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第5話 ビジネスマンの正体
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ビジネスマンと入れ替わるようにして、着替えをすませた哲哉がカウンター前に顔をだす。沙樹に促されて哲哉は隣に座った。
「お疲れさん。急に呼び出して、本当にすまなかったな」
マスターは申し訳ないという表情を浮かべ、レモンティーを哲哉の真正面におく。生演奏のあとにいつも出してくれる飲み物だ。
マスター曰く、疲れたときにはクエン酸が効くとのことだ。
「でもさ、やっぱりまずかったんじゃない? ライブと同じテンションで弾き語りするなんてさ。お客さんたちをびっくりさせちまったじゃないか」
マスターは日ごろから哲哉に、店内でピアノを弾くときはBGMに徹するように、と語っていた。それなのに今日に限って、全力を出して好きなように弾けと指示した。
いつもとは正反対の要求をされて哲哉は戸惑う。でもそれがマスターの要求なら従うのが筋だ。
一度決意したら迷いはない。ライブのテンションならお手のものだ。目を閉じて、出演前の気持ちに自分を連れていく。
ピアノの弾き語りを、生演奏のバイトでするのは初めてだ。だがライブでは何度か経験した。もちろんジャスティで演奏もしている。
曲は指定されなかったから、哲哉はバンドのオリジナルソングを選んだ。
——力強く鍵盤を叩き、全身で歌う。マイクなんて必要ない。これがおれのスタイルだ!
全力で演奏したら予想どおり、店内の客たちに注目された。でもこれではBGMではなくてライブだ。
(ほら、こうなるのが嫌だったんだよな)
ライブのように注目して聴いてもらえるのはうれしいが、この場にはふさわしくない。そう考えると、注目された喜びも半減する。
マスターはなぜこんな無茶な注文をしたのだろう。
哲哉は複雑な胸の内を抱えたまま、レモンティーを一口飲んだ。
「いいじゃないの。おかげで、得能くんのこと軽く見ていたお客さんを見返せて、あたしはすっきりしたもの」
「なんだよ、それ。客ひとりをやり込めるために弾かせたってことか?」
沙樹にビジネスマンの件を教えてもらった哲哉は、自分が小道具に使われたようで良い気がしなかった。
「まあ……そんなつもりはなかったんだが、結果的にそうなったことは認めるよ。いろいろと気遣わせてすまなかったな、哲哉」
口では謝罪しながら、マスターには悪びれるようすがない。逆に上機嫌なのが哲哉には気持ち悪く映る。
「そういえばあの人、名刺おいていったよね。なんか偉そうで嫌味な感じがしたから、見る気になれなくてそこにおいたままよ」
沙樹はビジネスマンが残した名刺を指さした。
「あの人、マスターのことを『先輩』って呼んでいたから後輩なんですよね。学生時代のサークルが同じだったとか?」
「ふーん。マスターの後輩ねぇ」
哲哉はそうつぶやきながら、手を伸ばして名刺を取った。
「日下部尊、株式会社クレセント——」
名刺に書かれた社名に、哲哉の動きが止まる。
(まさか。どうせ似たような名前の会社だって)
目を見開いて何度も確認する。ロゴも本物のようだ。少なくとも哲哉の目にはそう映る。
「なんだって? ク、クレセント?」
予想もしなかった社名に、哲哉の大声が出してしまった。
株式会社クレセント——それは大手レコード会社の名前だ。
あまりの衝撃に、哲哉は名刺の裏も確認し、また表の文字を読み直す。何度見直しても、間違いはない。
「マスター、これ、本物なのかよ?」
「心配しなくても本物さ。あいつは正真正銘クレセントの社員だって」
疑わしそうにしている哲哉に、マスターが涼しい顔で答えた。
「あの人が後輩ってことは……マスターってもしかして、元クレセントの社員なんですか?」
「あれ? 沙樹ちゃんには話していなかったっけ」
沙樹はコクっとうなずく。
「西田さんだけじゃない。おれだって初耳だぜ!」
バンドメンバーは知っているのだろうか。わざわざ告げるまでもないと思っていたのか、それとも秘密にしていたのか。
そもそも哲哉は、マスターの経歴をよく知らない。
考えてみれば、アメリカからの帰国子女で、向こうにいたときに仲間とバンド活動をしていたというくらいしか情報を持っていない。それだけで十分だったし、実際困ることは何もなかった。
「社員時代、日下部とおれは新人発掘の仕事をしていたんだ。脱サラしてジャスティをオープンしてからも、おれを頼って、実力のあるバンドはいないかって来るんだよ。オーバー・ザ・レインボウのことを話したら、今すぐ聴かせろって、しつこいのなんの。昔から言い出したらきかないやつだったから、なだめきれなくてな。すまなかった、哲哉」
マスターは申し訳なさそうに頭を下げる。
日下部の申し出になんとかしようと考えたマスターは、まずは動画を見せようと思いついた。だが動画サイトにアップされているものは一~二分の切り抜き映像ばかりだ。
その程度で満足する日下部ではない。マスターは考えたすえに、バンドのボーカルだけでもフルで聴かせようと思いつき、哲哉に連絡したのだと言う。
ピアニストが急病というのは、とっさに考えた口実だ。
「どうやら日下部は、哲哉に興味が出たみたいだな」
そう言って笑うマスターの顔は、いつもの穏やかな表情ではなかった。
先陣を斬って未踏の世界に足を踏み入れ、いささかも怯むことのない冒険家。むかうところ敵なし。あるのは勝利のみと自分を信じて疑わない。そんな不敵な笑みを浮かべている。
だが当の哲哉は、話があまりにも現実離れしていて、にわかには信じられなかった。ましてや実感など全然わいてこない。
「いいか。来年は確実に何かが起きる。どんなことがあっても、自分たちの力を疑うんじゃないぞ。自信を持て。わかったな」
マスターはいつにない鋭いまなざしで哲哉を見る。多くのアーティストを通して鍛えられたそれは、野生の獣に狙いを定めるハンターそのものだ。
マスターの目は、この先バンドを待っている、華やかで厳しい世界を物語っている。そんな力強いものだった。
「お疲れさん。急に呼び出して、本当にすまなかったな」
マスターは申し訳ないという表情を浮かべ、レモンティーを哲哉の真正面におく。生演奏のあとにいつも出してくれる飲み物だ。
マスター曰く、疲れたときにはクエン酸が効くとのことだ。
「でもさ、やっぱりまずかったんじゃない? ライブと同じテンションで弾き語りするなんてさ。お客さんたちをびっくりさせちまったじゃないか」
マスターは日ごろから哲哉に、店内でピアノを弾くときはBGMに徹するように、と語っていた。それなのに今日に限って、全力を出して好きなように弾けと指示した。
いつもとは正反対の要求をされて哲哉は戸惑う。でもそれがマスターの要求なら従うのが筋だ。
一度決意したら迷いはない。ライブのテンションならお手のものだ。目を閉じて、出演前の気持ちに自分を連れていく。
ピアノの弾き語りを、生演奏のバイトでするのは初めてだ。だがライブでは何度か経験した。もちろんジャスティで演奏もしている。
曲は指定されなかったから、哲哉はバンドのオリジナルソングを選んだ。
——力強く鍵盤を叩き、全身で歌う。マイクなんて必要ない。これがおれのスタイルだ!
全力で演奏したら予想どおり、店内の客たちに注目された。でもこれではBGMではなくてライブだ。
(ほら、こうなるのが嫌だったんだよな)
ライブのように注目して聴いてもらえるのはうれしいが、この場にはふさわしくない。そう考えると、注目された喜びも半減する。
マスターはなぜこんな無茶な注文をしたのだろう。
哲哉は複雑な胸の内を抱えたまま、レモンティーを一口飲んだ。
「いいじゃないの。おかげで、得能くんのこと軽く見ていたお客さんを見返せて、あたしはすっきりしたもの」
「なんだよ、それ。客ひとりをやり込めるために弾かせたってことか?」
沙樹にビジネスマンの件を教えてもらった哲哉は、自分が小道具に使われたようで良い気がしなかった。
「まあ……そんなつもりはなかったんだが、結果的にそうなったことは認めるよ。いろいろと気遣わせてすまなかったな、哲哉」
口では謝罪しながら、マスターには悪びれるようすがない。逆に上機嫌なのが哲哉には気持ち悪く映る。
「そういえばあの人、名刺おいていったよね。なんか偉そうで嫌味な感じがしたから、見る気になれなくてそこにおいたままよ」
沙樹はビジネスマンが残した名刺を指さした。
「あの人、マスターのことを『先輩』って呼んでいたから後輩なんですよね。学生時代のサークルが同じだったとか?」
「ふーん。マスターの後輩ねぇ」
哲哉はそうつぶやきながら、手を伸ばして名刺を取った。
「日下部尊、株式会社クレセント——」
名刺に書かれた社名に、哲哉の動きが止まる。
(まさか。どうせ似たような名前の会社だって)
目を見開いて何度も確認する。ロゴも本物のようだ。少なくとも哲哉の目にはそう映る。
「なんだって? ク、クレセント?」
予想もしなかった社名に、哲哉の大声が出してしまった。
株式会社クレセント——それは大手レコード会社の名前だ。
あまりの衝撃に、哲哉は名刺の裏も確認し、また表の文字を読み直す。何度見直しても、間違いはない。
「マスター、これ、本物なのかよ?」
「心配しなくても本物さ。あいつは正真正銘クレセントの社員だって」
疑わしそうにしている哲哉に、マスターが涼しい顔で答えた。
「あの人が後輩ってことは……マスターってもしかして、元クレセントの社員なんですか?」
「あれ? 沙樹ちゃんには話していなかったっけ」
沙樹はコクっとうなずく。
「西田さんだけじゃない。おれだって初耳だぜ!」
バンドメンバーは知っているのだろうか。わざわざ告げるまでもないと思っていたのか、それとも秘密にしていたのか。
そもそも哲哉は、マスターの経歴をよく知らない。
考えてみれば、アメリカからの帰国子女で、向こうにいたときに仲間とバンド活動をしていたというくらいしか情報を持っていない。それだけで十分だったし、実際困ることは何もなかった。
「社員時代、日下部とおれは新人発掘の仕事をしていたんだ。脱サラしてジャスティをオープンしてからも、おれを頼って、実力のあるバンドはいないかって来るんだよ。オーバー・ザ・レインボウのことを話したら、今すぐ聴かせろって、しつこいのなんの。昔から言い出したらきかないやつだったから、なだめきれなくてな。すまなかった、哲哉」
マスターは申し訳なさそうに頭を下げる。
日下部の申し出になんとかしようと考えたマスターは、まずは動画を見せようと思いついた。だが動画サイトにアップされているものは一~二分の切り抜き映像ばかりだ。
その程度で満足する日下部ではない。マスターは考えたすえに、バンドのボーカルだけでもフルで聴かせようと思いつき、哲哉に連絡したのだと言う。
ピアニストが急病というのは、とっさに考えた口実だ。
「どうやら日下部は、哲哉に興味が出たみたいだな」
そう言って笑うマスターの顔は、いつもの穏やかな表情ではなかった。
先陣を斬って未踏の世界に足を踏み入れ、いささかも怯むことのない冒険家。むかうところ敵なし。あるのは勝利のみと自分を信じて疑わない。そんな不敵な笑みを浮かべている。
だが当の哲哉は、話があまりにも現実離れしていて、にわかには信じられなかった。ましてや実感など全然わいてこない。
「いいか。来年は確実に何かが起きる。どんなことがあっても、自分たちの力を疑うんじゃないぞ。自信を持て。わかったな」
マスターはいつにない鋭いまなざしで哲哉を見る。多くのアーティストを通して鍛えられたそれは、野生の獣に狙いを定めるハンターそのものだ。
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