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第4話 ピアニスト哲哉
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「沙樹ちゃんごめんな、哲哉とのデートを邪魔して」
カウンター席に座った沙樹に、マスターは申し訳なさそうな顔でココアを出す。
「デートじゃないですよ。あたしたち親しいけど、そんな関係じゃないし」
カップを手にしながら、沙樹は今日の経過を説明した。
「なるほど。でも夕飯をゆっくり食べられなかったのはおれのせいだからね。お詫びのしるしでココアはサービスだよ」
「ありがとうございます。でもあたし、得能くんがピアノを弾けるなんて知りませんでしたよ」
沙樹はスマートフォンを取り出して、演奏している哲哉を撮影する。
哲哉の部屋にあった電子ピアノは作曲に使う程度のものだと思っていたので、流れるように弾いている姿が意外で新鮮だった。
「哲哉は小さいときからクラシックピアノを習っていたんだよ。中学に入ったころにロックに出会ってからは、ジャズやポップスも弾くようになったんだって。今じゃスタンダードナンバーのレパートリーはかなりあるらしい」
演奏中の曲も有名なクリスマスソングだ。
「あたしにはよくわからないのだけど、ピアノって、急に頼まれて弾けるものなんですか?」
「ああ、沙樹ちゃんは知らなかったんだね。哲哉は週に二日ほど、うちで生演奏しているんだよ。渡した楽譜も、ここ一月の間に弾いているものばかりなんだ」
「それ、初耳です」
食事中にマスターからかかってきた電話に、哲哉が「ジャスティの予定はなかった」と答えた理由がようやくわかった。
自宅から通う沙樹は、みんながサークル活動を終えたあとどんな生活をしているのかをほとんど知らない。だから自分もひとり暮らしをして、その中に入りたかった。
(でも……だれもが好きでひとり暮らししているとは限らないのよね)
家に帰ることを拒否されている哲哉を思い、沙樹は無邪気に憧れていた自分を反省した。
(そんなことより、今は得能くんの演奏を聴かなきゃ)
沙樹は初めて聴く哲哉の演奏に、じっくりと耳を傾ける。
(……あれ?)
いつものボーカルと違い、ピアノはどこか遠慮ぎみで大人しい。ライブで見せる迫力がないことに、沙樹はどうしても引っかかる。
頭がクラクラするようなパワーは、ボーカルでないと表現できないのだろうか。
だがいつからかそんなことはどうでもよくなるくらい、哲哉のピアノは優しかった。
一歩ひいた演奏が心地良い。柔らかな音に包まれて気持ちも穏やかになる。そんな響きだ。
「きみ、あのピアニストと友だちなのか?」
急に声をかけられ、沙樹はふりかえる。
声の主は、ひとつおいて左側に座った客からだった。学生街には場違いなスーツ姿の男性だ。三十歳前後だろうか。眼鏡越しでも鋭い眼光が伝わってくる。
相手が学生だと思って、一段上から見下ろしているのが見え見えだ。その威圧感は、会社の偉業を自分の実績だと勘違いしている人事部の採用担当を連想させた。
(やだな。なんか苦手なタイプ……)
沙樹は見知らぬビジネスマンに良い印象を抱けなかった。
「彼、ロックバンドでボーカルをやっているらしいけど、ライブを見たことある?」
ココアを飲んで聞こえないふりをしていると、沙樹の心情に気づかないのか、その男性は質問を重ねてきた。
「ありますけど。それが何か?」
心地良い音楽を中断された苛立ちと偉そうな態度に、ついつい沙樹の口調が厳しくなる。
「先輩イチ押しのボーカリストってことだから楽しみにしていたんだが、たいしたことないな。彼のピアノは存在感がない。表現力があるのは認めるが、歌を聴くまでもない……か」
ビジネスマンは哲哉の評価をつぶやく。ライブを見ないでピアノだけで判定する姿に、さすがの沙樹も怒りがわいた。
「失礼なこと言わないでください。得能くんのボーカルは勢いも迫力もあります。力強くて、優しくて、切なくて、そして元気をくれるんです。それを聴きもしないで判断するなんて、失礼だと思いませんか」
ビジネスマンは呆気にとられたように沙樹を見つめ、やがて嘲るように片方だけ口角を上げる。
「そうか。きみらはつきあっているんだな。彼氏にケチをつけられては、穏やかでいられないか」
「ちょ……」
なんて下世話な解釈だろう。これ以上話すことはないと判断した沙樹は、ビジネスマンを完全に無視することにした。
反発されたことを理解するだけの観察力は備えていたようで、男性は小さく苦笑いすると、今度はマスターに話しかける。
「本多先輩も彼女も、身内だからって過大評価していませんか。たしかにいろんなジャンルの曲を器用に表現するだけの実力は認めます。でも十人並みっていうか、存在感がありません。もっと期待していたけど……これではバンドのライブを見るまでもないですね」
「そうか。おまえがそう評価するなら、その程度なんだろうな」
マスターはそれ以上何も言わず、ティーサーバーとカップにお湯を注いだ。男性は気まずそうに口を閉じる。
沙樹はあまりの評価に悔しさでいっぱいになった。
少しは反論するかと思ったマスターは、ビジネスマンの言葉を否定しない。
そして哲哉にも苛立つ。ボーカルと同じ力で演奏すれば、悪口なんて撤回させられるのに。どうして今夜は、いつものパワーを出さないのだろう。
それともこのふたりが言うように、哲哉の実力は沙樹が勝手に作り出した幻想に過ぎないのか。
☆ ☆ ☆
演奏が終わった。
哲哉は楽譜を閉じて立ち上がろうとする。するとそのときを待っていたかのように、マスターが水を持っていった。そして何やら指示をしたらしく、哲哉は困ったように口元をゆがめた。しぶっているとマスターがさらにつけ加える。
哲哉は肩をすくめ、どうなっても知らないよというようなそぶりを見せた。迷わず行けと言わんがばかりに、マスターが背中を軽く叩く。
哲哉はピアノの前に座り直し、大きく深呼吸をして目を閉じた。
「あ、あの仕草」
哲哉がライブの始まる直前に見せるものと同じものだ。
初めて見たとき沙樹は、哲哉が何をしているのかわからなかった。すると横にいたワタルが、ライブにあわせて気持ちを高めているのだと教えてくれた。
(ここからが得能くんの本番よ)
哲哉の目が開かれた。鍵盤を見つめる哲哉の顔は、さっきまでと瞳の輝きが異なる。
店内の客たちは哲哉の変化に気づくことなく、それぞれ自由に過ごしている。これから始まることに誰も気づいていない。
だが沙樹には緊張がわかる。無意識のうちに拳を握りしめた。
ビアノの音が店内に力強く響いた。
それまでは空気のようにひっそりとしていた演奏が、一転して熱を帯び自己主張を始める。
透明に輝くクリスタルが、音を耳にした人の目の前にそびえ立つ。まっすぐにのびる声が、マイクなしでも店内に響き渡った。
「これよ、この迫力。オーバー・ザ・レインボウのライブそのままだよ」
沙樹はそうつぶやきながら、ビジネスマンを横目で見た。
嘲笑まじりで聴いていた姿はすっかり消え、完全に圧倒されている。コーヒーカップを手にしたまま口につけることもできないで、弾き語りをする哲哉をじっと見ていた。いや、目が離せなくなっている。
その姿を見て沙樹は、自分が挽回したように感じた。
(実力も見抜けないで、失礼な評価をするからよ)
意地悪な気持ちになると同時に、強く感情移入した自分に気づいて、沙樹はグラスに手を伸ばした。
「なぜだ? これだけのパワーがあるなら、どうして最初から出さない。手を抜いていたわけでもないだろうに」
ビジネスマンが口にした疑問は、沙樹の疑問でもあった。
「なんだって? 沙樹ちゃんはともかく、おまえは本当にわからないのか?」
「すみません……」
ビジネスマンはマスターに軽く頭を下げて謝った。あの威圧感はかけらも残っていない。
「ほら。お客さんたちを見ろよ」
ティーサーバーのお湯を捨てながら、マスターがヒントを出す。
沙樹は店内にいる客ひとりひとりに視線を移した。
だれもが動きを止めて、ピアノを弾いている哲哉をじっと見ている。さっきまでは演奏を見る人はほとんどなく、会話をしたり、静かに本を読んだりと、それぞれの世界を楽しんでいた。それが今、全ての視線が哲哉に集中している。
演奏が終わった瞬間、客たちはふと我に返った。だれかが拍手を始めると全員がそれに続き、店内は大きな歓声に包まれる。
それを見て、ビジネスマンは納得したようにうなずいた。
「なるほど。ピアノの生演奏はBGMか。客たちの邪魔にならないように、かつ店内を華やかな雰囲気にする。主張しすぎないように、意識してセーブしていたとは」
「そういうことさ」
マスターは茶葉を入れたサーバーに、沸騰したてのお湯を注いだ。ビジネスマンは沙樹に、
「すまなかったね。彼氏をなめるような発言をして。完全に見くびっていたよ」
と真摯な態度で頭を下げる。そしてマスターに視線を戻した。
「今までたくさんのバンドを紹介されましたけど、実際にステージを見ると、前評判だけで、がっかりさせられてばかりだったんです。身びいきする気持ちもわかるんですが、いいかげん嫌になって……。そういうわけで、彼もそのひとりかと思っていました」
「おれの目を信じなかったわけか」
あきれたマスターがふっとため息をつくと、ビジネスマンは「勘弁してくださいよ」と申し訳なさそうにつぶやいた。
「それにしても激しい表現だ。油断していると、聴いているこちらが力負けしそうだ。あの情熱の源はどこにあるんだ?」
ビジネスマンはあごに手を当ててつぶやいた。そしてしばらく考えたのちに、指をパチンと鳴らした。
「子供……そうか、例えるなら子供だ。ひとりになるのを恐れて、大声で自分の存在を叫んでいる。忘れられたくない気持ち、ふりむいてほしいという必死さがあるな。そのパワーが、聴く人を捕らえて放さないのだろうか」
沙樹は哲哉の言葉を思い出した。
——親に見捨てられたのさ。
たった数曲聴いただけで、彼は哲哉の内面まで見抜いた。鋭い眼光は相手を威圧するためではなく、本質に迫るためのものなのか。
「本多先輩、彼らのライブがあるときは忘れずに連絡してください。ボーカルだけじゃなくて、バンドの実力もぜひ見たい」
「じゃあ、次はこの日だな」
マスターはビジネスマンに、来年二月に行われるライブの案内を渡す。オーディションをして選ぶだけあって、実力のあるアマチュアバンドが集結している。中にはプロ直前だと噂されているバンドの名前もあった。
「おや、彼らも出演しますか。さすがは先輩だ。いいメンバーを集めていますね。その中でどれくらい輝くか。ますますライブが楽しみになってきましたよ」
ビジネスマンは今日初めて笑顔を見せた。そして名刺を一枚取り出し、カウンターにおいた。
「お嬢さん、彼氏によろしく伝えてくれないか」
「は、はい?」
お嬢さん扱いされ、沙樹は背筋をピンと伸ばす。
「先輩、今日はこれで失礼します。ライブには必ず来ますよ」
席を立ったビジネスマンは、マスターに別れの挨拶をしてジャスティを出た。
「もう。得能くんは彼氏じゃないっていうのに」
沙樹は苦笑いをして、グラスの水を一口飲んだ。
カウンター席に座った沙樹に、マスターは申し訳なさそうな顔でココアを出す。
「デートじゃないですよ。あたしたち親しいけど、そんな関係じゃないし」
カップを手にしながら、沙樹は今日の経過を説明した。
「なるほど。でも夕飯をゆっくり食べられなかったのはおれのせいだからね。お詫びのしるしでココアはサービスだよ」
「ありがとうございます。でもあたし、得能くんがピアノを弾けるなんて知りませんでしたよ」
沙樹はスマートフォンを取り出して、演奏している哲哉を撮影する。
哲哉の部屋にあった電子ピアノは作曲に使う程度のものだと思っていたので、流れるように弾いている姿が意外で新鮮だった。
「哲哉は小さいときからクラシックピアノを習っていたんだよ。中学に入ったころにロックに出会ってからは、ジャズやポップスも弾くようになったんだって。今じゃスタンダードナンバーのレパートリーはかなりあるらしい」
演奏中の曲も有名なクリスマスソングだ。
「あたしにはよくわからないのだけど、ピアノって、急に頼まれて弾けるものなんですか?」
「ああ、沙樹ちゃんは知らなかったんだね。哲哉は週に二日ほど、うちで生演奏しているんだよ。渡した楽譜も、ここ一月の間に弾いているものばかりなんだ」
「それ、初耳です」
食事中にマスターからかかってきた電話に、哲哉が「ジャスティの予定はなかった」と答えた理由がようやくわかった。
自宅から通う沙樹は、みんながサークル活動を終えたあとどんな生活をしているのかをほとんど知らない。だから自分もひとり暮らしをして、その中に入りたかった。
(でも……だれもが好きでひとり暮らししているとは限らないのよね)
家に帰ることを拒否されている哲哉を思い、沙樹は無邪気に憧れていた自分を反省した。
(そんなことより、今は得能くんの演奏を聴かなきゃ)
沙樹は初めて聴く哲哉の演奏に、じっくりと耳を傾ける。
(……あれ?)
いつものボーカルと違い、ピアノはどこか遠慮ぎみで大人しい。ライブで見せる迫力がないことに、沙樹はどうしても引っかかる。
頭がクラクラするようなパワーは、ボーカルでないと表現できないのだろうか。
だがいつからかそんなことはどうでもよくなるくらい、哲哉のピアノは優しかった。
一歩ひいた演奏が心地良い。柔らかな音に包まれて気持ちも穏やかになる。そんな響きだ。
「きみ、あのピアニストと友だちなのか?」
急に声をかけられ、沙樹はふりかえる。
声の主は、ひとつおいて左側に座った客からだった。学生街には場違いなスーツ姿の男性だ。三十歳前後だろうか。眼鏡越しでも鋭い眼光が伝わってくる。
相手が学生だと思って、一段上から見下ろしているのが見え見えだ。その威圧感は、会社の偉業を自分の実績だと勘違いしている人事部の採用担当を連想させた。
(やだな。なんか苦手なタイプ……)
沙樹は見知らぬビジネスマンに良い印象を抱けなかった。
「彼、ロックバンドでボーカルをやっているらしいけど、ライブを見たことある?」
ココアを飲んで聞こえないふりをしていると、沙樹の心情に気づかないのか、その男性は質問を重ねてきた。
「ありますけど。それが何か?」
心地良い音楽を中断された苛立ちと偉そうな態度に、ついつい沙樹の口調が厳しくなる。
「先輩イチ押しのボーカリストってことだから楽しみにしていたんだが、たいしたことないな。彼のピアノは存在感がない。表現力があるのは認めるが、歌を聴くまでもない……か」
ビジネスマンは哲哉の評価をつぶやく。ライブを見ないでピアノだけで判定する姿に、さすがの沙樹も怒りがわいた。
「失礼なこと言わないでください。得能くんのボーカルは勢いも迫力もあります。力強くて、優しくて、切なくて、そして元気をくれるんです。それを聴きもしないで判断するなんて、失礼だと思いませんか」
ビジネスマンは呆気にとられたように沙樹を見つめ、やがて嘲るように片方だけ口角を上げる。
「そうか。きみらはつきあっているんだな。彼氏にケチをつけられては、穏やかでいられないか」
「ちょ……」
なんて下世話な解釈だろう。これ以上話すことはないと判断した沙樹は、ビジネスマンを完全に無視することにした。
反発されたことを理解するだけの観察力は備えていたようで、男性は小さく苦笑いすると、今度はマスターに話しかける。
「本多先輩も彼女も、身内だからって過大評価していませんか。たしかにいろんなジャンルの曲を器用に表現するだけの実力は認めます。でも十人並みっていうか、存在感がありません。もっと期待していたけど……これではバンドのライブを見るまでもないですね」
「そうか。おまえがそう評価するなら、その程度なんだろうな」
マスターはそれ以上何も言わず、ティーサーバーとカップにお湯を注いだ。男性は気まずそうに口を閉じる。
沙樹はあまりの評価に悔しさでいっぱいになった。
少しは反論するかと思ったマスターは、ビジネスマンの言葉を否定しない。
そして哲哉にも苛立つ。ボーカルと同じ力で演奏すれば、悪口なんて撤回させられるのに。どうして今夜は、いつものパワーを出さないのだろう。
それともこのふたりが言うように、哲哉の実力は沙樹が勝手に作り出した幻想に過ぎないのか。
☆ ☆ ☆
演奏が終わった。
哲哉は楽譜を閉じて立ち上がろうとする。するとそのときを待っていたかのように、マスターが水を持っていった。そして何やら指示をしたらしく、哲哉は困ったように口元をゆがめた。しぶっているとマスターがさらにつけ加える。
哲哉は肩をすくめ、どうなっても知らないよというようなそぶりを見せた。迷わず行けと言わんがばかりに、マスターが背中を軽く叩く。
哲哉はピアノの前に座り直し、大きく深呼吸をして目を閉じた。
「あ、あの仕草」
哲哉がライブの始まる直前に見せるものと同じものだ。
初めて見たとき沙樹は、哲哉が何をしているのかわからなかった。すると横にいたワタルが、ライブにあわせて気持ちを高めているのだと教えてくれた。
(ここからが得能くんの本番よ)
哲哉の目が開かれた。鍵盤を見つめる哲哉の顔は、さっきまでと瞳の輝きが異なる。
店内の客たちは哲哉の変化に気づくことなく、それぞれ自由に過ごしている。これから始まることに誰も気づいていない。
だが沙樹には緊張がわかる。無意識のうちに拳を握りしめた。
ビアノの音が店内に力強く響いた。
それまでは空気のようにひっそりとしていた演奏が、一転して熱を帯び自己主張を始める。
透明に輝くクリスタルが、音を耳にした人の目の前にそびえ立つ。まっすぐにのびる声が、マイクなしでも店内に響き渡った。
「これよ、この迫力。オーバー・ザ・レインボウのライブそのままだよ」
沙樹はそうつぶやきながら、ビジネスマンを横目で見た。
嘲笑まじりで聴いていた姿はすっかり消え、完全に圧倒されている。コーヒーカップを手にしたまま口につけることもできないで、弾き語りをする哲哉をじっと見ていた。いや、目が離せなくなっている。
その姿を見て沙樹は、自分が挽回したように感じた。
(実力も見抜けないで、失礼な評価をするからよ)
意地悪な気持ちになると同時に、強く感情移入した自分に気づいて、沙樹はグラスに手を伸ばした。
「なぜだ? これだけのパワーがあるなら、どうして最初から出さない。手を抜いていたわけでもないだろうに」
ビジネスマンが口にした疑問は、沙樹の疑問でもあった。
「なんだって? 沙樹ちゃんはともかく、おまえは本当にわからないのか?」
「すみません……」
ビジネスマンはマスターに軽く頭を下げて謝った。あの威圧感はかけらも残っていない。
「ほら。お客さんたちを見ろよ」
ティーサーバーのお湯を捨てながら、マスターがヒントを出す。
沙樹は店内にいる客ひとりひとりに視線を移した。
だれもが動きを止めて、ピアノを弾いている哲哉をじっと見ている。さっきまでは演奏を見る人はほとんどなく、会話をしたり、静かに本を読んだりと、それぞれの世界を楽しんでいた。それが今、全ての視線が哲哉に集中している。
演奏が終わった瞬間、客たちはふと我に返った。だれかが拍手を始めると全員がそれに続き、店内は大きな歓声に包まれる。
それを見て、ビジネスマンは納得したようにうなずいた。
「なるほど。ピアノの生演奏はBGMか。客たちの邪魔にならないように、かつ店内を華やかな雰囲気にする。主張しすぎないように、意識してセーブしていたとは」
「そういうことさ」
マスターは茶葉を入れたサーバーに、沸騰したてのお湯を注いだ。ビジネスマンは沙樹に、
「すまなかったね。彼氏をなめるような発言をして。完全に見くびっていたよ」
と真摯な態度で頭を下げる。そしてマスターに視線を戻した。
「今までたくさんのバンドを紹介されましたけど、実際にステージを見ると、前評判だけで、がっかりさせられてばかりだったんです。身びいきする気持ちもわかるんですが、いいかげん嫌になって……。そういうわけで、彼もそのひとりかと思っていました」
「おれの目を信じなかったわけか」
あきれたマスターがふっとため息をつくと、ビジネスマンは「勘弁してくださいよ」と申し訳なさそうにつぶやいた。
「それにしても激しい表現だ。油断していると、聴いているこちらが力負けしそうだ。あの情熱の源はどこにあるんだ?」
ビジネスマンはあごに手を当ててつぶやいた。そしてしばらく考えたのちに、指をパチンと鳴らした。
「子供……そうか、例えるなら子供だ。ひとりになるのを恐れて、大声で自分の存在を叫んでいる。忘れられたくない気持ち、ふりむいてほしいという必死さがあるな。そのパワーが、聴く人を捕らえて放さないのだろうか」
沙樹は哲哉の言葉を思い出した。
——親に見捨てられたのさ。
たった数曲聴いただけで、彼は哲哉の内面まで見抜いた。鋭い眼光は相手を威圧するためではなく、本質に迫るためのものなのか。
「本多先輩、彼らのライブがあるときは忘れずに連絡してください。ボーカルだけじゃなくて、バンドの実力もぜひ見たい」
「じゃあ、次はこの日だな」
マスターはビジネスマンに、来年二月に行われるライブの案内を渡す。オーディションをして選ぶだけあって、実力のあるアマチュアバンドが集結している。中にはプロ直前だと噂されているバンドの名前もあった。
「おや、彼らも出演しますか。さすがは先輩だ。いいメンバーを集めていますね。その中でどれくらい輝くか。ますますライブが楽しみになってきましたよ」
ビジネスマンは今日初めて笑顔を見せた。そして名刺を一枚取り出し、カウンターにおいた。
「お嬢さん、彼氏によろしく伝えてくれないか」
「は、はい?」
お嬢さん扱いされ、沙樹は背筋をピンと伸ばす。
「先輩、今日はこれで失礼します。ライブには必ず来ますよ」
席を立ったビジネスマンは、マスターに別れの挨拶をしてジャスティを出た。
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沙樹は苦笑いをして、グラスの水を一口飲んだ。
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