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8.熱狂と不安
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アイゲスタとレオンティノイから使者がやって来て、アテナイ軍をシチリアへ呼び込もうとしたとき、ニキアスは断固として遠征に反対したのだったが、またしてもアルキビアデスの野心に押し切られてしまった。
アルキビアデスは集会が開かれる前に根回しを済ませており、楽観的な見通しを並べたてられた民衆はすっかり彼の支持者になっていた。若者たちは運動場で、老人らは作業場や休憩所に座り込んで、みな地面に描かれたシチリア島の形や周囲の海図、それにリビュアに面した港湾の地勢などに食い入るように群がった。気を大きくした彼らは、もはやシチリア島は最終目標ではない、とまで考え始めた。島はあくまで一個の作戦基地に過ぎず、そこを出てカルタゴと雌雄を決したあとはリビュアも攻め取って、ヘラクレスの柱※1からこちらの海洋をことごとくアテナイの庭にしようと言い合ったのである。
大衆はあらかたこの調子で鼻息が荒かったため、ニキアスは対抗しようにも、支持層にすら影響力を発揮できなかった。もちろん金持ちや名士のなかには反対意見もあったのだが、わが身可愛さで戦費や船の供出を拒んでいると見なされるのを恐れ、みな押し黙ってしまったのだ。
それでもニキアスは諦めなかった。民会が開戦を決議して彼を総大将に選び、アルキビアデスやラマコスを将軍としてつける旨を言い渡した時でさえ、ふたたび公共広場に集った大衆をまえに決然と立って抗議し、みなに翻意をうながした。さらにはアルキビアデスを指して、「欲望と野心のおもむくままに海外にうって出て、アテナイを国難に引きずり込もうとしている」と批判を浴びせた。
結論からいえば、それは全くの無駄骨であった。実戦経験ゆたかなニキアスは誰よりも適任だとされ、彼が慎重論を唱えれば唱えるほど、「アルキビアデスの勇気とラマコスの荒々しさに、ニキアスの用心深さを加えればちょうど釣り合いがとれて安全だ」と余計人々の確信が深まっていくのだった。大衆煽動者の中心人物で遠征派の急先鋒たるデモストラトスは演壇に立ち、「事ここに至っては、もう逃げ口上はご勘弁願いたい」とニキアスをさとした。そして良いと思ったことを即断即決できるよう、将軍たちに国内外での絶対的権力を与えて欲しいと言い出したが、民衆はこの法案も可決してしまった。
勿論はっきりと遠征に反対した勢力もあった。神官たちである。ところがアルキビアデスは勝手に他所から占い師を連れてきて、さまざまな予言のあるなかで“アテナイ人はシチリアにて大いなる誉れを勝ち得る”という昔からの言い伝えだけを紹介させた。
さらに彼を喜ばせたのは、さきに派遣してあった使いがアンモンの神殿より“アテナイ人はすべてのシラクサ人を捉えるであろう”という託宣を持ち帰ったことである。――じつは正反対の神託も一緒に下されていたものを、使者たちが不吉を恐れて黙っていたに過ぎなかったのだが。
それどころか、ヘルメス神像の破壊のような誰の目にも明白きわまりない凶兆でさえ、遠征に対する大衆の熱狂を冷ますことは出来なかった。これはある時、一夜にして街じゅうのヘルメス像の陰部が、何者かに切断された事件である。唯一被害を免れたのは、アンドシデス邸の前にあるアイゲイス族が納めた石像――それゆえアンドシデスのヘルメスと呼ばれていた――のみであった。
さらに人々を不安にしたのは、十二神をまつる社で起きた一件である。とつぜん見知らぬ男が祭壇に飛びついて跨がり、鋭利な石で自分の男根を切り落としてしまったのだ。
同様の事件はデルフォイでも起きていた。かの地には黄金のアテナの像があったが、それはアテナイ人がペルシアを破った際※2に得た財宝から造ったものだった。女神像は来る日も来る日もカラスについばまれ、側に立てられた真鍮製の椰子をかざる果実も餌食になって、片端から地に落ちてしまった。ところが報告を聞いたアテナイの民衆は、シラクサに買収されたデルフォイがでっち上げた作り話に違いないとして、皆目とり合おうとしなかった。
またある神託が、クラゾメナイからアテナの巫女を呼んでくるよう命じたが、やって来た女は名を問われて“しずか”と答えた。これこそアテナイよ平静であれ、との神意ではなかったろうか。
天文学者のメトンは遠征軍の指揮官のひとりであったが、数々の予兆に恐れをなしたか、それともあくまで人としての理性から派兵に懐疑的だったのか、気が触れたふりをして自らの屋敷に火を放った。異説によると彼は狂気を演じたのではなく、夜のうちに自邸に火をつけると、翌朝の集会にうなだれた姿をみせて「どうか我が家の災難に免じて、息子だけは軍役から解放してほしい」と市民に向かって懇願したという。彼の子もまたガレー船の艦長としてシチリア攻めに加わる予定であった。
哲人ソクラテスはたびたび精霊と交信することがあったが、この時も遠征によってアテナイは衰亡の極みに達するであろう、との啓示を受けていた。彼はこのお告げを親しい友人らに伝え、友人らはまた別の友に伝え、いつしか多くの人の知るところになった。
またシチリアへゆく艦隊が出帆したのが、ちょうどアドニスの死を弔う祭※3と重なったため、少なからぬ人々が不安を感じた。女性らが胸を叩きながら死せるアドニスの像を運んで回るすがたを見た中で、わずかでも戦に関心がある市民は、言い知れぬ怖気に襲われたことだろう。――輝かしい栄光も、戦いへの備えも、アテナイの絶頂とともに一瞬にして崩れ去り無に帰ってゆくのではあるまいか――と。
※1:いまのジブラルタル海峡のこと
※2:ペルシア戦争のこと
※3:女神アフロディーテの愛人である美少年アドニスの死を悼む祭
アルキビアデスは集会が開かれる前に根回しを済ませており、楽観的な見通しを並べたてられた民衆はすっかり彼の支持者になっていた。若者たちは運動場で、老人らは作業場や休憩所に座り込んで、みな地面に描かれたシチリア島の形や周囲の海図、それにリビュアに面した港湾の地勢などに食い入るように群がった。気を大きくした彼らは、もはやシチリア島は最終目標ではない、とまで考え始めた。島はあくまで一個の作戦基地に過ぎず、そこを出てカルタゴと雌雄を決したあとはリビュアも攻め取って、ヘラクレスの柱※1からこちらの海洋をことごとくアテナイの庭にしようと言い合ったのである。
大衆はあらかたこの調子で鼻息が荒かったため、ニキアスは対抗しようにも、支持層にすら影響力を発揮できなかった。もちろん金持ちや名士のなかには反対意見もあったのだが、わが身可愛さで戦費や船の供出を拒んでいると見なされるのを恐れ、みな押し黙ってしまったのだ。
それでもニキアスは諦めなかった。民会が開戦を決議して彼を総大将に選び、アルキビアデスやラマコスを将軍としてつける旨を言い渡した時でさえ、ふたたび公共広場に集った大衆をまえに決然と立って抗議し、みなに翻意をうながした。さらにはアルキビアデスを指して、「欲望と野心のおもむくままに海外にうって出て、アテナイを国難に引きずり込もうとしている」と批判を浴びせた。
結論からいえば、それは全くの無駄骨であった。実戦経験ゆたかなニキアスは誰よりも適任だとされ、彼が慎重論を唱えれば唱えるほど、「アルキビアデスの勇気とラマコスの荒々しさに、ニキアスの用心深さを加えればちょうど釣り合いがとれて安全だ」と余計人々の確信が深まっていくのだった。大衆煽動者の中心人物で遠征派の急先鋒たるデモストラトスは演壇に立ち、「事ここに至っては、もう逃げ口上はご勘弁願いたい」とニキアスをさとした。そして良いと思ったことを即断即決できるよう、将軍たちに国内外での絶対的権力を与えて欲しいと言い出したが、民衆はこの法案も可決してしまった。
勿論はっきりと遠征に反対した勢力もあった。神官たちである。ところがアルキビアデスは勝手に他所から占い師を連れてきて、さまざまな予言のあるなかで“アテナイ人はシチリアにて大いなる誉れを勝ち得る”という昔からの言い伝えだけを紹介させた。
さらに彼を喜ばせたのは、さきに派遣してあった使いがアンモンの神殿より“アテナイ人はすべてのシラクサ人を捉えるであろう”という託宣を持ち帰ったことである。――じつは正反対の神託も一緒に下されていたものを、使者たちが不吉を恐れて黙っていたに過ぎなかったのだが。
それどころか、ヘルメス神像の破壊のような誰の目にも明白きわまりない凶兆でさえ、遠征に対する大衆の熱狂を冷ますことは出来なかった。これはある時、一夜にして街じゅうのヘルメス像の陰部が、何者かに切断された事件である。唯一被害を免れたのは、アンドシデス邸の前にあるアイゲイス族が納めた石像――それゆえアンドシデスのヘルメスと呼ばれていた――のみであった。
さらに人々を不安にしたのは、十二神をまつる社で起きた一件である。とつぜん見知らぬ男が祭壇に飛びついて跨がり、鋭利な石で自分の男根を切り落としてしまったのだ。
同様の事件はデルフォイでも起きていた。かの地には黄金のアテナの像があったが、それはアテナイ人がペルシアを破った際※2に得た財宝から造ったものだった。女神像は来る日も来る日もカラスについばまれ、側に立てられた真鍮製の椰子をかざる果実も餌食になって、片端から地に落ちてしまった。ところが報告を聞いたアテナイの民衆は、シラクサに買収されたデルフォイがでっち上げた作り話に違いないとして、皆目とり合おうとしなかった。
またある神託が、クラゾメナイからアテナの巫女を呼んでくるよう命じたが、やって来た女は名を問われて“しずか”と答えた。これこそアテナイよ平静であれ、との神意ではなかったろうか。
天文学者のメトンは遠征軍の指揮官のひとりであったが、数々の予兆に恐れをなしたか、それともあくまで人としての理性から派兵に懐疑的だったのか、気が触れたふりをして自らの屋敷に火を放った。異説によると彼は狂気を演じたのではなく、夜のうちに自邸に火をつけると、翌朝の集会にうなだれた姿をみせて「どうか我が家の災難に免じて、息子だけは軍役から解放してほしい」と市民に向かって懇願したという。彼の子もまたガレー船の艦長としてシチリア攻めに加わる予定であった。
哲人ソクラテスはたびたび精霊と交信することがあったが、この時も遠征によってアテナイは衰亡の極みに達するであろう、との啓示を受けていた。彼はこのお告げを親しい友人らに伝え、友人らはまた別の友に伝え、いつしか多くの人の知るところになった。
またシチリアへゆく艦隊が出帆したのが、ちょうどアドニスの死を弔う祭※3と重なったため、少なからぬ人々が不安を感じた。女性らが胸を叩きながら死せるアドニスの像を運んで回るすがたを見た中で、わずかでも戦に関心がある市民は、言い知れぬ怖気に襲われたことだろう。――輝かしい栄光も、戦いへの備えも、アテナイの絶頂とともに一瞬にして崩れ去り無に帰ってゆくのではあるまいか――と。
※1:いまのジブラルタル海峡のこと
※2:ペルシア戦争のこと
※3:女神アフロディーテの愛人である美少年アドニスの死を悼む祭
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