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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十九話 至高の階を踏む者(1)
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高官が纏う黒の袖が、時折風に膨らみ衣擦れの音を高くしていた。
囁き声、底の高い沓が広場の砂利を踏む音、咳ばらいをする音が広間に満ちる。朱色の柱が並ぶ王城の広間である。正面が正殿、背後は大門。王城の建物に三方を囲まれた広場で、高官たちは十二列十二行に並び正方形を成していた。正方形は六つ。それとは別に、王軍が正門側に立つ将軍を筆頭に、広場の両端を守護していた。
王城の楼閣の上には緋色の旗が列をなしてたなびき、高官たちの正面中央、玉座の右側に深紅の王章旗――真血の紋が金糸で刺繍されたもっとも格式の高い旗が重たげに玉座へと頭を垂れている。この旗が日の目を見るのは実に数百年ぶりのことであった。
今から一月前に人事は一新され、居並ぶ高官のほとんどは並でない安堵と恐怖を覚えていた。今日まで命を保てた強運への感謝と、明日以降を生き抜くことへの不安が同時に胸に迫るのだ。
銅鑼にバチが振り下ろされ、広場の空気を震わせる。一打の後、呼吸さえはばかられるような静寂が辺りに満ちた。広間にいる者は一様に頭を垂れ、新しい主の登場を待った。
-----
銅鑼の一打は、控える朱昂の空気をも一変させていた。腰をかがめて朱昂の裾を直す者も蜘蛛の子を散らすように離れ、朱昂は目を伏せて深く呼吸を続ける。肺にたまった空気を押し出しながら、成魔となった葵穣へ血を与えた時のやり取りが思い出された。
「お前がすぐに王になってもいいのだぞ」と、朱昂は、人事の仮案を渡しながら葵穣に告げた。もとより、仁波以下朱昂の手勢は本来葵穣の即位を願って決起した者たちである。
葵穣は成魔となった。お前が即位を望むならばそれを支えるまでだと言う朱昂に、葵穣はしばらく人事案に目を落としながら黙り込んだ。しばらくして、ひとりごとのように語りだす。
「父は死んだのだと聞かされて、私は育ちました。王城の者たちが父上や祖父様を苦しめ、真血の誇りを奪ったのだと、仁波は私に言った。許せなかった……。奪われたものを必ず取り戻すと胸に誓って、王城を出ようという仁波の誘いに乗ったのです」
朱昂は口を挟まなかった。詳しく葵穣は言わないが、幼子に強い決意をさせるほど、葵穣の身辺はひっ迫していたに違いない。
「あの悔しさと怒りを、父上は私以上に抱えているだろうと思っていました」
はっとして顔を上げる。葵穣は朱昂を見ていた。
「柘律殿の書庫にこもる父上の背中は、いつも怒っていた。私は怒っている者に取り囲まれて育ちましたが、あなた以上の怒りを見たことはありません。……父上、恨みは晴らすべきだと私は思います」
朱昂は己の両手に目を落とした。べったりと父の真血がこびりついている幻を見る。父の、毒に冒された血だ。真血が癒さなかった父の恨みを、朱昂は毎日飲んで育ったようなものだった。
「恨みが、晴れることはあるまい……」
「それでは、ますます父上が王位に就くべきでしょう」
葵穣の言葉に、朱昂は首を傾げた。葵穣は父の前にひざまずき、両手で朱昂の手を包む。
「父上、恨む心も力です。最も力のある者が他を踏みつけ王となる。それが当然ではありませんか」
「この俺が、王に」
もちろん、と葵穣が首を縦に振る。
「私が王にふさわしいと思う者は、父上をおいて他にはいません。あなたしかいない」
言い終わると、少し照れたように葵穣が微笑した。
誰もが認める絶美の貴公子に毒気を抜かれ、朱昂はそれ以上言葉を続けることはなかった。
囁き声、底の高い沓が広場の砂利を踏む音、咳ばらいをする音が広間に満ちる。朱色の柱が並ぶ王城の広間である。正面が正殿、背後は大門。王城の建物に三方を囲まれた広場で、高官たちは十二列十二行に並び正方形を成していた。正方形は六つ。それとは別に、王軍が正門側に立つ将軍を筆頭に、広場の両端を守護していた。
王城の楼閣の上には緋色の旗が列をなしてたなびき、高官たちの正面中央、玉座の右側に深紅の王章旗――真血の紋が金糸で刺繍されたもっとも格式の高い旗が重たげに玉座へと頭を垂れている。この旗が日の目を見るのは実に数百年ぶりのことであった。
今から一月前に人事は一新され、居並ぶ高官のほとんどは並でない安堵と恐怖を覚えていた。今日まで命を保てた強運への感謝と、明日以降を生き抜くことへの不安が同時に胸に迫るのだ。
銅鑼にバチが振り下ろされ、広場の空気を震わせる。一打の後、呼吸さえはばかられるような静寂が辺りに満ちた。広間にいる者は一様に頭を垂れ、新しい主の登場を待った。
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銅鑼の一打は、控える朱昂の空気をも一変させていた。腰をかがめて朱昂の裾を直す者も蜘蛛の子を散らすように離れ、朱昂は目を伏せて深く呼吸を続ける。肺にたまった空気を押し出しながら、成魔となった葵穣へ血を与えた時のやり取りが思い出された。
「お前がすぐに王になってもいいのだぞ」と、朱昂は、人事の仮案を渡しながら葵穣に告げた。もとより、仁波以下朱昂の手勢は本来葵穣の即位を願って決起した者たちである。
葵穣は成魔となった。お前が即位を望むならばそれを支えるまでだと言う朱昂に、葵穣はしばらく人事案に目を落としながら黙り込んだ。しばらくして、ひとりごとのように語りだす。
「父は死んだのだと聞かされて、私は育ちました。王城の者たちが父上や祖父様を苦しめ、真血の誇りを奪ったのだと、仁波は私に言った。許せなかった……。奪われたものを必ず取り戻すと胸に誓って、王城を出ようという仁波の誘いに乗ったのです」
朱昂は口を挟まなかった。詳しく葵穣は言わないが、幼子に強い決意をさせるほど、葵穣の身辺はひっ迫していたに違いない。
「あの悔しさと怒りを、父上は私以上に抱えているだろうと思っていました」
はっとして顔を上げる。葵穣は朱昂を見ていた。
「柘律殿の書庫にこもる父上の背中は、いつも怒っていた。私は怒っている者に取り囲まれて育ちましたが、あなた以上の怒りを見たことはありません。……父上、恨みは晴らすべきだと私は思います」
朱昂は己の両手に目を落とした。べったりと父の真血がこびりついている幻を見る。父の、毒に冒された血だ。真血が癒さなかった父の恨みを、朱昂は毎日飲んで育ったようなものだった。
「恨みが、晴れることはあるまい……」
「それでは、ますます父上が王位に就くべきでしょう」
葵穣の言葉に、朱昂は首を傾げた。葵穣は父の前にひざまずき、両手で朱昂の手を包む。
「父上、恨む心も力です。最も力のある者が他を踏みつけ王となる。それが当然ではありませんか」
「この俺が、王に」
もちろん、と葵穣が首を縦に振る。
「私が王にふさわしいと思う者は、父上をおいて他にはいません。あなたしかいない」
言い終わると、少し照れたように葵穣が微笑した。
誰もが認める絶美の貴公子に毒気を抜かれ、朱昂はそれ以上言葉を続けることはなかった。
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