ニキアス伝―プルターク英雄伝より―

N2

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4.クレオンとの政争

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デモステネスがピュロスの地に城砦を築き、ペロポネソス同盟軍がこれを陸海両面から攻めた戦いにおいて、400名のスパルタ主力部隊が孤立してスファクテリア島の岸に残されてしまった。

アテナイは好機到来に沸き立った。彼らをうまく捕虜にできれば戦の有利は疑うべくもない。ところが水源が見当たらぬ土地での包囲戦は想定外に難儀をきわめ、海路で兵站物資を運ぶにしても夏は費用がかさみ、冬にいたっては危険尽くしでほとんど不可能であった。アテナイ人はだんだん腹が立ってきて、当初ラケダイモンの使者から提案された和睦案を蹴ってしまったことを後悔し始めた。

休戦が妨害されたのは、おもにクレオンのしつこい反対のせいだった。クレオンは、政敵ニキアスとラケダイモン人が交渉を先々へと進めるのがどうしても許せず、民衆をたきつけて拒否するよう説得したのである。

戦ばかり長引いて軍隊も困窮していると知った市民らは、クレオンに怒りの矛先を向けた。ところが彼は、惰弱で臆病な態度ゆえ攻め手を欠いて小島ひとつ抜けないのだと言い立てて、責任をニキアスひとりに押し付けようとした。「私が将軍なら、敵は持ちこたえられなかったろうに」
クレオンがこう嘆いてみせたとき、アテナイの人々はここぞとばかり叫んだ。
「まだ遅くないぞ!いますぐ船出して、奴等とやり合ったらどうかね!?」

そこでニキアスも立ち上がり、「君にピュロス方面の指揮権を譲ろう、望むだけ兵隊を連れて行ってよい。そろそろ安全圏から好き放題言うのはよして、じっさいに出陣して国家に奉仕してみないか」と述べた。クレオンは突然風向きが変わってしまいあたふたと狼狽していたが、市民たちに煽られ、ニキアスからも強く非難されたのでいよいよ逃げ場がなくなった。彼は任務を請け合ったばかりでなく、虚栄心に駆られて“出発して20日以内に敵を全滅せしめるか、あるいはとりこにしてアテナイへ引っ立てる”などと大見得おおみえをきった。

アテナイの群衆は真剣に取りあわず、相変わらず笑っていた。クレオンが出来もしない主張や奇矯ききょうな振る舞いをするのは常のことであり、みなそれを娯楽や冗談として楽しんでいたからである。

たとえばある日、アクロポリスで集会を開くというので民衆は演説を期待して待っていたのだが、クレオンはだいぶ遅くなってから花冠をかぶって現れ、「わるいが明日に延期してくれ」と言い出した。「今日は用事があって忙しい。お客人の世話をせにゃならんし、神様にはもう犠牲を捧げてあるんだ」人々はひとしきり大笑いしてから、めいめい解散した。


しかし悪運強いというべきか、デモステネスの協力もあってクレオンはうまく将軍の役目を果たし、宣言した期間のうちにスファクテリアのスパルタ兵全員――むろん戦死者は別だが――を武装解除させ、捕虜として連れ帰ることに成功したのである。

このクレオンの武勲によって、ニキアスは築きあげた名誉を大きく損じることになった。彼は生来の気弱さゆえ指揮権と一緒にわが身を守る盾さえ投げうち、みすみす大功をあげる機会を政敵にわたし、無様ぶざまなことにみずからの意思で失職してしまった、と見なされたのである。

このことを揶揄して、アリストファネスは『鳥』の中で、こんな言葉を書き連ねている。
――さあさあ!のんびり休んでいる時間はないぞ。勝利ニケに気遅れしてどうするね※1――

また、『農夫』では次のような塩梅である。
「農家になりたいんだがね」
「いいじゃないか。なんのさわりがある?」
「あんたが邪魔をするんだよ。さ、仕事を辞めさしておくれ、1000ドラクマあげよう」
「それでじゅうぶん!こっちにニキアスから貰ったのもあるから、しめて2000ドラクマだ」

凱旋してきたクレオンに名誉と影響力が備わってしまったのは、アテナイには大きな災難だった。いまや彼の尊大な態度を抑えきれる者はなく、その横暴は多くのひとに加えてときに彼自身にすら害を及ぼした。さらに悪いことには、クレオンは演説中に絶叫する、衣の裾をからげて太ももを叩く、そこいらを駆け回るなどやりたい放題で、壇上の礼儀作法は一朝にしてすたってしまった。かくしてアテナイ市政には軽佻浮薄けいちょうふはくの風がはびこり、それはやがて国全体へと波及するのだった。


※1:勝利ニケと“ニキアス”をかけている。第1章の註釈も参照のこと
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