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第二章
四. 冷たい雨(三)
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歩くのに疲れた。ひと休みしろと言わんがばかりに、信号が赤に変わる。交差点に止まる車は、青信号になったとたん一斉に動き出す。
突然クラクションの音が響いた。無謀運転をする車が一台、対向車の隙間を縫うように交差点でUターンし、沙樹の前方で止まった。運転席のドアが開き、誰かが降りて沙樹に近づいて、傘をさしかけてくれた。
「何してんだよ。ずぶ濡れじゃないか」
「ハヤトくん?」
「ずいぶん捜しまわって、やっと見つけたよ。事故じゃなくてよかった。早く乗って。このままだと風邪ひくよ」
「でもシートを濡らしてしまうし……」
「そんな気遣いはいらないよ。それより早く帰って体を温めないと」
「いいよ、そんなこと心配しなくて」
沙樹はハヤト申し出を無視し、横を通り過ぎようとした。すれ違う瞬間、ハヤトの手が沙樹の腕を捕らえる。
「放して」
優しさがつらい。
「だめだ。沙樹さん、またいなくなるじゃないか」
ハヤトはつかんだ手を放さない。
「心配しなくてもちゃんと帰るよ。だからもう構わないで」
「沙樹さん」
「優しくなんてしないでっ」
力ずくで腕をふりほどこうとするが、ハヤトは決して力を緩めない。
「意地張るなんてやめなよ。何があったのか知らないけど、みっともないだろっ」
「意地なんて張ってない。初めからひとりだったのに、それに気づけてなかっただけ……。本当に莫迦だよね、あたしって。笑っちゃうくらいに」
沙樹が抵抗をやめると、ハヤトは軽く息を吐き、腕を放した。
「何か事情があるんだよね。もう止めない。でも代わりにぼくの頼みをふたつだけ聞いてくれない?」
「頼み……?」
「ひとつ目は車に乗ること。バスタオルもあるし、ホットコーヒーも入れてきたよ。ふたつ目はそれで体を拭いて温めること」
ハヤトはポケットから取り出したハンドタオルで沙樹の濡れた頬を拭いた。
自分が小さな子供になったような気がして、沙樹はくすぐったいものを感じた。ハヤトは妹想いの兄のように包んでくれる。
「ハヤトくんって、お節介なんだから」
「そうだよ。でなきゃこんなことでき……」
視線が不意に絡み、ハヤトが言葉を止めた。
沙樹自身がずっと抑え、考えないようにしていた感情が、堰を切って溢れる。頼ってはいけないと理性が止める一方で、誰かの助けがほしかった。
沙樹が胸に飛び込んだ勢いで、ハヤトは傘を落とした。
「沙樹……さん?」
「ごめん。胸、貸して……」
一度涙が流れ始めたら止まらない。ずっと我慢していたのに、人の優しさに触れたとたん緊張していた気持ちが緩んだ。
解っている。ハヤトはワタルではない。
だから、ワタルの、代わりに、すがっては、いけない……。
でも今だけは、その優しさに包まれていたかった。
☆ ☆ ☆
だれもいない浴室で湯船につかっていると、沙樹の混乱した気持ちが少しずつほぐれてきた。お湯の中で凍えた体を温める。たったそれだけのことで落ち着けるなんて。人間は単純だ。それともこんな人は自分だけ? と考えたら笑みまで浮かぶ。
風呂を出て浴衣に袖を通す。鏡に映る自分は、入浴前と比べて穏やかな顔をしているような気がした。
部屋に戻ると、ほどなくして、マグカップを持ったハヤトが訪ねてきた。
「凍えてたらいけないと思ってホットミルクを入れてきたけど、ピンクのほっぺしてるんだね。お風呂上がりだってこと、すっかり忘れてたよ」
これならビールの方が喜ばれたかな、とハヤトは猫背でマグカップの中を覗きながら独り言ちた。
「そんなことない。ありがとう。とっても嬉しいよ」
沙樹はハヤトを招き入れ、テーブルをはさみ向かい合って座った。一口飲むと温もりが全身に広がる。思い遣りがたくさん詰まったホットミルクは、風呂上がりの火照った体にも心地よかった。
「風邪ひかないでね。明日はぼくらのライブがあるんだから」
「明日?」
そういえば最後に一軒、サインを確認していないライブハウスがあった。初日に偶然入り、ハヤトと出会った店だ。
――西田さん、明日の朝一番で帰ってこいよ。
哲哉の声が沙樹の頭で響いた。
確かに今となってはここに残る意味はない。ワタルを見つけて浅倉梢との関係を問いただす理由もなくなった。
朝には帰る。それでもよかった。
だがそれは同時には、ハヤト達のライブを見ないことを意味する。ここまでずっと親身になってくれたのに、そんな邪険な扱いはできない。約束を破ってまで東京に帰ること必要もないだろう。
――もう少しだけでいい、ここにいたい。
それは沙樹のいつわりない気持ちだった。荒んだ心を抱えて始まった旅は、ハヤトに出会えたおかげで楽しい時間となったのだから。
「もしかしてあんまり体調良くない? 熱っぽいの?」
「ううん、大丈夫。ハヤトくんのおかげだよ。莫迦なことして本当に恥ずかしいよ」
部屋も程よく暖まっている。ふかふかの布団に入れば、朝までぐっすり眠れるだろう。
「そのことは気にしないで。ぼくが勝手にやったことだから。じゃあまた明日……じゃない、もう今日だね。おやすみなさい」
沙樹は驚いて腕時計を見た。すでに深夜一時をまわっている。
「いつの間にか日付が変わってたのね」
「睡眠不足は美容の敵だよ。てことでぼくは家に戻るね」
ハヤトは「おやすみ」とあいさつをすると、部屋の戸を開けた。
うしろ姿がワタルと重なり、そばに寄り添う浅倉梢の影が見えた。
これ以上ワタルに、置き去りにされたくはない。手を伸ばして一言叫びたかった。
――行かないで。
だがいくら声を張り上げても、言葉は届かない。優しい眼差しは、他の女性の物になった。沙樹の気づかないうちに、つながった糸はプツリと切れてしまった。
心で涙を流しても、笑顔を浮かべて見送る。取り乱した自分が、ワタルの見る最後の自分にしたくない。いつまでもいつまでも、穏やかな笑顔を覚えていてほしい。
そんな小さな意地とプライドが、今の沙樹をかろうじて支えていた。
突然クラクションの音が響いた。無謀運転をする車が一台、対向車の隙間を縫うように交差点でUターンし、沙樹の前方で止まった。運転席のドアが開き、誰かが降りて沙樹に近づいて、傘をさしかけてくれた。
「何してんだよ。ずぶ濡れじゃないか」
「ハヤトくん?」
「ずいぶん捜しまわって、やっと見つけたよ。事故じゃなくてよかった。早く乗って。このままだと風邪ひくよ」
「でもシートを濡らしてしまうし……」
「そんな気遣いはいらないよ。それより早く帰って体を温めないと」
「いいよ、そんなこと心配しなくて」
沙樹はハヤト申し出を無視し、横を通り過ぎようとした。すれ違う瞬間、ハヤトの手が沙樹の腕を捕らえる。
「放して」
優しさがつらい。
「だめだ。沙樹さん、またいなくなるじゃないか」
ハヤトはつかんだ手を放さない。
「心配しなくてもちゃんと帰るよ。だからもう構わないで」
「沙樹さん」
「優しくなんてしないでっ」
力ずくで腕をふりほどこうとするが、ハヤトは決して力を緩めない。
「意地張るなんてやめなよ。何があったのか知らないけど、みっともないだろっ」
「意地なんて張ってない。初めからひとりだったのに、それに気づけてなかっただけ……。本当に莫迦だよね、あたしって。笑っちゃうくらいに」
沙樹が抵抗をやめると、ハヤトは軽く息を吐き、腕を放した。
「何か事情があるんだよね。もう止めない。でも代わりにぼくの頼みをふたつだけ聞いてくれない?」
「頼み……?」
「ひとつ目は車に乗ること。バスタオルもあるし、ホットコーヒーも入れてきたよ。ふたつ目はそれで体を拭いて温めること」
ハヤトはポケットから取り出したハンドタオルで沙樹の濡れた頬を拭いた。
自分が小さな子供になったような気がして、沙樹はくすぐったいものを感じた。ハヤトは妹想いの兄のように包んでくれる。
「ハヤトくんって、お節介なんだから」
「そうだよ。でなきゃこんなことでき……」
視線が不意に絡み、ハヤトが言葉を止めた。
沙樹自身がずっと抑え、考えないようにしていた感情が、堰を切って溢れる。頼ってはいけないと理性が止める一方で、誰かの助けがほしかった。
沙樹が胸に飛び込んだ勢いで、ハヤトは傘を落とした。
「沙樹……さん?」
「ごめん。胸、貸して……」
一度涙が流れ始めたら止まらない。ずっと我慢していたのに、人の優しさに触れたとたん緊張していた気持ちが緩んだ。
解っている。ハヤトはワタルではない。
だから、ワタルの、代わりに、すがっては、いけない……。
でも今だけは、その優しさに包まれていたかった。
☆ ☆ ☆
だれもいない浴室で湯船につかっていると、沙樹の混乱した気持ちが少しずつほぐれてきた。お湯の中で凍えた体を温める。たったそれだけのことで落ち着けるなんて。人間は単純だ。それともこんな人は自分だけ? と考えたら笑みまで浮かぶ。
風呂を出て浴衣に袖を通す。鏡に映る自分は、入浴前と比べて穏やかな顔をしているような気がした。
部屋に戻ると、ほどなくして、マグカップを持ったハヤトが訪ねてきた。
「凍えてたらいけないと思ってホットミルクを入れてきたけど、ピンクのほっぺしてるんだね。お風呂上がりだってこと、すっかり忘れてたよ」
これならビールの方が喜ばれたかな、とハヤトは猫背でマグカップの中を覗きながら独り言ちた。
「そんなことない。ありがとう。とっても嬉しいよ」
沙樹はハヤトを招き入れ、テーブルをはさみ向かい合って座った。一口飲むと温もりが全身に広がる。思い遣りがたくさん詰まったホットミルクは、風呂上がりの火照った体にも心地よかった。
「風邪ひかないでね。明日はぼくらのライブがあるんだから」
「明日?」
そういえば最後に一軒、サインを確認していないライブハウスがあった。初日に偶然入り、ハヤトと出会った店だ。
――西田さん、明日の朝一番で帰ってこいよ。
哲哉の声が沙樹の頭で響いた。
確かに今となってはここに残る意味はない。ワタルを見つけて浅倉梢との関係を問いただす理由もなくなった。
朝には帰る。それでもよかった。
だがそれは同時には、ハヤト達のライブを見ないことを意味する。ここまでずっと親身になってくれたのに、そんな邪険な扱いはできない。約束を破ってまで東京に帰ること必要もないだろう。
――もう少しだけでいい、ここにいたい。
それは沙樹のいつわりない気持ちだった。荒んだ心を抱えて始まった旅は、ハヤトに出会えたおかげで楽しい時間となったのだから。
「もしかしてあんまり体調良くない? 熱っぽいの?」
「ううん、大丈夫。ハヤトくんのおかげだよ。莫迦なことして本当に恥ずかしいよ」
部屋も程よく暖まっている。ふかふかの布団に入れば、朝までぐっすり眠れるだろう。
「そのことは気にしないで。ぼくが勝手にやったことだから。じゃあまた明日……じゃない、もう今日だね。おやすみなさい」
沙樹は驚いて腕時計を見た。すでに深夜一時をまわっている。
「いつの間にか日付が変わってたのね」
「睡眠不足は美容の敵だよ。てことでぼくは家に戻るね」
ハヤトは「おやすみ」とあいさつをすると、部屋の戸を開けた。
うしろ姿がワタルと重なり、そばに寄り添う浅倉梢の影が見えた。
これ以上ワタルに、置き去りにされたくはない。手を伸ばして一言叫びたかった。
――行かないで。
だがいくら声を張り上げても、言葉は届かない。優しい眼差しは、他の女性の物になった。沙樹の気づかないうちに、つながった糸はプツリと切れてしまった。
心で涙を流しても、笑顔を浮かべて見送る。取り乱した自分が、ワタルの見る最後の自分にしたくない。いつまでもいつまでも、穏やかな笑顔を覚えていてほしい。
そんな小さな意地とプライドが、今の沙樹をかろうじて支えていた。
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