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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十七話 伯陽としてのひと時
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喉の渇きを覚えた。
起き上がると、薄紅の絹の布団がするりと音を立てて離れてゆく。月鳴は昇ったばかりの月を見て、水を飲む。二杯立て続けに湯飲みを干して、寝台を出た。腰ほどの黒髪を揺らしながら乱暴に寝室の戸を開けて、卓の上にある小瓶を見た。赤い液体が入っている。小さな玻璃の蓋を開け、瓶に直接口をつけた。冷めてしまった血液を飲む。ドカリと椅子に座った瞬間、ずんと腰が痛んだ。痛みはすぐに甘いものに代わり皮膚を粟立たせる。
「ん……」
唇に付着した血を舐めとるとますます体が熱くなる。昨晩まで十三楼に格上げした祝いの宴で、三日間すすり泣きがはしたない叫び声になるまで抱かれ続けた。
最後の最後にやってきた夢王の淫眼を思い出して、背骨ががくがくと揺れそうだ。格上げの祝いの宴は宵が深まるにつれて乱痴気騒ぎになる。終わると二日休むようにしていた。休まないと、箍が外れた頭と肉体の欲望のままに客を食い散らかしそうになるのだ。
頭を抱えて衝動に耐えていた月鳴の肩に蝶が止まった。その気配だけで腰が跳ねそうになるのに愕然としながら、蝶へ指を伸ばす。
夜に連絡が来るのは珍しい。鳴蝶で朱昂とつながって三十年になるが、いつも仕事が終わる朝方に、朱昂と話すようにしていた。
「朱昂……」
『起きていたか』
「助かった」
『どうした? 休みだろう?』
そう、と蝶へ囁きながら月鳴は立ち上がった。灯火も耐えて薄暗い部屋に、月鳴の夜着だけが白く浮かんで見える。寝室に戻って寝そべった月鳴は、布団を肩まで手繰りよせた。
「ちょうど目が覚めて、退屈していた」
『退屈しているなら、連絡くらいよこせ』
「夜はいつも忙しくしているだろう」
『それはお互い様だな』
ふうと大きく息を吐いた。朱昂と話していると自分が戻ってくる気がする。
どこかから突き上げられ、制御がきかなくなった体の主導権がいつの間にか戻ってきて、深く呼吸ができる。指先まで「自分」が満ちていく感覚がするのだ。いつだか朱昂にそれを伝えると、「俺と話をして安心するのは当然だ」と返ってきて、納得すると同時にとてもうれしかったのを覚えている。
かつて朱昂に似たようなことを言われたことがあったからだ。
『体は大丈夫か?』
格上げの宴の激しさを、詳細は省いた上で朱昂に話していた。それで連絡をくれたのかとうれしくなる。
「ひっどい目に遭った。淘乱の体がぼろぼろだったというのがいまだに信じられない」
『もう治したから、まったくの健康体だ』
「それにしても……」
月鳴はこめかみをかいた。淘乱が月鳴を「奇貨」として朱昂に近づいた理由を月鳴は後になって朱昂から聞いた。男性の体で妊娠と出産を繰り返す淘乱の体は、内臓の損傷が激しかったのだという。
――そもそも、男の夢王は短命で、次代が生まれる産褥の床で大体死んでいる。
淘乱自身も慈母の姫を産んでから体調がすぐれず、とても妊娠できる状況ではなかったらしい。出会った時、淘乱は慈母の姫の出産直後だったのだと聞かされて驚いた。
月鳴は弱った淘乱にとって真血の主を呼ぶ貴い宝だったのだ。
『あの体でお前を抱いていたのだから、殺しても死なない』
主治医の冷たい一言に、月鳴は苦笑する。
「俺は休めば治るが、朱昂は無理してないか? ただでさえ格上げしたから、身請け金が増えただろうに」
朱昂に借りのある白火にも事情を話し、三者で相談した結果、金で月鳴を身請けするのが最も確実で安全な手段だろうということになった。
朱昂が調べたところ、月鳴の四方五百里に朱昂は立ち入れないことが分かった。どのようにしもべに戻すかは先の問題として、まずは身請けが目標だ。
金を稼ぐため、朱昂は金持ちの重病者を探し出しては高額な治療費と引き換えに治療を施している。患者の情報を掴んで朱昂に流しているのは主に白火と月鳴だった。
「体は問題なくとも、精神的には疲れるだろう」
『それは心配しなくていい。白火にも最大限協力しろと言っているしな。だが、即位しないことには、話が進まなさそうだ』
即位と羽が動いたのを見て、月鳴は思わず息をのんだ。
朱昂は外出中たびたび吸血族の妨害にあっている。身を隠しながら治療に赴くのは限界だった。積極的に王位を取り返そうと思うと、朱昂は最近月鳴に伝えていた。
「そっちはどうなっているんだ。戦になりそうか」
一瞬、羽の動きが止まった。
『……戦は、もうそろそろだろうな。ちょうどよく莉燈も病を得たという。面の皮が厚い奴だ、治療を求めてくるかと思ったが、連絡は来ないな』
莉燈、と聞いて月鳴の顔に怒りが浮かぶ。朱昂を拘禁し、虐待した女だ。叶うなら自分が引導を渡してやりたいと思う。人界では傭兵稼業をしていた月鳴だ。その時の力が残っていれば朱昂を助けてやれたのにと、悔しさに拳を作った。現実は、妓楼で敷布を握っていることしかできないのだ。
月鳴が見えているように、朱昂がなだめる言葉を吐く。
『戦といっても、ごく小規模だ。戦闘もほぼないかもしれない。葵穣が王座に座れば、すべて終わる』
「朱昂が座るのではないのか?」
『どうであろう……』
仕事があるから、と朱昂との会話は間もなく終わった。
月鳴は、蝶を部屋に放して、寝台で寝返りを打つ。
もしも朱昂のすぐ隣にいてやれたら、即位をためらう朱昂を励ませただろうか。朱昂なら皆を導けると、本心を言えただろうか。
――王位についた朱昂の苦しみを分かち合うことすらできない俺が、無責任に背を押すことなど、できないよ。
言いたくても言えない思いが積み重なっていく。朱昂もそうなのだろうかと、思った。
起き上がると、薄紅の絹の布団がするりと音を立てて離れてゆく。月鳴は昇ったばかりの月を見て、水を飲む。二杯立て続けに湯飲みを干して、寝台を出た。腰ほどの黒髪を揺らしながら乱暴に寝室の戸を開けて、卓の上にある小瓶を見た。赤い液体が入っている。小さな玻璃の蓋を開け、瓶に直接口をつけた。冷めてしまった血液を飲む。ドカリと椅子に座った瞬間、ずんと腰が痛んだ。痛みはすぐに甘いものに代わり皮膚を粟立たせる。
「ん……」
唇に付着した血を舐めとるとますます体が熱くなる。昨晩まで十三楼に格上げした祝いの宴で、三日間すすり泣きがはしたない叫び声になるまで抱かれ続けた。
最後の最後にやってきた夢王の淫眼を思い出して、背骨ががくがくと揺れそうだ。格上げの祝いの宴は宵が深まるにつれて乱痴気騒ぎになる。終わると二日休むようにしていた。休まないと、箍が外れた頭と肉体の欲望のままに客を食い散らかしそうになるのだ。
頭を抱えて衝動に耐えていた月鳴の肩に蝶が止まった。その気配だけで腰が跳ねそうになるのに愕然としながら、蝶へ指を伸ばす。
夜に連絡が来るのは珍しい。鳴蝶で朱昂とつながって三十年になるが、いつも仕事が終わる朝方に、朱昂と話すようにしていた。
「朱昂……」
『起きていたか』
「助かった」
『どうした? 休みだろう?』
そう、と蝶へ囁きながら月鳴は立ち上がった。灯火も耐えて薄暗い部屋に、月鳴の夜着だけが白く浮かんで見える。寝室に戻って寝そべった月鳴は、布団を肩まで手繰りよせた。
「ちょうど目が覚めて、退屈していた」
『退屈しているなら、連絡くらいよこせ』
「夜はいつも忙しくしているだろう」
『それはお互い様だな』
ふうと大きく息を吐いた。朱昂と話していると自分が戻ってくる気がする。
どこかから突き上げられ、制御がきかなくなった体の主導権がいつの間にか戻ってきて、深く呼吸ができる。指先まで「自分」が満ちていく感覚がするのだ。いつだか朱昂にそれを伝えると、「俺と話をして安心するのは当然だ」と返ってきて、納得すると同時にとてもうれしかったのを覚えている。
かつて朱昂に似たようなことを言われたことがあったからだ。
『体は大丈夫か?』
格上げの宴の激しさを、詳細は省いた上で朱昂に話していた。それで連絡をくれたのかとうれしくなる。
「ひっどい目に遭った。淘乱の体がぼろぼろだったというのがいまだに信じられない」
『もう治したから、まったくの健康体だ』
「それにしても……」
月鳴はこめかみをかいた。淘乱が月鳴を「奇貨」として朱昂に近づいた理由を月鳴は後になって朱昂から聞いた。男性の体で妊娠と出産を繰り返す淘乱の体は、内臓の損傷が激しかったのだという。
――そもそも、男の夢王は短命で、次代が生まれる産褥の床で大体死んでいる。
淘乱自身も慈母の姫を産んでから体調がすぐれず、とても妊娠できる状況ではなかったらしい。出会った時、淘乱は慈母の姫の出産直後だったのだと聞かされて驚いた。
月鳴は弱った淘乱にとって真血の主を呼ぶ貴い宝だったのだ。
『あの体でお前を抱いていたのだから、殺しても死なない』
主治医の冷たい一言に、月鳴は苦笑する。
「俺は休めば治るが、朱昂は無理してないか? ただでさえ格上げしたから、身請け金が増えただろうに」
朱昂に借りのある白火にも事情を話し、三者で相談した結果、金で月鳴を身請けするのが最も確実で安全な手段だろうということになった。
朱昂が調べたところ、月鳴の四方五百里に朱昂は立ち入れないことが分かった。どのようにしもべに戻すかは先の問題として、まずは身請けが目標だ。
金を稼ぐため、朱昂は金持ちの重病者を探し出しては高額な治療費と引き換えに治療を施している。患者の情報を掴んで朱昂に流しているのは主に白火と月鳴だった。
「体は問題なくとも、精神的には疲れるだろう」
『それは心配しなくていい。白火にも最大限協力しろと言っているしな。だが、即位しないことには、話が進まなさそうだ』
即位と羽が動いたのを見て、月鳴は思わず息をのんだ。
朱昂は外出中たびたび吸血族の妨害にあっている。身を隠しながら治療に赴くのは限界だった。積極的に王位を取り返そうと思うと、朱昂は最近月鳴に伝えていた。
「そっちはどうなっているんだ。戦になりそうか」
一瞬、羽の動きが止まった。
『……戦は、もうそろそろだろうな。ちょうどよく莉燈も病を得たという。面の皮が厚い奴だ、治療を求めてくるかと思ったが、連絡は来ないな』
莉燈、と聞いて月鳴の顔に怒りが浮かぶ。朱昂を拘禁し、虐待した女だ。叶うなら自分が引導を渡してやりたいと思う。人界では傭兵稼業をしていた月鳴だ。その時の力が残っていれば朱昂を助けてやれたのにと、悔しさに拳を作った。現実は、妓楼で敷布を握っていることしかできないのだ。
月鳴が見えているように、朱昂がなだめる言葉を吐く。
『戦といっても、ごく小規模だ。戦闘もほぼないかもしれない。葵穣が王座に座れば、すべて終わる』
「朱昂が座るのではないのか?」
『どうであろう……』
仕事があるから、と朱昂との会話は間もなく終わった。
月鳴は、蝶を部屋に放して、寝台で寝返りを打つ。
もしも朱昂のすぐ隣にいてやれたら、即位をためらう朱昂を励ませただろうか。朱昂なら皆を導けると、本心を言えただろうか。
――王位についた朱昂の苦しみを分かち合うことすらできない俺が、無責任に背を押すことなど、できないよ。
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