【完結】あなたの幻(イリュージョン)を追いかけて

須賀マサキ(まー)

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第二章

四. 冷たい雨(二)

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「沙樹さん、飲みすぎたみたいだよ」
 ハヤトの瞳に浮かんでいた切なさは姿を消し、いつもの元気一杯の輝きに戻っている。張り詰めていた沙樹の気持ちがふっとゆるみ、つられるように落ち着きを取り戻せた。
「ごめん、変なこと言って」
「その人って、この街明かりのどこかにいるの?」
 沙樹は小さく首を横にふった。
「いたらよかったけど、あたしや友達の思い込みだったみたい。探偵でもないのに人探しなんて無理だったのよ」
「そっか。でもまだあきらめるのは早いよ。希望を持って探そう。そしたらきっと会える。本当に……会えたらいいね」
 夜景に視線を落として、ハヤトがだれに聞かせるでもなくつぶやく。
 沙樹も視線を街明かりに落とした。地上にちりばめられた無数の灯りがダイアモンドのごとく美しく輝く。
 ピアノの柔らかいタッチが静かな店内を優しく満たす。迷い続ける沙樹の心に安らぎの場を与え、胸の底にたまったおりを少しずつ消していく。
「ライブハウスめぐりも、あと一軒で終わりだね。急に入った演奏だから、明日の午前中は店長と打ち合わせしてくる。午後にはリハと準備があるから、お昼ごろに迎えにいくよ」
 沙樹はうなずいてグラスを口に運んだ。
 そのとき不意にスマートフォンが振動して、メッセージの着信を告げた。差出人は哲哉だ。時間ができたら電話してくれと書かれている。
 定期連絡の時間まであと三十分ほどだ。それを待てないほどの急用といえば、ワタルに何か動きがあったに違いない。
 胸騒ぎがした。一刻も早く連絡を取りたい。
「ごめん。電話してくる」
「じゃあ、もう帰ろうか。天気予報じゃ今夜は雨になるって言ってたから。あ、だめだ。もう降ってきたよ」
 ウインドウに雨の滴を見つけて、ハヤトがぼやいた。
「沙樹さんはロビーに行って電話してて。ぼくはマスターに傘を借りてくる」

   ☆   ☆   ☆

 沙樹は一階まで下りた。ホテルのロビーは人影少なく、少しの声でも響きそうだ。
 隅にあるソファーに座り、つきまとう胸騒ぎを降り切って哲哉に電話する。
『西田さん、明日の朝一番で帰ってこいよ』
「ワタルさん、そっちに戻ったの?」
 沙樹は言葉の勢いにつられて立ち上がった。
 帰宅したのならその旨ワタルから連絡してくれればいいのに、と沙樹は不満に思う。スマートフォンの電源を切って音信不通にしているから、こんな遠回りをする羽目になる。
 でもワタルと顔を合わせたら、不平はすべて消え去る。会って話せば、疑問も不安も笑い話になる。
『そうか。まだ知らないんだな……』
「知らないって? ワタルさんが帰ったんじゃないの?」
『いや、そうじゃなくて……その様子じゃ芸能ニュース、見てねえな』
「見てないよ。ワタルさんのインタビューがとれたの?」
 哲哉は急に口をつぐんだ。電話の向こうで言葉を選んでいる気配が伝わり、黒い雲が沙樹の全身に広がる。
「何があったの? 知ってるなら黙ってないで答えてよ」
『知らないのならその方がいい。とにかく帰ってこいって。話はそれからだ』
「教えてくれないの? ならいいよ。ネットで調べたらすぐに解るんだから」
 哲哉はわずかな時間沈黙し、ふっと息を吐いて話を続けた。
『確かにそうだな。黙ってる意味ねえか。じゃあ言うけど、気を確かにして聞いてくれよ』
 うん、と言ったつもりが喉に引っかかって出なかった。哲哉の大きなため息が聞こえる。沙樹の動悸が速くなり、てのひらに汗がにじむ。
『ついさっき、浅倉梢がワタルとの交際を正式に発表したよ』

 ――浅倉梢が……何を発表したって?

 ――交際?

 ――ワタルさんと?

 ――どういうこと?

『三十分ほど前に明日発売の週刊誌の予告記事が出たって、さっき事務所から連絡が入ったんだ。にわかには信じられなくておれもアクセスしたけど、本当だったよ』

 ――正式に、交際を、宣言した……?

『ワタルはまったく何をやってんだか。西田さんって人がいるのに、トップクラスのアイドルと交際するなんて。記事を読んでもまだ信じられない。略奪愛だの心変わりだのってイヤな噂は流れても、二股や浮気なんて不誠実なことには一番縁のないやつだったんだぜ。どれだけまわりにちやほやされても、あいつの誠実なところは変わらないと信じていたのに』
 沙樹の手からスマートフォンが滑り落ち、ソファーの上に転がった。そのときだ。
「沙樹さん、どうしたの?」
 背後でハヤトの声がした。だが沙樹はふりかえれない。体が硬直して動けなかった。
 スマートフォンからは哲哉の声が響いている。そのまま立ち尽くしていると、ハヤトが拾って電話に出た。
「すみません、沙樹さん、具合が悪いらしくて――。ぼくですか? 沙樹さんの……友達です」
 これからどうすればいい?
 去って行った恋人を追いかけて、こんな遠くまで来た。愚かな女は、自分が捨てられたことに気づけず、影を頼りにここまで追いかけてきた。

 ――キミとはもう終わったんだよ。

 会えない時間は暗にそのことを告げていた。そんなことすら解らないなんて。これ以上の喜劇がある?
 おぼつかない足取りで、沙樹はロビーから出た。行くあてなどないが、ここにはいたくない。こんなみっともない姿を、ハヤトに見られたくない。
 外は激しい雨が降っていた。
 傘はいらない。冷たい雨に全身を打たれ、心の奥にある残り火を消してしまいたい。
 タクシーの列に吸いこまれる客たちの姿を横目に、沙樹はふらふらと歩いた。枯葉が雨水に流され排水溝に消えていく。ワタルへの想いもこの雨に流されて消えてしまえばいい。


 ハヤトは電話を切ってふりかえった。
「あれ? 沙樹さん?」
 格調高いピアノの演奏が静かに流れるロビーには、沙樹の姿がなかった。ハヤトは慌ててホテルを駆けだした。外は本降りになっている。
「ったく。この雨の中、傘もささないでどこに行ったんだ?」
 旅行者の沙樹に土地勘があるとは思えない。
「さっきの電話が原因なのか? いったい何を聞かされたんだよ」
 沙樹の様子から、この旅が傷心旅行だとハヤトは見抜いていた。だから少しでも平常心を取り戻してもらいたくて、なるべく時間を作って一緒に過ごした。
 だがその優しさは、思いもよらない結果を生むところだった。直前でなんとか引き返せたものの、却って沙樹と自分自身を混乱させた。それだけに自棄やけを起こしはしないかと気が気でない。
 雨脚は激しく、ハヤトはこの中に飛び出すのを躊躇ちゅうちょした。だが沙樹はそれすら眼中になかった。こんな雨にも関わらず姿を消した。
「ええいっ! ずぶ濡れになったっていいやっ」
 ハヤトは大きく息を吸いこみ、飛び込み台からプールに入る気持ちで踏み出す。

   ☆   ☆   ☆

 ――雨の中を歩きまわったところで、他人の心は変えられない。莫迦なことはやめて、早く宿に戻ろう。
 時間の経過も解らないくらい歩き回り、沙樹はようやく頭が冷えてきたのを自覚した。でもここはどこ?
 自分のいる場所を確認しようとして、ポケットにスマートフォンのないことに気づいた。バッグもすべてホテルのロビーに放り出したままだ。
 どうやって帰ろう。ずぶぬれの上に財布もなければ、タクシーも利用できない。路面電車の線路をたどれば、旅館にたどり着けるだろうか。
 土砂降りの雨の中、人通りは途切れている。暗い夜道を照らす街灯も、霞んだ光を控えめに灯していた。通りを走る車はワイパーをせわしなく動かせ、水しぶきをあげる。
 予定を早めて、朝になったら帰ろう。あとのことは考えたくもない。
 沙樹は暗い空を見上げた。冷たい雨が冷え切った頬にささる。

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