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◆ 第一章 黒の姫宮
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黒の巫女というのは華蛇にとって、なくてはならない存在で、それでいてとても近い者なのだろう。だが、それは私ではない。私はそんな大層なものではないのだ。
「華蛇の具体的な処遇は、紫蘭陛下が決定される。それが下るまで、お前は僕たちと行動を共にしてもらうから」
「分かった」
どうやら、現状の華蛇の統制権は蛍星が持っているようだった。こうして見ていると、ついつい立派になったなぁと弟の成長に感じ入ってしまう。
ラオセンに向かってはふんぞり返っていた蛍星が、私に向かうとにこにことして可愛らしい弟になる。その変化の様が面白くもあった。ふいに、蛍星が懐から何かを取り出す。それはお守りだった。
「僕の出立前に、兄上から頂いた髪がなければ、何もかもなしえないことでした」
「そんなに役に立ったのか?」
「それはもう十二分に! 本当に、あの時兄上が髪をくれたのは、黒闢天の加護があったからこそだなぁと思いましたよ! あっ、そうだ。あの時、兄上からもらった紐、まだ僕が持っててもいいですか? 最強の御守りになりそうなんで」
「あげるよ。私が持っているより、蛍星が持っていた方が効果がありそうだ」
紐やら髪やらが、戦場で蛍星の助けになるというのなら私はどれだけでも差し出す。私には何の力もなくて、共に戦い蛍星を支えるなどということは出来ない。そんな私が役に立つというのなら、これほど嬉しいことはない。
「吉乃!」
今日はよく名を呼ばれる日だった。反射的に声のした方を向く。そこには、予想し得なかった人物がいた。
「兄上……!?」
馬に乗った二人の兄上が、こちらに向かってくる。二人の王族を守るように、近衛軍がその周囲を囲っていた。誰もが、国王陛下と副王陛下の出現に驚き、そして一同に跪く。その瞬間立ったままでいたのは、私と蛍星だけだった。
「皆、俺に構うな。各々仕事をしてくれ」
大きく張り上げた声で紫蘭兄上が周囲に告げる。その命によって、跪いていた者達がゆっくりと立ち上がり、各自の務めを果たし始めた。紫蘭兄上が馬から降り、大股でこちらに向かって歩いてきた。その速度に驚いていた矢先、強い力で抱きしめられる。
「吉乃、無事か」
「は、はい。……痛っ」
耳元で聞こえた、切羽詰まったような声に胸が締め付けられる。心配を掛けてしまったのが、痛い程よく分かった。申し訳なさで胸がいっぱいになるのだ。蛍星より強い力で抱きしめられ、思わず口から悲鳴が出てしまう。
堪えられたら良かったのに、それが出来なかった。慌てて口を手で覆うが、もう遅い。紫蘭兄上は私を抱きしめる力を弱めて、伺うような目で私を見る。
「どうした、怪我でも負ったか」
「少しだけ……でも、自業自得ですから」
全て、己の行動の結果だ。痛いなどと、泣き言を漏らせる立場ではない。反射的に悲鳴を上げてしまったが、傷が癒えるまでの間、己の口を縫い付けて悲鳴が漏れないようにしてしまいたいくらいだった。
「あぁ、そうだな。自業自得だ。王としてはお前を責めねばならないだろう。……だが、兄としては、ただただ無事で安堵するばかりだ」
優しい膂力が私をゆっくりと抱きしめ、私の小さな体は兄上にすっぽりと包まれる。温かくて、心地よい。もう大丈夫なのだ、と安堵が骨身に沁みる。
安堵と共に、蘇る恐怖。生まれて初めて受けた暴力。それらが脳裏に浮かんで、体が小刻みに震えた。
「申し訳、ありませんでした」
「……もういい。相応の罰は既に受けている」
私が今感じている恐怖と痛みこそが、自業自得の結果であり、私が受け入れるべき罰だと兄上が囁く。こんなもので、足りるのだろうが。私が発端のこの一件で、命を落とした者は何人いるのだ。怪我をした人間は。そう考えると、私の罰は軽すぎるように思えた。
「お前を守る為と言い、俺たちはお前を閉じ込めすぎた。その感情が一気に爆発して、今回の騒動に繋がったのだ。……すまなかった、吉乃」
「そんな……兄上は何も悪くありません」
「いいや、悪い。俺は猛省した。閉じ込めた結果、お前を失うのでは割に合わん」
「これからは、吉乃の自由を尊重するよ」
紫蘭兄上の言葉を受け継いで、口を開いたのは柊弥兄上だった。兄上と同時にこの場には来ていたけれど、到着後に私のもとへ向かった紫蘭兄上とは異なり、柊弥兄上は蛍星やらこの場にいる武官やらに状況を確認しているようだった。それを終えて、こちらに来て下さったのだろう。
「吉乃の幸せを願っていたはずなのに、どこかでそれが狂っていたようだ。……姫宮として許される範囲で、吉乃は自由に生きて良い」
「柊弥兄上」
ぽんぽん、と頭に軽く手が触れた。自由に生きて良いという言葉が、一体どのような生き方を指すのか、私にはよく分からなかった。けれど、その言葉には確かな希望が込められているように思えた。
「それにしても、良い船ですね。無断で我らの海域に入り込んだこの船は、謂わば持ち主不明の漂流物。持ち主が名乗り出るまでは、少々拝借させて頂きましょうか」
「二の兄上、丁度船には琳の皇太子が乗ってるよ」
「なら、このままこの船は清玄に向かってもらいましょう」
停泊させていた琳の船を眺めながら、柊弥兄上と蛍星が何やら話し合っている。どうやら柊弥兄上は、この琳の船を我が国のものとするらしい。
「連れてきた近衛を何人か船へ乗りこませ、この船のまま富寧を清玄まで連行しようと思いますが、如何ですか?」
「そうしてくれ。吉乃、お前も船で一足先に戻るか?」
「……いえ、もうあの船には二度と乗りたくありません」
「なら、辛いだろうが馬で帰るぞ。俺の馬に乗って行け」
「え、いや、流石にそれはちょっと……」
いくら兄弟だからとはいえ、国王陛下の馬に同乗するというのはあまりにも畏れ多い。かといって、私は一人で馬を操ることが出来ない。状況が違えば清玖に乗せてもらっていたのだろうけれど、生憎彼は今負傷中だ。
ならばせめて、蛍星の馬に乗せてもらいたい。そう思って蛍星を探しかけた瞬間、私の心を見透かしたような柊弥兄上が言葉を投げかける。
「吉乃。陛下に心配をかけたんだから、我慢しなさい」
「おい、我慢ってなんだ」
その一言で私は紫蘭兄上と共に、同じ馬に乗って帰ることが決定した。柊弥兄上の言葉に、すかさず反論をする紫蘭兄上。二人の息はいつだってぴったりだった。紫蘭兄上の手によって馬上へ上げられ、私の視界が急激に広くなる。広がった世界で、清玖を探した。
「兄上。清玖なら、荷台に載せられてましたよ」
きょろきょろとしていた私が誰を探しているかをすぐに察した蛍星が、私にそっと教えてくれた。馬に乗る私のそばに駆け寄って、地上から私を見上げる蛍星は、普段よりもうんと小さく見える。
「荷台?」
「そうなんです。とうとう失神しちゃったみたいで」
「失神って……大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。清玄に戻って手当を受けて、たくさん食べてたくさん寝れば、元通りです」
「そうなのか……武官というのは凄いな」
「そうなんです!」
蛍星が誇らしげ胸を張った。本当に、武官という生き方は蛍星に合っているのだろう。黎泉は書庫の住人として、羅環と眞早は探究者として。彼らは皆、己の生き方を見つけて、選んで、その人生を生きている。
私も、それを見つけたい。姫宮という、与えられた役目ではなく、私が自ら選び取った人生を生きたい。
「蛍星も、本当に凄い」
弟の人生に感銘を受けるなんて、なんと情けない兄なのだろう。けれど、己の行きたい道を突き進む蛍星の在り方には敬服した。その気持ちが発露して、思わず蛍星の頭を撫でしまう。弟の頭を撫でてしまうのは、兄としての性なのか。紫蘭兄上や柊弥兄上も、私たち弟の頭をよく撫でていた。
「兄上に褒めて頂けるのが、一番嬉しい」
蛍星は嬉しそうに目を細めて、頭を撫でる私の手を甘受した。可愛くて堪らない。きっと、私たちの頭を撫でる兄上たちも、こんな気持ちになっていたのだろう。
「さて。そろそろ帰るぞ、吉乃」
「はい」
紫蘭兄上が馬上へと上がり、馬が僅かに揺れる。二人を乗せて歩くのは苦しいかもしれない、と思ったが、国王の為に育てられたこの馬の足は太く、骨格も筋肉量も他の馬とは比べものにならなかった。私が抱いた懸念など、この馬にとってみれば見くびるなよ、と思う類のものかもしれない。
やっと、帰れる。私の家である黒珠宮へ。長い長い夜が明けた。
「姫宮は我ら天瀬が奪還した! 皆の者、大義であった!」
天瀬国王の号令に、皆々が大声を上げて応えた。地が揺れるほどの雄叫びが、曙の空に響き渡る。
「華蛇の具体的な処遇は、紫蘭陛下が決定される。それが下るまで、お前は僕たちと行動を共にしてもらうから」
「分かった」
どうやら、現状の華蛇の統制権は蛍星が持っているようだった。こうして見ていると、ついつい立派になったなぁと弟の成長に感じ入ってしまう。
ラオセンに向かってはふんぞり返っていた蛍星が、私に向かうとにこにことして可愛らしい弟になる。その変化の様が面白くもあった。ふいに、蛍星が懐から何かを取り出す。それはお守りだった。
「僕の出立前に、兄上から頂いた髪がなければ、何もかもなしえないことでした」
「そんなに役に立ったのか?」
「それはもう十二分に! 本当に、あの時兄上が髪をくれたのは、黒闢天の加護があったからこそだなぁと思いましたよ! あっ、そうだ。あの時、兄上からもらった紐、まだ僕が持っててもいいですか? 最強の御守りになりそうなんで」
「あげるよ。私が持っているより、蛍星が持っていた方が効果がありそうだ」
紐やら髪やらが、戦場で蛍星の助けになるというのなら私はどれだけでも差し出す。私には何の力もなくて、共に戦い蛍星を支えるなどということは出来ない。そんな私が役に立つというのなら、これほど嬉しいことはない。
「吉乃!」
今日はよく名を呼ばれる日だった。反射的に声のした方を向く。そこには、予想し得なかった人物がいた。
「兄上……!?」
馬に乗った二人の兄上が、こちらに向かってくる。二人の王族を守るように、近衛軍がその周囲を囲っていた。誰もが、国王陛下と副王陛下の出現に驚き、そして一同に跪く。その瞬間立ったままでいたのは、私と蛍星だけだった。
「皆、俺に構うな。各々仕事をしてくれ」
大きく張り上げた声で紫蘭兄上が周囲に告げる。その命によって、跪いていた者達がゆっくりと立ち上がり、各自の務めを果たし始めた。紫蘭兄上が馬から降り、大股でこちらに向かって歩いてきた。その速度に驚いていた矢先、強い力で抱きしめられる。
「吉乃、無事か」
「は、はい。……痛っ」
耳元で聞こえた、切羽詰まったような声に胸が締め付けられる。心配を掛けてしまったのが、痛い程よく分かった。申し訳なさで胸がいっぱいになるのだ。蛍星より強い力で抱きしめられ、思わず口から悲鳴が出てしまう。
堪えられたら良かったのに、それが出来なかった。慌てて口を手で覆うが、もう遅い。紫蘭兄上は私を抱きしめる力を弱めて、伺うような目で私を見る。
「どうした、怪我でも負ったか」
「少しだけ……でも、自業自得ですから」
全て、己の行動の結果だ。痛いなどと、泣き言を漏らせる立場ではない。反射的に悲鳴を上げてしまったが、傷が癒えるまでの間、己の口を縫い付けて悲鳴が漏れないようにしてしまいたいくらいだった。
「あぁ、そうだな。自業自得だ。王としてはお前を責めねばならないだろう。……だが、兄としては、ただただ無事で安堵するばかりだ」
優しい膂力が私をゆっくりと抱きしめ、私の小さな体は兄上にすっぽりと包まれる。温かくて、心地よい。もう大丈夫なのだ、と安堵が骨身に沁みる。
安堵と共に、蘇る恐怖。生まれて初めて受けた暴力。それらが脳裏に浮かんで、体が小刻みに震えた。
「申し訳、ありませんでした」
「……もういい。相応の罰は既に受けている」
私が今感じている恐怖と痛みこそが、自業自得の結果であり、私が受け入れるべき罰だと兄上が囁く。こんなもので、足りるのだろうが。私が発端のこの一件で、命を落とした者は何人いるのだ。怪我をした人間は。そう考えると、私の罰は軽すぎるように思えた。
「お前を守る為と言い、俺たちはお前を閉じ込めすぎた。その感情が一気に爆発して、今回の騒動に繋がったのだ。……すまなかった、吉乃」
「そんな……兄上は何も悪くありません」
「いいや、悪い。俺は猛省した。閉じ込めた結果、お前を失うのでは割に合わん」
「これからは、吉乃の自由を尊重するよ」
紫蘭兄上の言葉を受け継いで、口を開いたのは柊弥兄上だった。兄上と同時にこの場には来ていたけれど、到着後に私のもとへ向かった紫蘭兄上とは異なり、柊弥兄上は蛍星やらこの場にいる武官やらに状況を確認しているようだった。それを終えて、こちらに来て下さったのだろう。
「吉乃の幸せを願っていたはずなのに、どこかでそれが狂っていたようだ。……姫宮として許される範囲で、吉乃は自由に生きて良い」
「柊弥兄上」
ぽんぽん、と頭に軽く手が触れた。自由に生きて良いという言葉が、一体どのような生き方を指すのか、私にはよく分からなかった。けれど、その言葉には確かな希望が込められているように思えた。
「それにしても、良い船ですね。無断で我らの海域に入り込んだこの船は、謂わば持ち主不明の漂流物。持ち主が名乗り出るまでは、少々拝借させて頂きましょうか」
「二の兄上、丁度船には琳の皇太子が乗ってるよ」
「なら、このままこの船は清玄に向かってもらいましょう」
停泊させていた琳の船を眺めながら、柊弥兄上と蛍星が何やら話し合っている。どうやら柊弥兄上は、この琳の船を我が国のものとするらしい。
「連れてきた近衛を何人か船へ乗りこませ、この船のまま富寧を清玄まで連行しようと思いますが、如何ですか?」
「そうしてくれ。吉乃、お前も船で一足先に戻るか?」
「……いえ、もうあの船には二度と乗りたくありません」
「なら、辛いだろうが馬で帰るぞ。俺の馬に乗って行け」
「え、いや、流石にそれはちょっと……」
いくら兄弟だからとはいえ、国王陛下の馬に同乗するというのはあまりにも畏れ多い。かといって、私は一人で馬を操ることが出来ない。状況が違えば清玖に乗せてもらっていたのだろうけれど、生憎彼は今負傷中だ。
ならばせめて、蛍星の馬に乗せてもらいたい。そう思って蛍星を探しかけた瞬間、私の心を見透かしたような柊弥兄上が言葉を投げかける。
「吉乃。陛下に心配をかけたんだから、我慢しなさい」
「おい、我慢ってなんだ」
その一言で私は紫蘭兄上と共に、同じ馬に乗って帰ることが決定した。柊弥兄上の言葉に、すかさず反論をする紫蘭兄上。二人の息はいつだってぴったりだった。紫蘭兄上の手によって馬上へ上げられ、私の視界が急激に広くなる。広がった世界で、清玖を探した。
「兄上。清玖なら、荷台に載せられてましたよ」
きょろきょろとしていた私が誰を探しているかをすぐに察した蛍星が、私にそっと教えてくれた。馬に乗る私のそばに駆け寄って、地上から私を見上げる蛍星は、普段よりもうんと小さく見える。
「荷台?」
「そうなんです。とうとう失神しちゃったみたいで」
「失神って……大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。清玄に戻って手当を受けて、たくさん食べてたくさん寝れば、元通りです」
「そうなのか……武官というのは凄いな」
「そうなんです!」
蛍星が誇らしげ胸を張った。本当に、武官という生き方は蛍星に合っているのだろう。黎泉は書庫の住人として、羅環と眞早は探究者として。彼らは皆、己の生き方を見つけて、選んで、その人生を生きている。
私も、それを見つけたい。姫宮という、与えられた役目ではなく、私が自ら選び取った人生を生きたい。
「蛍星も、本当に凄い」
弟の人生に感銘を受けるなんて、なんと情けない兄なのだろう。けれど、己の行きたい道を突き進む蛍星の在り方には敬服した。その気持ちが発露して、思わず蛍星の頭を撫でしまう。弟の頭を撫でてしまうのは、兄としての性なのか。紫蘭兄上や柊弥兄上も、私たち弟の頭をよく撫でていた。
「兄上に褒めて頂けるのが、一番嬉しい」
蛍星は嬉しそうに目を細めて、頭を撫でる私の手を甘受した。可愛くて堪らない。きっと、私たちの頭を撫でる兄上たちも、こんな気持ちになっていたのだろう。
「さて。そろそろ帰るぞ、吉乃」
「はい」
紫蘭兄上が馬上へと上がり、馬が僅かに揺れる。二人を乗せて歩くのは苦しいかもしれない、と思ったが、国王の為に育てられたこの馬の足は太く、骨格も筋肉量も他の馬とは比べものにならなかった。私が抱いた懸念など、この馬にとってみれば見くびるなよ、と思う類のものかもしれない。
やっと、帰れる。私の家である黒珠宮へ。長い長い夜が明けた。
「姫宮は我ら天瀬が奪還した! 皆の者、大義であった!」
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