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第9話
9-22
しおりを挟む皇宮でも春猟でも、仁瑶はそこかしこから送られてくる秋波を黙殺している。翠玲ははじめこそ、あえて無視しているのだと思っていたのだが、そうではなかった。
仁瑶は、彼らの恋情が本心からのものだと信じていないのだ。それは以前桃心が言っていたように、父である太上皇から冷遇を受けたことが関係しているのかもしれない。
情愛に疎いというよりは、おのれを振り廻したものに対する忌避感があったのだろう。
それなのに、仁瑶は翠玲に心を向けてくれた。
求婚の意味があるのだとわかっていて、美しい歩搖を贈ろうとしてくれた。
(嬉しいな……)
翠玲は仁瑶のやわらかな髪を撫でつけ、薄紅に染まった頬へ触れる。
仁瑶からの愛情表現はいつだってぎこちなく、翠玲の反応を窺うような素振りを見せることが多い。
おそらくは、仁瑶自身もまだどうしてよいか戸惑っているのだろうけれど、翠玲にはそんな仁瑶の戸惑いさえもたまらなく愛おしい。
傷ついて蕾んでいた花が、翠玲に恋をしてくれた。そうして怯え、惑いながらも花びらをひらき、奥に秘めていた花蜜を味わってほしいと望まれる幸福。
愛慕の情がこみあげてくるままに、翠玲はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「琅寧では、簪を贈るのは〝あなたの髪を乱してみたい〟という意味になるのですよ」
「っ、は……!?」
耳もとにくちびるを寄せて囁いてみせれば、仁瑶が目をまるくする。
きっと思いもよらなかったのだろう。驚いたふうに見返してくる仁瑶に、翠玲は笑み含んだ声で続けた。
「他にも、臙脂ならば〝あなたのくちびるを吸いたい〟という意味に、着物ならば〝その衣を着たあなたを脱がせたい〟となるのですけれど、……仁瑶様、その寝衣はわたしがお贈りしたものですよね」
「ッ――」
赤みを増した頬が可愛らしい。
壊れ物を扱うように褥に押し倒せば、瞳が怯えの色をにじませて翠玲を見あげていた。
「即物的だと、わたしを嫌いになりますか」
拒絶されるのが怖くて、わざとそんなふうに訊く。
ふるえる喉にくちびるを寄せれば、仁瑶の息が跳ねた。
答えを待っていると、仁瑶は緩く首を横に振り、かすれた声で紡ぐ。
「嫌いになどなりません。……あなたになら、私のすべてを奪われてもよいくらいです」
途端、翠玲は身の内に巣食う獣が咆えるのを感じた。
暴れはじめた慾火が理性を焼き、獣を押し出そうとしている。翠玲は咄嗟に仁瑶を抱きすくめ、獣から庇うように腕に閉じ込めた。
「そのようなこと、絶対にわたし以外の天陽種に仰らないでください」
――嘘だ。仁瑶が翠玲以外に口にするはずがないとわかっている。
わかっているのに、確かめたくてたまらない。仁瑶のくちびるで、声で、翠玲だけだと言ってほしくてたまらない。
獣はもう、翠玲の思考を蝕みはじめていた。
「あなた以外に、私の番はいないでしょう」
不思議そうに答えられ、身の内で獣が歓喜する。
仁瑶の番は翠玲だけ。美しい蜜花を穢し、おのれのものとしてよいのは翠玲だけ。匂いやかな肌膚を好きなだけ貪り、思うさま蹂躙してよいのは翠玲だけ。
(っ……)
喉奥で小さくうめけば、仁瑶が不安そうに眉を寄せた。
叱られる前の子供のように身を縮めて「なにか間違ったことを言いましたか」と問われ、思わず微苦笑が漏れる。
「いいえ。ですが、どうかわたし以外から、簪も紅も衣も受け取らないでくださいませ。わたしが仁瑶様のものであるように、仁瑶様も、……もう、わたしだけの花紗なのですから」
念を押すように囁いた翠玲に、仁瑶はやわらかく含羞して頷く。身を重ねたまま恋しいくちびるに「翠玲」と呼ばれ、獣の手綱がひきちぎれた。
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