抄編 水滸伝

N2

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第18回 武松、母夜叉のたくらみをかいくぐること

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武松はどうしても納得できません。近所の連中と言葉をかわせばみな型どおりのお悔やみを並べますが、どうも奥歯にものが挟まったような言い様です。
「やっぱり何かある。いったい誰に遠慮してるんだ?」

ほうぼう調べまわるうち、葬儀屋の何九叔かきゅうしゅくという男にいき当たりました。武松は彼を茶店ちゃみせにさそいます。
何九、聞かれることの察しがつくだけに、虎ごろしの男のまえでは生きた心地がいたしません。胸のなかは十五のつるべが乱れうち、かの呂后りょこう(漢代の残酷な独裁者)のうたげに千べん臨席したようです。
「ええ、ハイ、武大郎さんのおひつぎを焼いたのはわたしです。遺体をみたかって?……いや、その日はみょうに吐き気がするもんでして、手下に支度をやらせましたからなあ」
武松くわッとふたつの目をむき、匕首あいくちを抜きはなって机の上にトン!とつき立てました。
「ずいぶんと眠たい物言いじゃないか。よいかね、この武松、生来のそこつ者ではあるが借金とあだだけはキチンと返す主義なのさ。あんたは見たまんまを喋ってくれたらいいだけ。ただし嘘がひとつでもあったなら、三百は穴のあいた体になってもらうよ」
「わかりました、もう何もかもお伝えします。武大ぶだいさんのがらを拝見しましたが、顔は紫いろ、目鼻は血で真っ赤、下くちびるには歯がたがありました。これすべて猛毒に苦しんだ形跡です。おまけにこいつをご覧なさい、怪しいと思って焼き場から拾っておいたおこつです」
何九叔が取り出したのは毒薬がしみて真っ黒になった武大郎の骨でした。武松は肩をふるわせます。
「あとは下手人だ、さあ教えてくれ。あんた見当はついてるんだろ?」
「申しあげるには申しあげますが、二郎さん、相手が良くないのです。薬問屋くすりどんやの大旦那、成金なりきん西門慶さいもんけいをご存じですか。あいつと武大夫人とはいぜんから深い仲、この街で知らぬ者はおりません。ふたりは邪魔な武大さんを亡きものにして、夫婦めおとになろうと画策したんでしょう」
なんと、潘金蓮が西門慶の用意したヒ素を使って殺したという真相だったのです。

武松、ただちにこのこと役所に訴えますが、まったく相手にしてもらえません。西門慶がさきに上から下までたっぷり賄賂を使ったためです。
並のものならこのまま泣き寝いりでしょう。しかし武松という男は官を官とも思わぬところがありました。お上が恨みを晴らしてくれぬなら、と覚悟を決めたのです。


その日、西門慶は盛り場にある料亭の二階で、友人たちと昼間から呑んでおりました。
そこへ突然おどり込んできた大男。西門おどろいて「あっ!武二ぶじか、てめえ何しにきた」
「知れたこと。まずはこいつを見てもらおうか」右手にかかえた布包みからこぼれ出たのは、鮮血したたる潘金蓮の生っ首!武松は堂々かたき討ちにやって来たのです。
西門慶少々拳法をかじっていますから、相手が虎殺しの豪傑とて恐れません。右を撃つとみせかけてさっと左足で蹴あげれば、武松の手首に命中し刀は宙を舞って楼外に落ちます。ここで逃げておけば良いものを、敵にえものがないとみた西門、強気になって殴りかかります。しかし武松にとっては素手の組み打ちこそが十八番おはこ。たちまち形勢は逆転し、西門慶は頭上に抱えあげられてしまいました。
「さあ地獄へ落ちてゆけ!」
あわれ西門慶、二階から真っ逆さまに往来のなかに叩きつけられ、五体は砕けてその場で命をうしないました。
ふたりの首を大郎の位牌にお供えした武松、
「四十九日に間に合ってよかった、これで兄さんも安心して極楽へ行けるだろう。もう思い残すことはない」と自首して出ます。

県知事は困りはててしまいました。ひとを二人も殺せば重罪です。しかし役場には街のひとびとからの助命嘆願たんがんが山のように押し寄せました。みな西門慶の不正をにくたらしく思っていたのです。
役人たちも賄賂を受け取ってしまった身。ようはこのあだ討ちはおおやけの腐敗が遠因だと知っていますから居心地が悪い、けっきょく武松のお裁きには手こごろが加えられて孟州もうしゅう(河南省北部)へ流罪となりました。


孟州はみやこの近く、流刑地としては比較的マシなほうです。武松は清河の人びとからたっぷり餞別をもらって懐はゆたか。みちみち腹がへれば肉を食い、のどが乾けば酒を買い、といった具合で護送役人つれてのんびり旅を楽しんでおります。
ちょうど十字坡じゅうじはという辻に差しかかったころ、大きな老木によっかかる様に建つ一軒の飯屋が目にとまりました。
「あすこで腹ごしらえしていきましょうや」
店に入るとキップの良さそうなねえさんが迎えてくれます。
「旦那がた、お酒はいかほど?名物のお饅頭まんじゅうも出しましょうね」
武松、女主人と料理人たちの態度からはやくも「これはちとおかしいぞ」と勘が働きました。店の奥でコソコソとなにかを準備しているようなのです。「どれ、揺さぶりをかけてやれ」
「おい姐さん。ここの饅頭、アンは犬の肉かね?人の肉かね?」
「旦那、ご冗談を。うちは先代からずうっと牛肉饅頭ですよ」
「ほ。そうかい、最近ぶっそうだからなあ。いや道中こんな唄を聞いたことがあったからね」

たい、たい、大樹の十字坡じゃ 旅のみなさまお気をつけ
太っちょ饅頭の具になって 痩せたは川でどざえもん

女将おかみ、「面倒なやつ、さっさと殺してしまおう」と、熱燗あつかんのお酒を運んできます。
武松はここが仕掛けどき、
「すまん、も少しつまみを見つくろってくれ」
取りに行かせてる間にじぶんの酒を机の下に捨て、声をはり上げました。「うーん、うまい!」
声だけきいて飲んだと判断した姐さん、ニヤニヤしながら手をたたきます。「それそれ、くたばれ!」
ふたりの役人、あッと叫ぶやぐるぐると目を回して倒れます。そう、しびれ薬が入っていたのです。武松もわざとしびれたフリして寝っ転がりました。
「さあ黄牛あめうしいっぴき、水牛二匹のできあがり!おまえたち出番だよ!」
料理人ふたりは手際よく役人たちを奥の解体場へ運びこみます。が、どうしても武松の巨体が持ち上がりません。
「まったくおまえらときたら三べん呼んでも返事のできぬでくの坊。あたしが汗をながさにゃならぬ」
姐さん片肌ぬぎになってエイヤッとやりますと、大のおとこ幾人いくにんぶんもの力を発揮して、軽々と引き上げました。
そろそろ良いかと武松、ぱちりと目をあけ暴れはじめます。たちまち女は投げ飛ばされ、丸太のような足に踏ん付けられてバタバタもがくばかり。料理人たち助けに行こうにも武松の眼光の鋭さに手出しできません。
「あいや好漢こうかん!ご勘弁を!」外から飛び入ってきた男が頭を下げます。
「この姐さんの亭主かい」
「さようで。豪傑、どうかご姓名をお教えください」
武松が名前を教えると、天下にとどろく虎退治のひとですから店中そろって謝罪します。

そもそもこの夫婦は何もの?嫁さんの方は“母夜叉ぼやしゃ孫二娘そんじじょう”といい、有名な侠客きょうかく山夜叉さんやしゃ孫元そんげんの娘だとか。親父さまの武芸はみんな受けつぎ、おまけに大した怪力の持ち主です。旦那の方は入り婿で“菜園子さいえんし張青ちょうせい”。ふたりしてこの飯屋を切り盛りしていますが、旅人をしびれ薬で麻痺まひさせて切りきざみ、肉饅頭にして売ってしまうというなかなかの悪党です。かつて花和尚魯智深が通りかかったときにもおんなじように薬を盛ろうとして失敗し、けっきょく三人打ち解けて義兄弟になっておりました。
「それ以来、わしらは三つの殺戒さっかいをまもって来ましたんで。ひとつ、坊主、巡礼は殺さず。ふたつ、芸者、芸人は殺さず。みっつ、流罪人は殺さず、でございやす。遊行ゆぎょうの坊さまにゃ清貧のひじりもいらして罰あたり。旅芸人は実入りの少ねえしんどい商売。さいごはこのご時世、かえって罪人のほうに英雄がまぎれておるからです。にもかかわらずこのたびは、流人すがたの武の旦那にご迷惑をおかけしやした」
たしかに悪いやつですが、悪党なりに筋目はとおしている様子。武松も豪傑、ここはゆるしてやることにしました。

「二郎さん、せっかく役人どもがおねんねしてるんだ。こいつらはバラしておくから、あんた逃げなせえ」
「いや、あっしが嫌いなのは腐れ役人だけ。ふたりはここまでの道ゆき、親身になって世話してくれた。あっしが逃げればふたりとも責めを負っちまう。どうか殺さんでおくれ」
護送役たちをかかえ起こして毒消しを飲ませると、すっかり元どおり。
「やあ、美味しい酒だったなあ。まだ極楽きぶんだよ、帰りもまた寄ってこう」なんて言うもんですから、武松は笑い転げてしまいました。


十字坡をたったつぎの日に、孟州のお城に着きました。
だいたい牢城営というのはどこも同じです。下は地獄のせめ苦、上はまったりぬるま湯しごと。
ところが武松はさらにその上、なんの労務も与えられず、まいにち差し入れが届いて三食昼寝つきの生活です。これは一体どうしたことでしょう?
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