抄編 水滸伝

N2

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第9回 林冲、まぐさ場を焼かれて落草すること

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あわや林師範も落命のせとぎわ、というその刹那。ぶうん!と灰色したかたまりが飛んできて、頭上にかかげられた水火棍を叩き飛ばしてしまいました。「だれだッ!?」
答えのかわりに下手のほうから山のような大入道がのっしのっしとせまってきます。地面に突き立った錫杖をみて、林冲はすぐに正体がわかりました。
地獄に仏とはまさにこのこと、あの魯智深が友誼ゆうぎをわすれず助けに来てくれたのです。
とう、ふき飛んだ警棒はと見まわすも、これがいっこうに落ちてきません。遠くの木の枝にひっかかったか、あるいは雲霄そらの彼方へいってしまったか。役人どもはあっけに取られてむかえ撃つ気力もなくしてしまいました。
智深戒刀をひきぬくと、雷のような声で怒鳴ります。「三下さんした役人ども、たたっ斬ってやる!」ふるえあがる董とせつ
「和尚、お怒りはごもっともながら、どうか血を流さんでくだされ。こいつらはただ言われたことをやったまで」
「林師範が許すちゅうんなら、ワシも好んで殺生するつもりはないが。ああ!それにしても宮仕えとはけったいなもんよ」
命びろいをした役人ふたり、花和尚にすごまれて「もう二度と襲いません」と誓います。董は林冲をおぶり、薛はぜんいんの荷物を持たされて、主従あべこべになりながら北への旅をつづけました。

“殺すと決めたら血をみるまで、救うと決めたらとことんまで”ともうします。魯智深はあと数里で滄州というところまで着いて来てくれました。
林冲「ありがとう智深どの、もう大丈夫だ。これよりさきは城まで人家が続いている。よもやわが身に手出しはできまい」
「うむ、じゃあ拙僧は帰るとするか。おい、出来そこないども!」
「へ、へいッ」
「そこな砂よけの松の木と、おまえたちの頭の皿と、どっちが硬いと思うかね?」
「ご冗談を。わしらのオツムなんてちっぽけな骨を父母からもらった肉と皮が包んでるばかりで」
そこで花和尚、ふん!と錫杖をひとふりしますと、松の幹のなかほどが粉みじんにくだけ、真っ二つになってしまいました。ヘンな気をおこせばお前たちの頭がこうなるぞ、という脅しです。董と薛、肝を冷やしてものも言えません。
「林どの、どうかお達者で」魯智深、いまきた道をゆうゆう帰ってゆきました。


滄州へのさいごの腹ごしらえに酒屋に入りますと、店主が気を利かせてくれます。
「あんた流刑さんだね。そんなら腹はすかせたまんまがええ。この近くにさいの大旦那って名望家がいらっしゃる。世話ずきで貧乏罪人に良くしてくれるから、寄り道してくと懐があったかくなるよ」
たずねてみると、果たして立派なお屋敷です。それもそのはず、主人あるじ柴進さいしん後周こうしゅう(宋のひとつ前の王朝)の皇族の末裔で、ご先祖が宋国初代皇帝に国ゆずりの際に受けた大小さまざまな特権を、いまだ保持する名家ちゅうの名家でありました。
「あなたが高名な林師範。これはこれはようぞおいでくださいました。わたくしは柴進、このあたりでは“小旋風しょうせんぷう”などと呼ばれております。ぜひ数日、当家にご逗留ください」
柴の旦那は噂どおりの好人物です。董、薛にもたっぷり袖の下をあげましたから、林冲はふかふかの寝室でたっぷり休むことが出来ました。

さて翌々日。「ご好意に甘えつづけるのも心苦しい」と出立しようとした林冲に、こうという棒術使いが挑戦してきました。聞けば彼は柴家の食客しょっかくで、多くの弟子をひきいているとか。
「いや、せっかくだがお受けしかねる。拙者はいまは一介の罪人にすぎん」
「なんだ、怖気づくとは。みやこじゃ名の通った先生も大したことないな」
「どうとでも言いなされ」じつは林冲、洪師範を負かせば柴旦那の面目もつぶれるのでは、と遠慮しているのです。
それを感じとった柴進、「ぜひわたくしからもお願いします。両先生の勝負がみたい」
こうなっては林冲もひけません。仕方なく洪師範と対峙しましたが、数合せぬうちに「まいりました」と降参します。
「まだ遠慮されてるな」と思った柴旦那、「おお、気がつかなかった!林どのは枷をはめられておる。これでは対等な試合にならぬ」
枷まで外してもらった林冲、もう全力を出すしかありません。洪師範は必死で打ち込みますが、林師範は柳のように受け流し、何度も棒は空をうちます。あわてて足はこびが乱れたところをポンとすくうと、洪師範のからだは見事に空中で一回転、どさりとお尻から地に落ちました。
「なんたる妙技!」柴進おおいによろこび、餞別がわりにたくさん銀子ぎんすを持たせてくれました。


滄州の庁舎につきますと董、薛はお役ご免、任務をとかれて東京にかえります。
林冲はといえば、新入り罪人として牢城営ろうじょうえいという労役組織に送られます。
この牢城営、ようは人間界を煮つめた縮図でして、なかは上から下までございます。お金のないものは新入り初日から獄卒ごくそつに鞭でビシバシうたれてつらい労働ばかり、夜は監獄で雑魚寝ざこねです。ではわれらが林冲は?ご心配なく、柴の旦那が先回りしてたんまり付け届けを渡してくれたので、獄卒たちも刑務長も「やあ、よう来なさった」とまるでお客さまの様な対応です。割り当ての労務だって、しばらく毘沙門堂びしゃもんどうの管理人をやったあとは「まぐさ番」というアタリをもらえることになりました。
滄州はすぐ北に「りょう」という敵国があるために、軍馬の食糧であるまぐさの備えは大変だいじ。そのまぐさ置き場の番人のなにがアタリといって、普段はひまな仕事ながら、定期的にまぐさの受け取りをする際には小銭が稼げるということ。刑を受けながらお金が増えるなんて、他の労役じゃこうはいきません。

さっそく番小屋に入った林冲、ごろんと転がりひと息つきますが、季節はもう真冬、すきま風は冷たく、おまけに雪まで吹きこんできました。
「おお寒い。この小屋はだいぶ古いな、雪の重みに耐えられんだろう。しかたない、今日はそこの山神さまのおやしろで一夜をあかし、明日まちへ出て左官をさがそう。昔のひとも言っている。“飯はかきこむな、道はころぶな(なにごとも用心が肝心)“」

山神廟のとびらも雨戸も閉め、お酒を飲んで眠りに入った林冲でしたが、しばらくするとパチ……パチ……とものの焼ける音で目を覚ましました。窓からのぞくと、まぐさ場が真っ赤な炎につつまれています。
「しまった!小屋の囲炉裏いろりの火を消しわすれたか!?」青くなって外に飛び出そうとしたそのとき、お社のまえで誰かがはなす声が聞こえました。みやこなまりの三人組です。
「うまくいったでしょう。どうです、これで林冲もお陀仏ですよ」
「四方から点けてやりましたからね、どこへも逃げられやしません」
「この火の手だ、こんがり焼けてくれるだろう。すぐにもずらかりたいが、火勢が収まるのを待ってヤツの骨を二、三ひろっていこう。高長官に見せたら、出世は間違いなしだぞ」
なんと!軒下でべらべらと悪事を語っていたのは、かつて東京で林冲をだました陸謙とその手下なのでした。
林師範「これは神さまの助けか。偶然いのちを拾い、同時ににっくきかたきともめぐり合えるとは!」
槍をとり、お堂の扉をあけ放って飛び出るや大喝一声、「悪人ども、話しはすっかり聞いたぞ!」
「あっ林冲!」あわてふためく陸謙はひとまず置いて、逃げようとする残りふたりに追いすがり、背中からブスリと串刺しにします。
もどってくると陸謙、雪中にころんだままジタバタして「助けてくれ、お、おれは長官から頼まれただけで、なんも知らないんだ」
「俺とおまえは幼なじみで同僚どうし、事情を知らぬはずがない。わざわざ殺しに来ながら、よくも白々しい言い訳を考えたな。さあ、こいつを食らえ!」
ふところの短刀でグサリと心臓をひと突き、ああ小悪党陸謙、血の海のなかに沈んでいきました。

復讐とはいえすでに三人を殺し、結果的にまぐさ場も焼けてしまったうえは、ここでぐずぐずしていられません。
夜の明けきるまえに街をはなれ、ひとり雪原をさまよう林冲でしたが、ひと暴れして血がめぐったせいか、いまごろになって酒がきいてきたようです。頭は重く、足はフワフワ、ついにあつく積もった雪のうえで身動きとれなくなってしまいました。
「……あやしいヤツだ。ふんじばって旦那ンとこに連れてこう」そんな声がかすかに聞こえましたが、前後不覚の林冲にはなんのことやらわかりません。


ここちよく目覚めたときには、いずこかの納屋でがんじがらめにしばられておりました。
「これはいかん。このまま官憲につき出されては」絶体絶命かと思われましたが、「おや、林師範ではないですか」と知った顔があらわれました。なんという幸運、運びこまれたのは柴進のお屋敷だったのです。
柴旦那のところでしばらく厄介になった林冲、しかしここはまだ滄州のはずれ、いつ州軍の追及があるとも知れません。
「それならこうなさい。ここから南西にずいぶん行ったところ、黄河と淮水わいすいのあわいに梁山泊りょうざんぱくという場所があります。広大無辺の湖のなかに、山とも島ともつかぬものが生えてござる。葦原にひそめば捕吏ほりもこれを追いあぐね、とりでにこもれば官兵もこれを攻めきれません。ゆえに大唐のすえ、五代の乱世のころより天下に身をおけぬひとの隠れ家になってきたものです。あなたは当代随一の武芸者、迎えいれてもらえぬはずがない」
さて、次回いよいよ登場します梁山泊、いったいどんなところなのでしょう。
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