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どろりとした黒いもの
記憶
しおりを挟む「っ!ぐっ…。」
ミックは突然後ろから攻撃された。葉のこすれる音がして振り向いたのでぎりぎり首は避けたが、肩を斬りつけられた。防具のおかげで切れてはいないが、激痛ですぐに弓矢を構えることができない。
見たところ相手は近衛兵だ。既に気付かれていたようだ。ラズが素早く反応し、ミックを斬りつけた男を斬り伏せた。ミックは気力を振り絞り、また近付いてくる二人に矢を浴びせた。足に命中し、二人は倒れた。
焚き火の方を見ると、武器を持ってこちらに近付いてこようとしている様子が見られた。ミックは索敵に全神経を集中させた。不自然に動いた葉や衣擦れの音がしたところに目を向けたが、姿を捉えることはできなかった。さすが王子お抱えの近衛兵だ。動きが只者ではない。
「貴様ら、良くも…!」
茂みからスピアとあと三人の近衛兵が飛び出してきた。ミックの矢が刺さり、呻いている仲間たちの前にスピアは大剣を構えて立った。
「貴様らが先にしかけたのだ。」
じりじりと囲まれてしまう前に、ラズはそう言って足元の泥を蹴り上げ、スピアの目を潰してから、右の女にとびかかった。
ミックは左の男に矢を打った。グサッと鎧の隙間の膝辺りに矢が突き刺さり、男は倒れた。
次に、ミックの後ろに回り込もうとしていた男を狙ったが、相手の方が速かった。
斬りつけられ、弦を切られてしまった。
ミックは弓を投げ捨てて、素手で剣と格闘した。どうしても分が悪い。相手の太刀筋を見極め、攻撃をいなしたり避けたりすることはかろうじてできるが、まるで反撃ができない。このままでは体力を削られていずれ討ち取られてしまう。
ミックが苦戦しているうちに、スピアは泥を拭い取り、女の近衛兵と交戦中のラズへ近付いていった。ミックは止めようと近付いたが、剣士に阻まれてしまった。
「ラズ後ろ!!」
ミックの声が届くより速く、スピアがラズの背中を斬りつけた。それでも、ラズはまず目の前の女に動けなくなる程度のダメージを与え、切られたとは思えない身のこなしで振り向きスピアに反撃した。
まさか攻撃されると思ってはいなかったスピアは防御が遅れ、ラズの剣が腹から胸にかけてかすった。
スピアがもう一度ラズに攻撃をしようとした瞬間、ドシンッ!バキバキバキ!と巨人が足を踏み下ろしたかのような大きな音と振動が起こった。
沼地がある方角だ。今度はダダダダダと何頭もの馬がかけてくるような音になった。
こちらに近付いてくる。スピアの顔が真っ青になった。
「またあいつだ!総員、撤退!!」
スピアの号令で、ミックと交戦中だった剣士も、足に矢をうたれた兵士も、お互い支え合いながらも非常に素早く風のように去り、焚き火の近くにいた馬に乗って行ってしまった。
なにか危険が迫っているのは明らかだった。
背中に攻撃を受けたラズはその場に崩れ落ちるようにして、座り込んだ。ミックはすぐさまラズの元へ駆け寄った。
「ラズ!!」
「大丈夫だ…。」
大丈夫なわけがない。ラズの背中は斜めにまっすぐ、ぱっくりと切れていた。上半身の防具が、崖から落ちた衝撃で壊れてしまっていなければ、ここまでひどい怪我はしないですんだだろう。
とにかく止血をしなければ。ミックは包帯を巻くために、ラズの服を脱がせようとした。その時、またドシンッ!バキバキバキ!ダダダダダ…と地響きがした。
何度かそれが繰り返されたあと、一際大きくドシンッと音がして、ミックたちの周囲の木がなぎ倒された。
目の前に現れたのは…蟹だ。
巨大な蟹だ。ドシンという大きな音は、蟹がハサミで木を殴り倒していた音だった。進行方向にある邪魔な木を倒しながら走ってきたのだ。
「ちっ…ガラだ。」
影がない。確かにガラだ。ラズはよろよろと立ち上がり、剣を構えた。
「ダメだ、ラズ、逃げよう!今のラズは無理しちゃいけない。」
剣を構えたが、ラズの足元は覚束ない。力が入らないのだ。ミックの弓矢は、弦が切れてしまい使えないし、予備の弦を張る暇はなさそうだ。応戦するよりは逃げたほうがいい。南中ももうすぐだ。
「こいつは…恐らく…沼地からやってきたのだろう。だとしたら…スピードも…相当のものだ…。貴様は先に…行け…。」
ラズは息も切れ切れで、喋るのもしんどそうだ。意識があるのがおかしいほどの傷だ。立っているのも奇跡だ。置いて先に一人で逃げられるわけがない。どうにかしてラズを担いでここから離れなければ。
「とにかくダメだ!一緒に逃げよう!」
ミックの必死な訴えを無視してラズが蟹に斬りかかった。スピードはいつもの半分もない。蟹はラズの剣撃を物ともせず、巨大なハサミでラズを殴り飛ばした。
ラズの体は吹っ飛び、数メートル離れた木の幹にぶつかり、ずるずると地面へと落ちていった。木の幹にはラズがぶつかったところから落下したところまで、真っ直ぐ血の跡がついた。剣は手から離れ、ミックの近くの地面に突き刺さった。
蟹はふっ飛ばしたラズに近づいていく。心臓を食べる気だ。ミックは矢を思い切り投げたが、当然のことながら硬い殻に弾かれてしまった。
「逃げてぇ!!」
ラズはもう意識がない。ミックの叫び声は届かない。ミックは自分のすぐ近くに刺さっているラズの剣を握り引き抜いた。これしかない。しかし、手が震える。
何震えてるんだ、戦え!!!
必死に自らを鼓舞するも体は言うことを聞かない。
ラズを助けないと!戦え!!
仲間を助ける手段があるのに使えないなんて、そんな馬鹿げた話はない。
「貴様が剣を使えたら…ジークは喜ぶだろうな。」
ラズの言葉が頭の中に響く。
助けるんだ、戦え!!!
ミックはぎゅっと柄を握り、ラズにハサミを近づける蟹に夢中で斬りかかった。甲冑を着た相手には、普通に斬りつけても効かない。父の言葉を思い出した。
『いいか?継ぎ目を狙うんだ。』
父に教わった通りに蟹の殻の継ぎ目を狙って攻撃を繰り出した。
ラズに近付いていた左側のハサミと足を全て切り落とした。蟹の体が傾いた。驚きからか苦しみからか、蟹はキシャーと奇声を発した。バランスを崩しつつも、ミックの方へ向きを変えた。都合がいい。甲羅側では刃が入らない。細かい溝がある反対側からなら、正確な位置はわからないがどうにか心臓を斬ることができる。
左側のハサミと脚が復活する前にケリをつけようと構えたが、蟹の方が速かった。残った右側のハサミで殴りかかってきた。先程のラズへの攻撃を見ていたので警戒はしていたが、スピードが上がっていた。さっきは全力ではなかったようだ。
咄嗟に剣を使ってガードをしたが、ミックは勢いよくふっ飛ばされた。ザザーと地面に体を擦りながらも勢いがなかなか削がれず、結局木の幹にぶつかって止まった。受け身を取ったが、息が止まりそうなほど強く背中を打った。
「がはっ…!」
気が遠くなりそうだ。どこを動かしても痛い。視界がぼやける。しかしここで反撃しなくては、二人共心臓を食べられてしまう。
こんなところでやられてたまるか。左側のハサミと脚が少しずつ再生されてきている。
次で決める。体の痛みなど、今は捨て置け。
「はあああああああ!!!」
ミックは全速力で蟹に近付き、再度殴りつけてきた右のハサミを跳躍して避け、剣撃を放った。
「舞鶴!」
『技名はな、叫ぶと技の威力が上がるんだ。この技出すぞって自分の心と体が覚悟を
決めるんだよ。』
父の教え通り思い切り叫び、渾身の力で斬りつけた。刃は蟹の腹の溝や口を切り裂いた。蟹はハサミでミックを退けようとしたが、回転の勢いでハサミは弾き飛ばされた。
ミックが地面に着地すると、巨大な蟹は仰向けにひっくり返った。しばらく脚やハサミをごそごそと動かしていたが、そのうちハサミの先から黒いちりとなり風に飛ばされていった。徐々に体の中心に崩壊が進んでいき、最後には大きな甲羅も残さず消えてしまった。
蟹を挟んで反対側にいたラズが見えた。木の幹に背を預けてぐったりとしている。まだ、意識はないのだろうか。急いでウィンストールに向かわなくては…ラズに近寄ろうとしたが、一歩踏み出した足に力が入らず、そのまま片膝をついてしまった。
ラズの剣を杖のようにして立ち上がろうとするが、体が鉛のように重たく、足も手も胴も激しく痛み上手くいかない。
「あれ…?」
ミックは似たようなことが前にもあったような気がした。ズキンと頭がいたんだ。怪我のせいではない。内側から金槌で殴られたかのように痛む。
「父さん…。」
そうだ、父親だ。今思い出した。あの事件の日ミックと向かい合って木の幹に背を預けて座るような姿勢で父親は事切れていた。…向かい合う?
「え…待って…。」
ガラからミックを守って亡くなったのなら、なぜミックは父親の背中側にいないのだ。向かい合って剣を構えていたなんて、まるで…ズキンと頭が痛む。これ以上考えるな、と体が叫んでいる。
心臓がドクン、と大きく脈打つ。
「いやだ…。」
ミックの意思とは裏腹に、当時の感覚が蘇る。
頭の痛みが酷い。割れそうだ。
ドクン、ドクン脈もおかしい。
呼吸も上手くできない。いくら吸っても息が苦しいままだ。
「やめて!!」
ミックは迫り来る記憶を遮断しようと強く目を瞑った。しかし無意味だった。涙が溢れ出る。あのときの光景が押し寄せる。
全て思い出した。
あの日、父親を殺したのは、どこからか侵入したガラではない。
殺したのは、父親が当時唯一剣を振るうことができなかった剣の使い手。
そう、その相手は実の娘…
「…私だ。」
ミックは涙を流したまま気を失った。
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