下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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 乗り込んだ小舟がゆっくりと進んでいく。

 闇夜に染められて黒々としていた水路には、澄んだ水が流れていた。昨夜は気付かなかったが、この水路たちは全て石で舗装されており、とても人工的な造りになっている。舟から下を覗けば、水底が見えるが、やはりそこには石が綺麗に並べられているだけだった。

 聞けば、かつては自然のままの姿だったそうだ。ありのままの小川を利用していたのだが、鳳水が色町として名を馳せ、土地が必要となった時に区画整理が行われ、その時に水路も人の手で整えられたのだという。それは、百年以上前の話だった。

 水路を見つめていた私に、淡月が淀みなく説明してくれたのだ。淡月は物知りだな、と私が言えば、宮様の御下問がある場合に備えて少々調べておりました、と返ってきた。控え目に笑う淡月は、少し嬉しそうに見える。

「朝は随分と静かだな」

 夜の喧噪が想像できないほどに、あたりは静まり返っていた。水路を往来する小舟も少ない。昨夜通った路とは異なる路を通っているのかと淡月に問えば、同じ路だという。遊郭はどこも門を閉ざし、遊女たちの声はひとつも聞こえない。

「皆、務めを終えて眠っているんだろう」
「なるほど。夜の街に相応しい風景というわけだ」

 清玖の言葉に頷きながら、私にも心当たりがあった。姫宮の務めを果たした夜は、疲れ果てて眠り続けてしまうのだ。目が覚めた時には昼が過ぎているなどということはざらにある。この街も疲れ果てて、眠っているということなのだろう。

「あれ?」

 鈴が鳴るような、明るく軽やかな声が聞こえた。その声は頭上より遥か上から降ってきた。目線を上げる。遊郭の二階部分、張り出した回り廊下に女性の姿があった。務めを終えて、起きだした遊女が、煙管を吸っては紫煙を吐き出している。

「黒髪黒目ってことは……姫宮様?」

 私を見て、驚いたように声をあげる。夜の間は気付かれなかったこの髪色も、煌々と太陽が照らす世界の中では目を引くようだ。ねぇちょっと、といって室の中に声をかける女性。呼ばれて、数人の遊女たちが現れ、回り廊下を囲う柵から乗り出し、私を見下ろす。

「本当だ、姫宮様だ!」
「すごいすごい、本物だよ!」

 宮様を見下ろすなど、と淡月が小さく漏らす。淡月の価値観からすれば、彼女たちの行いは不敬となるのだろう。だが私は気にしていない。構わないから、と淡月に声を掛ければ、不承不承といったおもてで淡月が頷く。

 私が一声掛けなければきっと、淡月は遊女たちに下へ降りて宮様に跪拝なさい、とでも言いそうだ。そんなことをいちいちする必要はない。気軽に声をかけてもらえて、私は嬉しい。

「姫宮様、こんなところで何されてるんですか?」

 遊女の声が、他の遊女を呼んで、その声たちが隣の廓へと伝染していく。気付けば、私が乗る舟が通る水路沿いの遊郭から、遊女たちが顔を覗かせていた。皆、二階の回り廊下から顔を出しているところを見るに、二階が彼女たちの就寝の為の部屋なのだろう。

「実は今、新婚旅行中なんだ」

 そう答えると、きゃー、という黄色い歓声が響き渡る。あまりのけたたましさに驚いてしまったが、何故かとても楽しかった。多くの目が私を見ている。けれど、清玄で人々が私を見た目とは異なって、珍妙な動物でも見るような視線だった。

「えーっ、じゃあ、お隣の殿方が、旦那様ですか?」
「いいなぁ、羨ましいです。私の旦那と取り換えてください!」
「私も私も!」
「格好いい旦那様ですね!」

 口々に遊女たちが叫ぶ。彼女たちの関心は、黒髪黒目である私よりも、隣に座る清玖に向いていた。やはり、清玖は美男なのだ。私の身贔屓ではなく、客観的な目で見ても格好いいということが証明された。だからといって、清玖を欲しがられても困る。

「だ、駄目だ! 清玖は私のものだ!」

 焦った私は腕を伸ばして、清玖に抱き着く。誰にも奪わせないと主張するように、ぎゅっと抱きしめた。清玖のことを格好いいと評されるのは嬉しいけれど、欲しいなどとは言って欲しくない。私の行動を見ていた遊女たちが、再び黄色い叫び声を上げた。

「姫宮様、可愛いー!」

 今の行動の一体どこが可愛かったのか、私にはよく分からない。けれど、遊女たちは私のことを可愛い可愛いと言って、盛り上がっていた。今までに経験したことのないような空気に呑まれ、訳が分からなくなる。

「取り換えろなんて言わないんで、一晩貸してくださらないですかー?」
「えっ、そ、そんなの、絶対に駄目だ!」
「冗談ですよ、冗談!」

 あははは、と大きな声を上げて彼女たちは楽しんでいる。何が楽しいのかは分からないままだが、それでも私も笑えて来た。

「姫宮様、また遊びに来てくださいねぇ」

 大きく手を振りながら私の舟を見送る彼女たちに、私も小さく手を振ってみた。名も知らぬ女性と、こんな風に手を振り合うことなど、生まれて初めてだ。愉快な気持ちが、私の胸を温める。

「……宮様への不敬が過ぎます」

 舟が進み、鳳水の中心部を抜け、遊郭の姿が見えなくなったころに、ぼそりと淡月がもらした。抱いた不満を隠さない淡月の姿に、私は思わず笑ってしまう。

「淡月は気にし過ぎだ」
「気にし過ぎ、という問題ではないのです、宮様。王家の方々を敬うことは、天瀬臣民の務めです。彼女たちはそれを果たしていません」

 珍しく怒っているようだ。こうなってしまえば、私がどれだけ諫めたところで、淡月の怒りは収まらない。沈静化するのを待つのみだった。

 明るく元気で、そして逞しい遊女たち。彼女たちも私が抱えるような苦痛と、悲嘆を抱えているのだろう。そんな姿を思いながら、隣の清玖を見る。清玖も私を見ていた。視線が絡み合う。

「……清玖は今でも、ああいった店を利用するのか?」

 それは、ふいに生まれた疑問だった。清玖は、連れ込み宿の存在を知っていたし、過去に娼館などを利用したこともあると言っていた。戦で昂った己を慰めるためだと私に説明していたけれど、今はどうなのだろう。

「すっ、するわけないだろ。吉乃がいるんだから」
「蛍星に誘われたりもしていないのか?」
「誘われても断ってるよ。当たり前じゃないか。吉乃の夫君にしてもらってからは、務めを終えた後にいつも黒珠宮に行っているだろう?」

 焦って声が裏返った清玖を、怪しい、と思い私は睥睨する。そんな私に、自分は潔白だと清玖は主張した。確かに、清玖が夫君になってからは二人で夜を過ごすことが多い。清玖が娼館に行く時間を持てるとは思わない。

「……でも、私が姫宮の務めをしている時の様子は、分からない」

 一緒に過ごす夜はいいのだ。私自身が、清玖の潔白を証明出来る。けれど、私が姫宮の務めを果たしている夜はどうなのだろう。務めの夜は、清玖は黒珠宮にはやってこないのだ。

「吉乃が姫宮の務めを果たしている間は、俺も仕事をしている。その方が何も考えずに済むし、気が紛れるんだ」
「……そうだったのか」
「疑いは晴れたか?」
「別に……疑っていたわけじゃない」
「本当か? 俺は吉乃の疑いの視線を感じたけどな」
「気のせいだよ、きっと」

 何も考えなくて済む、と清玖は言った。武官としての階級が上がり、書類仕事が増えたという清玖は、机にかじりつくことが多くなったらしい。私が姫宮の務めを果たしている夜は、そんな仕事をして過ごすのだろう。何も考えないように。

 私の務めのことで、清玖を苦しめている自覚はある。けれど、もう悩まない。私たちは、その艱難を乗り越えたのだ。私が姫宮であることで、不要な苦悩を与えてすまない、と謝るのはもうやめた。

「……ありがとう、清玖」

 感謝をしよう。姫宮である私を妻君にしてくれた清玖に、心からの感謝を。けれど彼は、何に対する感謝なんだ、と小首をかしげる。聡明な彼のことだ。きっと分かっているのだろう。分かっていながら、分からないふりをしている。どうということはないと、示すために。

 小舟が進み水路の果てに到着すると、大きな河が目の前に現れた。船着き場で小舟から降り、今度は大きな船に乗り込んだ。小舟でぞろぞろと連なって水路を進むのはもう終わりのようだ。多くの侍従や近衛たちと共に船に乗り、河を進む。

 その河は、アラン河と言った。天瀬の中で最も大きな河で、華蛇たちとの領域を分けるものでもあった。東西に走るその河を北上して、対岸へと渡る。僅かな乗船時間だったが、風の力を利用しながら河の流れとは異なる方向へ進むため、激しく船は揺れ続けた。

「あー、やっと馬に乗れる」

 船から降り立ち、大声を上げたのはラオセンだった。連れてきた馬と共に船から降りてきたかと思うと、すぐに馬に乗っている。どうやら、相当、馬が恋しかったらしい。茶色の毛並みを持つ馬も、嬉しそうに尾を振っている。

「船旅は疲れたか? ラオセン」
「疲れたっていうか、なんていうか。不安定な感じが気持ち悪かったし、好きにはなれないな。でももう、そんな船ともおさらばだ」

 もうこりごり、とラオセンは言うが、帰途においてはアラン河から海上へ出て、海を越えて清玄に戻るのだ。今以上の船旅になることを、ラオセンは知らないのだろうか。

 周囲を見れば、侍従たちが忙しそうに動き回っている。淡月の指示のもと、無駄のない作業が繰り広げられていた。

 この大きな船は、私たちがゆっくりと華蛇の地を訪れ、オルドローズの都市、セーレンを堪能している間に、セーレンへ向かうのだそうだ。そして、セーレンの港に停泊し、私たちの帰還を待つという。

 しばらくの間、この船とはお別れだった。不要になった荷物は積んだまま、必要な荷物は馬車へと積み込む。そんな作業を淡月は指揮しているらしい。何か手伝えたらいいのだが、私のような手際の悪い人間が混ざれば、逆に皆の仕事を増やしてしまいそうだった。

 視線を、淡月からラオセンへ向ける。吹いた風が、彼の赤毛で出来た三つ編みを揺らした。誇らしい顔で、胸を張って、ラオセンは私に告げる。

「ここからは俺たちの領分、華蛇の地へようこそ。黒の巫女」


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