに違いない。今は無理だと先送りにしてきたのだろう。――今は龍玉がいないからだめなのだ、と。
 数年前に目の当たりにした龍玉廟への放火が忘れられない。龍王の目の裏では、龍玉廟が今も燃え盛っている。
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