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15.アテナイ軍潰滅
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アテナイ勢はその夜のうちに、闇にまぎれ逃げ去ろうと考えた。さてシラクサ兵はといえば生贄をささげ勝利の美酒にすっかり酔いしれていた。これを目にしたギュリッポスと僚友たちは、さかんに激励をし発破をかけ、力ずくでも退却中のアテナイ兵を追撃させようと必死になったが、彼らの祭日気分を覆すことは叶わなかった。
いっぽうヘルモクラテスはひそかに敵を騙すための詭計を整えていた。手の者を何人かアテナイの陣営にやり、かねてより気脈を通じている情報提供者のふりをさせたのである。彼らはこう忠告してまわった――この先の街道はどこもシラクサの伏勢がいるから、夜のあいだは動かぬのがよい――と。
まんまと策にのせられたニキアスが時を浪費するうちに、恐れていた敵兵の存在がいよいよ現実となって牙をむくことになってしまった。翌朝になるとシラクサ勢は先まわりして谷すじを占拠し、渡河のできる処は守りを固め、橋は落とし、開けた土地には騎兵をはなち……もはやアテナイ勢が戦を避けて通れる場所は寸土も残らなかったのである。
その日は踏み止まって、もうひと晩が明けたころようやく出発となった。物資の欠乏甚だしく、起き上がれぬ友や仲間を見捨てゆく心苦しさ、嘆かわしさのゆえか、一行のすがたは敵地を離れるというよりは、祖国を後にする者かと見まごう程だった。それでもいま味わっている災難は、これから起こる災難よりまだましだろうと思われた。
敗兵の惨めさとは様々であり、それはアテナイの営内も変わりなかったが、なかでも哀れをとどめたのは他ならぬニキアス自身であった。病に冒され疲れきった彼の状態からすれば、まともな者より多くの援けや補給が要ったにもかかわらず、将軍に相応しからぬ最低限の糧食に耐えしのび、しかも健康な兵士らにも優る働きをしてみせたのである。
しかもこの労苦は命惜しさにやるのでなく、部下たちのため希望を捨てずに行われたことは明白である。じっさい周りの者らは恐怖にまみれて泣き悲しんだが、彼が涙をみせるときはいつもこの遠征から得られるはずだった光り輝くような成功と、うらはらな恥辱に塗れた結末を思っていたのであった。
いまやニキアスの哀れな姿を見、彼が開戦を止めようとして尽くした数々の演説や説得を思い起こして、運命の理不尽を呪わぬものはなかった。さらにはこれほど神意を重んじ、敬神の心に一点の偽りもない男が、兵卒のなかでもっとも卑しい者と変わりないほどの目にあっているとなれば、誰もがもう神への信頼さえかなぐり捨てんばかりだった。
ニキアスはそれでも声や表情、それに態度を曇らせず、襲いかかる不運に屈服していないことを示そうとした。道中8日にわたって絶え間なく敵からの攻撃を受けつづけ、何度も手傷を負いながら彼の軍勢はなお陣形を崩さなかったが、ついに後続のデモステネスの部隊がポリュゼノス屋敷の近くで取り囲まれ、奮戦むなしく捕らわれてしまった。
デモステネスは剣を抜いて自殺をはかったが、致命に至らぬうちに敵兵に組みつかれ果たせなかった。ニキアスはシラクサ騎兵の口からこのことを聞き、こちらからも騎兵を遣って僚友が敗北した事実を悟ると、いよいよ観念してギュリッポスに降伏を申し入れた。アテナイ軍はシチリアから残らず撤兵すること、シラクサがこうむった戦費を肩替わりすること、その支払いまで人質を置いていくこと――などが条件であった。
ところが優勢のシラクサ人はもはや提案に耳を傾けようとはせず、さかんに威嚇して罵声をあびせ、怒りと軽蔑を込めて丸はだか同然の軍隊にひたすら矢弾を放った。ニキアスは巧みに兵を率いて昼夜をわかたず行軍をつづけ、あくる日には矢が雨と降りしきるなかをアシナロス川の滸まで退いたが、到頭そこで敵勢につかまった。
川へ追い落とされた者はまだ幸い、他の兵たちは渇きに耐えかねて自ら飛び込み、必死に水を飲むうち敵に撫で斬りに殺されてゆくという、酸鼻きわまる虐殺劇が繰り広げられた。ニキアスはギュリッポスの前にひれ伏して哀願した。
「ギュリッポスよ、あなたは勝った。どうか情けを知って剣を収めてくだされ。かつて栄光を一身に受けた私のためではない、他のアテナイ人のためにだ。勝敗の定めは人知の及ぶところではない。アテナイは強勢に恵まれたとき、あなた方に対して穏やかに勝者の権利を用いたことを、お忘れではあるまいに」
ニキアスの姿と言葉は、ギュリッポスを少なからず動揺させた。さきの和平においてラケダイモン人がニキアスから受けた温情を覚えていたからである。それにアテナイの最高指揮官を生け捕りにして帰れば、この上ない名声をもたらすことは疑いない。彼は敬意をもってニキアスを迎え、「もう心配はいらぬ」と励ましながら、部下には敗残者の命を助けるよう指令した。
戦のさなかに命令が隅々まで伝わるには時がかかる。結局殺戮された者の数は捕えられた数よりはるかに夥しかった。いや、生き延びたなかでさえ敵兵に拐かされる者が後を絶たなかったのである。
捕虜たちは見世物のようにひと処によせ集められた。勝利者は没収された武具や分捕品を川岸の大木に残らずぶら下げると、頭には花冠をかぶり、自分の馬は美々しく飾り付けるかたわら、敵の馬は立て髪も尾も短く刈り取って街まで引いていった。これがギリシャ人のあいだで行われた最も目覚ましい争いと言われ、シラクサが比類ない勇気と武威をもって完勝を収めるに至った、シチリア島の戦いの顛末である。
いっぽうヘルモクラテスはひそかに敵を騙すための詭計を整えていた。手の者を何人かアテナイの陣営にやり、かねてより気脈を通じている情報提供者のふりをさせたのである。彼らはこう忠告してまわった――この先の街道はどこもシラクサの伏勢がいるから、夜のあいだは動かぬのがよい――と。
まんまと策にのせられたニキアスが時を浪費するうちに、恐れていた敵兵の存在がいよいよ現実となって牙をむくことになってしまった。翌朝になるとシラクサ勢は先まわりして谷すじを占拠し、渡河のできる処は守りを固め、橋は落とし、開けた土地には騎兵をはなち……もはやアテナイ勢が戦を避けて通れる場所は寸土も残らなかったのである。
その日は踏み止まって、もうひと晩が明けたころようやく出発となった。物資の欠乏甚だしく、起き上がれぬ友や仲間を見捨てゆく心苦しさ、嘆かわしさのゆえか、一行のすがたは敵地を離れるというよりは、祖国を後にする者かと見まごう程だった。それでもいま味わっている災難は、これから起こる災難よりまだましだろうと思われた。
敗兵の惨めさとは様々であり、それはアテナイの営内も変わりなかったが、なかでも哀れをとどめたのは他ならぬニキアス自身であった。病に冒され疲れきった彼の状態からすれば、まともな者より多くの援けや補給が要ったにもかかわらず、将軍に相応しからぬ最低限の糧食に耐えしのび、しかも健康な兵士らにも優る働きをしてみせたのである。
しかもこの労苦は命惜しさにやるのでなく、部下たちのため希望を捨てずに行われたことは明白である。じっさい周りの者らは恐怖にまみれて泣き悲しんだが、彼が涙をみせるときはいつもこの遠征から得られるはずだった光り輝くような成功と、うらはらな恥辱に塗れた結末を思っていたのであった。
いまやニキアスの哀れな姿を見、彼が開戦を止めようとして尽くした数々の演説や説得を思い起こして、運命の理不尽を呪わぬものはなかった。さらにはこれほど神意を重んじ、敬神の心に一点の偽りもない男が、兵卒のなかでもっとも卑しい者と変わりないほどの目にあっているとなれば、誰もがもう神への信頼さえかなぐり捨てんばかりだった。
ニキアスはそれでも声や表情、それに態度を曇らせず、襲いかかる不運に屈服していないことを示そうとした。道中8日にわたって絶え間なく敵からの攻撃を受けつづけ、何度も手傷を負いながら彼の軍勢はなお陣形を崩さなかったが、ついに後続のデモステネスの部隊がポリュゼノス屋敷の近くで取り囲まれ、奮戦むなしく捕らわれてしまった。
デモステネスは剣を抜いて自殺をはかったが、致命に至らぬうちに敵兵に組みつかれ果たせなかった。ニキアスはシラクサ騎兵の口からこのことを聞き、こちらからも騎兵を遣って僚友が敗北した事実を悟ると、いよいよ観念してギュリッポスに降伏を申し入れた。アテナイ軍はシチリアから残らず撤兵すること、シラクサがこうむった戦費を肩替わりすること、その支払いまで人質を置いていくこと――などが条件であった。
ところが優勢のシラクサ人はもはや提案に耳を傾けようとはせず、さかんに威嚇して罵声をあびせ、怒りと軽蔑を込めて丸はだか同然の軍隊にひたすら矢弾を放った。ニキアスは巧みに兵を率いて昼夜をわかたず行軍をつづけ、あくる日には矢が雨と降りしきるなかをアシナロス川の滸まで退いたが、到頭そこで敵勢につかまった。
川へ追い落とされた者はまだ幸い、他の兵たちは渇きに耐えかねて自ら飛び込み、必死に水を飲むうち敵に撫で斬りに殺されてゆくという、酸鼻きわまる虐殺劇が繰り広げられた。ニキアスはギュリッポスの前にひれ伏して哀願した。
「ギュリッポスよ、あなたは勝った。どうか情けを知って剣を収めてくだされ。かつて栄光を一身に受けた私のためではない、他のアテナイ人のためにだ。勝敗の定めは人知の及ぶところではない。アテナイは強勢に恵まれたとき、あなた方に対して穏やかに勝者の権利を用いたことを、お忘れではあるまいに」
ニキアスの姿と言葉は、ギュリッポスを少なからず動揺させた。さきの和平においてラケダイモン人がニキアスから受けた温情を覚えていたからである。それにアテナイの最高指揮官を生け捕りにして帰れば、この上ない名声をもたらすことは疑いない。彼は敬意をもってニキアスを迎え、「もう心配はいらぬ」と励ましながら、部下には敗残者の命を助けるよう指令した。
戦のさなかに命令が隅々まで伝わるには時がかかる。結局殺戮された者の数は捕えられた数よりはるかに夥しかった。いや、生き延びたなかでさえ敵兵に拐かされる者が後を絶たなかったのである。
捕虜たちは見世物のようにひと処によせ集められた。勝利者は没収された武具や分捕品を川岸の大木に残らずぶら下げると、頭には花冠をかぶり、自分の馬は美々しく飾り付けるかたわら、敵の馬は立て髪も尾も短く刈り取って街まで引いていった。これがギリシャ人のあいだで行われた最も目覚ましい争いと言われ、シラクサが比類ない勇気と武威をもって完勝を収めるに至った、シチリア島の戦いの顛末である。
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