世の中は意外と魔術で何とかなる

ものまねの実

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絶えず自らが証明すべきもの

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 長く年月を経た歴史ある建物というのは、そのままの姿を保ち続けているのは稀である。
 手入れを欠かさなかったとしても、形ある物は経年劣化から免れられるはずもなく、いつかは修復が必要となる。
 十年や二十年程度ならともかく、百年も放置すれば廃墟同然となるのを、人の手による保全で後世へ残そうとするのは定命の人間の一つの習性と言えるのかもしれない。

 もっとも、古代文明の遺物には謎の超技術によってこれらの劣化から保護されてほぼ完璧に形を残すものも多いため、あくまでも経年劣化による影響を受ける建物に限る話ではあるが。
 チャスリウス公国の首都にある城なんかは、古代文明期のものをそのまま流用している最たる例だ。

 テセウスの舟という言葉にあるとおり、古くから残る建物は修繕を繰り返された結果、建材が新築時のものからほぼ総入れ替えされているケースは多い。
 二百年も経てば、板壁から釘に至るまで古いものはゴッソリと交換され、全く別の建物へ生まれ変わっていることだろう。

 勿論、残すべきだと判断されたものは意図して残されるが、それでも安全性を考慮すれば老朽化した部分は手直しを図るのが長く使うために必要な措置と言える。

 よほどのこだわりがない限り、住むのに困らなければ古びたものを新しく作り変えるのに躊躇う人間はまずいないが、一方で昔から変わらぬ姿を保とうと努力する人も少なくはない。
 代表的な例として、ヤゼス教が使うメインの教会施設などは、宗教として始まった頃の様式を色濃く残していた。

 ペルケティアの主都であるマルスベーラに建つヤゼス教の総本山と言える教会などは、ヤゼス教が成り立った当時の造りと、複数の時代の人間が手を加えた部分が同居する魔改造と呼べるレベルの建物だ。

 特に重要な祭事を行うエリアなどは昔ながらの形を保って残され、それ以外は利便性を求めて現代的な改修が施された結果、境目を明らかにして新旧が分かれながら奇妙に融合した建物が、ヤゼス教の本部施設として今も使われている。

 ボルド司教曰く、先程シェイド司教の裁判が行われた大裁定の間も、大昔の形をそのまま残してきているひとつだそうで、言われてみれば豪華絢爛な中にも歴史を感じさせる造りが随所に見られ、ヤゼス教が重ねてきた時代をそこはかとなく感じさせられた。

 そういった儀礼的な観点から古さを保つ部分に対し、今俺が歩いている廊下は、実用性を求めて現代の人間が作った比較的新しいエリアとなる。
 
「ここは先々代教皇の時に作られたものでな。わしらからすればまだ新しい場所ではあるのだが、今の若い連中にしてみれば、どうも十分に古臭いようだ。もう改修の要望が上がってきているらしい」

 そう言って俺の前を歩いていたボルド司教が、小さく首を振って溜息を吐いた。
 ジェネレーションギャップとでも言うのか、自分にとっての一昔前が若い人間には遠い過去となるのが寂しいのだろう。

 この廊下自体、教会の重要エリアとしての体裁は整えられてはいるが、大裁定の間を知っている身からすれば威厳といったものが些か足りていないのは分かる。
 もう少し時間を重ねれば相応しい雰囲気を醸し出すようになりそうだが、それを待つことなく改修を迫られるのには思う所があるらしい。

 何故か先程から頼んでもいないのに観光案内の真似事をしはじめ、教会施設のあれこれを勝手に話しているボルド司教に何も言わず俺も付き合ってはいたが、大分愚痴が増えてきたのにはまいってしまう。
 俺にそれを説かれてもどうしようもないというのに、その上でなにかをアピールするかのようなもの言いには、どんな狙いが込められているのかはかりかねる。

「さても古きを漫然と崇めず、新しい何かを求めるのも人の性かと。お気持ちは察しますが、まずは残すべきものの理由と価値を、猊下自らその若者達に説かれてはいかがでしょうか」

 正直なところ、ヤゼス教の内部事情に俺はあまり興味もないし関わる気もないため、ボルド司教の問いかけには適当にそれらしきことを言うほかない。
 下手に穿ったアドバイスなどして、内部闘争に巻き込まれるのもごめんだ。

 せいぜいリフォームなら匠に依頼しろと言うぐらいだ。

「言うのは容易いがな。年寄りの言葉に若者がどれだけ耳を傾けてくれるものやら…ところで、いつまでそのような態度でいるのだ?裁判は終わったのだし、今は他の目もない。いつぞやのようにぞんざいな話し方でも構わぬぞ」

 俺の言葉に小さく溜息を吐いたボルド司教だったが、次の瞬間には俺の態度について話し始めた。
 どこか底意地の悪そうな声色で、初対面の時にしていた俺の態度をむしろ求めてすらいそうなほどだ。

「修道士が司教猊下に無礼な態度をとるなど許されぬこと。何を求めているのかは分かりませんが、ヤゼス教の礼服に身を包んでいる以上、私はこの姿勢を変えることはありません」

 ここはヤゼス教の総本山だ。
 その中枢施設の廊下を歩くことが許される分別を弁えた修道士が、司教へナメた口を叩いて怪しまれないわけがない。
 たとえ他人の目が無かろうと、壁に耳があることも無きにしも非ず。

「言わんとすることは正しいが……意外だな。其方はそういうのを気にする質ではないと思っていたぞ」

「人は衣服の上に権威を着る生き物だというのが、私の信条です。この服を纏っているのなら、それに相応しい振る舞いが必然でしょう」

「ほう、至言だな。服の上に着る権威か。冒険者にしておくには惜しい見識よ」

 修道士の格好をした時点で、下手に目立たないためにも常にボルド司教の配下として振る舞うと俺は決めていた。
 人前とそれ以外で態度を一々変えるのが面倒だった言い訳で衣服の上の権威を口にしたのだが、どうやらそれがボルド司教は意外と気に入ったらしく、妙に感心されてしまった。

「言われてみれば、わしも衣服で人を見ることがある。されば裸の司教なぞ…ふっ、いかほどのものか。…着いたか」

 よっぽどツボだったのか、弾むような声色で楽し気に語っていたボルド司教だったが、ある部屋の前で立ち止まると雰囲気を一変させる。
 若干鋭くした目で見つめる先には、豪奢な造りの大きな扉があった。
 どうやらここが目的地のようだが、その扉は修道士に過ぎない俺が果たして潜っていいのか疑わしいレベルの重厚な空気を醸し出している。

 先程あとにした大裁定の間も入り口からして派手なものだったが、目の前の扉はそれに劣らぬ立派なものだ。
 おまけに扉の両サイドには、全身金属の甲冑で身を固めた兵士二名が静かな警戒心と共に立っている。
 こんなところで剣を帯びて立ち番をしているとなれば、れっきとした修道騎士であることは間違いない。

 十分に離れているにも拘わらず、反射的に身構えかけてしまったのは、それだけあの騎士が手練れであるという証拠だろう。
 その様子からして、室内にはかなりのVIPがいる可能性もうかがえる。

 明らかに重要エリアとしては一級のものと思えるその扉の先には、一体何が待ち受けているというのか。

「あそこだ。ついてまいれ」

 不用意に近付けば修道騎士に斬り殺されるとおそれを抱く俺と違い、目の前の老人はなんの躊躇いも見せずに一歩を踏み出す。
 教会施設の中で司教に対していきなり剣を抜かれることはないにしても、あれだけの凄味を放つ修道騎士へ平然と近づけるボルド司教は肝が据わっている。

「わしだ。入るぞ」

「…」

 まるで我が家の玄関扉を開けさせるような気軽さで両脇に立つ騎士達へ声をかけると、それに特に声を返すことなく騎士達は扉へ手をかけ、静かに開け放つ。
 その一言も話さず動く甲冑の様子に、本当に中身があるのか疑いを持ちそうになる。

 勿論、無機質な鎧の奥から微かに漏れ出ている魔力や気配は察知できているので、ちゃんと人間がそこにいるのは確かだ。

 不意に抱いた若干の不気味さを飲み込みつつ、部屋へと入っていったボルド司教のあとに続くと、その先にもう一つ扉があるのに気付いた。
 廊下とは二つの扉で隔てられているこの先の部屋は、どうも機密を高める必要があるらしい。
 そしてこの広いとは言えない空間には、メイドと思しき一人の女性の姿があった。

 落ち着いた様子で椅子に座って編み物をしていたその女性は、今入ってきた俺達を見て椅子から立ち上がり、使用人に相応しい所作で出迎えたのだが、その姿を一目見た瞬間、俺の心臓は大きく跳ねた。
 体を揺らすほどと錯覚する激しい鼓動は、決して恋などといった甘酸っぱいものが原因ではない。

 今俺の目の前でメイド然としているこの人間が、先程通ってきた扉を固めていた修道騎士などとはあきらかに格の違う強者であると、俺の感覚が警鐘を鳴らしているせいだ。
 纏う気配は一般人のそれと変わらず、漏れ出ている魔力も並を超えるものではないはずなのだが、メイドどころかフル武装の騎士が抜身の剣を構えているとしか思えない緊張感に襲われている。

 それなりに強者と出会ってきた経験のある俺から見て、恐らくこのメイドの強さは修道騎士十人分に軽く勝るはず。
 あからさまな修道騎士に守らせた扉の奥に、さらに手練れの偽装メイドが控えているとなると、この先にいるのは教会にとってよほどの重要人物に違いない。
 よもや教皇ということはなかろうが。

 そんな俺の内心を知ってか、メイドがチラリと俺を見てほんの一瞬だけ視線を鋭くさせたが、すぐに元の薄い表情へと戻ってボルド司教へと声をかける。

「お待ちしておりました、ボルド司教猊下」

 意外と言っていいのか、メイドの声は平坦ではあるが柔らかさもあり、秘められた強さを知らないままなら俺も穏やかにいられただろう。

「うむ、大儀である。あの方はおられるな?」

「はい。裁判の結果を待ちわびて、気を揉んでおられるご様子。どうぞ中へ」

 ボルド司教が待ち合わせているであろう何某かのことを確かめ合うと、メイドは室内へ一声かけてから背後の扉を恭しく開いていく。
 その開かれた扉の先には、想像していた以上に豪華絢爛な部屋が広がっていた。

 部屋の広さ自体はさほどでもないが、この世界では高級なガラスがふんだんに使われた窓からは陽の光が溢れるように注がれており、室内は豊かな明るさで包まれている。
 緑を基調とした壁や天井、そこに金や銀で描かれた複雑な模様が犇めく様に施されており、窓から差し込む光がそれらを撫でるように走る様は、まるで森の中に偶然生まれた秘密の休憩所を思わせる光景だ。

 そんな部屋の中央からやや奥まった先、窓の近くへ置かれた椅子に腰かける一人の女性の姿があった。
 ヤゼス教でも高位の人間に許された華美な法衣に身を包み、身じろぎもせず外を見る様は何かを憂いているようにも見える。

「ご機嫌はいかがですかな、聖女様」

 一見すると親し気だが、聞く者によっては警戒心を抱かせかねない胡散臭さでボルド司教が声をかけた件の女性は、驚くことにとも言うほどでもないが、なんと聖女リエットその人だ。
 ここが教会の施設である以上、リエットがいるのは何らおかしいことではないが、初めて見る聖女としての正装(と思われる)姿に少なくない驚きを覚える。

「…いかがもなにも、私がここにいるのは貴方の指図でしょう。朝早くから。普通、待ちくたびれているとは思いませんか?」

 まるで機械仕掛けかのように首を巡らせてこちらへ向いたリエットの顔は、見紛うことなき不満を湛えていた。
 その際、ボルド司教の背後に従者面して付き従う俺を見て顔を引きつらせる。
 正式な修道服を着て髪型も少しいじっているため、いつもの俺とは印象は違うはずなのだが、流石にそれなりに顔を知られているリエットには気付かれてしまった。
 
 うーむ、ちょっと気まずい。

 俺がこんなところに、それもボルド司教とともに現れたのは意外だったようで、今にも詰め寄られそうな空気を一瞬感じたが、優先すべきことがあるせいかすぐに視線は外された。

「…ふむ、些かお待たせしすぎましたか。これはご無礼を。しかし、裁判の結果をいち早く知りたいと、その願いに答えるためにはこのような形にする他なかったと、ご理解いただけていたはずですが」

 そんなリエットの態度にも特に何か思うこともなく、老人は飄々としたまま話しかける。
 おまけに言葉こそそれらしいものの、とても畏まっている態度に見えないのは、決して俺の気のせいではあるまい。

「此度の裁判は聖女様のかつての教育係が裁かれるもの。万に一つでも裁きの間でシェイド司教の乱心があれば、裁判の進行に障りもあり得ます。故に、聖女様が立ち会うには幾分問題があることは―」

「分かっています。だからこうして、貴方からの報告を受けるという形を呑んでここにいるではありませんか。それより、裁判の結果を早く教えてください」

 ボルド司教の諭すような言葉に何かを覚えたのか、リエットが煩わしそうな顔で小さく首を振り、裁判の結果を聞き出そうと促す。

 どうやらリエットをここに呼びつけたのはボルド司教で、その理由がシェイド司教の裁判の結果を伝えるためらしい。
 重要人物の裁判ともなれば、黙っていてもリエットの下に判決内容の報告の一つもきそうなものだが、それを待ちきれずに動いた結果、どういう経緯でかボルド司教がこうして伝達役を務めることになったようだ。

 教会の恥部にもなりかねない裁判だけに、下手な人間に任せるよりは妥当な人選だろう。
 司教を使いっ走りにするとは、これも聖女の特権かもしれない。

「はっ、では―」

 この老人も聖女を焦らす趣味はないらしく、リエットの求めに応えて先程の裁判の内容を丁寧に語っていく。
 大した記憶力だと感心してしまうほど、ボルド司教は裁判の内容を正確に覚えており、ほとんど取りこぼすことなく裁判の中で交わされたやりとりが伝えられた。




「…腐溶の刑、ですか。シェイド司教にとっては耐え難い罰でしょうね」

 話を聞き終え、そう零したリエットの顔は晴れやかとは言い難い。
 自分の命を狙った人間が裁かれたことへの安心感などはなく、かつて自分が師事した人間の最後を思い、嘆く気持ちの方が大きいようだ。

「ヤゼス教に身を寄せる者にとって、神より与えられた肉体を溶かし失せるは何よりの不徳。生涯を信仰に捧げ、司教にまで上り詰めたならばなおのこと」

 同じ司教の立場から、ボルド司教には腐溶の刑に処されるシェイド司教の心情が理解できるのか、ため息と共に不快そうな顔を見せる。

 この世界の人間は死ねば基本的に火葬される。
 アンデッド対策ではあるが、同時に遺体を燃やすことで熱と煙になって、死者が神のいる天へ還ると信じられているせいだ。
 腐溶の刑ではその天へと還るというプロセスが欠けると信じられているせいか、信心深い人間ほど神への冒涜と恐れているのかもしれない。

 もっとも、土地によっては遺体を聖水で清めた上での埋葬もあるし、宗教関係者の中でも偉人と呼ばれる人間は死後も遺体を火葬せずに特別な処置を施して保管されることもあるという。
 肉体を天へ還していないという点では違いはないように思うのだが、その辺りを宗教観でどう言い繕うつもりだろうか。

「では、慣例通りなら夜明けと共に刑が執行されるはずですね?…ボルド司教、無理を承知でお願いがあります。一度、シェイド司教と話す機会を設けることはできませんか?」

 少し考える仕草をしたリエットは、何かを決意したような目でボルド司教へすがりつくように言葉をぶつける。

「ほう?それはまた…」

 頼み込まれた当人はというと、眉を寄せて渋い顔を見せる。
 無下にはするつもりはないが、叶えるには難しい頼みをどう扱うか困っているようだ。

「聖女様もご存じでしょうが、シェイド司教はあなた様へ随分と歪んだ執心を抱いております。今でこそ罰を受け入れてか落ち着いていますが、聖女様の姿を目にすればまた乱心しかねませぬぞ」

 確かに、裁判の時は憑き物が落ちたようだったシェイド司教も、リエットをその視界に収めればあの日の狂った姿に戻るのは想像に難くない。

「……それでも、最後に一目シェイド司教と―先生と言葉を交わしたいのです」

 自分の言ったことが到底受け入れられないと分かってはいても、尋ねずにはいられなかったあたり、リエットのシェイド司教に対する親愛かそれに似た何か、そういった思いが残っているのだろう。
 あれだけの目にあっていながら、先生と呼ぶぐらいにはその思いも小さくない。

「お気持ちはお察しいたしましょう。されど、会って何を話されるおつもりか?ただ片方が望んだからと引き合わせたところで、互いに良い結果とはなりますまい」

 この場で唯一、逮捕されてからのシェイド司教と面会しただけあってその心境を理解しているのか、ボルド司教の言葉には説得力を感じる。
 言われたリエットも何か言い返そうとするが、開きかけた口を噤み、なにか祈るように胸の前で両手を重ねた。

「…かつて先生からは『正義に全てを捧げよ』と、そう教えられました。あの方は正義という言葉が口癖でした」

「いっそ哀れになるほど潔癖なあの者なればこそ、吐いてよい言葉でしょうな。刑を申し渡した際も、驕りと怠慢を改め教会を正しく導けと我らに言い放った姿はとても罪を犯した人間のものとは思えない清廉さでした」

 ふとその時の光景が頭をよぎる。
 罪人として裁かれたにもかかわらず、上段にいた司教達へ向けて放ったその言葉は実に堂々としたものだった。
 リエットを非難する気が一ミリもなかったとは思わないが、純粋にヤゼス教の行く末を案じたように聞こえた。

「先生らしい。…ボルド司教、正義とは一体何なのでしょうね」

 在りし日のシェイド司教を思い浮かべてか、一瞬穏やかな微笑みを見せたリエットだったが、すぐにその表情を引き締め、ボルド司教へとそう問いかけた。

 急に正義などと口にしたのも、あの日、自分の存在がヤゼス教にとっての正義を揺るがしかねないと突きつけられたことが棘となっているせいか。
 リエットの目には怯えも見える。

 リエットがボルド司教をよく思っていないことは分かっていた。
 態度もそうだが、以前話した時にそういう口ぶりもあったからだ。

 その上でこの問いをするのは、この場では他に適役がいないからだ。
 黒い噂の多いボルド司教だが、リエットの年齢より長く司教を務めているのは事実。
 迷える子羊へ道を示す経験はそれなりに積んでいるはず。

 たとえよく思っていない人間であっても、自分の抱える不安を少しでも軽くする言葉を期待したいのだろう。

「ふむ、これはまた答えが難しい問いですな。正義を説くにわしなりの言葉はありますが、恐らくそれでは聖女様の御心を晴らすまではいかぬでしょう。となれば、いっそこの者に委ねてみるのも一興とは思いませぬか?のう、アンディよ」

「……は?」

 どんな含蓄ある説法が聞けるのか少しだけ期待していた俺だったが、突然矛先が向けられたことでつい間抜けな声を漏らしてしまう。
 従者ぶっている身としては聖女と司教の会話に口を挟むこともないと思っていただけに、いきなり水を向けられた衝撃は中々のものだ。

「アンディに、ですか?…ずっと気にはなっていましたが、なぜあなたがそこに?しかもその格好…いつからボルド司教の従者になったのです?」

 部屋に入った時に一度は浮かべ、しかしすぐに引っこめたあの怪訝な顔を再び見せたリエットは、目を細めて俺達の顔を見比べている。
 ここしばらくの付き合いのせいか、半ばリエット側の人間として認知されているらしい俺だが、見るからにボルド司教の従者として振る舞う姿には何か思う所があるようだ。

「いやはや、それは誤解ですぞ。今日の裁判へ同道させるために、必要な服を用意してやったまでのこと。従者のように振舞っているのは、わしが連れ歩くのに怪しまれぬためでしょうな」

「なるほど。まぁアンディの事件への関りを思えば気持ちは分かりますが、そうだとしてもわざわざ司教自ら連れ歩くほどの理由が?」

「実は先だって約束をしておりました故。聖女様の護衛を果たした褒美も兼ねて、事件の行く末を見届けさせてやろうかと思いましてな」

「…随分と気にかけているのですね。自派へ引き入れようとでも?」

「本人が望むのならそれもいいでしょう。中々に面白い男ですからな。もっとも、その目も薄いようですし、今は恩を売るだけに留めておこうと思っております」

 やや棘のある口調のリエットに、飄々とした様子で返すボルド司教の姿には、やはり経験の差による妙を思わせる。
 これで俺の引き入れをきっぱり否定しないあたり、今日までの配慮には少なからず裏はありそうだ。

「しかし、聖女様もご執心のように思われますが?おお、そういえば歳の近い異性に興味を持たれるお年頃ですかな?」

「歳を取ると男性は下世話な話を好むようになると聞きますが、それは司教も同じようですね。私の側仕えの友人としての縁から、アンディのことは気にかけているだけです」

「はっはっはっはっは!これは耳が痛い!いや、いくつになっても女性から非難されるのは堪えますな」

 セクハラ染みた老人の言葉にリエットは冷静に返すが、言われたボルド司教は堪えた様子もない。
 これはまた同じことをしそうだな。
 世界が違えばこの爺は裁判にかけられてもおかしくはない。

「わしの態度はいずれ改めるとして、まずは聖女様の迷いを晴らすと致しましょう。さてアンディよ、其方から聖女様へひとつ説いてみせてはくれぬか?」

 話が逸れていたのを戻すかのように、今度は俺へ向かって声をかけてきたボルド司教は、心なしかその目に縋る様な色を宿しているように見える。
 自分の口ではなく俺にリエットへ説法をさせようとするなど、一体何を企んでいるのか訊かせたいところだが、どうもそれをしていい雰囲気ではない。
 なにせ、リエットすらボルド司教と同じように、何かを求めるような目で俺を見てきているくらいだ。

 正直柄ではないのだが、人からこういう目で見られると無碍にはしにくい。
 単純にボルド司教からの頼みだけなら断る気にもなるが、リエットが絡んでくると助けてやりたくもなる。
 ここ数日の関わりで、それなりに情も湧いてきているせいだ。

「私は正義というのとは縁遠く生きてきた人間です。それに、人に道を説くのに慣れているわけでもありません。多分に主観が混ざった言葉になると思いますが、それでも話せと申されますか?猊下」

 期待した答えを返せる保証もないため、一応そのあたりも念を押しておく。
 これで教義に反するからと否定されるならまだしも、異端として逮捕されてはたまったものではない。
 そのため多少無礼な物言いになってしまったことは否めず、ボルド司教の顔色を窺う。

「構わん。主観なき主張ほど響かんものは無い。其方の思う正義についてを、思うままに語ってくれればいい。恐らく、それが聖女様に今必要な答えの一つになるかもしれん」

 何がそう思わせるのか、まるで俺の言葉でリエットにどんな変化が起きるか知っているかのような自信だ。
 よもや未来を見てきたというわけでもあるまいに。

「…そうまで仰るのなら。ではリエット様、よろしいですか?」

 最後の確認としてリエットへ声をかけると、彼女は真剣な目でうなずきを返して背筋を伸ばす。
 今から高僧の説法を聞こうとしているかのような姿勢に、俺は少し気圧されそうになりながら、ここに至ってはもう好きに話してしまえと腹をくくって口を開く。

「正義とは何かという問いについて、私には気の利いた言葉は思いつきません。単に正義というだけなら、個人か集団における意思を揃えるための旗と言うのが相応しいでしょうか。まぁこれは誰でもわかっていることですが。一方で、正義が決して不変で絶対なものではないのも確かです」

 実を言うと、俺は正義という言葉が好きではない。
 嫌っていると言ってもいい。
 堂々と正義を口にする奴に限って、倫理観をすっ飛ばした悪人なことが多いからだ。

 歴史上、人間をもっとも殺してきたのは刃でもなく、ましてや毒でもない。
 正義こそが、人の命を奪ってきたのだと俺は考えている。

 人種や文化、時代や国によっても正義というのは様々に存在し、一方の正義がもう一方の正義とぶつかり争うのを容易く引き起こす、正義とはなんと残酷な蜜だろうか。

 宗教においても、正義の名の下で無意味に殺された人間は数えきれないほどだ。
 今、その宗教側の人間であるリエット達へ正義を説くという、なんと皮肉なことか。

「言っていることは何となくわかります。ですが、分かりたくないという思いもまた私の中に同居しています。では、ヤゼス教の正義は本当に正しいのでしょうか?シェイド司教は間違った正義に駆られていたのでは?」

 ここでリエットが俺の言葉を遮るように口を挟んできた。
 本人が何を期待しているのかは分からないが、少なくともヤゼス教にとっての正義は疑いたくはないようで、その悲壮な声は今にも泣き出しそうなほどだ。

「私はそのヤゼス教の掲げる正義を正しくは把握していないので、批判も賞賛もできません。それはそちら側の人間が議論なりなんなりしてください」

 少し突き放した言い方になるが、俺はヤゼス教の組織改革に関わる気もないのでこう言うのが関の山だ。
 リエットにも個人的な縁があってこそアドバイスをしているだけなのだから。

 しかし、続く言葉を果たしてストレートに言ってしまっていいのか少し迷うな。
 司教と聖女が揃っている場であまり強い言葉を吐くと、ヤゼス教との火種になりかねない気もするが……いや、今更か。
 一部のヤゼス教の人間とは結構前に揉めてたし、ここまできたならもう開き直ろう。

 覚悟を決める意味も込めて溜めるように息を吸い込み、先程よりもやや声を張って言う。

「それは私達が―」

「正義とは」

 図らずもリエットと声が被ってしまったが、構わず続ける。

「正義とは、絶えず自らが正しさを証明し続けなければならない」

 なるべく感情を込めずに言い放ち、そしてリエット達の様子を窺ってみた。
 言葉を選ばなかったせいでやや硬質な物言いになってしまったため、リエットは目を見開いて驚いている。

 リエットのリアクションは予想通りだが、ボルド司教は泰然とした様子のまま、薄く笑みを浮かべて先を促すかのようだ。
 やはり年の功があるだけに、正義を妄信してはいないか。
 宗教家としてはともかく、為政者としてみるとボルド司教のこういった姿は恐ろしくも頼もしいと言える。

「誰もが自分にとっての正義を掲げ、他社の正義を認めず争う。人が信念をもって生きている限り、正義を語る資格は誰にでもあり、また誰にもない。故に、正義を語るのなら正当性を押し通すだけの力が必要となる」

「そのような…!では、力なき正義は無意味だと!?」

 意図せず少し突き放すようになってしまった俺の言葉に、リエットが耐えかねたように悲鳴染みた声を上げる。
 しかし、中々過激なことを言う聖女様だ。

 弱き者の救済もヤゼス教の使命とされ、それをないがしろにされかねない俺の言葉には黙っていられなかったらしい。
 ただ、これはリエットの早とちりであり、何も俺は力こそが正義という頭の悪い主張をしたわけではない。

「力なき正義は無力です。言葉を持つ人間でも…いえ、言葉を操れるからこそ、拳を振りかざして認められる正義もあります。しかし、そもそも正義と悪だけで世界を二分することこそ、持てる者の傲慢に思えませんか?」

「え……」

 ヤゼス教という輪の中で生きてきたリエット達にとって、先達から受け継がれてきたものとして、倫理や思いやりといった価値観はとっくに形作られている。
 それは悪いことではないのだが、ヤゼス教の教えを基準に善悪を決めてしまうことの危険性を恐らく彼女達は自覚していない。

 だからこそ、シェイド司教が自身の正義の下に聖女を害そうとしたことがショックであり、同門における正義が矛盾しかねない恐怖が今のリエットを支配しているのだろう。
 本当ならこれに対して俺は明確な導きを出すことはできないし、この類の迷いを乗り越えるのなら自分で答えを見つけなくてはならない。

 ボルド司教に頼まれたからやっているだけであって、本音を言えばあまり俺からリエットに授ける教えなどほとんどないのだ。

「悪を討つために正義を掲げる者がいるのなら、正義を成すために悪を行う人間もいる。つまるところ、間違った正義も正しい悪もない、ただ個人や団体の主義を誰かがどう呼ぶかで正義と悪が決まってしまうのではないかと俺は考えます。もっとも、信の伴わない主張で正義を虚飾し続ければ、いずれ自らの正義に押し潰されるでしょうが」

 言い切り、細く長い呼吸で肺に空気を満たしていく。
 纏まっていない考えのまま勢いで語ってしまったが、俺が思うところはいくらか伝えられただろうか。
 そもそも、シェイド司教の考える正義を俺は知らないし、リエットがどんな言葉を求めているかもわからない。

 大仰に正義を口にするなど本当ならやりたくはなかったが、やれと強いられた以上は俺の言葉で好き勝手に言うと決めたのだ。
 実は最初から正義に関してはっきりとした答えを言うつもりはなかったため、なんだか投げやりな感じになるが、これで俺が言うべきことは全て伝えた。

 ここまでの話から何かを感じ取ったのか、考えるような仕草で動きを止めたリエットの中では葛藤の一つもあるのだろう。
 どんな結論を出すかは見ものではあるが、ここで手を差し伸べるなら同門が適任だ。
 丁度司教という手ごろな人間もいることだし、後は適任者に任せるとしよう。

 仕事を終えた顔で一歩下がり、後を託すようにボルド司教へ目線をやれば、俺の意図を汲んでくれたのか、顎先を揉みながら軽く溜息を零した老人は徐に口を開いた。

「良くも悪くも、面白い話をしてくれたと言ってよろしいでしょう。この世に絶対の正義はないというのは、些か聖女様には刺激が強かったと思われますが。…その様子では、あまり満足はしておられないようですな」

 晴れやかとは言い難い顔のリエットを見て、ボルド司教は困ったように小さく笑い、俺の方へと向き直る。
 その顔と雰囲気から、なんとなく次に何を言い出すかは分かった。

「アンディ、すまぬが少し外してくれ。わしと聖女様で話す。そうさな…其方はもう戻ってよい。半刻ほどしたら迎えを寄越すよう、誰ぞに言伝てくれ」

 あとは二人で話すというのなら、言うだけ言って満足した俺としては食い下がる必要もない。
 もともと遅くとも昼には用事も終わる予定だったのだが、急遽リエットの所へ連れてこられたため、ここらでお暇したかったのもある。

「は、かしこまりました。ではルビンス殿にお伝えしておきます」

 ルビンスというのは、以前ボルド司教の遣いとして俺の所へ手紙を持ってきた修道士だ。
 俺が今日ここに怪しまれることなくいられるのも、実は彼が色々と根回ししたためでもあり、実務能力の高さはボルド司教配下で随一らしい。
 彼にならば迎えの手配も任せられる。

 何か言いたげでこちらを見るリエットに、目礼だけを返して部屋をあとにする。
 ここで引き止めないあたり、彼女なりに今聞いた話を整理したいのかもしれない。

 扉をくぐり、あの妙に凄味のあるメイドの視線に気付かないふりをしつつ廊下に出ると、背後で重厚な音を立てて扉が閉じていく。
 両脇に控えていた騎士が、俺に興味を失くしたと言わんばかりに再び置物のように動きを止めた。

 中に人が入っているのは確実に分かっているが、それでも作り物めいて佇む様子にはどこか居心地の悪さを覚える。
 とはいえ、職務に忠実な姿であることには変わりなく、それを倦厭するのはお門違いだ。
 心の中で忠勤を労いつつ、廊下へと歩みを進める。

 来た道を戻る中、周囲に人影もないこともあって、きっちり着こなしていた修道服の首元を緩めて少しだけ楽な格好になる。
 シェイド司教の裁判も見届けたため、ここでの用事はもはやない。
 時間的にも昼食にいい頃なので、街で何か食べて宿に戻るとしよう。

 一仕事終えた充実感もあるし、ガツンと腹にくるのをいきたいな。
 なにかまかり間違ってカツ丼なんか出してくれる店はないだろうか。
 まぁあるわけないが。






 SIDE:ボルド司教


 アンディが部屋を出ていき、扉が閉じられたところで室内に静寂が生まれる。
 すると、思わずわしの口から低く抑えた笑いが零れだしてしまった。

「くっくっくっく」

「ボルド司教?」

 突然笑い出したわしを、リエット様は怪訝な顔で見つめてくる。
 室内に二人きりになった途端、急に笑い出したらそうもなろうな。

「いや失敬、なんとも愉快な男だと思いましてな」

「愉快、ですか?」

「本人は一介の冒険者に過ぎぬと嘯きながら、求められれば覚者の如き助言をする。しかもその言葉は確かな教養がなければ吐けぬものとくれば……なんとも為人の掴みづらい男だと思いませぬか?」

 冒険者など大抵は無頼の徒だというのに、アンディの言動はどこぞで学を修めていたとしか思えない高い教養を匂わせる。
 無論、冒険者の中にも学者や研究者を兼業する者もいるが、あの語り口からはそれらにはない独特な考えを感じた。
 少なくとも、わしが今まで生きてきた中では初めて出会う毛色ではなかろうか。

「確かに、アンディは少し変わってはいます。スーリア―私の側仕えから聞いた話だと、かつてはディケットで教鞭をとっていたこともあるとか。教養があるとすれば、そこに関係があるのでは?」

「ほう、それは初耳ですな。しかし、人に教えを説いた経験があってもあのような言葉は咄嗟には出ますまい。あの若さで善悪や権威の本質をああも捉えるには、よほどの経験がなくば難しいと思いますがのぅ」

 わしから見てアンディの言葉は、優に四十年は積み重ねた経験の上でなければ出ることはないと見立てている。
 当然ただ無為に生きただけではなく、偏りなく歴史の中から過去を学び、正しく理解して己の血肉とした果てにようやくたどり着ける境地だ。

 年齢にそぐわないその熟成された思考は、一体どれほど優れた師から与えられたというのか。
 ああいう者こそこれからの教会には必要なのだが、あれのヤゼス教に対する不信感を思うと引き入れるのは難しい。
 つくづく、サニエリ元司教は厄介な因果を残してくれたものだ。

「あの手合いは正義を語らせるにはあまり相応しくない人間でしょう。人間の正と負をよく理解しているがために、聖女様の問いにも明確な答えを与えてはくれませなんだ。つまるところ、己で答えを見つけよと突き放したようなものですな」

「それは……そうですね、私にもそう感じました」

 この方は決して暗愚ではない。
 一見すると冷たいようなアンディの言い様の中にあった、自分の問いへの手がかりも朧気ながら見えているはずだ。

 アンディの言う正義の不確かさというのは、若い人間には刺激が強すぎる。
 本来ならばリエット様には経験を積んでいただいて、大器に育った頃にこそ与えてほしかったほどだ。
 このあたりはアンディに任せてしまったわしの責任ではあるが、あれぐらいならばまだリエット様の芯が歪むほどではないのが幸いか。

「いかがでしょう?今もまだシェイド司教へ会って、言葉を交わしたいという気持ちはおありですかな?」

 改めて気持ちを問いかけてみれば、リエット様は何かを堪えるように唇を噛んで窓の外へと目をやった。
 この様子では、まだ諦めきれてはいないようだ。
 それも仕方がないだろう。

 今日まで聖女としてのリエット様を形作ってきたのは、シェイド司教の教えに根付いたものが多い。
 聖女を教えるという立場はその役割上、時に肉親以上の情が生まれるそうだ。
 そんな人間が自分の命を狙ったのだとすれば、その悲しみと怒りはどれほどのものか。

 リエット様の心に刻まれた傷をわしらは推測するしかないが、ことがことだけにもはや両者の遺恨を綺麗に晴らすなどまずありえん。
 なればこそ一つの区切りとするため、最後に言葉を交わしたいという気持ちは分からんでもない。

 だが、今でこそ落ち着いたシェイド司教でもリエット様を目にしては乱心する恐れがある以上、二人を引き会わせるのは避けたいところだ。
 今会わせたら、リエット様にどんな言葉を浴びせかけるか分かったものではない。

 罵倒するだけならまだしも、リエット様へ怨嗟の声を聞かせてしまえば、聖女としての生涯を侵す毒にもなりかねない。

 主ヤゼスの教えを守るために聖女と言うのは欠かせない役割だ。
 それを欠いてこの先のヤゼス教の発展はあり得ない。
 我らがまず守るべきは教えであり、その象徴たる聖女も然り。

 後ろ暗いことに手を染めてでも、人に恨まれようとも教会のためを思えばこそ、わしは身と心を削ってきたのだ。
 それが外部からの攻撃ではなく、内からの毒で聖女を害するなどあってはならない。
 ましてや心に傷を作るなどもってのほか。
 ならば、その心を守るためにも、此度もわしが骨を折るしかあるまい。

 今までもそうしてきた、これからもそうするだけだ。

「…分かりました。では面と向かって言葉を交わす機会を作ることは叶わずとも、刑の執行に遠目ででも秘かに立ち会えるよう手配しましょう。それで手を打ってはいただけませんか?」

 無理なものを無理と切って捨てるのは誰でもできる。
 しかし、師の最後を見届けたかどうかというのは、その後の人生において重要な転換点にもなり得るのだ。
 わしに与えられた地位ならば、多少の無理を通すだけの力はある。
 互いに面として向かい合うことはできずとも、せめて師を見送るぐらいはさせたい。

「本当ですか?」

 窓に向けられていた顔が、わしの言葉と同時に勢いよくこちらへと向き直る。
 どうやらこの提案はリエット様の心を動かせたらしい。
 あのような目にあってなお、シェイド司教への情はまだ小さくはないか。

「何とか致しましょう。ですが、腐溶の刑は聖女様に惨い光景を強いることにもなります。お覚悟を」

「それでもっ…ええ、立ち会えるというのならば、是非」

 一瞬で終わるとはいえ、人を溶かす光景というのは見ていて気持ちのいいものであるはずがない。
 言葉を交わす機会を与えられず、ただ師が溶け死ぬ姿を見送るだけのその先で一体何を思うのか、こればかりは本人の心持ち次第だ。

 気掛かりがあるとすれば、処刑を見届けたあとでリエット様が聖女としての役割を今までと変わらず続けられるかという点か。
 自らの体の秘密によって師に裏切られたという事実は、この先ヤゼス教の象徴として生きることへの葛藤へ繋がりかねない。

 役目への不安だけならまだしも、下手をしたら聖女の地位から退くとまで言いだしたとしたら厄介なことになる。

 まだリエット様が聖女の役目に就いてから十年も経っていない。
 特別な力と人格が求められる聖女は、素養ある人間であっても育てるにはよくて七・八年ほどの時間がかかる。
 現段階で候補者は選定済みであっても、教育が施されるのはまだまだ先の話だ。

 仮に今リエット様が聖女の地位を退くと宣言すれば、ヤゼス教には象徴が不在となる期間が少なくとも七年は発生することになる。

 先代の聖女様にもお力を借りられれば、七年の空白なぞ耐えられるとは思う。
 だが、この数年で司教が二人も立て続けに失脚するとなると、教会の中には不安を抱える人間が必ず出てくる。
 下手をせずとも、次期司教の座を狙っての内輪もめはまず間違いなく起こる。

 サニエリ元司教の後任は既に内々で決まっているが、シェイド司教の方は後任を定めている様子もなく、他薦自薦で一つの椅子を争う人間が続出すれば、聖女不在と相まってヤゼス教崩壊の危機となりかねない。

 これはあくまでも最悪の可能性ではあるが、全くないと言えないのが今のヤゼス教の置かれている状況だ。
 そうならないためにも、リエット様には今しばらく聖女であり続けてもらいたい。
 人の心の内など見透かせるものではないが、シェイド司教の処刑を見届けた後のリエット様の心の機微は慎重に見守らねばなるまい。

 本来なら悩む若者に寄り添うべきは正道を歩む者の仕事なのだが、よもやわしがそれを引き受ける日が来るとはな。
 師として導くことを放棄するどころか、迷いの元になっているなどと、重ね重ね、シェイド司教の所業が悔やまれてならない。




 SIDE:END






 後年、ボルド司教亡き後に発見された手記に、聖女リエットへ道を示した人物に関する記述がある。
 一部未だに封機指定を解除されていない、とある事件によって聖女としての役目を果たすことへの自信を失ったリエットは、件の人物に諭されたことで、ヤゼス教の新時代を切り開く第一歩を踏み出したといわれている。

「正義とは絶えず自らが証明すべきものである」とはボルド司教が晩年までよく口にし、また現在でも一部のボルド司教派閥だった人間の血縁が文書として残すほど大事にしていた言葉だという。

 黒い噂も多くあり、決して清廉とは言い難かったボルド司教が、この言葉をまるで自らの信念であるかのように伝え残した理由については詳しいことはわかっていない。
 ただ、聖女に道を記した人物こそがこの言葉を口にした最初の人間だと言われており、このことからヤゼス教の頂点に位置する人間二人を動かした者として研究の対象となっている。

 しかし、この人物の詳細に関しては手記にも名前すら載っておらず、唯一性別が男性であるということぐらいしかわかっていない。
 まるで歴史の中に埋もれさせるのが目的であるかのように、あまりにも情報が少ないことから、一説はボルド司教が彼の功績を妬んだとも、また別の説では彼を他の権力者達の目から守るために敢えて正体を伏せたのだともいわれている。

 いずれにせよ、本来は知られることを望まなかったボルド司教が、手記を残したことで研究者の目に留まったのは皮肉なもである。

 なお、この手記が書かれた年代と近い時期には巨人大戦が起きているが、ある学者はこの巨人大戦の際に活躍したとされる二人の魔術師は、聖女を導いた件の人物と同一人物であるという説を提唱しているが、根拠がないとして論じられる機会はまったくない。

 ただし、この説を提唱した研究者に、どういうわけかとある国が支援を行い、正式に説の裏付けを行う研究が長く続けられたという事実が残っており、研究者達の間では一つの謎として今も語り継がれている



「グールア期の賢臣、ボルド司教の残した手記に眠る謎」民明書房著
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