抄編 水滸伝

N2

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第10回 楊志、みやこ大路で刀を売ること

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「梁山泊ですか。拙者もなまえだけは聞いたことがある」と林冲。
柴進、「あまり乗り気になれないのはわかります。あなたは真面目なかた、いちどお国のろくをはみながら山賊に落ちぶれるのはお嫌でしょう。しかし、こたびの一件はみな殿帥府から出たはかりごと。官があなたをいらぬというのだから、あなたが官を見限っても、世間のだれが文句を言うでしょう」
ようやく決心のついた林師範、柴進から推薦状を書いてもらい、官憲の追捕ついぶをうまくかいくぐって一路済州さいしゅうへといそぎます。


おりからの悪天候、川どめ、難所ごえに苦しみながらようやく湖のほとりまでやって来ましたが、雪が強くふって進めません。困っているところ、ちょうどいい場所に赤ちょうちんがぶら下がっております。淡墨うすずみのような空に一面の銀世界、そのなかにたたずむ一軒の居酒屋、まこと絵に描いたような趣きです。
「ご免、酒とめしをくれ」
こんな天気ですから、お客は林冲ひとりです。牛肉をつつきながら、「つかぬことを尋ねるが、ここから梁山泊まではどうやっていけばよい?」
「あすこは湖中のはなれ島。陸路はございませんから、小舟になりますよ。でもこの雪じゃあ、船頭もウンと言わねえでしょうな」
「ここまで来ておいて待ちぼうけか」追っ手が心配ではやくいきたい林冲、どうも落ちつきません。手持ちぶさたをまぎらわそうと、お酒のちからも借りて酒屋の白壁に自作の詩を書きつらねました。

おれは林冲 天下の義士
ひと柄たるや “忠”そのもの
やくざ世界じゃ 少しは知られ
英雄、豪傑 みな友人
ところが一変 浮き草人生
立てた功名 どこいった
ふたたび武勇 見せなんときは
山東さんとう一帯 なぐりこみ

なかなか面白いうたになったとひとり満足していると、とつぜん店主がガバと武者ぶりついてきました。
「おたずね者の大罪人林冲、ここにいたか!」
「ひと違いでしょう、わたしは張というものです」
「わかりやすい嘘をつくな!いまその詩で自己紹介しただろうが」
「ううむ、おれが本物の林冲だとして、あんたどうするつもりだ」
「知れたこと。おまえさんにかかった賞金三千貫をいただくのさ」
「それは本心ではないだろう。賞金首が目当てなら、有無をいわさず斬りかかればよい」
ここで男はぱっと飛びのき、仁義をきって挨拶します。
「ようこそおいでくだすった。あっしは朱貴しゅき、居酒屋のあるじは世をあざむく顔で、じつのすがたは梁山泊の頭目。ひと呼んで“旱地忽律かんちこつりつ(陸にあがったワニ)”。ここにひそんで見張り番をしておりやす。槍、棒の天才林師範が来てくださるとは心づよい。すぐに首領におつなぎします」
おもてに出ると彼方のお山に向かってかぶら矢を放ちます。ピョーッという音が雪夜の闇に吸い込まれていきますと、葦のしげみの向こうから、たちまち一そうの小舟が現れました。梁山泊からのお迎えです。

さてこの梁山泊というところ、東西南北百里ばかりの巨大な水郷で、そのなかほどに突き出た島のうえにとりでをいくつも構え、七百人ほどの荒くれ者がたむろしております。首領は王倫という男で、学のないのが多い連中のなかにあって、科挙に挑戦していいとこまで行ったというインテリくずれのやくざ者。ひとさまからは“白衣秀士びゃくえしゅうし”と呼ばれています。
王倫、目のまえの林冲をみてこう思います。
「俺たち七百人、近所を荒らしまわって好き放題に暮らすにゃもうじゅうぶんな数、しょうじき言ってこれ以上でかくはなって欲しくない。それを柴の旦那め、よけいなやつを押し付けてくる。しかも天下に聞こえた林師範、うっかり仲間に入れちまえばいつか俺の後がまを狙うにちがいねえ。したが推薦状がある以上、なにも持たせず門前ばらいはできぬ。さてどうしたもんか」
白衣秀士、コホンとせき払いをして話しはじめます。
「柴進どのはむかし、わしが科挙に落ちて貧乏していたおりに資金援助をしてくだすった立派なおかた。その頼みゆえお聞きしたいのはやまやまですが、申し訳ないことにいまとりでは兵糧不足。貴殿を満足に食わすことができぬ。路銀をたんと渡すので、ほかをあたってはくださらんか」
「それはこまる。拙者は無実の罪で全国ひろく指名手配、もうどこにも身の置き場がござらん。どうかここの末席に加えていただきたい」
「そこまでいうなら“入山試験”を受けてもらうことになるが」
「なんでもやりましょう」
「ルールは簡単。いまから三日以内にふもとの街道で人をおそい、その首を持ってくること。三日を過ぎればそのまま帰ってもらいます」
さっそく山を降りた林冲、対岸の街道すじでじっと旅の商人を待ちますが、一日たっても二日たっても人っこひとり現れません。
「ああ天はこの林冲を見放したか。たのむ、誰でもいいから通りかかってくれ……!」
ちょうどそのとき、木立の切れ目から編笠かぶった旅の男が、足ばやに近づいてくるのが見えました。「しめた!」と林師範、無言で旅人に斬りかかります。向こうも長巻ながまきを抜いて応戦しますが驚いたことにかなりの手だれ、たちまち丁々発止ちょうちょうはっしの打ちあいとなりました。
「馬鹿な山賊め!虎のひげに触るとは、返り討ちにしてやる!」
旅人はどんどん刀を繰りだしてきます。編笠の破れめから青あざの顔がのぞく、野生的な男ぶりです。
「えらく強いな、どこの武芸者だ」と林冲、しかし手をゆるめる訳にはいきません。ふたりの豪傑の闘いは龍と虎の一騎討ちのよう、木々のあいだを飛び回って、いつ果てるともなく続くかに思われました。
「またれよご両人!」
遠くのほうから声がします。みれば王倫、手下をつれてふたりの闘いを見物していたのです。
「林師範、あなたに二心がないことは良くわかった。梁山泊の仲間に加えよう。さあとりでに引き上げようではないか、そこの豪傑もどうかご一緒に」

林冲と互角の手なみを持つ男は、しずかに口をひらきます。
「わたしは楊志ようしと申すもの。三代つづく武門の家で、みやこで軍人をやっていました。数年前にみかどが大庭園をご造営のおり、庭石を遠く南方から運ぶお役目をおおせつかったのですが、ようやく黄河のあたりまで来たところで大あらしにい船が転覆、石が失われてしまいました。手ぶらで戻れば罪に問われる、そこでしばらく身を隠し、大赦たいしゃ(軽い犯罪ならゆるす)のお触れがでたのを幸い、ふたたび都にのぼって、上司に復職ねがいを出そうというわけです」
林師範、「そういや東京にいたころ、部署はちがうが青あざの武将“青面獣せいめんじゅう”のうわさを聞いたことがある。あなたがそうだったのか」
英雄は英雄を知る、豪傑ふたりいまはすっかり打ち解けて、たがいの身の上談義に花が咲きます。
王倫、こころのうちで「この青面獣てのも堂々たる面がまえだな。そうだ、虎いっぴきじゃ俺の手にあまるが、二匹いればおたがい牽制しあって下剋上を狙わんようになるのでは?」と考え、
「ケチをつけるわけではござらんが、そう上手く復帰できるかのう。林冲くんの受難をきくところ、軍部はいま高俅長官のいいなり。よっぽどコネでもないかぎり、とりあってもらえると思えない。どうだね楊志どの、ひとつここに留まり、われらと一緒に気楽にくらすというのは」
とりでに引きとめにかかります。
林冲「なんだ王のやつ、俺のときはさんざしぶっておきながら、楊志は素どおしか」ムッとなりますが、ここはおさえて辛抱しました。
楊志かぶりを振り「お誘いかたじけないが、せっかく続いた武家の血筋をここで途絶えさすのもご先祖にわるい。伝手つてはないがいくばくかの金品ならある、まあやるだけやってみますよ」
丁重にことわって、ふたたび東京への路を急ぐのでした。
林冲は無事とりでの頭領のひとりとして迎えられ盗賊稼業にせいを出すのですが、この話しはいったんこれまで。


さてお話しは楊志にうつります。懐かしの東京開封城に帰ってきましたが、しばらくの間にみやこの空気は変わっておりました。官僚たちは権柄けんぺいずく、下級役人は上の顔色を見てびくびく、それというのも朝野につどうひとにぎりの政治家だけで、すべての人事を牛耳っていたからです。
当然そんなですから、多少おかねをばら撒いたところで復職なんてききません。やっとのことで高長官にお目通りしても、
「馬鹿ものが!だいじな庭石を水たまりに捨てておきながら、よくものこのこ戻ってきたな。罪を許してもらっただけでありがたいと思え!」
と取りつく島もありません。王倫のあて推量もあながち遠からず、といったところです。あきらめて故郷に帰ろうにもあり金をぜんぶ使ってしまったので路銀もなし、いよいよ困りはててしまいました。
「仕方ない、武士のたましいを売ろう」

数日後、こんなのぼりを持った青あざの男が、東京の盛り場をねり歩いておりました。
「名刀 売りマス 三千貫」
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