抄編 水滸伝

N2

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第8回 林師範、罪なくして罪を得ること

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「あっ、ありゃ豹子頭ひょうしとうのだんなだ!」ごろつきのひとりが気づいたようです。
「“豹子頭”ちゅうのはりん武術師範のあだ名でさ。あのひとが褒めるなんて、よっぽどのもんだよ」
花和尚が手招きすると、男は築地をひょいと飛び越えてやって来ました。おそろしく軽い身のこなしです。
「おはつにお目にかかります。拙者、姓はりん、名はちゅう。八十万禁軍きんぐん(国の主力軍隊)に棒術、槍術の稽古をつけております。家内と東岳廟もうでに来ていたのですが、歓声を聞きつけ参ってみれば、なんと精妙な御坊の腕まえ。思わずあいの手を入れてしまいました、どうかお許しあれ」
「いや、拙僧こそ大声あげてすまなかった、あなたが林師範か。幼いころ、いちどだけそこもとの父上にごあいさつしたことがある。ここで出会ったのも何かの奇縁かもしれんなあ」
“豪傑は豪傑を知る”とはこのこと、まみえたばかりのふたりは武芸談義に花が咲き、わずかな間にすっかりうちとけてしまいました。

ちょうどそのとき。「旦那さま!たいへん、たいへん!」女中さんが息せききって走ってきます。「奥さまがおたまやを出たところでヘンな奴らにからまれて……!」
「なにッ」と林冲、「申しわけないがお話しはいずれまた、失礼」会釈ひとつを残して、風のように駆け去っていきました。
「うーむ、じつにキップのいい男だ。天下はひろい」魯智深、いつまでも感心しておりました。

さてこちらは林冲、快足とばして五嶽廟ごがくびょうにやってくると、ちょうど男どもが林夫人を取り囲んで言い寄っている最中です。妙にナヨナヨした姿といい、上等な身なりを着くずした格好といい、どうやら名門の子弟のようです。「構うこたない、ガツンといってやろう!」と拳をふりあげ、リーダー格とおぼしき奴を引っつかまえて「この野郎、おれの女房になにをする!」
ところがどうしたこと。林冲のこぶしは下ろしどころを見失い、空中で震えているではありませんか。それもそのはず、捕まえた相手はなんと上司である高俅のやしない子だったのです。そうこうする間に往来はふたりを囲んで黒山のひとだかり。よもや上官の子を衆人環視しゅうじんかんしのど真ん中で殴れません。
「武士のなさけだ。今回だけはゆるしてやる!」

自邸に逃げかえったこうの若殿。寝ても覚めても林冲の妻のすがたがまぶたにチラついて離れません。そこに騒ぎを知った高俅からの呼び出しです。さぞや大目玉を食うものと首をすぼめていましたら、意外や意外、こんこんとさとすような物言い。
「わしももとは遊び人。若い時分はさんざワルをしたから世間のひとの恨みつらみはようわかる。よいか、人妻にけそうするのは大概にしておけよ、まずもってロクなことにはならん」
ところがそこは高俅の子、性根がいい加減ですから甘やかされればつけ上がります。
「ちがうよ父さま、今度ばかりは本気なんだ。おれは心からホレちまった。林の細君さいくんを嫁さんにしたい。たのむよ、林のやつを何とかして消しておくれ」
高俅「なにが本気なもんか」と内心思いましたが、可愛い養い子の頼みごと、しぶしぶ承知してしまいました。
「わかったわかった。馬鹿だなあおまえも。いや聞いてやるわしがいちばん親バカか。まあよいわ、林冲ごとき木っ葉役人、始末するのに造作ぞうさはない」

それから数日、林冲しごとの帰りみち。州橋のたもとで大げさに嘆く物売りの声がいたします。
「ここが人のあつまる大宋国のみやこだとはお笑いぐさ、天下にまことの武士がひとりもおらんとは!」
林師範ふと気になって、「でかいことを言うじゃないか、何をあつかっていなさるね?」
「よくぞ気づいてくれました。お売りしたいのはこの刀。しっかと見分くださいまし」
「では拝見」と、抜けば玉ちる氷のやいば、じつに素晴らしい刀身のさえ、刃文のうつくしさ。林冲いっぺんにとりこになってしまいました。「いや、じつにすごい。いくらです?」
「三千貫!といいたいとこだが、ウンと勉強して二千貫でいかが」
「一千貫に負けてくださらんか」
「一千五百。あとはビタいち負からんよ」
「たのむ一千貫。即金で払おう、な?」
「名刀だって言ってるのに、それじゃ地金じがねのたたき売り。えい、あっしも男だ、ようがす一千貫!」
こんな風なやり取りをへて、刀は林冲のものになりました。

すると不思議、つぎの日にはもう友人の陸謙りくけんが尋ねて来て、こう言うのです。
「高長官がおっしゃってたぞ。『林冲が良い刀を手に入れたとか。わしも宝剣をひと振り持っておるから、見せ合いっこしたいもんだ』と。おまえ今日は非番だろう、いまから行ってくるといい」
林冲「はて面妖めんような、ひとの噂は羽が生えるとはいうが、刀を買って一日で長官のお耳に入るもんかな?」といぶかりましたが、まさかはかりごととは露知らず、のこのこお役所へ登庁してゆきました。
お付きの士官にとりついでもらうと、見しらぬ建物に案内されて、「高長官を呼んでまいります」士官のほうはそれっきりプイといなくなりました。
刀をもって待ちぼうけの林冲「どうもおかしい」と豪華なしつらえの屋内を歩き回っていますと、正面の額にでかでかと『白虎節堂びゃっこせつどう』。
「あッ、やらかしたぞ」いそいで退出しようとしたところ、ばったり高俅とはち合わせ。
「こりゃ林師範、ここを何処だとわきまえおるか!白虎節堂は大臣たちの重要会議の間、おまえのごとき下っぱの入ってよい場所ではない。おまけに両手の刀はなんだ?さてはお主、わしを殺そうと潜んでおったな!」
「お待ちください長官、拙者はここに案内されて……」
「えい問答無用。それッひっくくれ!」
用意のよいこと、たちまち左右から飛び出た衛士えじに、林冲は高手小手たかてこてに縛りあげられてしまいました。


林冲へのお裁きがくだりました。「罪状軽からず。棒たたき二十、のち頬にいれずみをして滄州そうしゅうへ流刑」とのこと。立ち入り禁止違反にしてはどう見たって重すぎる刑罰ですが、それでも従わねばなりません。
あわれ林師範、愛する妻ともはなればなれ、とうせつというふたりの護送役人に連れられて北の果てへと向かいます。

滄州は渤海ぼっかい湾をのぞむまち、東京からは山あり谷あり、なかなかの道のりです。三人は朝はやくに宿を出て、夜もとっぷり暮れるまでただひたすらに歩く毎日。叩かれた背中のキズが痛みだし、豪傑林冲もすっかり参ってしまいました。
一行がちょうど野猪林やちょりんという難所にかかったころ。役人たちがこう言います。
「ああくたびれた、とくに今日は早起きが過ぎたなあ。どれこのへんで一服して、昼寝休憩でもとりたいもんよ」
「そうしましょう」と林冲。
「したがひとつ問題がある。わしらがウトウトしている隙に、あんたに逃げられちゃかなわない」
「ご覧のとおり枷はめられた身で、どうして自由が利きましょう。それに拙者も武士のはしくれ、一旦決まったお裁きを反故ほごにするようなマネはいたしません」
「いや、いや、信用ならん。あんたは豪傑、枷があっても油断はできぬ」
「そんなに用心なさるなら、そこの木にでも縛ってみたらどうです」
さあ役人ふたり、その言葉を待っていたとばかりに縄を出し、林冲のからだを大木にいましめてしまいました。
「まずい!」とさとった時にはもうおそく、董は六尺ほどもある水火棍すいかこん(特殊警棒)を振りかぶっておりました。
「待ってくれ、あんた等とおれ、もともと何の因縁がある。どうか見逃してくれ」
「すまんな流罪人、これもお役目。いまからきっかり一年後、一周忌の弔いだけはしてやるから恨んで出なさんなよ」
南無三宝なむさんぽう、さしもの英傑林冲の命もここまででしょうか?
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