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7.陶片追放
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ここに至ってニキアスとアルキビアデスの対立は後戻りの出来ぬものとなった。民会はいよいよ“陶片追放”の実施を決めたが、これは市民が、蓄財や不正の疑わしい人物の名前を陶器のかけらに記して投票し、対象者に十年の追放を命じるものだった。二人は気が気でなかったに違いない。両者ともアテナイ人の嫉妬を存分に買ってきたため、どちらかが追放される目算が高いと思われていたのである。
アルキビアデスの生き様、特に気位が高く譲ることの出来ぬ性格が忌み嫌われていたのは先に彼の伝記に載せておいた※1。一方ニキアスはといえば、貯めに貯めた財産が人々の妬みを刺激したうえ、同胞と生活を共にしようとせぬ社会性に乏しい態度が幾度となく庶民の反発を産んでいた。また彼らの欲望や感情を軽視して、全体の利益になることを理性的に粛々と進めようとしたため、煙たがられることもしばしばだった。単純に言ってしまえば、これは好戦的な若者と年よりの平和主義者たちの諍いであって、両党はいままさに互いを蹴落とし、追い出そうと身構えたのである。
「国乱れんとして悪漢名を馳せる」という言葉があるが、二大派閥が睨み合うアテナイ市では、無礼で放縦きわまる連中が幅をきかせるようになっていた。その代表がペリトイダイ区のヒュペルボロスである。彼は何の権威もまとわずただ傲慢な男として現れ、かえってその傲慢さによって権力をかすめ取り、彼が街で名を上げれば上げるほど、あべこべに街の名誉のほうが下がってゆくという仕末だった。
ヒュペルボロスは自分には追放刑などどこ吹く風で、奴隷のように絞り首にされるのが精々だと悟っていたから、ニキアスとアルキビアデスの一方が排除されれば、残るもう一人の対抗馬として出世できるに違いないと考えた。そこでふたりの不和を大いに喜び、対立の炎に油を注ぐように公然と大衆を焚きつけた。
見え透いた邪悪をまえにニキアスとアルキビアデスは水面下で手を結び、一時的に団結することで合意した。すなわち陶片を投じるあいてをお互いではなくヒュペルボロスに一本化したのである。
予想外の結果にアテナイ市民はよろこび、大笑いして歓迎した。しかし後になって、無価値な人間のために大切な掟を用いたのは屈辱的なことではないかと言い合った。刑罰にはそれ相応の格というものがあり、陶片追放はトゥキュディデスやアリステイデスなどの名士にふさわしいと思われていたのである。
むしろ得をしたのはヒュペルボロスの方だった。彼にとってこの罰は、過去の優秀な政治家と同じ土俵に立ったという誉れであるから、より一層大きな顔をするようになった。喜劇詩人プラトン※2は彼を評してこういう。
――あいつにはこの運命がお似合いだ、みんな異存はあるまい。だが運命にしてみりゃたまったもんじゃない。あんな奴に烙印を押してやるために、土器が生まれた訳ではないんだぞ――
陶片による追放刑は、あの僭主※3の子であるコラルゴス区のヒッパルコスが第一号であったが、このヒュペルボロス以後、二度と行われることはなかった。
運命というものは不確実で、後知恵で何を言っても虚しいのだが、もしニキアスがアルキビアデスと四つに組み、どちらかの追放をみるまで危険をとり続けていたならば、と考えずにはいられない。彼が勝利してアルキビアデスを街から追い出せれば結構なことだし、あるいは打ち負かされたとしても、“最も優れた指導者”という名声を保ったまま、これから待ち受ける最悪の結末を避けることが出来たのだろうから。
なおテオフラストスは、この追放劇のさいにアルキビアデスと争っていたのはニキアスではなくファイアクスだと書いている。私とて知らないわけではないが、史家の大半はこの説を採らないのである。
※1:プルタークは英雄伝の別章でアルキビアデスの伝記も書いている
※2:有名な哲人プラトンとは別人
※3:紀元前6世紀のアテナイの僭主ペイシストラトスのこと
アルキビアデスの生き様、特に気位が高く譲ることの出来ぬ性格が忌み嫌われていたのは先に彼の伝記に載せておいた※1。一方ニキアスはといえば、貯めに貯めた財産が人々の妬みを刺激したうえ、同胞と生活を共にしようとせぬ社会性に乏しい態度が幾度となく庶民の反発を産んでいた。また彼らの欲望や感情を軽視して、全体の利益になることを理性的に粛々と進めようとしたため、煙たがられることもしばしばだった。単純に言ってしまえば、これは好戦的な若者と年よりの平和主義者たちの諍いであって、両党はいままさに互いを蹴落とし、追い出そうと身構えたのである。
「国乱れんとして悪漢名を馳せる」という言葉があるが、二大派閥が睨み合うアテナイ市では、無礼で放縦きわまる連中が幅をきかせるようになっていた。その代表がペリトイダイ区のヒュペルボロスである。彼は何の権威もまとわずただ傲慢な男として現れ、かえってその傲慢さによって権力をかすめ取り、彼が街で名を上げれば上げるほど、あべこべに街の名誉のほうが下がってゆくという仕末だった。
ヒュペルボロスは自分には追放刑などどこ吹く風で、奴隷のように絞り首にされるのが精々だと悟っていたから、ニキアスとアルキビアデスの一方が排除されれば、残るもう一人の対抗馬として出世できるに違いないと考えた。そこでふたりの不和を大いに喜び、対立の炎に油を注ぐように公然と大衆を焚きつけた。
見え透いた邪悪をまえにニキアスとアルキビアデスは水面下で手を結び、一時的に団結することで合意した。すなわち陶片を投じるあいてをお互いではなくヒュペルボロスに一本化したのである。
予想外の結果にアテナイ市民はよろこび、大笑いして歓迎した。しかし後になって、無価値な人間のために大切な掟を用いたのは屈辱的なことではないかと言い合った。刑罰にはそれ相応の格というものがあり、陶片追放はトゥキュディデスやアリステイデスなどの名士にふさわしいと思われていたのである。
むしろ得をしたのはヒュペルボロスの方だった。彼にとってこの罰は、過去の優秀な政治家と同じ土俵に立ったという誉れであるから、より一層大きな顔をするようになった。喜劇詩人プラトン※2は彼を評してこういう。
――あいつにはこの運命がお似合いだ、みんな異存はあるまい。だが運命にしてみりゃたまったもんじゃない。あんな奴に烙印を押してやるために、土器が生まれた訳ではないんだぞ――
陶片による追放刑は、あの僭主※3の子であるコラルゴス区のヒッパルコスが第一号であったが、このヒュペルボロス以後、二度と行われることはなかった。
運命というものは不確実で、後知恵で何を言っても虚しいのだが、もしニキアスがアルキビアデスと四つに組み、どちらかの追放をみるまで危険をとり続けていたならば、と考えずにはいられない。彼が勝利してアルキビアデスを街から追い出せれば結構なことだし、あるいは打ち負かされたとしても、“最も優れた指導者”という名声を保ったまま、これから待ち受ける最悪の結末を避けることが出来たのだろうから。
なおテオフラストスは、この追放劇のさいにアルキビアデスと争っていたのはニキアスではなくファイアクスだと書いている。私とて知らないわけではないが、史家の大半はこの説を採らないのである。
※1:プルタークは英雄伝の別章でアルキビアデスの伝記も書いている
※2:有名な哲人プラトンとは別人
※3:紀元前6世紀のアテナイの僭主ペイシストラトスのこと
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