下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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「吉乃、大丈夫か」

 食事を終えてすぐ、吉乃はこくりこくりと舟を漕ぎはじめた。なんとか体を支えて歩かせてはいるものの、その足取りはひどく覚束ない。

「……あぁ」

 帰ってきた返事も緩慢なもので、吉乃の目はもう殆ど開かれていない。襲い来る睡魔に抗えなかったのだろう。意識は殆ど、夢の中に落ちてしまっている。

「夫君殿、宮様を抱きかかえて下さい」
「心得た」

 ふらふらとしている吉乃を見かねた侍従長殿が俺に指示を出し、即座に俺は吉乃を横抱きにして抱え上げた。

 先導する侍従長殿、吉乃を抱える俺、後ろからは葉桜がついてきている。俺たちの足取りは早く、殆ど走っている状態に近かった。全ては、一刻も早く吉乃を寝台で休ませるためだった。

「もう少しで休めるからな、吉乃」

 食堂から、吉乃へ与えられた城の賓客室は少しばかり距離があった。もう少し近ければ、吉乃とて自力で部屋に辿り着けたことだろう。俺の腕の中の吉乃を、苦しい面持ちで見ていたのは侍従長殿だった。

「宮様に無理をさせてしまいました」
「貴方がそんな顔をする必要はないですよ」
「……しかし」
「吉乃はすごく喜んでいたし、楽しんでいた。これは仕方のないことです」

 吉乃の旅が充実したものになるように願ったのは陛下で、実行している侍従長殿には何の落ち度もない。その侍従長殿だって、吉乃が幸福になれるよう祈って、行動していたのだ。誰も悪くはない。

 部屋に辿り着き、まっすぐに寝台へと向かう。黒珠宮の吉乃の部屋に置かれた寝台とほぼ同じ大きさのものだった。天蓋付きの上等な寝台。黒を基調としたこの寝台はおそらく、此度の旅のために新たに新調されたものだろう。

「吉乃、寝台に降ろすぞ」

 ふかふかとしたそこへ、吉乃をそっと下す。一度身じろぎをしたが、目は開かなかった。

「完全に眠ってるな」
「あとは我々にお任せを」
「あぁ、お願いします」

 俺の務めは寝台へ運ぶところまで。あとは専門家たちに任せるべきだ。侍従長殿に託すと、侍従長殿が数人の侍従を手招きし、吉乃を着替えさせ始めた。恐らくは、裸にして濡れた布で体を清潔にし、真新しい襦袢を着せていくのだろう。

 手伝えと言われれば手伝うが、門外漢の俺がいては彼らの手際も鈍るというもの。下手に手出しはしない方が良い。眠る吉乃が一糸まとわぬ姿になるのを見ていると、どうしても体が熱くなってしまう。これ以上熱を燻らせないためにも、俺は部屋の外へ出た。

 部屋の前には近衛の装束の男が二人。この城にも衛兵は無数に存在するが、吉乃の部屋の警備を近衛が譲るはずもなかった。特に行くあての無い俺は、無意味に歩く。月は静かに輝くが、城から見下ろせる町並みは随分と喧しく輝きを放っていた。

 歩き続けた先に、石造りの渡り廊下があった。屋根は無く、吹きさらしだ。風が吹き抜けていく。随分と長くなった俺の髪が獣の尾のように揺れていた。

「あんたが、姫宮の夫君か?」

 警邏中の衛兵が、声をかけてきた。この城の堅牢とした造りに反するような、軽薄な態度の男だ。衛兵としての制服を若干着崩し、身の丈より長い槍に似た警棒に体重を預け、こちらに鋭い視線を向けている。その口元には揶揄するような不愉快な笑みがあった。

「……そうだが」
「特別美形ってわけでもないな。姫宮の隣に立ったら霞むような野郎だ」

 吉乃の隣に立って霞まない人間なんていない。絶世の美男であっても、傾国の美女であっても、吉乃の美しさの足下にも及ばない。その威光でもってして、二人の兄上様方ならば吉乃の隣に立てるというものだ。

「どうやって姫宮を手に入れたんだよ」

 言葉を返す必要性を感じず、俺はそのまま足を進めた。そんな俺の進路を、長い警棒が遮る。面倒な相手だ。このままやり過ごそうと思ったが、どうやら相手がそれを許してはくれなかった。

「無視してんじゃねぇよ。最高の玉の輿しやがってよ。そもそも、どうやって姫宮に近付いたんだ? どうせ、まっとうな手段じゃねぇんだろ」

 どうやって近づいたと言われても、俺自らが近付こうと思って近づいた訳ではないため、どのような返答も出来ない。

 俺たちの出会いは何もかもが偶然の産物だった。あの日、俺が蛍星を追いかけなければ。あの日、吉乃が内苑を歩いていなければ。全てが噛みあわなければ、有り得なかった邂逅だった。全て黒闢天の意思であったと、そう思いたい。

「独り占めなんて狡いだろ、王族は皆で共有しようぜ」

 姑息な手で俺が吉乃に近付いたと思われているのなら、それはそれでいい。どう思われていようと、誤解されていようと俺は構わない。そういった下衆の勘繰りはどこにでもあるものだ。
 
「あ、でも別にあんたの独り占めって訳でもねぇか。姫宮は誰にでも足を開くんだもんな」

 怒りは一瞬でこの体の支配権を奪った。意識するよりも早く、男から警棒を奪い取り、それで足を払って男を地へ這わせる。尻餅をついた状態で面食らった男の喉元に、棒の先端を押し付けた。これに刃がついていれば、すでにその喉を両断している。

「不敬を今すぐその命で贖うか、この城より立ち去るか選べ」

 身動きひとつ取れないままだが、男は虚勢を張って俺を鼻で笑った。

「はっ……なにムキになってんだよ、本当のことじゃねーかよ。姫宮ってのはそういう仕事をするんだろ。皆わかってんだ、黒髪黒目ってのがとんでもない売女だってこと」

 続きの言葉はなかった。男が突然に意識を失い、音を立てて倒れ込んだからだ。一瞬のことで見落としてしまいそうだったが、後方より小さな針が飛んできて男の首筋に刺さったのだ。こんな芸当をする人間を、俺は旅の一団の中ではひとりしか知らない。

「葉桜」

 その人物が目の前に現れる。足で地に伏した男の顔を動かし、上を向かせる。その胸が僅かに上下していることを葉桜は確認していた。どうやら殺すつもりではなかったらしい。

「……毒でも塗ってあったのか?」
「弱い毒をな。急速に体を回り全身を痙攣させるが、時間が経てば解毒剤無しでも治癒する。……問題は、強烈な後遺症が残ること」
「後遺症?」
「不能になるんだ。男としてこいつは死んだ」
「良い感じの懲罰だな」

 吉乃を抱きたかったらしいが、もうそれは二度と叶わぬものとなった。それどころか、普通の女さえ抱けない。性行を楽しみたいのなら、男に抱かれるくらいしか手はない。吉乃を激しく侮辱したのだから、自業自得の末路だった。

「お前の手で殺しても良かったんだぞ」

 物騒なことを葉桜が言う。葉桜だって、この男を殺したかったことだろう。手に持っていた警棒を投げ捨てる。それは、からんからん、と空虚な音を立てて男の横に並んだ。

「……殺してやろうと思った。でも、こんな下衆の血で汚れた手で、吉乃に触れるのが嫌だったんだ」

 吉乃に触れる手は、せめて綺麗なままでありたかった。不浄なものには触れず、清廉な吉乃に相応しい手でありたかったのだ。

「正しい判断だ。宮様に直に触れるお前はそのままでいろ。宮様の尊さを解さぬ不敬者は俺たち近衛が誅する」

 近衛とは、王族の心身を守るだけでなく、その名誉も守るものだという。葉桜は、その務めを存分に果たしていた。

「俺のことは何を言われてもいいし、どれだけ憎まれても、嫉まれても、仕方のないことだと思ってる。……でも、過酷な運命に耐えて、気丈に振る舞う吉乃への侮辱は、なんであっても許す気はない」

 世の中には色々な考え方の人間が存在するが、吉乃を侮辱するような人間だけは存在してはいけないと思う。

 暴論であることは分かっているが、どうしても俺はその考え方を改められなかった。吉乃には侮辱に値するところはひとつもないのだから。

 黒髪黒目として生まれたのも本人の意思ではなく、姫宮となったのも本人の願いではない。であるのにも関わらず、必死になってその使命を果たそうとしている。

 他国にある王族のように暴利を貪ることも一度もなく、粗食であり華美な装飾も好まない。財政を圧迫するようなことは何一つしておらず、むしろ、吉乃が存在することで他国から法外な外貨を獲得でき、民の税が軽くなっているという事実もある。

 吉乃には、非難されるべき点がない。

「それをどうする気だ」
「引き渡すべき人のもとへ運ぶ」

 葉桜がそれ、と称したのは寝転がって伸びているこの男。俺はその首根っこを掴んでずるずると引っ張りながら歩き出した。

 道中に遭遇した衛兵たちが、ぎょっとした顔で引きずられている男を見ていたが、誰一人として事情の説明を要求する者はいなかった。

 平素から素行の悪い男であって心配すらされていないのか、俺が吉乃の夫君であることを知っていて下手に声を掛けてこないのか、もしくは俺が、気安く声を掛けられないような怒気を孕んでいたのか。

「夫君殿、一体どうしたのです」

 目指した先にいたのは、県令の季鞍だった。県令の執務室には、夜も遅いというのに政務に励む季鞍が。勤勉な県令なのだろう。だが、今の俺は季鞍を寛恕出来るほどの余裕を持ち合わせていなかった。

 季鞍の前に男を放り投げる。激しい音を立てて男は床に激突したが、それでも目覚める様子はない。葉桜は軽い毒だと言っていたが、葉桜の軽いという言葉は世間一般のそれとは激しく乖離しているのかもしれない。

「勝手な判断で申し訳ありませんが、姫宮様に対する不敬者を処罰させて頂きました。死んではいません。回った毒も自然と治癒するそうです」

 努めて冷静に声を発する。だが、どうしても険を帯びていた。仕方のないことだ。この世のどこに、己の最愛の妻を売女と侮辱されて穏やかでいられる夫がいるというのか。

 聡い季鞍はすぐに俺の怒りの度合いを推し量り、こちらが抱く抑えがたい感情を理解した。

「……これは、とんだ御無礼を」

 深々と県令が俺に向かって頭を下げる。だが、謝罪すべき相手が間違っている。俺へではなく、吉乃へ詫びるべきだ。だが、詫びる原因となる暴言を吉乃に知られたくはない。仕方なく、俺がその謝罪を受ける。

「貴方のせいではない、とは申し上げられない。此度のことはこれで手打ちとしますが、吉乃の耳に入るようなことがあれば私は貴方を許さないし、能力を認められている貴方であっても陛下の不興を買うことになるでしょう」
「仰る通りだ」

 県令のおもてには諦念の色。県令ひとりが城の全ての人間を管理出来るとは思わないが、何かあったときの責任はすべて県令である季鞍に向く。それを重々理解しているのだろう。 季鞍は目頭に指を置いて俯いた。

「私は、清玄で生まれ育ち、官吏として黒烈殿に務めておりました。そこで陛下に見いだされ県令にまで推して頂いたのです。……この地へ来て驚いたのは、王家に対する畏敬の念の低さです」

 完全に伸びきっているこの不敬者のような輩を、季鞍もこの黄玄で数多見てきたことだろう。清玄生まれの季鞍にとって、それは考えられない光景だったはずだ。

「清玄においては、陛下の威光は強く、市井においても王家に対する愛情はとても熱烈です。しかし、都より離れた県においては、どうしてもそれが薄まってしまう。県政を県令が取り仕切る為、陛下の威光が届きにくいのでしょう。天瀬王家の素晴らしさを記す書があっても、地方に行けば行くほど識字率が下がる。彼らには、天瀬王家を知る手立てがないのです。……特にひどかったのが、姫宮様に対する誤解でした」


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