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第2話
2-3
しおりを挟む命を守ってやることも、死に目に会うこともできなかった。もしかしたら、これは泥梨へ落ちる前に赦された夢なのかもしれない。そう思うと同時に、じんわりと熱くなった胸の奥で、鼓動が響いているのを感じてはっとする。
――こと黄泉路に至って、心臓が動くなどあり得るだろうか。
「……っ」
紗琰は息を呑み、咄嗟に首もとをさすった。瓊祥の手で首を絞められた感覚はまだありありと残っているのに、喉もとでは確かに血管が脈打っている。
黄泉の国ではないのだとしたら、今自分はどこにいるのか。
恐怖とも期待ともつかない感情がこみあげてきて、紗琰はおそるおそるあたりを見廻した。
花酒の匂いが満ちる殿内。衝立を隔てた向こうでは、にこやかに杯を交わす顕官らの姿がある。柱や梁には紅絹の花飾りと双喜字の紋様が飾られており、開け放たれた廂の外では、穏やかな楽の音に戯れるかのように桃の花が枝を揺らし、月影にあえかな花びらが舞っていた。
さらに視線を落とせば、紗琰が身に纏っているのは深紅の婚礼衣裳であり、金銀の糸で縫い取られた百花と龍の紋様を捉えた瞬間、息を呑む。
(嫣寧との太婚の夜に戻ったのか……?)
大々的な祝宴をひらいての婚礼。曖昧に浮かぶ記憶の断片をどうにか手繰り寄せれば、かつての情景が脳裏に甦った。
(そうだ、あの時も酔ってしまって。それで玲玉からもらった酸梅湯を飲んで、嫣寧の閨へ行ったんだったか……)
今の状況は、まさに過去の出来事そのもの。
紗琰は息をつめて、もう一度自分の脈を確認した。肌の下には確かに血潮の熱があり、鼓動を刻んでいる。
さりながら、死んで過去へ生き返るなど聞いたこともない。
なぜ、と眉を寄せかけて、腰に下げていた玉佩が目についた。精緻な細工で木蓮の花が彫られた玉佩が、燭火を浴びてあえかにきらめいている。
紗琰のくちびるから、声にならない声が漏れた。
前世、紗琰がこの玉佩を身につけることはほとんどなく、普段は自室の小棚に大切にしまっていた。当然、太婚の場に持ち出した覚えもない。
けれど、木蓮の玉佩は、紗琰の身を飾ることこそおのれの使命だと言わんばかりの顔をして、しっかりと帯に結ばれている。
ふと、忘川河の深淵に引きずり込まれたことを思い出した。渦巻く濁流から紗琰を守ってくれたのは、他でもないこの玉佩である。
(嫣寧の魂が、やり直す機会をくれたのだろうか……)
やわらかな光とともに、嫣寧が自分を呼ぶ声を聞いた気がする。
溺れた紗琰を、一度ならず二度までも救ってくれたのだと思うと、すぐにでも嫣寧の待つ紅閨へ向かいたい衝動に駆られた。
だが、過去へ戻ってきたのなら、紗琰にはやらねばならないことがある。
こみあげてくる情動をぐっと押し殺し、紗琰は玲玉の手を借りて立ちあがった。
「父上のところへ行く」
紗琰が太婚を挙げた時、父皇は病を理由に太上皇の位へ退いていたとはいえ、病状はそれほどひどくなかった。それから徐々に悪化し、ちょうど一年後に崩御したのだ。
――紗琰は、おのれが死ぬ間際の喧騒を覚えている。瓊祥のもとへ駆け込んできた宦官は、包太医が父皇の毒殺について洗いざらい証言したと言っていた。
包太医は、叔父である孝賢王の主治医だった。それがなぜ父皇の主治医となったかといえば、もともと役目を負っていた周太医が高齢を理由に暇を乞うたためだ。包太医は彼の一番弟子であり、孝賢王の推薦もあったため、父皇も役目を引き継ぐことを認めたのである。
(暇乞いから暫くして、周太医は亡くなったはず。もしかすると、その死にも関与していたのかもしれない)
労無くして太上皇付きとなった包太医は、孝賢王の命を受けて、父皇の薬湯に遅効性の毒でも仕込んでいたのだろう。あるいは薬餌と称して、食べ合わせの悪いものでも与え続けたか。
とにかく、前世のように父皇を死なせるわけにはいかない。
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