五番目の婚約者

シオ

文字の大きさ
上 下
61 / 74

61

しおりを挟む
 ノウェが、俺を好きだと言った。聞き間違いかとも思ったが、頬を赤く染めるノウェの表情からしても、聞き間違いではないようだ。信じられない。一生、そんな言葉はもらえないと覚悟していたのに。好きだと、言ってもらえた。

「……抱きしめても、いいだろうか」

 声が震える。この震えは、歓喜によるものだった。信じがたい僥倖にまみえ、体が知らず知らずのうちに震えている。今すぐ、思い切り抱きしめたい。勢いのままに抱擁するのではなく、ちゃんと伺いを立てた俺を褒めて欲しいと思った。

 ノウェは、俺の抱擁に応えるように両腕を広げた。許されたと思い動いた俺だったのだが、何かにはっと気付いた様子のノウェが腕を閉じる。そして拒絶するように俺との間に距離を置いた。

「だ、だめっ」

 許されたものだとばかり思っていた俺は戸惑う。広げた腕は、所在無げに宙を漂う。拒否されたことが衝撃的すぎて、俺は声を出せなくなってしまった。どうして駄目なのか、と俺の目は口よりも雄弁に語っていたようで、ノウェがその理由を教えてくれる。

「……だって……俺、ずっと風呂に入ってない」
「そんなこと気にしてない」
「俺が気にする。あっちに座ってくれ」

 確かに、ノウェはリオネルの宮殿を出てから入浴が出来ていない。侍従が濡らしたタオルで体を拭う程度のことはあったと思うが、しっかりと体を洗うようなことは出来ていないのだろう。

 多少、普段よりはノウェの匂いを強く感じるが、臭いなどとは微塵も思わない。そもそも、仮に少々臭ったのだとしても俺は気にしない。何より、今までずっと体を寄せ合っていたのに突然離れろだなんて、今更ではないか。

「今までずっとここに座っていたのに?」
「いいから早く」

 頑ななノウェの意思に反することは出来ず、俺は渋々ノウェが指さす席に座る。今までは馬車の中で隣に座っていた。だが、ノウェは自分が座るところから対角線上に当たる、斜め前の席へ座れと言う。

「俺だって、馬で一気に駆けてきて凄く汗をかいたし、お互い様だ。だから、体を寄せ合っても構わないと思うんだが」
「たったの一日、二日だろ。俺はもう十日以上、ちゃんと体を洗えてないんだ。絶対に臭い」
「臭くないよ」
「ヴィルの意見は当てにならない」

 匂いなんてどうでも良いから、抱きしめさせて欲しい。無理に抱きしめたら怒られるだろうか。そんなことを考えながら、俺はぐっと己の欲望を抑え込む。ノウェの表情は少し明るいものに変わった。青ざめていた顔も、血色が良くなっている。

「……ゾフィーとルイーゼの父親って、裁けないのかな」

 ぽつり、とノウェが漏らす。フェルカー家の娘たちは、父親によって性的な虐待や精神的な虐待を受け、体を道具のように扱われてきた。そう本人が語ったと、ノウェから聞いた。

 彼女たちの不遇は哀れだと思うが、全ての罪は父親にある。そして、その父親はすでに断頭台に立った。頭部は腐り落ちるまで晒され、そのあとは燃やされている。ノウェには告げていなかったが、フェルカー公爵はすでにこの世にいなかった。

「大丈夫だよ、もうその父親は裁かれた」
「え……?」
「フェルカー公爵はすでに、他の罪で裁かれて死刑になってるんだ」
「……そうだったのか」

 公爵の死を知り、ノウェは少しばかり落胆したような顔を見せた。姉妹を苦しめた罪をしっかり償って欲しいと思ったのだろうか。優しいノウェの心が、これ以上フェルカーの者によって傷つかないように俺は気を配らなければいけない。

「故郷はどうだった? 滞在日数が一日だったと聞いているが」
「……そうなんだよ。短すぎて驚いただろ?」
「少しも驚いたりしてない。早く帰ってきてくれたことが、俺は何よりも嬉しかったよ」

 素直な気持ちを伝えれば、ノウェは小さく笑った。ノウェの帰還を喜ぶ俺を見て、嬉しい気持ちになってくれたようだ。笑みを浮かべていたノウェだったが、その笑みに影が差す。

「正直なことを言うと……あんまり、楽しい帰郷じゃなかった」
「それは残念だったな。あんなに帰りたがっていたのに」
「思い出だけで作り上げた、ありもしない故郷を探してたみたいなんだ。……たくさん時間をかけて準備してくれたのに、ごめん」
「謝る必要はない。ノウェの望みを叶えるのは当然のことだ」

 クユセンでの滞在が一日であったことが、全てを物語っている。ノウェがあの場所でどんな扱いを受けたのか、想像することは容易かった。ノウェが感じたであろう落胆を思うと、胸が引き裂かれそうになる。

「父さんと……、族長と色々なことを話して……今まで知らないでいたことも知った」

 楽しい里帰りにはならなかったけれど、多くのことを知ったとノウェは言い、唇を開く。数度、迷うように唇の開閉を繰り返した。どう言葉にすれば良いのか分からない、といった様子だ。焦らせることなく、俺はじっと待つ。

「俺、体が小さくて弱いから……クユセンで過ごしてたら、フェルカー姉妹みたいな扱いを受ける未来しか無かったみたいなんだ」
「……どういう意味だ?」
「恥ずかしい話なんだけど、ロア族の戦士たちは、戦えない男で……その、発散、するらしいんだ……。でも、俺がそういう目に遭わないように、ヴィルヘルムに託したって……父さんが言ってた」

 一族の悪習を語るノウェは羞恥で顔を赤くする。聞けば、狩りに出る戦士たちに同行し、夜になればその相手をさせられるのだという。それは、俺たちリオライネンでも掴んでいない情報だった。

 つまり、小柄で華奢なノウェがあのままロア族の一員として育っていれば、男たちの都合の良い道具になっていたということか。そうなる未来が訪れる可能性があった。そんな可能性があったという事実だけでも、怒りが収まらない。

 小さく深呼吸を繰り返す。自分自身を落ち着かせるためだった。想像するだけで嫌悪感が湧くような未来は、訪れなかった。ノウェは俺の妻になったのだ。他の男が触れる余地など、微塵もない。自分自身にそう言い聞かせてせて、心の平静を取り戻した。

「ヴィルヘルムに大切にされてる俺って、幸せ者なんだなって思ったんだよ」

 穏やかに微笑みながら、ノウェがそんな言葉を口にする。こんな日がやってくると、過去の俺に伝えてもきっと鼻で笑うだろう。想像することさえ出来なかった光景が、今、俺の目の前にある。

 体の奥の奥から震えが来る。僅かに俯いたのは、涙目になっていることをノウェに悟られたくなかったからだ。俺に大切にされて、幸せ者だというノウェ。嬉しくて、嬉しくて、震えが止まらなかった。震えを抑え込むように唇を噛み締めて、そして、そっと開く。

「……全然、足りない」
「え……?」
「俺はまだ、ノウェを幸せになんてしてない」
「そんなことない。俺はもう幸せだよ」

 俺はノウェを苦しめるばかりだった。無理に抱いて泣かせたし、深く傷つけた。心の底から嫌悪されていた時期だって、長くあった。贖罪すらまだ終わっていないのに、ノウェを幸せに出来ただなんて微塵も思えない。

「俺の生涯をかけて……、ノウェの一生を幸せにしたいんだ」

 きっとこれは、もっともっと前に言うべき言葉だったんだ。愛していると告げて、妻になって欲しいと求婚して。その時に言うべき言葉だったのだろう。何もかも、全ての順序が滅茶苦茶になってしまった。

 同性に恋慕されると言うことに理解のなかったノウェに、愛していると言っても拒絶されるだけだっただろう。最初から、ノウェが俺にとって一番の婚約者だと伝えても、嫌がられるだけなのは分かっていた。そもそもフェルカー姉妹のような危険な存在もあり、ノウェを一番の婚約者には出来なかった。

 想いを伝える機会は訪れず、まともな求婚も出来ていない。即位式の時に初めて、ノウェは全てを理解した。戸惑うノウェを、俺は無理に組み敷いて初夜を済ませたのだ。

 ずっと、伝えることが出来ずにいた。そんな言葉を、今伝える。ノウェを愛している。だからこそ、俺の全ての時間を使って、ノウェを幸せにする。それが俺の、一番の願いだった。

「……ありがとう」

 瞳に涙を浮かべて、ノウェは笑みを見せた。目を細めて、目尻から涙が零れ落ちていく。悲しい涙でないことは分かっている。幸せだった。俺の言葉をノウェが受け止めてくれて、微笑みながら涙を流してくれている。これ以上の幸せがあるのだろうか。

「俺はもう、クユセンには帰らない」

 決別は果たしたと言う。だが、これからも帰りたい時には帰ればいいと思うのだ。勿論、その時には俺も同行するのが条件にはなるが、それでも里帰りくらいすればいい。だが、ノウェはきっぱりと言った。もう二度と、帰らないと。

「未練は断ち切った。クユセンを、俺の故郷とは思わない」

 あれほど帰りたいと言っていた故郷を、故郷とは思わない。そこまでノウェに言わしめるようなことが、この帰郷ではあったのだろう。クユセンでの出来事を、全て聞き出そうとは思わない。だが、ノウェが語りたくなった時には、静かに耳を傾けようと思った。

「リオライネンを、俺の故郷にしてもいい?」

 それは、思いがけない問いかけだった。まさか、そんなことを問われるとは思っていなかったので驚いてしまう。伺うようにこちらを見ているノウェはとても愛らしくて、俺はあらゆる意味で言葉を失ってしまう。

「俺の我が家だって、……いるべき場所だって……、そう思ってもいい?」

 ずっとクユセンに帰りたいと願い続けていたノウェが、リオライネンを我が家にしたいと言ってくれた。それだけで、俺がこの国を守り続ける理由になる。俺の最愛の皇妃は、恐ろしい人だ。意図することなく、俺に皇帝としての職務を全うさせるのだから。

「ずっと、ヴィルの隣にいてもいい?」

 幸福すぎて、肌が粟立つようだった。小さく小首を傾げるノウェはとても美しく、このときほど目が二つしかないことを呪ったことはない。胸が熱い。体の全てを溶かし出してしまうような温もりが、体の中心にあった。

「……ぁ、……あぁ、もちろん……、勿論だ」

 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。全身を浸す多幸感に、溺れていたのだろう。言葉がうまく口から出ていかなかったのは、そのせいだ。馬車の窓に差し込む光は、ノウェを包んで淡く輝く。その光景を、俺は一生忘れない。

「二度と、離さない」

 どこか遠くへ行くのだとしても、必ず俺も同行する。一人でなど行かせない。ずっとずっと手を繋いで、鬱陶しいと言われてもそのまま歩く。もう二度と、俺はノウェのそばを離れない。

「嬉しい」

 ノウェは微笑んでいた。俺の醜い執着を受け止めて、ノウェは嬉しいと言った。それはまさしく、奇跡だ。奇跡とは、起こらないからこそ奇跡と呼ばれる。だが今、俺の目の前で起こるはずのない奇跡が起きた。

 匂いを気にするノウェが近寄るなと俺に言ったけれど、我慢が出来なくなってきた。腕が疼く。今すぐにでも手を伸ばして、思い切り抱きしめたい。もう一度だけ、お伺いを立てる。

「……ノウェ、抱きしめたいんだが」
「だめだ」
「少しだけで良いから」
「だめ」


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

攻略対象5の俺が攻略対象1の婚約者になってました

BL / 完結 24h.ポイント:1,221pt お気に入り:2,625

次期公爵は魔術師にご執心のようです

BL / 完結 24h.ポイント:269pt お気に入り:540

鉱夫剣を持つ 〜ツルハシ振ってたら人類最強の肉体を手に入れていた〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,087pt お気に入り:160

運命の番と別れる方法

ivy
BL / 完結 24h.ポイント:134pt お気に入り:1,313

異世界のんびり散歩旅

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:2,251pt お気に入り:745

能力1のテイマー、加護を三つも授かっていました。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:10,587pt お気に入り:2,217

【R18】愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,150pt お気に入り:6,219

【完結】最初で最後の恋をしましょう

BL / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:921

異世界迷宮のスナイパー《転生弓士》アルファ版

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:113pt お気に入り:584

処理中です...