すべては花の積もる先

シオ

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スイ編

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「本当は会わせたくないけど、兄さんは会いたいだろう?」

 そう言いながら、スイは杖で体を支えながら部屋の扉へと向かった。一体なんだろうと、私は首を傾げながらスイの動きを見守る。そして、弟の手は扉をそっと開けた。レンの部屋の扉は、長い廊下に続いている。そこを通る者は滅多におらず、いつでも静かなのだ。だが今日は、そんな場所に立っている人がいた。

「……レン」

 思わず、その名前を口にする。立ち尽くすその姿はどこか落ち込んでいるように見えて、怒られた子供か、はたまた罰を待つ罪人のように見えた。レンと離れて、どれくらいの時が経ったのだろう。豪雨の中、愚かにも私が足を滑られたあの瞬間から、離れ離れになってしまった。

 燃え盛る小屋の中に飛び込んで、私とスイを助けてくれたレン。私の体が自由であれば、寝台から飛び出してレンに抱きついていたことだろう。けれど、痛みにばかり包まれている私の体でそれは叶わない。だからこそ私は部屋の入り口で立ち尽くすレンに向かって手を伸ばす。

「おいで、レン」

 名を呼んで声をかければ、ゆっくりと俯いていたレンの顔が上がる。その顔は、今にも泣き出してしまいそうだった。ずっと、私のことを案じていてくれたのだろう。優しいレンの心の内側が、手に取るように分かる。

「……トーカ」
「そんなところに立っていないで、こっちへ来て。レン」

 一向に動き出そうとしないレンに向かって、私はもう一度声をかける。すると、ゆっくりとレンは歩き始め、私が横になる寝台にまでやって来た。寝台のそばに膝をついて、私と視線を合わせる。そんなレンの頭を、私はそっと撫でた。

「自分のせい、だなんて思わないでね」

 きっと、レンは自分自身を責めている。それが私には分かる。雨のなか、バイユエの屋敷を飛び出したのは私だ。足を滑らせたのも、ヘイグァンに捕らえられたのも私の行いの結果なのだ。けれどレンは自分が私を守れなかったからだと、自らを罰している。レンにとっては、私の体を覆う火傷さえも、レンのせいということになっているのだろう。

「レンが私とスイを救ってくれたんでしょう? 本当にありがとう」
「もっと……早く、助けられたら……」

 レンの言葉には、後悔が滲んでいた。その目は、私の顔を見ている。明確に言えば、私の顔の火傷を。もし、もっと早く助け出してもらえていたら、確かに私は火傷を負うことはなかったのかもしれない。けれど私は、そんなことを微塵も考えてはいなかった。

「命を落とす前に助けてくれた。十分だよ」
「……俺は、これからも……トーカのそばにいていい?」
「勿論」

 少しだけ、レンの背後に立つスイを見た。私とレンが親しくすることを、レンが好んでいないことくらいもう分かっている。だからこそ、レンの気分を害するだろうかと様子を伺ったのだ。だがレンは顔を逸らしながらも、苛立ちや不機嫌さをおもてに浮かべることはなかった。ある程度は、レンの存在を受け入れてくれているのだろう。

「私は我儘だから、大好きな弟を手放せない」

 こんな強欲が許されるわけがないと、ずっと思っていた。血の繋がった弟を心底愛し、その一方で、絆で繋がった弟も大切だという。なんという酷い我儘だろうか。何一つ手放せない自分自身に腹が立った。だというのに、そんな私を他でもない弟たちが許したのだ。

「ずっと、手放さないでいて欲しい」

 レンは床に膝をついた状態で、寝台の上に上体を乗せて私に抱き付く。私の傷の具合を気遣ってか、レンのその抱擁は随分と遠慮がちだった。久しぶりに、近くでレンの匂いを感じている。今まではずっと、レンと共に眠り、その腕の中に私の体は収まっていたのだ。懐かしい気持ちになる。何年も前のことではないというのに、随分と遠い記憶になってしまっていた。

「近い。調子に乗るな」

 近くにいたレンが、遠ざかる。見れば、スイがレンの肩を掴んで私から引き剥がしていたのだ。不服そうな顔をしてスイを睨むレンと、レンに憎悪の眼差しを向けるスイ。私は二人の姿を見つめながら、日常に戻って来たのだと強く感じていた。

「……器の小さい奴」
「なんだと? おい、もう一度言ってみろ」
「二人とも、喧嘩しないで」

 ぼそっと漏らしたレンの悪態を聞き逃すスイではない。他愛もない言葉のやり取りが、こんなにも愛しかった。気付いた時には、私は笑っていて、体を包む痛みのことなどすっかり忘れてしまっていた。怒りがあり、恐ろしさがあり、憎しみがあり、痛みがあった。それでももう、私は笑えている。人間とは愚かしいほどに忘却が早く、そして何よりも逞しい。

「トーカ、こいつのことが嫌になったらいつでも言って」
「そんな日は永遠に来ない」
「俺はトーカに聞いてる」

 今まで、スイとレンは互いに存在しないものであるかのような接し方をしてきた。だというのに目の前では、言葉をやりとりする弟たちがいる。それが私は嬉しくて、言葉を投げつけ合う二人を見つめ続けたのだ。だが、それでも体は私の心に追いついておらず、疲労が溜まってしまった。

 それを察したのか、レンは自ら立ち上がって部屋を出ていく。また来る、と一言残して。それに対し、二度と来るな、という言葉を添えることをスイは忘れない。静かになった部屋の中で、ふぅ、と息を吐き捨てる。寝台に身を預け、目を閉じた。直後、頭に心地よい感触が。目を開いて確かめると、スイが私の頭を撫でてくれていた。

 弟に頭を撫でられて喜ぶなど、兄としては失格なのだろう。だが、私たちのことを一体誰が裁くというのか。兄弟同士で愛しあう歪な私たちを、誰が弾劾するというのか。誰にも阻めない。私はスイを愛していて、スイも私を愛してくれている。それで十分だ。それだけで、私の心は満たされた。

「スイ、少しレンに優しかったね」
「そんなことないよ」

 攻撃的な言葉は多かったが、それでも心底憎むような声音ではなかった。もしかすると、燃え下がる小屋から救出された借りを返した、ということなのだろうか。スイの胸中は分からないが、そういったことを考えそうだと私はぼんやり思う。少し眠気が湧いて来たのは、体が疲れているからだろう。私の疲労を見抜くスイは、心配そうな眼差しを私に向ける。

「兄さん、急に無理しない方がいい。ゆっくり休んで」
「スイこそ。足はまだ痛むんでしょう?」
「大して痛くないよ。俺は大丈夫」

 そんなはずがない。私には、足を銃弾で貫かれたという経験はないが、それでも、その痛みが壮絶なものであることは分かるのだ。けれど本人が、大丈夫だという言うのなら、追求はしないでおこう。眠気はあるが、実際に眠ることはない。私は横になったまま天井を見上げ、口を開く。

「ヘイグァンは、どうなったの?」

 私をスイを傷つけ、苦しめた組織。その頭であったジャンインを思い出す。彼もまた、何かに苦しんでいるように見えた。少なくとも、私の目にはそう映っていたのだ。けれど、もうジャンインの胸の内を知ることはできない。彼は、スイが殺した。それは、正しい裁きだったと思う。

「壊滅させた、と言ってもいいのかもしれない。頭であった男が死に、あの小屋から逃げたした連中もあの犬とヤザが始末した」
「……そっか」

 淡々とした言葉で語られてはいるが、そこにはいくつもの死が転がっている。それを思うと、ヘイグァンの壊滅を喜ぶことは出来なかった。かといって、弟に苦痛を与えた組織たちのために嘆き悲しむことが出来るほど、私は器の大きな人間ではない。

「どうして、バイユエを憎んでいたんだろう。……どうして、スイの命を狙っていたんだろう」

 単純な疑問が残った。私を利用して、スイを殺そうとしたジャンイン。そんな彼の執念は、とても強いように見えた。それに見合うだけの因縁が、スイとジャンインの間にはあるのではないだろうか。私はそう尋ねると、スイは少しばかり肩を竦める。

「さぁ、どうしてだろうね。……ただ、背の者なんてものをしていると、恨みを買うことばかりなんだ。あいつの家族を、バイユエが殺していたかもしれない。あいつの女を、バイユエが娼婦にしていたかもしれない。……理由なんて、幾つでも思いつく。でも、実際のところはもう分からない」

 スイの言葉に私も頷く。真実は、もはや誰にも分からないのだ。ゆっくりと伸ばされたスイの手が私の頬に添えられる。あたたかくて、優しい手だ。ぼんやりし始めていた思考が、さらに鈍くなる。スイの手は私を穏やかなまどろみに導くかのようだった。

「敵はヘイグァンだけじゃない。あいつらを潰したところで、同じように俺に恨みを持つ者はまだまだいるはずだ。……また、兄さんを危険な目に遭わせてしまうかもしれない」

 ヘイグァンの存在は、私たちにとって大きな問題であり、障害だった。だが、これからの人生で第二、第三のヘイグァンが現れることもあるだろう。そんな未来のことを考えて、スイは憂いを帯びた目をした。眠気のせいで、頭は泥のように重い。それでもは迷うことなく、唇を開いた。

「私やスイが、父さんの子である事実は変わらない。私たちは、背の者の血を継いでいる。そんな私たちのことを、危険なことが待ち受けているかもしれない。……それでも、スイはこれからも私のことを守ってくれるんでしょう?」

 スイがバイユエの頭目でなかったとしても、父の子であることは覆らない。私たちはどうしようもなく、かつて背の者の王であった男の子なのだ。連綿と続く恨みを買い続けるかもしれない。いつまでも謂れのないことで恨まれ続けるかもしれない。それでも、スイが私を守ってくれると信じられた。

「守るよ。兄さんを、これからも、ずっとずっと、守る」

 嬉しそうにスイが笑い、私もつられ笑った。守ってほしいと願うことは、甘えることではないのだ。少なくともスイにとって、それは信頼の証だった。今まではずっと、弟に甘え続け、頼り切る自分を情けないと思っていた。けれど、スイはそれを欲していたのだろう。スイを心から信頼し、私の全てを委ねる。それがスイにとっての幸福なのだ。

「俺が未熟で、兄さんを守りきれないことがあるかもしれない。それでも必ず、命をかけて俺は兄さんを守るから」
「それなら私も、スイを命懸けで守るよ」

 スイが私を守ると誓うように、私もスイを守ると誓う。そう告げた瞬間に、スイは不服そうな顔をして私の名を小さく呼ぶ。それはきっと、それでは意味がないだろうと訴えたい気持ちの表れだろう。私を守りたいスイは、私に守られたくないのだ。今回の火傷を負ったようなことが、二度と起こらないようにしたいと思うからこそ、不服な気持ちを隠さない。

「私にも、スイのことを守らせてほしい。……私に出来ることなんて、大したことではないんだろうけど、……でももし、これからスイの命が脅かされるようなことがあれば、私はまた同じように命を懸けてスイを守る」

 私は兄なのだから、弟であるスイを守らなくてはいけない、というような義務感は微塵もなかった。ただ大切で、愛しいからこそ、その存在を守りたいのだ。スイが傷つくくらいなら、自分が傷ついたほうが良いと感じる。きっとスイもそうなのだろう。同じ気持ちを抱いてくれているからこそ、私を守りたいと言ってくれるのだ。

「スイがいない世界で生きていくなんて、辛過ぎるから」

 守ってくれることは、とても有り難くて、幸せなことだ。けれど、もし私を守ることでスイが命を落としてしまったら、私はどうすれば良いのだろう。考えただけで胃の腑が冷える。スイがいない。そんな世界で、生きていける気がしなかった。

「……兄さん」

 スイを守りたいのだと主張する私の想いに葛藤を抱きながらも、スイはおもてに喜びを浮かべる。ゆっくりと顔を近づけてきたスイの唇が、軽く私の口に触れた。甘くて、優しい口付け。首を少し動かして、私からも口付けをした。愛しい。あなたが、こんなにも愛しい。そんな気持ちを込めて、唇で触れる。

「これからも、そばにいさせてね」

 永遠などと言うものが、この世に存在しないことは分かっている。それでも、限りなく永遠に近い時を、スイと過ごしたかった。私かスイのどちらかの命が終わる日まで、その日を経たとしても、私の心はスイと共にある。幸福に包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。落ちていく体は、きっと優しい夢を見ることだろう。
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