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第3話
3-11
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人あたりがよくて温和な第四皇子。それが国内での希月の評判だが、そう振る舞っていたほうが楽だっただけだ。だから、今の自分こそ本来の姿だと言ってよい。
峯珠と彩爛とで振る舞いを変えたのは、ひとえに紗琰の気を惹くためだった。
帝君におもねるばかりの妃嬪の中、無愛想で冷ややかな態度を取れば、それだけで目立つことができる。星辰としてはもっと他にやりようがあると言いたいのだろうが、それではだめなのだ。
(紗琰様に、兄上の身代わりで嫁いできたのだと見做されたくない。僕を僕として見てもらうためには、こうでもしないと……)
もとはといえば、紗琰の相手は希月の異母兄、瑞瓏となるはずだった。
峯珠と彩爛、両国の血が結ばれれば、それぞれの国土は今後ますます豊かになる。
稀少な花紗の中でもさらに優れた花紗――鳳花たる紗琰をおのれの妃に迎えることを、当時太子の位にあった瑞瓏は嬉しそうに語っていた。
彩爛の皇統にしか生まれない鳳花は、その身の稀少性も相まってめったに国外へ出てこない。当代の鳳花帝君として立つか、あるいは臣下へ降嫁するのが通例で、他国の皇家へ嫁ぐのは異例中の異例だった。
希月は、紗琰の容貌を絵姿で知った。彩爛へ向かう使節に幾度も同行していた長兄が、持ち帰って見せてくれたのだ。
彩爛の宮廷絵師が描いたという紗琰は、乙女色の裙裳を纏い、鳳花という尊称どおり一輪の花のようにたたずんでいた。
真珠色の肌に焦茶の髪、金の双眸。もちろん端麗な美貌の持ち主なのだが、口もとを彩る微笑みはあえかで、数多の天陽種を惑わす絶世の妖花というにはあまりに初心がすぎる。
容姿だけならば、むしろ希月のほうがよほど華があった。艶花で妖艶な姿を想像していた分だけ、絵姿の紗琰は希月の目に凡庸に思えた。
希月がそうなのだから、実物を見てきた長兄の落胆はいかほどであろうか。絵姿よりは生身のほうが幾分美々しいのかもしれないが、これではたかが知れている。花紗の中でもさらに優れた花紗とはどれほどのものかと期待していただけに、失望は大きかった。
希月がそれをそのまま口にすれば、七つ年上の異母兄は可笑しそうに破顔した。
――おまえは鳳花がどんなものなのか、わかっていないんだ。
言われた意味がわからず、幼かった希月は首をかしげた。
瑞々しくほころんだ、艶やかな大輪の牡丹。鳳花と言われて思い浮かぶのはそのような人物ではないのかと、言い返した希月に長兄は笑みを深くする。そうしてこう言ったのだ。外見が麗しいだけの花は鳳花ではない、と。
単に目を惹く美貌の者なら、性種に限らず国内外に掃いて捨てるほどいる。鳳花の鳳花である所以は、慾をくすぐる危うさにあるのだとたしなめられ、希月はかしげた首をそのままに長兄を見あげた。
幼子だった希月には、異母兄の言葉は難しく、理解しがたいものだったのだ。
兄は画図を希月にくれたので、朝な夕な眺めて過ごした。紗琰は他の花紗種となにが違うのか。どこが違うのか。慾をくすぐる危うさとはなんなのか。
胸中に浮かんでは消える疑問は、いつか紗琰が嫁いできたらわかるのではないかという気がしていた。実物を目の当たりにして、紗琰が妃嬪として異母兄の隣に侍っているのを見れば、かけられた言葉の意味もおのずと知れるだろうと。
さりながら、紗琰は嫁いでこなかった。彩爛の帝位継承権を持つ皇長子と皇次子がどちらも玉座を放棄したため、太子に冊立されたのである。
長兄と紗琰の婚約は破棄され、かわりに希月と紗琰の婚約が結ばれた。なぜ希月が選ばれたのかと言われれば、それは縁談が届くたびに断り続けていたからである。
――鳳花に懸想しているのだろう、と父皇は言った。
違う、と希月はすぐさま否定した。懸想しているわけではない。ただ、縁談を申し込んでくる者たちのうち、惹かれる相手がいなかったのだ。
希月の答えに、父皇と長兄は笑っていた。ならばなぜ、鳳花の絵姿は擦り切れるほど眺めているのかと問われて、希月は言葉に詰まった。
おのれはただ、紗琰にあって他の人間にないものを探しているのだ。鳳花のなにが特別で、鳳花でない者のなにが特別ではないのか。
今までまみえた相手には、わずかにも惹かれるものがなかった。天陽と花紗の様々な美男美女が希月に求婚してきたけれど、興味も食指もくすぐられず、娶りたいとも思わなかった。
しかし、求婚者たちの顔は一日で見飽きたのに、紗琰の絵姿だけはいつでも眺めていた。
――あんなにわかりやすい態度でおるくせに、懸想していることにも気づかないとは。
父と兄の双方から呵々大笑され、希月はようやくおのれの心が誰にそそがれていたのか自覚した。
絵姿を見て凡庸だと感じたのは、それほど鳳花に憧れていたから。失望してもなお一心に鳳花の唯一性を探していたのは、すでに紗琰が希月にとって他よりも特別な存在となっていたから。
いったいどの時点で魅入られていたのか。それとも、一目見た瞬間に恋情をいだいていたのだろうか。あるいは、そのせいで失望したなどと思い込んだのかもしれない。
幼心に、兄の伴侶となる相手を恋慕すべきではないと自制が働いた可能性もある。だから期待外れだと思い込み、好意を持たぬようにしていたのではないのか。
蓋碗の蓋をもてあそびつつ、自嘲する。
あの時、長兄は笑み含んだ調子で「あの絵はわざと凡庸に描かせたんだよ」とのたまった。他の兄弟たちが紗琰を奪おうとせぬよう、実物よりも劣って描けと絵師に命じたのだそうだ。
事実、他の兄たちは紗琰を凡庸だと思い込み、鳳花などと大仰に言うだけで大したことはない、と捨て置いていたらしい。ただひとり、希月だけが寝ても覚めてもあの絵姿を眺めていて、いっそ取り憑かれたようだったと長兄は笑った。
(兄上は本当にひどい。実物の紗琰様はあんなに凛々しいかただったのに、あの絵ときたら)
思い出すだに腹立たしいが、ともかく父皇と長兄の二人から指摘され、希月はおのれが彩爛へ嫁ぐことを了承した。
さりながら、婚姻への喜びは、いくらも経たずに恐怖に変わった。紗琰のもとへ嫁ぐ日を心待ちにする一方で、後宮に集う百花の一端でしかないおのれが不意に怖くなってしまったのだ。
もしも紗琰から冷淡な態度を取られたら。希月自身が求婚者たちになんの興味もいだけなかったように、好意を向けても一顧だにされない可能性は充分にあった。
彩爛の後宮に入宮するということは、選ぶ立場から選ばれる立場へ変わるということだ。どれほど紗琰を慕っていても、報われるとは限らない。後宮では数多の妃嬪妾妃が天寵を望んで姸を競う。想いを遂げる機会を得るのは、紗琰の目に留まった一握りの者だけだ。
なればこそ、おのれの慕情をひけらかし、寵を乞う愚鈍にはなりたくなかった。
今はまだ皇后と希月の二人しか後宮にいないものの、選秀花がはじまればその数は数百、多ければ千にもふくれあがる。そうなる前に、希月はおのれを強く印象づけたかった。
『僕は国のために嫁いだだけであって、兄のように帝君を慕っているわけではありません。それだけは勘違いなさらないでください』
昨夜口にした言葉を、そっと嚙みしめる。
紗琰の不興を買う覚悟はあった。厭われて、二度と来駕はないかもしれない。だとしても、紗琰に傷を残すことはできる。妃を娶るたび、紗琰の中で今宵のことが苦い記憶として思い出されるはずだと確信していた。
後宮の花々に埋没したくない。寵を受けるのも、受けたあとでその寵を失うのも怖い。
数多の番の内の一人にしかなれないのなら、せめて紗琰の心に消えない傷を残したかった。
けれど、紗琰は希月の向けた刃を受けとめた。そうしてそのうえで、希月が紗琰を抱きたいと思うまで、肌を重ねる必要はないのだと言った。
希月は遠廻しに拒絶されたのだと感じた。やわらかな言葉でくるみ、希月の内情を汲み取ったかのように見せかけた拒絶。
うなじを咬ませたのは峯珠との関係を慮ってのことであり、自由にしてよいというのは事実上の放逐に等しい。やはり不機嫌になったのだ、とこみあげてくる苦いものを呑み込んで、希月は身を固くした。
花痣をつけたら紗琰は出ていくのだろう。そう思っていたのに、紗琰は立ち去らなかった。
初夜をすませずに出ていった、という噂がたつのをはばかったのかとも思ったけれど、それにしては起床後の態度が穏やかだった。
希月がわざと無愛想な態度を取っても、怒るでも咎めるでもなく、まるで甘やかすような眼差しを向けてくるから困惑する。
(……ずっとあなたを恋うていたのだと、幼い頃から憧れていたのだと、正直に言えばよかったんだろうか)
そうしたらきっと、あの身體を愛する赦しを得られたに違いない。鳳花の蜜に溺れて、希月は夢心地になれただろう。
――だが、そのあとは?
紗琰が皇后となった沈家の令息を寵愛していることは、入宮したばかりの希月の耳にまで入ってくる。
ふたりきりの時は、皇后のことを沈郎と呼んでいるのだと、女官が嬉々として噂していた。長く想いあっていたかのように仲睦まじいとか、皇后が紗琰のことを琰児と呼んでいたとかいう話も聞こえてくるほどで、友好国の皇子でしかない希月など添え物にすらならないと思い知った。
(慕っているとうちあけて、恋うていると願えば一時の寵は得られるかもしれない。……だけど、それだけだ)
後宮にはこの先、紗琰の寵を求める妃があふれ返るのだ。来駕を待って殊勝にしているだけでは、きっと目新しさもなくなってしまう。美しいというだけでは、帝君の心をとどめられはしないのだ。
皇后がそうであるように、希月も紗琰の特別になりたい。希月にとって紗琰が特別であるように、紗琰にも、希月を無二の存在として想ってほしい。
「僕が望んで手折るのではなく、紗琰様のほうから手折ってほしいと望まれたいんだ。たとえ白無常と思われようと、それで紗琰様の気を惹けるなら、……態度を改める気はない」
蓋碗の中身を飲み干して、星辰を見やる。
星辰は空になった蓋碗におかわりをそそぎながら、可笑しそうに微笑んだ。
「おそれながら、相手に折れてほしいと願っているうちはまだまだですよ。相手のために自分が折れてもかまわないと思えるくらいにならないと」
「……」
「尚工局を急かして、下賜された絹で長袍と裙裳を作らせましょうね。帝君とお散歩する時は、花盆底鞋に慣れていないとでも言って、お手を握ってもらうとよろしいかと」
湯気とともに甘い香りが漂う。
ほんのりと残る梔子の匂いに、希月は先程手を握られた時の、紗琰の熱を思い出した。
峯珠と彩爛とで振る舞いを変えたのは、ひとえに紗琰の気を惹くためだった。
帝君におもねるばかりの妃嬪の中、無愛想で冷ややかな態度を取れば、それだけで目立つことができる。星辰としてはもっと他にやりようがあると言いたいのだろうが、それではだめなのだ。
(紗琰様に、兄上の身代わりで嫁いできたのだと見做されたくない。僕を僕として見てもらうためには、こうでもしないと……)
もとはといえば、紗琰の相手は希月の異母兄、瑞瓏となるはずだった。
峯珠と彩爛、両国の血が結ばれれば、それぞれの国土は今後ますます豊かになる。
稀少な花紗の中でもさらに優れた花紗――鳳花たる紗琰をおのれの妃に迎えることを、当時太子の位にあった瑞瓏は嬉しそうに語っていた。
彩爛の皇統にしか生まれない鳳花は、その身の稀少性も相まってめったに国外へ出てこない。当代の鳳花帝君として立つか、あるいは臣下へ降嫁するのが通例で、他国の皇家へ嫁ぐのは異例中の異例だった。
希月は、紗琰の容貌を絵姿で知った。彩爛へ向かう使節に幾度も同行していた長兄が、持ち帰って見せてくれたのだ。
彩爛の宮廷絵師が描いたという紗琰は、乙女色の裙裳を纏い、鳳花という尊称どおり一輪の花のようにたたずんでいた。
真珠色の肌に焦茶の髪、金の双眸。もちろん端麗な美貌の持ち主なのだが、口もとを彩る微笑みはあえかで、数多の天陽種を惑わす絶世の妖花というにはあまりに初心がすぎる。
容姿だけならば、むしろ希月のほうがよほど華があった。艶花で妖艶な姿を想像していた分だけ、絵姿の紗琰は希月の目に凡庸に思えた。
希月がそうなのだから、実物を見てきた長兄の落胆はいかほどであろうか。絵姿よりは生身のほうが幾分美々しいのかもしれないが、これではたかが知れている。花紗の中でもさらに優れた花紗とはどれほどのものかと期待していただけに、失望は大きかった。
希月がそれをそのまま口にすれば、七つ年上の異母兄は可笑しそうに破顔した。
――おまえは鳳花がどんなものなのか、わかっていないんだ。
言われた意味がわからず、幼かった希月は首をかしげた。
瑞々しくほころんだ、艶やかな大輪の牡丹。鳳花と言われて思い浮かぶのはそのような人物ではないのかと、言い返した希月に長兄は笑みを深くする。そうしてこう言ったのだ。外見が麗しいだけの花は鳳花ではない、と。
単に目を惹く美貌の者なら、性種に限らず国内外に掃いて捨てるほどいる。鳳花の鳳花である所以は、慾をくすぐる危うさにあるのだとたしなめられ、希月はかしげた首をそのままに長兄を見あげた。
幼子だった希月には、異母兄の言葉は難しく、理解しがたいものだったのだ。
兄は画図を希月にくれたので、朝な夕な眺めて過ごした。紗琰は他の花紗種となにが違うのか。どこが違うのか。慾をくすぐる危うさとはなんなのか。
胸中に浮かんでは消える疑問は、いつか紗琰が嫁いできたらわかるのではないかという気がしていた。実物を目の当たりにして、紗琰が妃嬪として異母兄の隣に侍っているのを見れば、かけられた言葉の意味もおのずと知れるだろうと。
さりながら、紗琰は嫁いでこなかった。彩爛の帝位継承権を持つ皇長子と皇次子がどちらも玉座を放棄したため、太子に冊立されたのである。
長兄と紗琰の婚約は破棄され、かわりに希月と紗琰の婚約が結ばれた。なぜ希月が選ばれたのかと言われれば、それは縁談が届くたびに断り続けていたからである。
――鳳花に懸想しているのだろう、と父皇は言った。
違う、と希月はすぐさま否定した。懸想しているわけではない。ただ、縁談を申し込んでくる者たちのうち、惹かれる相手がいなかったのだ。
希月の答えに、父皇と長兄は笑っていた。ならばなぜ、鳳花の絵姿は擦り切れるほど眺めているのかと問われて、希月は言葉に詰まった。
おのれはただ、紗琰にあって他の人間にないものを探しているのだ。鳳花のなにが特別で、鳳花でない者のなにが特別ではないのか。
今までまみえた相手には、わずかにも惹かれるものがなかった。天陽と花紗の様々な美男美女が希月に求婚してきたけれど、興味も食指もくすぐられず、娶りたいとも思わなかった。
しかし、求婚者たちの顔は一日で見飽きたのに、紗琰の絵姿だけはいつでも眺めていた。
――あんなにわかりやすい態度でおるくせに、懸想していることにも気づかないとは。
父と兄の双方から呵々大笑され、希月はようやくおのれの心が誰にそそがれていたのか自覚した。
絵姿を見て凡庸だと感じたのは、それほど鳳花に憧れていたから。失望してもなお一心に鳳花の唯一性を探していたのは、すでに紗琰が希月にとって他よりも特別な存在となっていたから。
いったいどの時点で魅入られていたのか。それとも、一目見た瞬間に恋情をいだいていたのだろうか。あるいは、そのせいで失望したなどと思い込んだのかもしれない。
幼心に、兄の伴侶となる相手を恋慕すべきではないと自制が働いた可能性もある。だから期待外れだと思い込み、好意を持たぬようにしていたのではないのか。
蓋碗の蓋をもてあそびつつ、自嘲する。
あの時、長兄は笑み含んだ調子で「あの絵はわざと凡庸に描かせたんだよ」とのたまった。他の兄弟たちが紗琰を奪おうとせぬよう、実物よりも劣って描けと絵師に命じたのだそうだ。
事実、他の兄たちは紗琰を凡庸だと思い込み、鳳花などと大仰に言うだけで大したことはない、と捨て置いていたらしい。ただひとり、希月だけが寝ても覚めてもあの絵姿を眺めていて、いっそ取り憑かれたようだったと長兄は笑った。
(兄上は本当にひどい。実物の紗琰様はあんなに凛々しいかただったのに、あの絵ときたら)
思い出すだに腹立たしいが、ともかく父皇と長兄の二人から指摘され、希月はおのれが彩爛へ嫁ぐことを了承した。
さりながら、婚姻への喜びは、いくらも経たずに恐怖に変わった。紗琰のもとへ嫁ぐ日を心待ちにする一方で、後宮に集う百花の一端でしかないおのれが不意に怖くなってしまったのだ。
もしも紗琰から冷淡な態度を取られたら。希月自身が求婚者たちになんの興味もいだけなかったように、好意を向けても一顧だにされない可能性は充分にあった。
彩爛の後宮に入宮するということは、選ぶ立場から選ばれる立場へ変わるということだ。どれほど紗琰を慕っていても、報われるとは限らない。後宮では数多の妃嬪妾妃が天寵を望んで姸を競う。想いを遂げる機会を得るのは、紗琰の目に留まった一握りの者だけだ。
なればこそ、おのれの慕情をひけらかし、寵を乞う愚鈍にはなりたくなかった。
今はまだ皇后と希月の二人しか後宮にいないものの、選秀花がはじまればその数は数百、多ければ千にもふくれあがる。そうなる前に、希月はおのれを強く印象づけたかった。
『僕は国のために嫁いだだけであって、兄のように帝君を慕っているわけではありません。それだけは勘違いなさらないでください』
昨夜口にした言葉を、そっと嚙みしめる。
紗琰の不興を買う覚悟はあった。厭われて、二度と来駕はないかもしれない。だとしても、紗琰に傷を残すことはできる。妃を娶るたび、紗琰の中で今宵のことが苦い記憶として思い出されるはずだと確信していた。
後宮の花々に埋没したくない。寵を受けるのも、受けたあとでその寵を失うのも怖い。
数多の番の内の一人にしかなれないのなら、せめて紗琰の心に消えない傷を残したかった。
けれど、紗琰は希月の向けた刃を受けとめた。そうしてそのうえで、希月が紗琰を抱きたいと思うまで、肌を重ねる必要はないのだと言った。
希月は遠廻しに拒絶されたのだと感じた。やわらかな言葉でくるみ、希月の内情を汲み取ったかのように見せかけた拒絶。
うなじを咬ませたのは峯珠との関係を慮ってのことであり、自由にしてよいというのは事実上の放逐に等しい。やはり不機嫌になったのだ、とこみあげてくる苦いものを呑み込んで、希月は身を固くした。
花痣をつけたら紗琰は出ていくのだろう。そう思っていたのに、紗琰は立ち去らなかった。
初夜をすませずに出ていった、という噂がたつのをはばかったのかとも思ったけれど、それにしては起床後の態度が穏やかだった。
希月がわざと無愛想な態度を取っても、怒るでも咎めるでもなく、まるで甘やかすような眼差しを向けてくるから困惑する。
(……ずっとあなたを恋うていたのだと、幼い頃から憧れていたのだと、正直に言えばよかったんだろうか)
そうしたらきっと、あの身體を愛する赦しを得られたに違いない。鳳花の蜜に溺れて、希月は夢心地になれただろう。
――だが、そのあとは?
紗琰が皇后となった沈家の令息を寵愛していることは、入宮したばかりの希月の耳にまで入ってくる。
ふたりきりの時は、皇后のことを沈郎と呼んでいるのだと、女官が嬉々として噂していた。長く想いあっていたかのように仲睦まじいとか、皇后が紗琰のことを琰児と呼んでいたとかいう話も聞こえてくるほどで、友好国の皇子でしかない希月など添え物にすらならないと思い知った。
(慕っているとうちあけて、恋うていると願えば一時の寵は得られるかもしれない。……だけど、それだけだ)
後宮にはこの先、紗琰の寵を求める妃があふれ返るのだ。来駕を待って殊勝にしているだけでは、きっと目新しさもなくなってしまう。美しいというだけでは、帝君の心をとどめられはしないのだ。
皇后がそうであるように、希月も紗琰の特別になりたい。希月にとって紗琰が特別であるように、紗琰にも、希月を無二の存在として想ってほしい。
「僕が望んで手折るのではなく、紗琰様のほうから手折ってほしいと望まれたいんだ。たとえ白無常と思われようと、それで紗琰様の気を惹けるなら、……態度を改める気はない」
蓋碗の中身を飲み干して、星辰を見やる。
星辰は空になった蓋碗におかわりをそそぎながら、可笑しそうに微笑んだ。
「おそれながら、相手に折れてほしいと願っているうちはまだまだですよ。相手のために自分が折れてもかまわないと思えるくらいにならないと」
「……」
「尚工局を急かして、下賜された絹で長袍と裙裳を作らせましょうね。帝君とお散歩する時は、花盆底鞋に慣れていないとでも言って、お手を握ってもらうとよろしいかと」
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